mes passions

Sep
26
2009
 Graham Parkerはアルバムを買いあさった時期があった。コステロとは違って後追いで、おそらく90年に入ってから聴き出したのかもしれない。またこれも90年ごろだったか、もう記憶さだかではないが、渋谷のクアトロのライブを見に行った覚えがある。サングラスをかけたその顔はほとんど横山やすしだが、そのしゃがれ声からしぼりだされるヴォーカルは本当に魅力的だった。そのときは弾き語りのソロかギターリストが一人いたかも知れない。
 ライブが理由ではないが、スタジオ録音もよいけれど、The Rumourとのライブ盤は本当に熱くなれる一枚だ。78年の発売。コステロやイアン・デューリーもそうだが、当時はパンクもパブ・ロックもニュー・ウェーブもはっきりしたジャンルの意識はなく聴いていた。Parkerも時代としてはパンクの土壌だったのかもしれないが、このライブを聴くと、70年初頭以来のイギリスのパブ・ロックの流れを汲んでいることは明らかだ。だがそれほど朴訥としてはいないのは、パンクのエネルギーがあるかも知れないし、Parkerというロック・ミュージシャンのもつ鋭利な資質のせいだろう。とにかく切れ込み方が鮮やかなのだ。それは「今日を生きられない」のような性急さを感じさせもするが、だがたくみな演奏に下支えされた曲は、暴発では決してなく、イギリスのロックを代表するといってもよいクオリティの高さを持っている。
 今、本当に20年ぶりくらいに聞き返したのだが、Fools GoldやHey Lord, Don't Ask me Questionsなどの曲のよさに心を締めつけられる。Gypsy Bloodの泣きのはいったサビもよい。切迫感のある場面もあるが、ブラスがはいって、まさにビール飲みながらくつろげるご機嫌な曲も入っている。たとえばHeat Treatmentなどその代表だろう。そしてWatch The Moon Come Downは、スタジオテイクより若干ゆったり目だけれど、しみじみとした盛り上がりで、いよいよライブも佳境に入る。New York ShuffleからSoul Shoesにかけて一気にたたみかけてくるエネルギーはやはりParkerならではのものだ。これほど緊迫した音楽は、やはりパンク〜ニュー・ウェーブまではなかったのではないだろうか。ロックは単なる約束事のアートではないこと、単に演奏のうまさを披露するものでもない。とはいえ、ロックが単なる感情の爆発であれば、それは自己満足の遊戯としてやっていればすむことになる。Parkerのすごさは、ロックの命が技術の水準ではなくて、表現の切迫さによって保たれうるものであることをみせてくれたことにある。しかしその音楽が時代に巻き込まれて消えてしまわなかったのは、Rumourという名うてのミュージシャンの確かな演奏力に支えられたからだろう。どんな革新も伝統に支えられて、その力を発揮する。イギリスの懐の深さを感じさせるミュージシャンである。
Sep
26
2009
 あやうくポップスに陥りそうなほど、円熟味をみせているサードアルバムである。デュエットが、互いに切り結ぶような緊張感を感じさせず、むしろ愛の姿としてよりそうような歌唱を聞かせている。しかしその甘さがとても心地よい。それは音楽の懐の深さによるのだろうか。
 Flyは聞きようによってはとても大仰だし、When two people are in loveは、ムード歌謡として片付けられなくもない。でもたとえばRings around the worldは、アメリカのルーツミュージックを思わせる、しみじみした曲だし、サビのプリシラの歌いっぷりがすがすがしい。二人の音楽を探す旅がここでも健在だと実感させてくれる名曲だ。おなじく5曲目のMendocinoはやっぱり甘いんだけれど、でもふたりのかけ合いが、至上の親密さを感じさせ、こちらをふくよかな空気でつつんでくれる。実にいい曲だ。特に後半のパートを受け継ぐBooker T.のヴォーカルがいい。Is you, only you/It's been a long waitのあくまで控えめな歌い方が実にいい。
 このアルバムには、それでも様々な音楽の咀嚼がある。Cherokee Riverは素直なルーツ・ミュージックであるし、Timeは、リタによる良質なアメリカン・ポップミュージックである。そして最後のWounded Kneeの重みのあるソウルミュージック。きわめて多彩な曲がおさめられたアルバムは、二人のプライベートなアルバムでありながら、時代そのものがもっていた音楽の追求を、しっかりとみせてくれる。
Sep
22
2009
 二人の親密な愛をアルバムにしてしまう。二人の永遠の愛の刻印としてこのアルバムが生まれた。1曲目からしてThe wedding songである。ジャケットを見れば一目瞭然、誰も間に入ることもできない。For Priscillaはきわめて甘いラブソングだ。もはや詩などというものではない。「死ぬまで一緒だよ。流れる川のようにずっと一緒に愛して、笑って、涙しよう」と、普通ならば、「もう二人の勝手」となるところだ。
 だが、このアルバムはよく言われることだが、ソウルやゴスペルとスワンプロックの調和をはかったきわめて野心的なアルバムでもある。ジョーンズのやや甘くせつない色恋にそまったヴォーカルに比べて、プリシラのヴォーカルは野太く、黒人の文化であったゴスペル、ソウルに激しくせまろうとする。ここにはひとつの音楽的な冒険があると思う。ルーツへと回帰しながらも、そこに魂と体を投げ込むことによって、決して過去をなぞるのではなく、今を確認しようとする、音楽的な創造性があるのだ。
 71年。ヴァン・モリソンも西海岸で音楽活動を続け、『テュペロ・ハニー』を出す。このアルバムもひとつの「ラブ・アルバム」で、当時の恋人を「きみは太陽だ」と歌い続ける。アイルランドの荒涼とした風景から、西海岸の明るさのなかで、きわめてプライベートなアルバムを制作していたのだが、でもこのアルバムも私日記ではない。モリソンはここでも新しい音、新しい表現を求めていたのだ。ずいぶん聴きやすいアルバムとはいえ、決して音楽的に妥協しているわけではない。
 モリソンとのもう一つの共通点は、宗教である。魂の奥底から歌を歌うとは、日常をはるかにこえて、自分の存在を弱小のものとし、弱小ゆえに、祈りを歌にし、神に聴かせる。それはひとつのナルシスティックな高揚感に過ぎない。だが歌そのものは人間のものだ。決して神から与えられたものではない。その歌をうたっている肉体をもった歌手がいる。私たちはその肉体から絞り出される声そのものに感動を覚える。そうでなければ、歌は宗教の道具となってしまうだろう。そこに歌い手と聞き手の深いつながりが生まれる根拠があるのだ。
 愛から祈りへ。深みをたたえながら、私的でありながら、美しい歌がしっかりと聞き手に届けられる。深い音楽への理解に下支えされた表現者の愛を感じる名盤だ。
Aug
22
2009
 時間のないときに限って、ついユニオンに寄ってしまう。このときも少しだけと思い店内に入った瞬間に、ピアノの弾き語りに英語の歌詞、転調のきらびやかな曲にすっかりみせられた。Now Playingをみると、アグネスの文字が・・・だがあらためてよくみると、タケカワユキヒデのクレジットである。
 そのときにかかっていたのはオフィシャルのアグネスのほうではなく(こちらはまだ聞いていない)、その再発CDに2枚目として収録されていたデモ録音である。79年に発表されたゴダイゴが全面的にバックアップしたアグネス・チャンのアルバムのことはまったく知らなかった。またゴダイゴは、当時のはやりの曲を耳にしていたくらいである。だがこのデモ録音を聞くとメロディメイカーとしてのタケカワユキヒデの創意に舌を巻く。そう、よいメロディがどんどんあふれてきてしまい、気づくとすでに曲ができてしまっているような、なにも恐いもののない瞬間と言おうか。たとえば当時で思い出すのは、原田真二のシングル三連発だろうか。「てぃーんず・ぶるーす」、「キャンディ」、「シャドーボクサー」と立て続けにシングルがでたのは77年。「てぃーんず」のあとに、「キャンディ」のせつないメロディを聞いたときは、本当になんてこの人は才能がある人なんだろうと思った。そして「シャドーボクサー」はほとんど愛唱歌のように歌詞が浮かんでくるようなキャッチーでクールな名曲だ。
 デモ録音とはいえ、ヴォーカルが重ねられていたり、かなり凝ったつくりで実に完成されている。ビートルズのマジカル・ミステリー・ツアーではないが、マジックでミステリアスなんだけれども、それよりも曲自身のもつ高揚感と、それをしっかりと表現するヴォーカルの力強さに圧倒される。そう、「不思議の国」といっても、ドノヴァンのような伝統歌謡とは違って、彼の曲は洗練されているのだ。
 70年代後半とはどんな時代だったのだろうか。もはや音楽にメッセージ性はなく、さきほどの原田真二や、尾崎亜美、久保田早紀のようなメロディのきらびやかさと新鮮さが世界を明るく染めるような、そんな時代だろうか。
 いずれにせよ30年を経て今回日の目をみたこのデモには、バラードっぽいせつない曲もあれば、ポップスの軽快感を感じさせる曲もある。実に幸福感に包まれたアルバムなのだ。店内では2曲目のJabberwockyのサビのところですっかり購入を決心した。この曲、静かな予兆を秘めたメロディが、いっきに親しみやすいサビにいくところが、本当によいです。そしてWho am I?の静かに幕が開けるようなバラードの進行も素敵。で4曲目はビートルズ〜XTCの路線を忠実に踏んだ曲。と聞き惚れていて、あわてて現物を購入してそそくさとユニオンを立ち去りました。
Aug
07
2009
 夏の午後にまどろんで、ふと目をさますとあたりはすでに薄暗くなっている。寝起きのぼんやりした頭のなかで、「もう朝になってしまった。翌朝まで眠りこんでしまった」と思っていたら、実はそれは夕暮れの薄暗さだった。薄墨色の空は、まわりの風景も同じ色で染めて時間の感覚を失わせる。「朝の様な夕暮れ」を聴くとそんな情景を思い出す。山下達郎自身自曲解説で「徹夜明けで夕方に起きて、今が朝なのか夕暮れなのか、一瞬時間感覚を喪失した時に作ったモチーフ」だと語っている。インターミッションに過ぎないような2分少々の小曲だけれども、このアルバムの憂うつな雰囲気を、ビーチボーイズの倦怠感をも取り混ぜながら、象徴的に表しているように思う。その雰囲気はつぎの「きぬずれ」へも引き継がれる。この曲も「夕闇」や「雨粒」といった、静謐感ただよう一曲だ。そして「Solid Slider」のセッションでアルバムが終わる。
 いきなりアルバムの後半の曲の話になってしまったが、この3曲はアルバム「Spacy」の内省的でありながらも、その世界が多くの人々に共感をもって受け入れられるような予兆をもった曲だと言える。「万人受け」とはまったく違うスタイルなのに、それでも、曲を耳にした人がふと「この人は誰だろう」とその世界に引き込まれるような雰囲気を持っている。
 もちろん1曲目の「Love Space」からリズム・セクションの音がまぶしく、グループではなくても、それぞれのミュージシャンが独自の音世界を作りながらも、それが結果的に1曲に仕上がる構成の素晴らしさに心をうたれる。山下達郎はこの時22歳。
 3曲目も「たそがれ ほんのわずかに」の歌詞があるように、華やかでありながらも、街路に電灯がつくような暮れなずむ空気をただよわせた曲だ。
 やはり山下達郎の解説に「音楽的好奇心」ということばがある。たとえ楽器のテクニックに詳しくなくても、またどんなミュージシャンが弾いているのか知らなくても、このアルバムには人を惹き付けてやまない魅力がある。それがこの「音楽的好奇心」ではないだろうか。クリエイトしてゆくことの颯爽とした若者の意志。東京城北地区生まれの若者が、粋を大切にしながら、ポピュラーミュージックを代表することになる他の若者たちと創りあげたこのアルバムは、山下達郎のアルバムのなかでもっとも好きなアルバムだ。
Jun
12
2009
jk200.jpg 自分がくるりに求めてきたのは何だったのだろうか。それは青春の未熟さ、そして未熟ゆえのたわいもない毒ではなかったか。そして未来へのあいかわらずあいまいな希望。「なにか悪いことやってみようかな」とか、「車の免許とってもいいかな」とか、そうした獏とした未熟さがくるりの魅力ではなかったか。せっぱつまった青さ。どうにもならないいらだちからの毒づき。そんなアンバランスさがくるりの魅力ではなかったか。

 今では新譜の発売日に即購入するミュージシャンはほとんどいない。くるりはその珍しい例外で、発売日前夜に買ってここ三日間聞き込んできた。悪くはない。だがここに並べられた曲はいったい何の表現なのだろうか。何を追求しているのだろうか。必然性とか、性急さのような素人くささはない。だが「太陽のブルース」、「夜汽車」「リルレロ」と続くところなど、もうお約束を聞かされているようで、これらの曲をだれが10年後に思い出すだろうか?

 自分が聞きたいと思うのは、たとえばたくたくで行なわれたバンド編成のライブ。これを聴いていて気持ちよいのは、そのつんのめるような、ライブハウスのテンションだ。もちろん曲自体のもつ魅力もあるけれど、それを超える音楽が発する高揚感、そしてその高揚感を下支えするくるりの技術と表現力。一言「ロックって最高!」と言ってしまえる潔さがある。これを聞いていると、そうしたライブハウスへ足を運ぼうともしない自分のほうが今度はロックをかたるだけの欺瞞に満ちた存在に思えてくる。

 じゃあアルバムに何を求めるのか。それは何らかの意図を貫徹できるはずの場所であり、曲のよさを超えて、私たちにつたえられるそのバンドの音楽へのひたむきさを求めたいと思う。そう、曲のよさについてはそれほど言うことがない。むしろそれを通してこちらに伝わってくる魂の情動こそ感じたいのだ。くるりの最近のアルバムにはそれが希薄なような気がしてならない。そう、Come togetherという感覚。その感覚がだんだん希薄になっているような気がする。

 よい曲ならいくらでもかけるだろう。しかし私たちを今いるこの場所からどこかへ連れて行ってはくれない。そんな失望をこのアルバムに感じざるをえないのだ。

Jun
07
2009
sister.jpg 中三のときに、いつも夕方聞いていたFM愛知の番組でパーソナリティが「今日は、今までとまったく違う音楽をおかけします」といって紹介したのが、ラフ・トレードの初期リリース5枚だった。そのほとんどを買ったのだが、そこにはポップ・グループ、キャバレー・ヴォルテールという名前が並び、5枚目は「クリア・カット」というオムニバスで、ジョゼフ・K, スクリッティ・ポリティ、ザ・フォール、オレンジ・ジュースそして、ロバート・ワイアットというごった煮状態の曲がおさめられていた。パンク以後、「オルターネイティブミュージック」のイギリスでの誕生である。ニューヨーク・パンクは詳しくないので、ポスト・パンクもふくめてきちんとしたことが書けないのだが、ノイズとはその後White Houseなどの殺戮的な実験音楽、あるいはDAFのようなインダストリアル・ロック(その後のノイバウテン)、そして日本の裸のラリーズへと自分のなかでは広がっていった。しかしこうした名前を並べただけで、ノイズといってもそれは音の表面的な印象を指すに過ぎないということは明らかだろう。ラリーズをノイズ・ロックと言ってしまっては、ラリーズの夜の闇と夜明けの曙光をまったく看過してしまうことになる。

 Sonic Youthは今まで素通りしてきたバンドである。先日Télérama musiqueで72年生まれの作家が自分のロック経歴を語るインタビューがあり、そこでこのSisterに収められているSchizophreniaを初めて聴いて、さっそくアルバムを980円(at レコファン)で購入。インディ時代の最後のアルバムとのことである。発表されたのはもう20年も前のことだが、まったく時代の流れに巻き込まれてしまうことなく、今でも一枚の完成度の高いアルバムとして聞くことができる作品だ。

 オルタナバンドによくある、衝動の垂れ流しではまったくない。とはいえ、ヘヴィメタバンドのように計算高いところもない。形式へ上昇しようとする美しさとそれを破綻へと至らしめる衝動のアンバランスさと緊張関係が素晴らしい。ノイズ・ギターの一音が、ハウリングをともなって消えてゆくとともに次の一音のために弦が鳴らされる。Dinosaur JRのギターが絶え間ないメロディの叙情性をたたえているとするならば、Sonic Youthのギターは叙情性を切り刻んでしまうカッティングギターだ。

 Sonic Youthは、Killing JokeやHappy Birthdayなどのグランジという言葉が生まれる前のノイズ・ロックの文脈に位置づけられるように思う。ひるがえってDinosaurは、これは疑うべくなくニール・ヤングのフォーク・ロックの文脈だ。前者がニューヨークのハコでセッションを繰り返しているイメージなら、後者は自分の部屋にギターとアンプをもちこんで、ヘッドホンをつけてベットの上でギターを弾きまくっているイメージだ。

 繰り返しになってしまうが、ノイズ・ロックはジャンルではない。もしそれをジャンルとするならば、White Houseのようなもはや曲や音楽とはいえない「雑音の塊」しか扱えないだろう。ノイズ・ロックはあくまでも技法であって、その技法の先に音楽が現れる。よく聴いてみると、Sonic YouthもDinosaurも、叫び、わめくようなヴォーカルは驚くほど少ない。叫ばずとも、わめかずとも、その衝動を伝える音楽を創作することはできる。この創作への意識の高さが、Sonic Youthを現在でも最高のロックバンドのひとつにしているのであり、エレクトリックという電気で生まれる音をどう音楽にするのか、そのロックの課題にジミ・ヘン以後最も誠実に答えを出したのがこのバンドではないか。聞くに耐えない音楽と、何度もターン・テーブルをまわしてしまう音楽の境目にあるこのバンドの音楽はまさに中毒になる魅力をたたえている。
 

May
26
2009
the_bootleg_series.jpg「創造の瞬間」に立ち会えるアルバムである。Bootlegというものの、未完成の曲の集まりではない。アルバムテイクになる前の、曲が誕生した瞬間をおさめた貴重な録音がならぶ。単にアコースティックだから生々しいのではない。ディランが演奏をし、歌詞を口ずさむ。時代を越えて、まるで聞いている者がディランの創造の証言者になったような気にさせる、古びない記録がこのアルバムだ。

 特に63年から74年までをおさめた2枚目をよく聴く。のっけからもうすでにロックなディランが聞ける。Subterranean Homesick Bluesのたたみかけるディランの唱法やSitting On a Barbed wire Fenceのディランのぶっきらぼうな歌い方は、きわめて攻撃的で、65年の時点でロックが生まれていたことを実感する。It Takes a lot to laughに至っては、もろエレクトリックギター弾きまくりで、激しいロックサウンドになっている。驚くのはこうしたアウトテイクに「手探り感」がまったくないことだ。強い確信を持って演奏しながら、けっしてとどまることなく曲を創作してゆくディランは、若さといったエネルギーとは別種の強い創造力がやどっている。

 そして後半にはThe Bandとの共演もおさめられていて、これがまたしぶい。けっして派手ではなく、じわじわと盛り上がってゆくところで、こちらも高揚させられる。このセッションもまた「創造の瞬間」だ。今、ここでしか生まれない音楽だ。

 そして名盤『血の轍』からのアウトテイク。最後の曲はIdiot windだ。この曲もアルバムテイクとはかなり異なる。演奏とはそういうものだろう。コピーしたり、完成形をなぞったりするものではない。もう二度と同じ演奏はできないその鬼気迫るものがこのブートレッグシリーズにはある。

 ディランの新譜にしても、ニール・ヤングのアーカイブにしても何種類もの仕様で出したり、あまりにもせせこましくないか。「これを聞け!」と堂々とリスナーに届けてもらいたいものである。それでこそこちらも真剣に音楽に対峙できるのだから。単なるコレクターのための、お蔵出しはやめてほしい。そこにはロックの研ぎすまされた緊張などありはしないのだから。

May
24
2009
lemmings.jpg Tétéの3枚目にして、代表作といえるアルバム。1stのビートルズ、ボブ・マーリーに触発されたフォーク・ロックを聞いたときに、フランスにもついに野暮ったさとは無縁のロック・ミュージシャンが現れたと感動した。セネガルで生まれ、その後すぐにフランスへ。そのせいかアフリカを背景に感じさせるものはなく、かといってフランスの音楽の影響もない。そんな無国籍のなかで育まれたのがTétéのロックだ。とはいえ、とくにボブ・マーリーの影響は明らかで、たとえ彼のRedemption songが最高の1曲だといっても、それは素直なオマージュ、レスペクトにとどまっていた。

 2枚目は、叙情性のあふれる美しいアルバムである。メランコリックで繊細なTétéのよさが出ている。とはいえトータルなコンセプト性は薄く、「よい曲を並べました」という印象が強い。

 だが、この3枚目はアルバム全体を貫くコンセプトが明快であり、ついにミュージシャンがアーティストになったと確信させる傑作となった。「レミングの朝明け」で幕が開け、「レミングの夕暮れ」で幕が閉じられるまで、ひとつの色調で曲が成り立っている。その色調とは、「悲喜劇」だ。喜びのなかにある悲しみ、ペーソス感といおうか。単に叙情性に流れないドラマがどの曲にもある。そのためどの曲も3分かせいぜい4分なのに、十分聞きごたえがある。

 Fils de ChamやLa Relanceで聞けるとぼけた雰囲気のなかに哀れみを感じさせるようなメロディはTétéにしか作れないオリジナリティあふれるものだ。Madeleine Bas-de-LaineやCaroline On yeah Heyは、Tétéらしい繊細かつポップなメロディが美しい佳曲。そしてComme Feuillets au ventのように懐かしさやせつなさを感じさせる美しいメロディ。またA la vie à la mort、A Flanc de Certitudes、Mon Trésorのようなジプシーとは言わないが、昔の民衆歌謡を彷彿とさせる曲もある。

 このように書くと、きわめてバラエティに富んだ印象もうけるが、Tétéの曲にはどれにも単純にはわりきれない情感の豊かさを感じる。その情感の起伏に今回のアルバムでは特にストリングスなどのオーケストラをバックとして、奥行きが与えられている。

 アフリカ、パリ、モントリオール。Corneilleはそうした旅を余儀なくされた人物であるが、彼の音楽は素直なほど、アメリカのソウルの文脈に忠実である。それに対してTétéは同じように音楽の旅を続けながら、そしてどんよくに様々な音楽を吸収しながら、やがて彼にしか作れない、豊かな叙情の音楽へと至った。その美しく細いヴォーカル、決してわかりやすくはないが随所に感じられるユーモアセンスや寓話性に満ちた歌詞、そして最初からTétéの才能を決定づけていたメロディの美しさ、それらをすべて含みこんだうえで、出来上がったのがこのサードアルバムである。

May
12
2009
ontime.jpg「オブラートにつつんだ」声と言おうか。ハナレグミの魅力はその少しだけハスキーで、少しだけ鼻にぬけるような、ノスタルジックな気分にさせる声だ。肩肘をはらず、ジャケットのようなギターの弾き語りを中心につくったアルバムは、とてもパーソナルで、大上段にかまえたところがない。ロックがもっていた批判精神のようなものはすっかり抜け落ちている。その代わりここで描かれるのは、日常へのオマージュだ。CMにも使われた「家族の風景」は、まさにそうしたパーソナルで、普段の生活の風景を描いている。ハイライトとウイスキー。

 アレンジもきわめてひかえめで、楽器の木のぬくもりがするような音作りだ。レゲエやスカのリズムはあまりにもあっけらかんとしすぎであるが、それは愛嬌ということで受け流しておこう。そうしたちょっとはずかしいアプローチは3枚目の『帰ってから歌いたくなってもいいようにと思ったのだ』ではすっかり消えてしまい、アルバムの完成度としてはこちらのほうが高いだろう。ハナレグミ節が十分満喫できて、ゆとりさえ感じられるし、「催促嬢」のようなふざけた曲も十分楽しめる。それに比べれば『音タイム』はあまりにも素直すぎる曲が多い。でもそれでも歌いたいことがいっぱいあったのだろう。そんな音楽への愛着と衝動が感じられる若いアルバムだ。

 そしてなによりもこのアルバムには前述の「家族の風景」が収められている。この一曲がはいっているだけで「買い」だ。(ただ、やはり聞き比べると『帰ってから〜』はやっぱり充実している。くるりの「男の子と女の子」、ラブソング「僕は君じゃないから」、単純な弾き語りだけどメロディが印象に残る「かえる」、「おまえはポールか」とちゃちゃを入れたくなる「ハナレイ ハマベイ」など。う〜ん、やっぱり3枚目を推します)。

May
02
2009
long_player.jpg 深夜にすっかり酔っぱらっているのに、まだまだウイスキーを飲みたいときに聞きたいもっとも最高のバンドといえば、もうこのフェイシズ以外には考えられない。なぜロニー・レインのしぶい曲をここまでロッドが歌い込めるのか。その一点だけでロッドは天才ヴォーカリストだ。と同時に、不器用な連中のなかにあって、ロッドだけがスター街道を歩めたのはいったいなぜなんだろうという疑問もわく。バンドの仲が悪かろうと、ぐだぐだだろうと、こうしてレコードに刻まれた音は、このバンドが最高に「イカしたイカれたバンド」だとわかる。

 一曲目のひずんではじけたギターのリフがまず最高。ロッドの疾走感あふれるヴォーカルにおもわずこちらもシャウトしたくなるご機嫌な一曲。さらにファンキーなオルガンとスライドギターが重なり、聞き所が多い。そして二曲目は、Ronnie Laneの名曲Tell Everyone。この曲のTo wake up with you / Makes my morning so brightという何の変哲もない歌詞がなぜだかLaneの心持ちを表している気がしてとっても好きだ。三曲目はロッドの泣き泣きのヴォーカルに思わずしんみりしてしまう佳曲。四曲目はLaneのヴォーカルによる家畜の匂いただようほのぼのカントリーソングだ。

 B面の一曲目も適度にひずんだギターから始まり、そこにピアノが重なってくる始まり方がまたまたかっこいい。しかもサビの部分のロッドのシャウトの濃密感がたまらない。その勢いがそのままピアノやブラスバンドへ流れこむ展開に実に圧倒される。そして最後はRonnie Woodのボトルネックギターに聞き惚れながら、アルバムが終わり、完全にボトルが空になる。

 ライブが二曲収められていたり、アルバムのトータル感などあっさり無視しているかのように、雑多な曲が並んでいるが、でも楽器をもたせたら最高の連中がそろい、しかもそこにロッドがヴォーカルをとるわけだから、これはもう無敵です。

Apr
23
2009
parce.jpg 自分があまり今のソウルを聞けないのは、どれほど才能があると思っても、音がきわめて企画化されてしまっていることが多いからだ。美しい声、恵まれた声量をもって、メロディアスな歌を歌っても、バックの打ち込みや、おきまりのアレンジに、ミュージシャンの個性がかき消されてしまっている(日本で最近よく聴く歌姫たちもそうだろう。一人一人がきわめて才能の高い歌い手であるにもかかわらず、売れ筋の歌しか歌っていない。もっと魂をこめた曲を歌わせてあげられないものだろうか)。

 このCorneilleも本編の方は、ちょっと類型化された音作りで、彼にどんなバックボーンがあろうと、その内面にまで入っていきにくい。ただ、彼には歌うべき詩がある。そしてその詩がきりきりする程の痛みとともに伝わってくるのは、Disc2のアコースティックバージョンの方だ。一聴して胸を激しく揺さぶられた。あまりの切なさに電車の中でも泣きそうになって、必死にiPodを握りしめた。

 アコースティックであるだけ、歌詞の青い、甘ったるいところが、切実に胸にせまってくる。この青さを許してしまうのは、この歌手があまりにも壊れやすい弱さを感じさせるからだろうか。

 たとえばDisc2の1曲目Sans rancune(恨みっこなしさ)のサビの部分。

Sans rancune
La première étoile que je déchroche,
je te la donne
La première place dans mon rêve,
je te la réserve
恨みっこなしさ
僕がつかんで降ろす最初の星
それを君にあげるから
僕の夢のとっておきの場所
それは君にとっておくから

 こうしたみえすいた言い訳は、ナイーブさの裏返しだ。

Je suis désolé
mais il faudra que je prenne ma chance.
悪いけど
でも自分の運をためさないと

 Corneilleは惜しげもなく自分について歌う。

On dit : Corneille est froid
Il n'a rien dans le coeur que sa maudite carrière
On me reproche, entre autre
De n'avoir la tête qu'à mes poches et pas assez aux autres
人は言う「コルネイユは冷たいやつだ」と
あいつのこころには、自分の忌まわしい仕事のことしかない
人は僕をせめる、とくに
自分のことしか頭になく、他人のことはあんまり考えないと

 こうしたフラジャイルな内面をもちながら、Corneilleは言う。

Le but de ma démarche est plus grand que ça
僕がこうしていることの目的は、みなが考えていることより大きいんだ

 そして、モントリオール、パリ、ルワンダとそのために自分が渡っていくんだと歌う。

 ナイーブにも自分の内面をさらけ出してしまうこの若さ、そこにとても惹かれるのだ。

 そしてアコースティックバージョンは、無駄な装飾がない分だけ、曲それぞれのヴァラティの豊かさが感じられる。ヨーロッパ、アフリカ、アメリカ大陸をわたってきた人物らしい、様々なバックボーンを感じさせる曲々だ。歌い方はソウルフルなところもあれば、北アフリカっぽいリフレインがあったり、シャンソンの叙情性を感じたり、フォークのたたずまいがあったりと、彼の豊かな音楽経験が上品にそれぞれの曲に溶け込んでいる。

 コルネイユにはどうしてもそのルワンダでの体験が、影を落としている。

C'est la mémoire qui m'empêche de vivre
dont souvent je me sers afin de survirre
私が生きてゆくのを邪魔するのはあの記憶だ
そして私は生き続けるためにこの記憶に頼るのだ

 このアンビヴァレントな歌詞が、Corneilleの傷つきやすさをとてもうまく表現しているように思える。強いメッセージと、それを直接には表現せず、歌という美しさにのせるCorneilleのアーティストとしての意識が、このアルバムをクオリティの高い1枚にしている。

Apr
18
2009
hunky.jpg「芸術のための芸術」といった世界となんの関わりももたないような、自律した芸術作品という考えに立ってものを考えることは、最近はあまりないが、しかし、ロックには、幻覚作用によって、この世界を消し去ってしまう強い魅力があることは確かである。現実を忘れさせるような、強いカリスマ性をもったロック・スターが、60年代から70年の初頭にかけて何人も登場した。その中でもデヴィッド・ボウイは審美性が高く、「地球に墜ちてきた男」という形容が実にふさわしいアーティストだ。

 初めて聞いたボウイのアルバムは、『スケアリー・モンスターズ』だった。Ashes to ashesの壊れやすいヴォーカルが、自分にとっては以後好きなロックを見分けるひとつのレフェランスになった気がする。たとえばOrange Juiceのエドウィン・コリンズのヴォーカルなど、自分にとっては「高音裏返り男性ヴォイス」の代表だった。

『スケアリー・モンスターズ』をエア・チェックしたFM番組は、しかし一曲目にボウイの代表曲として「Starman」をかけた。そのときの、文字通り鳥肌がたった瞬間は今でも覚えている。アコースティックギターとささやくような軽くかすれたヴォーカルから、サビのスターマンへと一気にもりあがる曲の展開は、けっして大げさではなく、しかしドラマティックだった。もちろんジギー・スターダストの高揚感にくらべれば地味かもしれない。だが、音をどれだけ削りとったとしても、聴く者を幻惑するロックの魅力をスターマンという曲はそなえている。わずか数分の間に、圧倒的な盛り上がりへと至る展開は、ボウイの当時の曲のエッセンスといってもいいのではないだろうか。

『ジギー・スターダスト』という時代を象徴するアルバムと聞き比べると、『ハンキー・ドリー』はその予兆をこめた一枚ともいえる。しかしけっしてその前段階にあるアルバムではない。このアルバムには、「ブリティッシュ・ロック」ならではのメロディセンスがあふれた名曲がいくつもおさまっている。まず一曲目のChanges。サビの「チェ、チェ、チェ、チェンジ〜ズ」のところで、開始そうそう胸が締め付けられる。二曲目はピアノのイギリスっぽい旋律に、ボウイのヴォーカルがかさなり、またまた胸がどきどき。Oh! You Pretty Thingsの歌詞の部分、たそがれた雰囲気を醸し出しながらも、力強く歌われる展開が実にロマンチックで、イギリスのロックにしかありえない甘美なメロディだ。4曲目の「火星の生活」のイントロも甘美でありながらも、瑞々しく、ダイナミックで、ストリングスもはいる。それなのに大げさではないのは、曲のコンセプトがしっかりしているからだろう。

 今回聴き直して思ったのは、本当にイギリスでしか出せない音がここにはつまっているということ。6曲目Quicksandの展開もそうだ。ヴォーカルにアコースティックギター、ピアノの伴奏、そしてやはり一気にさびへといたる展開は、まさにイギリスのもつ叙情性の最高の表現だと思う(CDにおさめられているデモトラックは実にかっこいい)。そうボウイはライブで「Thank'you sincerely」と言ってしまうようなイギリス人なのだ。

 最初に、この世界を消し去る魔力がこのアルバムにあると書いた。だが同時に、このアルバムを聞いたあとには、世界の見方が変わってしまう。それは単に耽美やアングラという趣味の問題ではない。そうではなくて、ボウイの生き方自体がこちらを挑発するのだ。60年代後半から70年代を疾走したボウイのようにだれも生きることはできない。生のエネルギーをあれほどまでに激しく燃焼させることはだれにもできない。だから、1980年にLodgerのジャケットのように死ぬべきロック・スターは、実はボウイだったのではないか。

Apr
13
2009
john-wesley-harding.jpg ベースメントテープスの音源と同じ67年に収録されたこのアルバムは、音数も最小限で、曲も非常にシンプルである。しかし、きわめて豊かな深みをもったアルバムだと聞くたびに感じる。どの曲もほとんど2,3分で、4分を越える曲が1曲、5分を越える曲が1曲である。そんな小品が集められたこのアルバムだが、力を抑えている分だけメロディの美しさが際立つ。アルバムと同タイトルのJohn Wesley Hardingは、一聴してすぐに口ずさめてしまう親しみやすいメロディだ。激しいライブテイクのほうが印象に強い「見張塔からずっと」のオリジナルテイクは、各楽器の生の音が際立つきわめて簡素な曲だ。それでももちろんメロディの切迫感は、どれほど音がアコースティックでもひしひしと伝わってくる(ちなみにこの曲のベースラインは裸のラリーズの「何が欲しいときかれたら、紙切れだと答えよう〜」と似ている)。

 そして同じメロディが繰り返される小品も多い。次の「フランキー・リーとジュダス・プリーストのバラッド」は、ほとんど単純なリフが繰り返されるだけだ。二人の登場人物を巡る寓話につけられた伴奏のようである。ちなみにこの曲だけが5分35秒と1曲だけ長い。

 一番好きな曲はI pity the poor immigrantだ。3拍子の切ない美しいメロディの曲である。とても単純なメロディなのに激しく心を揺さぶられる。怒りや、激しい感情の起伏がなくとも、いやそうしたセンチメンタルさがないぶんだけ、ディランの声からは憐れみと悲惨がこぼれおちてくる。歌詞が難解なぶんだけ、明確なメッセージ性を感じることは難しい。だが、それゆえに、たとえば「笑いに満たされた口」、「彼の血でつくられた街」など、きわめて象徴性の高い比喩的形象によって、移民のあわれな物語が紡がれる。わずか4分で、一人の人生を語り、かつその世界を私たちに届けてしまうディランとは、ほんとうに優れた詩人なのだ。

Mar
22
2009
where_the_light_is.jpg John Mayerは自分が最も聞きそうにないミュージシャンである。なにしろ顔よし、声よし、ギターよし。自分が惹かれる顔は、たとえば上前歯の2本の間にすきまがあるような顔。声は高音で裏返ってしまうようなへろへろ声。ギターは、弦が弛んでるのではと思うような、しまりのない音。その理想はKinksのLolaのB面一曲目All this tomorrowだ。イントロのギターのなさけなさ、ぐ〜ともりあがっていくところのRayの鼻づまり声。そしてあのニヒルな顔。すべてが好きだ。

 それに比べるとJohn Mayerはギターの弦は張り詰めている。声に一点の曇りもない。そしてあのルックス(アメリカ的美男子!)。どこを聞けばと思ったのだが、やはりアメリカン・ロックに対する憧憬の深さと、真のオリジナリティにまで達する技量の深さだろうか。ジェフ・ベックやクラプトンにはどうしても感動できないのに、彼のギターの音色にはほんとうに翻弄される。そしてヴォーカルはギターと同じく変幻自在。歌いながら、ギターをこれほどまでに弾くのだからまたすごい!

 それから彼の魅力のひとつは、最近のスマートなブルースの影に多少隠れているが、90年代以降のミュージシャンぽい叙情性だ。この内省的ともおもえるメロディの美しさが、彼の音楽を手に届く等身大のものにしてくれる。とはいえおそらくヒットしたはずのWaiting on the world to changeは、一聴して親しみやすい、なつかしさを感じさせるメロディラインだが、Paul Youngほどではなく、どちらかといえば凡庸で叙情性とはほど遠い。それよりもアコースティックということもあるのだろう、Stop this trainや、名曲Daughtersは、確かなギターワークに裏打ちされた叙情性がうまく表現されている。特にDaughtersの最後、彼の声が高くなっていくところは、このアルバムの最高の瞬間だ。このアコースティックセットはこのライブアルバムの聞きどころだろう。

 とはいえ実際は6曲だけ。なんだかここのパートは余技にすぎないと言っているかのようである。

Mar
20
2009
psychomodo.jpg ブリティッシュ・ロックの芸術表現としての高まりは、アルバムをひとつの作品として仕上げるというコンセプチュアル・アートの運動としてとらえることができるだろう。そうしたアート性を志向してゆくと、ビートルズのように歌って踊らせるようなコンサートはできなくなる。スタジオにこもって、幾重にも音を重ねてゆく作品はステージでは再現不能だ。

 しかしコンセプチュアル・アートはアルバムとしての作品志向以外にも、ステージ自体をひとつの芸術表現の舞台として、スペクタル的な要素を強めていく方向性ももつ。つまりショーだ。そのときに「きわもの」的なショーとしてアートを実践したのが、デヴィッド・ボウイであり、ロキシー・ミュージックであった。その系譜にこのコックニー・レベルは属するだろう。プログレッシヴ・ロックではないのだが(といっても、このCD、プログレッシヴ・ロック・シリーズと銘打たれたアルバムの1枚として発売されている・・・)、それでもアルバムはひとつの様式美で貫かれている。その様式美とは、頽廃だ。

 先日フランスのTéléramaが提供してくれているpodcastのロック番組で、Voix fragiles(壊れやすい声)というタイトルでイギリスのロックヴォーカルを特集していた。Kinks, Prety thingsそしてその次がこのコックニー・レベルのTumbling downだった。The Psychomodoのラストを飾る曲で、か細い、ひきつるような、そして粘着質のスティーヴ・ハーリーのヴォーカルが最後に絶叫に代わる、スケールの大きな曲だ。

 久しぶりにアルバムを聞いているうちに、プログレとの親和性を示しながらも、大作志向ではなく、あくまでもひねくれたポップセンスにこだわるバンドがこの当時のイギリスにはいたことを思い出した。Deaf SchoolやKorgis、そしてStackridgeなどである。

 しかしその中でもとりたてて、頽廃美にこだわっていたのがこのコックニーレベルだろう。抽象度の高い歌詞には狂気ということばが散見する。だがそれはあくまでも周到に演出された狂気であって、役者はあくまでも冷静に狂気を演じる。そうした人工的な美しさがこのバンドの魅力だ。特にこのアルバムは全編にわたって、道化師の皮肉な笑顔とでも言えるようなパフォーマンスが繰り広げられている。こうした歪んだポップというのはいかにもイギリスのロックのものだ。

 ちなみにYoutubeにも何本も動画があって、75年のヒット作Make me smileを初めて聞いた。たしかに以前の毒気は影をひそめているが、鼻につまった、うれいをおびたヴォーカルは依然として魅力的だし、曲も質の高いポップソングだ。A級では決してないけれど、でもこうした卓越したメロディは誰にも書けない。こんな歌い方も誰もできないだろう。70年代のあだ花のような感じが一見するが、じつはスタンダードなポップソングをかいていたのが、このスティーヴ・ハーリーだと実感した。

Feb
26
2009
ballad.jpg 今でもあるのかわからないが、学生時代にもっとも信用のおけるレコード屋のひとつは池袋パルコの山野楽器だった。ここは銀座の山野楽器とはまったく違い、いつもぼさぼさあたまのあいその悪いお兄さんがひとりで切り盛りしていた(あるいはある売り場の一画だけだったのかも知れない)。しかし、仕入れなどはそのお兄さんが自らしていたということで(これも聞いただけだが)、とにかく品揃えが半端ではなかった。というか、山野に仕入れされる新譜をみて、ロックの勉強をしたといってもよい。とにかくそこに置かれるものだったら買って間違いはない。店の壁にはいろんなレコードのジャケが飾られ、お兄さんのロック趣味がもろに反映された店作りだった。そして、当時はそんなレコード屋のお知らせこそが重要な情報源だった。

 中でもTodd Rundgrenのライノレーベルからの再発は、ちょっとした大事件であった。とくにファースト、セカンドは当時ほとんど手にはいることはなく、そのジャケットセンスと名曲Be nice to meがはいったセカンドはかなりの値がついていた。それがすべて再発である。

 このアルバムは、Toddのメロディセンスがいかんなく発揮されたアルバムであるが、何よりも手触り感のする音の作りが素晴らしい。1曲目はドリーミィな雰囲気をただよわせた、Toddらしいポップな曲。そして2曲目はチャイムの音が美しい、バラード。いかにもToddらしい甘美でメランコリックな名曲。5曲目はワルツのリズムにのせた、わずか2分半の小曲だが、ギターの音色のせつなさが心に響く名曲。そしてアコースティックギターから始まり、Toddのヴォーカルが重なるうちに、曲が壮大に展開する6曲目は、このアルバムの一番の盛り上がりどころである。とくにThis is the ending of my songの歌詞にぐっとくる。

 Toddのアルバムのなかでこのアルバムが人気があるのも、どの曲もメロディがまとまっていて、他のアルバムにある変調や、あるいはとっぴょうしもなくヘヴィーな曲がほとんどはいっていないせいだろう。その分Toddがかなりの嗜好をみせるハードロック感はここでは抑えられ、こじんまりした感じも受けるが、それほどソウルでもなく、もちろんフォークでもなく、エンジニアとして凝りに凝ったというほどでもない・・・。それらのテイストがほどよく織り込まれ、そのあたりのアレンジの品のよさが、Toddの職人芸のなせるわざなのだと思う。ここまでのポップアルバムをつくるのは並大抵のことではないだろう。そしてここにおさめられた曲は決して古くならない、時代をこえたエヴァー・グリーンな輝きがある。

 Be nice to meはやっぱり美しい。曲の後半、nice to meの「ミ〜」の高音のところがすっとひきのばされ、ピアノと鐘の音がかさなるところなど、何度聞いても心をうたれる。

 なんだか凡庸な比喩ばかりで、「Toddらしい」という言い方に終始してしまった・・・が、とにかく時代の流れとはまったく関係のないところに存在する、ロックアルバムの古典だということは間違いないだろう。

Feb
19
2009
myfriends.jpg 昔からフランスとロックというのは折り合いが悪く、バタ臭い音楽しか存在したためしがなない。むろん、Johnny Holidayのようなエンターテイメントに徹した潔さは、80年代以降のロッド・スチュワートのようだし、詩に限るならば、才能あふれたミュージシャンは多くいる。だが、アメリカやイギリスのような「ロック」を聞かせるバンドはほとんどいない。かつてTéléphoneというバンドが存在したが、このくらいだろうか、パンクロック風のさっそう感を感じさせたのは。

 だが、ここ数年英語でそのままロックを演奏するミュージシャンが増えてきた。先日Téléramaのpodcastを聞いていたら、トゥーレーヌ地方のバンドにはイギリスのロックの音を聞かせるものも多く、いまやトゥールはイギリスのマンチェスターに匹敵すると言っていて、おもわず微笑んでしまった。それはほめすぎだと。

 このCocoonも、フランスらしさをみじんも感じさせないデュオ・グループである。エリオット・スミスに影響を受けたということだが、確かにピアノとアコースティックギターによって織りなされる曲の進行は、もろエリオット・スミスだ。On My Wayや、Christmas songなどそっくりそのままである。

 しかし、マンチェスターだのエリオット・スミスだの言われても、感動しないのは、彼らの音楽には、どうしても音楽にたいする「せっぱつまった」ところを感じられないからだ。これしか方法がなくて表現されている音楽には聞こえてこない。たとえばTétéのサードなどは、ビートルズとボブ・マーリーの影響から抜け出して、トラジ・コミックのようなせつなさとユーモアをうまくまぜあわせた名盤だと思う。ここにはTétéが自分のスタイルをサードにして打ち立てた充実感がある。それに対して最近の英語で歌うフランスのバンドの大半には、結局はそうした表現の必然性を感じられないのだ。内省的であること自体はそれでいいのだが、それに陶酔していても、こちらに届く音楽は生まれない。ならばHip-Hop系の音楽のほうがよっぽど今のフランスの音楽シーンでは質が高いのではないだろうか。自らの表現手段に確信を抱き、それを信頼して自己を拡大させていくような、そして他者にぶつかってくる迫力の方がよっぽど、音楽の素晴らしさを教えてくれる。

 アマチュアリズムが悪いというのではない。アマチュアであろうと、そのミュージシャンが「これしかできない」という緊迫感をもたらしてくれるのであるならば、それがそのミュージシャンへの思い入れにつながる。たとえばMy name is nobodyというNantesのSSWは、これもほとんどニール・ヤングなのだが、「おれはギター一本でこうしか歌えない」という潔さが十分伝わる好盤である。

 音数の少なさや、男女コーラスの心地よさは、彼らの一つのミニマルな美意識の表れであるとはいえるだろう。しかしそれは、しょせんおしゃれなカフェでかかるBGMなのではないか。彼らの寂寥感は、人の心を締めつけるものではなく、午後のひとときを心地よく過ごすための材料にしか過ぎないのではないか。

 これは飾りであっても、表現ではないだろう。

Feb
03
2009
basement.jpg アルバムというものにはタイトルがつけられ、プロデューサーがいて、どんなものであれ、それはひとつの作品と呼ばれうる。もちろん、曲の間にバランス感がなく寄せ集めと評されるアルバムも多い。しかしそれはあくまでアルバムはまず何よりも作品であり、そのトータル感の濃度ということが評価の基準となっているから、そういう批評がでるのだ。

 さて、このアルバムのタイトルはBasement tapes。「地下室」でのセッションを「寄せ集めた」アルバムである。セッションの記録である以上、ここにはアルバムのトータル感=作品としての完成度はもちろんない。しかし、そうした作品性とは別の次元で、アルバムを通した強い意志がすべての曲を覆っている。それは真摯に音楽と対峙し、「私にとっての」音楽とは何か?「今この場で生まれる」音楽とは何か?そうした問いを正面から受け取って、曲をつくり出しているそのエネルギーだ。A面4曲目のYazoo Street ScandalやD面2曲目Don't ya tell henryのロックンロールのヴォーカルと演奏の激しさが物語るエネルギーだ。

 とにかく力強さが充満している。いわゆるリハーサル音源なのだが、練習も本番もない。バンドとしての音の強さが、今それぞれの楽器とヴォーカルを合わせようとする緊張感が、アルバム全体を支配している。

 トラディショナルなのに新しい。「ロックにはもう何も新しいものはない」といったディランだが、その過去の音楽を自らの手に入れ、そこにロックにしかありえない切迫感をもって演奏しているところが、それまでの音楽にはなかったのではないだろうか。この古い新しさがディランの汲めども尽きせぬ魅力だ。私と伝統の妥協のないぶつかり合い、アメリカの懐の深さを感じさせる。

 音質やアレンジではなく、演奏している「人」を感じさせるのが、このセッションだ。The Bandのセカンドだったろうか。全員がやさしく目を閉じて写っている写真があった。うっとりと音楽を聞いているのか、あるいは眠りにつこうとしているのか。そこには死を想わせるほどの静謐があった。20歳そこそこにして人生の悲しみを表現しうるほどの演奏に達してしまった、The Bandの面々そしてディランには、彼らにしか出せない、老成した個性がある。

 ところでこのアルバムはディランが素晴らしいのは言うまでもないのだが、実は心につきささるのは、メンバー同士のヴォーカルのかけあいだろうか。A面3曲目Million Dollar Bashの「ウー、ベイビー」というコーラスのはもり、6曲目Katie's been goneはリチャード・マニュエルのリードヴォーカルがまずもって泣ける。そしてB面2曲目Bessie Smithはセカンドあたりにはいっていてもおかしくない。オルガンの音にこれまた泣けるけれど、この曲もハモリが高揚感を募らせる。決定打はやはり「怒りの涙」か、最後の「火の車」か・・・いや、D面1曲目You ain't goin'nowhereのサビの部分だろうか。

 ロックはこうして生まれたといっても過言ではない、アメリカン・ロックの礎としてのアルバムだ。

 で、ジャケも最高。隠遁しながらも、たえず創造へと向かう、男たちの群れを描いた傑作。

Jan
30
2009
eisias.jpg「好きなミュージシャンは?」と訊ねられれば、やはりThe Kinksと答えるだろう。しかし「人は愛するものについては常に語り損なう」。The Kinksについてどうやって語ればいいのか、いまだ表現に迷ってしまう。

 Everybody's in show-bizは、The Kinks混迷期の一歩手前で出されたアルバムだ。しかし、この2枚組アルバムの2枚目のライブを聴けば、もうすでに、60年代ブリティッシュ・ロックの鋭さはなく、70年代、所詮ロックも商業主義の一分野に過ぎなかったことを十分に承知したうえで、ならばどこへわれわれは漂流すればよいのか、そんな手詰まり感が痛い程伝わってくる。これはコンサートではなく、ショーなのだ。

 しかしこのアルバムにはThe Kinksのなかで最も好きだといってもよい曲が収められている。Sitting in My Hotelだ。ここにはレイの、ツアー最中の果てしない繰り返しの中でうまれる倦怠と孤独が自嘲気味に歌われている。自分を突き放す、シニカルな視線がもっともよく表現された曲だ。有名であることは、ロックを創造してゆくことと相反し、ビジネスが成立することになる。盲信すれば金が入ってくる。それを拒否して芸術家気取りのうぬぼれのままでは、生きていけない。いったいロックは、余興なのか、それとも世界を塗り替えうる力を持っているのだろうか。ショービズにどっぷりつかるThe Kinksは、そのどっちつかずのところで、かろうじてシニカルな視線を保つことでロックでありつづけている。

If my friends could see me now, diriving round just like a film star.
In a chauffeur driven jam jar, they would laugh.
They would all be saying that it's not really me.
(...)
Sitting in my hotel, hiding from the dramas of this great big world
(...)
Sitting in my hotel room, thinking about the country side and sunny day
in June.

 ここにあるのはロックの幻想から醒めてしまったロックスターの諦念だろうか。ホテルの窓から、外の世界を眺める。ロックビジネスにあることは、この外の世界とは異なる世界に生き続けることになってしまっている。ロックはムーヴメントでも、スペクタクルでもない。70年代にはいってロックは消費文化へと向かう。そのステータスの変容を不器用なまでに、微笑みを浮かべてその中に立ち尽くしていたのがレイの原像だろうか。友人というパーソナルな人々のつながりをもはやロックは赦さない。約束事が形成され、その役割を果たすことがエンターテイメントとしてのロックなのだ。レイ・デイヴィスはそれを演じることでしか、答えが出せなかった。Beatlesのように芸術として現実を撃つ力はもはやなく、Rolling Stonesのように潔くパフォーマーになるわけでもなく。

 だがその屈折が素晴らしいのだ。有名でもなく、無名でもなく、コンサートをすればそれなりにお客が、おそらくは批評眼などないであろうお客が集まってくる。そのお客を楽しませるショーが今夜も始まる。でもかつての友人たちは言うだろう、「それは、お前のやることではない」と。だがその不器用さがこのうえもなくいとおしいのだ。 Aristaに移ってからの成功はまさに起死回生の感があるが、それでもNight walkerは聞くにたえるアルバムだ。

Jan
23
2009
skylarking.jpg このアルバムは何と言ってもトッド・ラングレンがプロデュースしたことで大きな話題となった。大きな、というのも当時音楽雑誌でアンディ・パートリッジがこのプロデュースを気に入っていないという、なんだか芸能ネタのような記事があちこちに乗り、やっぱり気難しい職人同士ではうまくいきっこないんだと、音楽ファンのマニア意識を奇妙な喜びで満たしてくれたのである。

 とはいえ、ずっと前からもうニュー・ウェーブという呼称ではそぐわなくなってしまったアルバムを出し続けていたXTCにとって、このアルバムはその決定打であるばかりではなく、あらたなポップミュージックの出発点であり、イギリス風のねじれたポップミュージックのひとつのレフェランスとなった。

「ねじれたポップロック」。それはたとえば10CCだけではなく、Deaf school, Stackridgeなど、イギリス独特のひねりの利いた音楽はひとつのメインではないが、しかしイギリスの音と呼べるストリームを作っていた。

 それらのバンドとくらべてXTCは格段に違う資質を持っていた。それはやはりパンクの洗礼を受けたことによるだろう。その性急さは、それまでのポップバンドが映し出していた田園の風景ではなく、まさに都市の風景の反映だ。Black Seaのような音の厚みは、確かにパンクとまったく違う。かといって、70年代のロックとも異なるダイナミックさを持っている。ギターの早弾きとか、ドラムの連打のような定番スタイルからは最も遠い。電子音もひっくるめた、さまざまなスタイルの混合(それは音の混合であり、ジャンルの混合でもある)、それがXTCの音だ。

 しかしそうした音作りとはまったく違った、優雅ささえただよわせる落ち着きをもったアルバムがこのSkylarkingである。初期のころにあったひきつったベースラインとかピコピコ感は当然ながら消え去っている。従来のXTCの躍動感はB面1曲目ぐらいであり、それ以外の曲はまさに空に浮かぶかのような浮遊感をそなえた楽曲がならぶ。そのどれもが練りに練られた完成度の高い曲だ。

 たしかGrassのPVだったと思うが、メンバーが芝生に目を閉じて寝そべりながら、ゆっくりと体を前へ前へと移動させてゆくシーンがあった。そんな夢遊病者のまどろみような歩行、それがこのアルバムのテンポであり、トータル感をもって実現された世界だ。

 ところでシングルカットされたThe Meeting PlaceのB面には4曲のデモトラックがおさめられていた。これがどれもよい曲で、とくにFind The foxはXTCの牧歌的側面がとてもうまく表現された名曲だと思う。

Dec
31
2008
king_of_america.jpg Elvis Costelloのアルバムで初めて聴いたのは1979年のArmed Forcesで14歳のときだった。Costelloは25歳。ロックを聴き始めたころに夢中になったのは、Costello、Talking Heads、そしてIan Dury&The Blockheadsだ。Talking Headsは初めて行ったコンサートだった。前座はプラスチックス。Ian Duryには大学になってコンサートに行った。Elvis Costelloも何度か見に行った。だが、Get Happy以後、I wanna be lovedのヴィデオクリップを見るまで、Costelloからはかなり遠ざかっていた。New Waveを過ぎてからのCostelloと自分の趣味とが合わなくなっていたのだ。そのCostelloを再認識したのがこのKing of Americaだった。Costelloは32歳。

 架空の物語として自分のオリジンをもう一度見つめ直すような、過去への回帰がそのころの自分の心持ちに呼応したと言えばよいだろうか。New Waveを聴き続けながらも、大学に入って、それよりも過去の、Kinks、Eno、Kevin Ayersなどを知るにつれて、いままで聴いてきた音楽が流行に過ぎなかったという気が強くした。そんなときに出されたのがこのアルバムだ。ここにはアメリカへの屈折した憧憬がある。だがあくまでも音作りは正面から切り込んだシンプルで素直な音作りだ。臆面もなく過去と対峙する姿勢が、当時のロックを聴く自分の姿勢と重なって、このアルバムは何度も何度も聴いた。その後も、LPのみならずボーナストラックにつられてCDも買い直して、ライブ収録のはいった2枚組CDなども追っかけた。

 バックにアメリカのルーツ・ミュージックの演奏を代表する面々をそろえ(おそらくCostelloより年上のメンバーが多いのでは?)、アコースティックな構成で、スタンダードと言える楽曲が並んでいる。カバー曲であるDon't let me be misunderstoodなどあまりにも素直すぎて、微笑ましい程だ。7曲目Little Palacesではアコースティック・ギターとマンドリンの音だけにほぼあわせて、Costelloのせつないシャウトが聴かれる。そしてこのアルバムを一番象徴しているのはB面の1曲目American without tearsかもしれない。アコーデオンの音色が喜びと悲しみをないまぜにした微妙な感情を伝えてくれる。しかしこのB面には他にも名曲が並んでいる。Jack of all paradesやSuit of ligthsなどCostello流のポピュラー音楽の粋を集めた曲だと思う。New Waveの余韻とルーツへの憧れがうまく調和している曲ではないだろうか。

 このアルバムを契機として、しばらく新譜を買い続けるのだが、SpikeにしてもBrutal Youthにしても、強く何度も聴きたいとは思えなかなった。こうして再びCostelloと離れていった。今度はいつCostelloに再会するのだろうか。

Dec
30
2008
gonna_take_a_miracle.jpg R&Bのクラシックを歌ったこのアルバムが好きな理由は、はっきりしている。オリジナルよりも、Laura Nyroが歌っているからここまで思い入れができるということにつきている。オリジナルを聞いてもここまで感動することがないのは、それはオリジナルの楽曲がどんなに素晴らしくても、ある形式、約束事にのっとっている感じがしてしまうからだ。もちろん、それは僕が聞き所を心得ていないということなのだが。

 では、Laura Nyroのこのアルバムの何を聴いているのか。それは、黒人音楽へのオマージュではない。むしろ、歌いたい曲を、歌いたい仲間と歌っている喜び、その喜びから発する、曲自体の生命感だ。どんなに素晴らしい曲であっても、歌い継がれなければ、単なるクラシックになってしまう。愛情を持って歌い継ぐ人間がいてこそ、曲に新しい命が吹き込まれる。

 その歌い手としてこのLaura Nyroほど、素晴らしい白人歌手はいない。たとえば3曲目のメドレー、バックヴォーカルとのかけあいのはつらつさ、後半の曲へつながるところの躍動感、5分弱でありながら、どんどん高揚してゆく流れが素晴らしい。それと対照的なのが、4曲目のDesiree。エコーのかかったヴォーカルの静謐さは、死の直前まで変わらなかったことを改めて再認識する。

 このアルバムも他の好きなアルバムと同じように、白人/黒人というカテゴリーでは決して分けられない。そしてどんな定番の曲であっても、ぬくもりのあるハミングを聴かせ、豊かな声量でソウルフルに歌いあげ、変幻自在に色づけされている。音楽の歴史的・社会的背景に、歌い手の歴史的・社会的背景には決して還元できない、パフォーマンスの現在性(今、ここで、歌が歌われているという事実そのものがもつ重みのようなもの)こそに惹かれるのだ。

 その瞬間を収めたこのアルバムは本当に希有な幸福感を伝えてくれるアルバムだと思う。他のアルバムも素晴らしいけれど、どれか一枚を選べと言われれば、このカヴァー集だろうか・・・

Dec
24
2008
yoshida.jpg 86年に限定盤としてだされ、02年にリイシューされた吉田美奈子のミニ・アルバムである。吉田美奈子の活動は大きく何期かに分けられると思うが、このミニ・アルバムの色調は、95年のExtreme beautyや96年のKeyに近い。モンスター・イン・タウンを絶頂とする時期は、そのきらめく高音の素晴らしさに引き込まれるのだが、この90年代後半は、そのなめらかさを保ちながらも、低音の落ち着きが、曲にやさしさと静謐をもたらしてくれている感じがする。2曲目Chrismas treeの「街の灯が輝き増すたびに 魅せられる程の物語りがある」という部分など、低音ヴォイスの充実を感じる。4曲目Shadows are the througts(of the radiance)の「拾い集めて 心に停める」という部分もそうだ。この曲などは、「時よ」や「風」を彷彿とさせるけれど、ずっと大人なアレンジだ。

 もともと自主制作盤だったせいか、アレンジがずっとシンプルなのだろう。3曲目のゴスペルテイストの曲や、5曲目のヴォーカルの多重録音など、趣向はこらされているのだが、とても手作り感があって、聞いていて落ち着く。

 昔クリスマス・イヴに編集テープを作っていて一晩を過ごしてしまった先輩がいたが、クリスマス・イヴに聞くに最高の一枚がこのBellsだと思う。宗教的な情熱や敬虔さが、音楽にソウルを吹き込んだことは否定しない。しかし神を歌わずとも、曲の美しさに感動し、心が洗われることがある。吉田美奈子の音楽にはそうした質素な充実があるのだ。ただ、そこに音楽があるだけでいい。その声があるだけでいい。それはなにものの対象としない純粋な祈りなのだ。

Dec
13
2008
highway.jpg 大学の学食で、大学院生のmrt君と昼飯を食べながら、日本の音楽の話になった。年齢のわりには古いものをよく知っている彼と、年齢の割には新しいものをかろうじて知っている僕の間には、非常に親密な「わかる」感覚がある。この日も「エグザイルにはメンバーが何人いるかわからないし、アンジェラ・アキはこちらが気恥ずかしくなってしまう。でサザンにたいしてはまったく無関心でしかいられない、好き嫌いの次元以前に、視野に入りようがない」ということで、大いに盛り上がってしまった。平成生まれがまわりにちらほらいるなかで、ぼくらの話はほとんど意味不明だろう。

 では日本のロックにだれがいるだろうか。ここで名前がのぼるのが若い割にはロックの歴史をしっかり咀嚼している「くるり」。というわけで、その夜家に帰って「ワルツを踊れ」を聞いてみた。I-tunesをみたら、なんと最後に再生したのは去年の12月・・・結局そう、最近のくるりは少し聞くに耐えないところがあるのだ・・・たくたくのライブはとてもよかったが。

 では何が一番再生されているか。それがこのThe Guitar plus meという日本的な文脈からかなり遠いところにいるミュージシャンである。今回の新譜も今までとまったく変わらない。歌詞はすべて英語で、対訳つき。この新譜は大手コロンビアからの発売だが、音数は今まで通り、きわめて質素である。1曲目のHighway througt desertから、まったく今までの音作り同様のやさしいアコースティックギターが流れてくる。音を重ねながらもこのすきすき感があるところがなんともいえない魅力だ。

 また3曲目School bus bluesのようなコード進行、ヴォーカルも音の階梯を降りてゆくような、せつなさ、それがI can't see your smileという歌詞と重なる。

 次のBlue printもほぼギターの弾き語りで、そこに多重ヴォーカルが重なる。

 YoutubeでみたThe guitar〜は超絶ギター少年だったが、アルバムではそこまでテクニックに走ることはない。Fortune-tellerには途中でギターソロが挿まれるが、それもテクニックを聴かせるものではなく、あくまで曲の流れの一場面だ。それよりも一本一本の弦の音色がここまで違うのかと教えてくれる、丁寧な演奏である。Winter afternoonは、リフが幾度ともなくくりかえされ、そこにハミングのようなヴォーカルが重なってくる。その溶け合いかたが、とてもやさしい。

 1stアルバムから基本的には何の変化もない。アルバムジャケットも音の構成も。ギターの肌触りと、人工音の類い稀なフュージョンといえばよいだろうか。最後の曲Horizonはそうした人工音の中に、アコースティックギターが流れてくる魅惑的な構成だ。イントロを3秒聴けば、すぐに彼の音楽だとわかる。

 そして詩的喚起力の強さーそれが、作品に淡い物語性を生んでいる。それもこのミュージシャンの魅力であり、アルバムを通して聴きたくなる強い磁力のもとであるのだろう。

Dec
06
2008
avalon.jpg Van Morrisonのアルバムにはアストラル・ウィークス、ムーンダンスといった初期の傑作群がある。これは誰もまねしようがないし、Van自身再演することなど不可能なほどオリジナリティにあふれたアルバムである。白人によるソウルの咀嚼。かつロックというジャンルがあらゆる他のジャンルを咀嚼しつくすエネルギーをたずさえたジャンルであることを証明してくれるアルバムだ。またライブにもIt's too late to stop nowのようなソウルフルなアルバムがある。しかし、Van Morrisonのアルバムは70年代だけではない。80年のInto The Musicなどずいぶん聞きやすいが、魂の充実を感じさせる好盤である。そして80年代終わりにだされたこのAvalon Sunsetも時代の制約をはるかに超えたアルバムに仕上がっている。

 初期のアルバムはLaura Nyroと同じくこちらに緊張を迫るが、この時期のアルバムはすこし肩の力を抜いて、楽しみながら聴けるのがよい。どの曲もオーソドックスな感じがするが、じっくり練られているし、多少「お決まり」であってもVan Morrisonならば許してしまおうという気になる。

 とくに4曲目。Have I told tou lately that I love youの甘さはいったい何だろう。叙情に押し流されてしまいそうな曲ではあるが、Van Morrisonの落ち着いた懐の深い歌い方に、素直に感動するのだ。Take away my sadnessという甘ったるい歌詞も一緒に口ずさみたくなる。そんな静かな魅力に溢れた曲が並ぶ。ストリングスもまったく大げさには聞こえない。

 7曲目のWhen will I ever learn to live in Godもよてもよい曲だ。しかしなぜ神を歌うのだろうか。それはゴスペルのような神と強い関係をもつ音楽との共通性ゆえだろうか。たしかに曲の最後女性コーラスとサビを繰り返すところなど、神へのゴスペル讃歌と言えなくもない。

 それ以外にも美しい曲が収められている。ストレートにR&B色の強い曲を聴くよりも、実はこのAvalon Sunsetのような、控えめであっても、じっくり歌を聴かせてくれるVan Morrisonが好きだ。80年代のうすっぺらな音楽が席巻するなかで、ここまで歌を大切にしたアルバムを出していたことに驚く。

 ようやく40枚ほどレヴューを書いてきて80年代のレコードを初めて紹介することができました。でもこのアルバムはもっとも80年代らしくないアルバムだけれど・・・

Dec
02
2008
dylan_bloodtracks.jpg『血の轍』は、おそらくディランの数々の素晴らしいアルバムの中で、「歴史的名盤」、ロックの歴史を刻む記念碑的アルバムではないだろう。むしろきわめてプライベートな愛聴盤として、ごく個人的に孤独のうちに聴かれながら、実に多くの人々の心をとらえきたアルバムと言えるだろう。きわめて個人的な事柄が、大きな普遍性をもつ、その意味でこのアルバムは、名盤である。

 これだけ美しい曲が並んでいるのに、好きな女の子にあげる編集テープにはどの曲も入れられない。それがディランのヴォーカルの魅力。みうらじゅんが書いていたが、なんでこんなダミ声の唸るような歌が、心を引くのか。本当にそう思う。中学生のときに聴いたディランは、とにかく曲という体裁を感じられなくて、ブツブツ言っている感じがして、聴けなかった。

 ディランをあらためて聴いたのは大学時代の先輩の最も好きな曲が、このアルバムにおさめられている、You're gonna make me lonesome, when you goとIf you see her, say helloだというのを知ったからだ。

 このアルバムにはディラン自身の別離から始まる、喪失やあきらめや、人生へのまなざしといったものが痛々しいほど散りばめられている。

 Simple Twist of Fate「運命がくるっと回る」とでも訳せばいいのか自信がないが、

彼が目をさますと 部屋はからっぽ
彼女はどこにもいなかった
彼はかまうことないと自分に言い聞かせ
窓を大きく開けて
空虚を中に感じた
それは彼がかかわることのできない
運命のひとひねり

 朝目を覚ます。それは毎日訪れるささいな事柄だ。昨日とも明日とも変わらない。しかしそこではすでに運命がひとひねりしてしまっている。今日からは空虚なのだ。この喪失がこのアルバム全体を浸している。Lonesomeからsay helloまで心はどのような軌跡を描くのだろうか。それが描かれているのがこのアルバムである。

 その軌跡とは「血の轍」である。心から血を流すディランの痛ましさが、ロックという音楽に乗って、同じ心を持つすべての人を訪れるのだ。

Nov
25
2008
-xo-elliott-smith.jpg Elliott Smithが好きかどうかは、その相手とロックの話ができるかどうかのもっとも大きな分岐点である。Elliott Smithのロックは、人格の陶冶や、癒し、共感、励ましとは最も遠いところにある。背中を押してくれる音楽とは最も遠いところにある。ふと気づいたらささやいてしまっていたひとつのフレーズ。しょうがなく生み出してしまったメロディのかけら。それが羞恥の感情にも似て、生の最も純粋な部分を表しているのがElliott Smithの音楽だ。

 Elliott Smithが「音楽流通」の形態を意識して「アルバム」として仕上がったのがこのXOである。したがって、それ以前のアルバムとは桁違いにアレンジがカラフルだ。ドラマチックですらある。1曲目はこれまでであれば、最初のギターのリフだけで完成とされていた曲だろう。指のかするギターの弦の音、それだけで成立しうるのがElliott Smithの曲だ。しかしXOにおいては、この1曲目はピアノ、ドラムのバックが入って奥行き広く展開してゆく。2曲目は、今までの世界に近い音作りをしている。ギターの弦が、か細い金属の線でできていることを実感させてくれる弾き語りの曲だ。4曲目はビートルズのリフそのままのブリティッシュな雰囲気の濃い曲である。これまでと比べればずいぶんポップな曲だが、Elliottの作曲クオリティの高さを実感させてくれる佳曲。それは7曲目も同様だ。キャッチーなサビの部分が印象的なポップな曲だ。また9曲目では、J.Macsisなみのハードなギターを聞かせてくれる。グランジとはまったく違う方向性をもつElliottだが、この曲あたりは少し似ていなくてもない。

 しかし基本はビートルズだろう。10曲目、そして最後のI Didn't Understandなどはまさにビコーズの世界だ。Elliott Smithの音楽は決して死や終末を歌うものではない。むしろ日常の中にたえず訪れるいくつもの小さな死、小さな別離、喪失。そこからのわずかな再生のきざし。それが内省的な音楽の色調を決めているのではないだろうか。

 XOとFigure 8は、スタジオワークとしてもかなり充実していて、まさに職人としてのアルバム作りを確信させる作品だった。しかしそれが彼の音楽性と相反してしまったと思わざるを得ないのは、この2枚が彼の人生の最後の仕事となった歴然とした事実からだ。もうこれ以上どんな可能性も残されていない。ぎりぎりのところまでとぎすまされた音楽へのストイックな傾倒。それがこの2枚なのだ。

Nov
21
2008
cardinology.jpg 今年のRyan Adamsの新譜が出た。Easy Tigerと同じゆとりのある雰囲気を漂わせながら、正統的なアメリカン・ロックを堪能させてくれる曲が並ぶ。

 青春の最高傑作Heart Breakerのようなナイーブなところは影を潜め、Rock'in Rollのようなニュー・ウェーブのひ弱さのようなものもすっかり払拭されている。

 もちろん憂いに満ちた曲もある。しかしAdamsのヴォーカルは酔いどれのつぶやきではなく、あくまでも骨太で、シャウト寸前の歌いっぷりだ。曲の沈んでゆく感覚と歌の激しさのアンバランスが素晴らしい。

 Easy Tigerよりもとにかく曲がヴァラエティに富んでいる。Magickのようなバンドの緊迫感を感じさせる曲は、前回のEasy Tigerとは違うところだ。いたって短い曲だが、密度は濃い。次のCobwebはU2っぽいニュー・ウェーブの残り物のような曲で、途中のギターのリフがダサイ。ヴォーカルのエコーもダサイ。でもキャッチーで、深みもあってと、なんだか中途半端な曲だけど引き込まれる。かと思えばEvergreenのような可憐な小曲もあり、Like YesterdayのようなCold Rosesを思い起こさせる泣きのギターに心を揺さぶられる曲もあり、これでノック・アウトだ。最後はピアノの弾き語りでRyanの優しい声でしめくくられる。

 アルバムのトータル感はEasy Tigerのほうがあり、今回は多少散漫なところもなきにしもあらずだ。朝聞いたほうがよいのか(Goldの前半のように)、深夜に聞いたほうがよいのか(Goldの後半のように)・・・しかしどんな曲も聞いた瞬間にRyan Adamsでしかありえない。駄作、傑作という評価の定規にひっかからないところがこのミュージシャンの偉大なところなのだろう。

Nov
15
2008
timetheconqueror.jpg James Taylorの最近のライブを聞くと、若い頃と比べても遜色なく、かえって今のほうがずっと輝きのある声になっていることに驚く。衰えるどころか、今が一番脂の乗り切った充実期であることを感じる。Jackson Browneも、2枚のアコースティックシリーズでの弾き語りを聞くと、依然声質が衰えていないことがわかる。そしてアルバムテイクよりも、実はこちらのアコースティックのほうが曲の良さが断然生かされている。

 そのアコースティックシリーズを経て、今回出されたニューアルバムはバンドでの録音である。Jackson Browneの曲でひっかかるのは、明確なメッセージがあることはわかるが、それを「音楽」という媒体を使って表現する必然性が果たしてあるのだろうかという点である。愚直といえばそれまでで、もちろん愚直であることの潔さを曲から受け取ることはできるのだが、それはたとえばニュース番組と同じで、メッセージが情報として伝達されれば、「再放送」されないように、一回聞けば終わってしまう危うさがある。そうした一回性で終わらないがために音楽が選ばれるのだと思うが、はたしてJackson Browneの曲は、その一回性で終わらないほどのクオリティが保たれているだろうか。

 アコースティックシリーズをつい何回も聞いてしまうのは、やはり曲自体をクオリティの高さが一番純粋に出ているからであり、だから繰り返しに耐えられるのだ。

 こうした実直なミュージシャンがはまり込む陥穽は、純粋な表現として音楽を作ることができず、自分が置かれている今の状態や、社会情勢にどうしても真摯に立ち向かわざるをえないという不器用さにあると思うのだが、ではこの60歳のミュージシャンが出したこのニューアルバムはどうなのだろうか。なんだか歯切れの悪い言い方になってしまうが、「歌うべきことをもっている限りは、曲は生まれてくる」という点で、命のこもった曲が並んでいるとは言える。しかしそれが初期のアルバムにおさめられたような、永遠性をもちうるかといえば、それはなかなか難しいのかも知れない。アレンジは、大人といえば大人なのだが、あまり切実さが感じられず、バンドといってもお互いに切り結ぶものはなく、雰囲気にながされてしまっている。

 だがそれでも歌い続けるということ、その生きる姿をけれん味なくみせてくれるということ、その態度自体がロックなのだろう。誠実に音楽を作り続けるということ、しかも何十年にもわたって。過去ではなく、今を共有できることの喜びはなにものにも代え難い。どんなに歳月を経ても、友人から便りがとどけば、うれしいように、今後も僕は新譜を買い続けるだろう。

Oct
11
2008
tumble.jpg Elton Johnと言えば、「きみの歌はぼくの歌」であり、あまりに優れたラブソングなために、この曲がおさめられた1stアルバムもリリシズム溢れたロマンティックなアルバムだと勘違いしそうになる。実際には冒頭におかれたこの曲をのぞけば、いたって内省的な曲が多いことに気づく。またアルバム裏ジャケットにミュージシャンの写真が並んでいるが、当然ながらElton Johnのアルバムは決してピアノロックではなく、一流のミュージシャンによって固められたセッション性の強いアルバムである。

 もちろんロマンティックという形容詞にふさわしいメロディアスな曲は多いけれど、でもそれだけではアルバムの醍醐味を表現したことにはならない。内省的でありつつ、しかし音楽表現としては技術的にしっかりとバックアップされ、シンガーソングライター的な繊細さとは一線を画した、プロフェッショナルとしての、完成度の高い「音楽作品」。だから単純な主観的印象だけではElton Johnの魅力は語れないように思う。

 メランコリックでありつつ、力強い音作りをきかせる、この情熱と内省の交錯が初期のアルバム群の魅力であると感じる。とくにこの3rdアルバムは、アメリカのルーツ音楽をふんだんに盛り込み、コーラスの迫力や、ゴスペルっぽい曲の盛り上がりなど、かなり骨太である。と、同時にスタジオワークも素晴らしく、個々の演奏力の高さに感服する。

 アルバムの色調は、ジャケットの色合いに似て、決して派手ではない。後年のエンターテイメント性などもない。だが、音楽を制作することの確信が、Elton Johnの声から溢れてくるようだ。

 もちろんLove songのように心象風景がそのまま音に投影されたような、憂いを感じさせる曲も収められていて心に響く。それに続くAmoreenaはピアノの音色を中心にしながらも、曲の盛り上がりにあわせて、ドラムが実に渋くはいってくる。こうしたバランスのよい楽器編成が決して曲がセンチメンタルにならない理由なのだろう。

 意匠はアメリカかも知れないが、Elton Johnの芸術度の高さは、その場の感受性ではなく、一流の計算されたプロの技なのであり、それは最初から一貫した、確固としたElton Johnの世界なのだ。

Sep
27
2008
miracle.jpg 最初にMarshall Crenshawを聞いたのは、Someday, Somehow。甘酸っぱい青春の憂うつを感じる曲だった。そして宅録のようななんだかチープな音の感触が、またCrenshawという人物の内省的な、繊細な感性を表しているような気がしてずいぶん聞き込んだ。

 その後も大々的に宣伝されることはないけれども、レコード屋に言ったおりにふとコーナーをみると新譜がでているのに気づいて、そのたびにレコードを買って聞き続けてきた。どんなミュージシャンが好きかとたずねられて、Marshall Crenshawの名前をすぐに出すことはないけれども、それでも振り返ると、デビューからずっと追いかけてきたミュージシャンの一人である。Good eveningやMary Jean & 9 Othersなどずいぶんターンテーブルの乗せていたように思う。The 9 volt yearsなんていうデモをあつめたチープなCDもしっかり聞いてきた。

 そんなつかず離れずの関係のなか、96年にでたこのMiracle Of Scienceの本人の顔写真はすっかり憂いもとれて、なんだかパワーポップの仲間入りをしたかとおもうような振り切れ具合を感じさせるアルバムだった。

 しかし曲を聞いてみると、多少音圧は上がったかもしれないが、依然良質なメロディを聞かせてくれるアルバムであることを実感した。その吹っ切れ感がアルバムのヒットにつながったかどうかはおぼつかないが、それでも自信を感じさせる楽曲がならぶ。そう、少なくとも宅録、四畳半的情けなさはだいぶ影をひそめ、なんだか立派なスタジオで録音することができたのかな、と幾分保護者的な観点で安心して聞くことのできるアルバムだ。

 10曲目Theme From «Flaregun»のようなインストの曲なども彼のギターセンスのよさを十分堪能できる。アルバムラストのThere And Back Againなど、本当に彼にしかかけない、そして歌えない胸キュンのすてきな曲だ。

 そうこの甘酸っぱさはたとえばJules Shearなどとも共通だ。でも、Shearもなんだかうまく立ち回れば、もっともっとヒット曲を飛ばせただろうに、なんだか器用じゃない。Crenshawもそうだ。ギターはうまい。曲もいい。でもなぜだかビッグヒットにはつながらない。いったい何が欠けているのかわからないが、やはり器用じゃないのだろう。でもそれだけ小手先だけの音楽ではないことが実感できる。音楽にあまりに詳しすぎるとミュージシャンとしては不幸に陥るとよく言われるが、ひょっとしたらMarshall Crenshawもそんな「わかり過ぎて、いまさら売れる曲なんてかく気にならない」タイプの人間なのかもしれない。そんな人生でいつも損ばかりしているミュージシャンなんだけど、だからこそ愛してやまないミュージシャンのひとりなのだ。

Sep
21
2008
rankin.jpg 長らく廃盤状態が続いていた『銀色の朝(シルヴァー・モーニング)』がようやく最近になって再発された。名盤との評価を受けてきたアルバムだが、実際に聴いてみると、それまでのフォーク、ソフト・ロックから、ストリングスをいかし、ワールドミュージックのテイストをもったAORへの過渡期にあるアルバムという印象で、アルバムとしての散漫さ、アレンジの過剰さをどうしても感じてしまった。それに対してこのLike a seedは1、2枚目にあった青さは多少影をひそめ、落ち着いたトータル感を大切にしたアルバムだと思う(「Comin'down」を除いては)。いろんなことを試してみようとしてなんだか力がはいっている『銀色の朝』よりも、こちらのほうがアルバムとしては完成度が高いと言えるのではないか。アレンジもあくまでひかえめであり、ケニー・ランキンの歌声が堪能できる。

 決して老けているわけではない。それでも初期のフォークの雰囲気からすれば、老成したといおうか、力ではなく、技術で聴かせるヴォーカルになっているように思える。たとえばSometimesやStringmanのような、ソフトな曲でも、たんにAOR風のムードを漂わせるだけではない。メロディはけっこう暗めで、内省的でさえある。またカリプソ風の楽器のアレンジも、むしろメランコリックな音をきかせている。この2曲に続くEarthheartはさらに憂いを帯びた曲だ。初期エルトン・ジョンのもっていた内省的なメランコリー感に通じるものがある。

 そしてケニー・ランキンの声の美しさの極致であるYou are my woman.Be my woman foreverとささやくその声はずっとこちらの心に響いてゆく。ラストのIf I should go to prayは、けっして大げさな曲でもない。それでもケニー・ランキンの最後のハミングが永遠に聴いていたいと思うほど美しく、荘厳さまで感じる曲だ。

 どのアルバムも決して悪くはない。それぞれジャズやボサノバなどテイストは異なるが、このヴォーカルは変わらない。それでも全曲を自分自身で手がけたからではないが、Like a seedは、ランキンの音楽にたいする資質がバランス感覚という点でもっともよく表現されたアルバムではないだろうか。

Sep
15
2008
Dixie_Chicks_Taking_the_Long_Way_album.jpg Dixie Chicksのこのアルバムと前作を聞いて思うのは、フリードウッドマックをあらためて聴き直したいということだ。カントリーという名称がほとんど意味をもたない良質なポップな曲がならぶChicksのアルバムだが、その影響が実はフリードウッドマック、スティーヴィ・ニックスにあることを実感する。前作では一曲カバーもしているが、繊細でありながらも、力強さを感じさせるヴォーカルの唱法は、そんなところからきている感じがする。

 自分の聞く音楽のなかで、これほどまでに直裁なメッセージをもった歌をうたうミュージシャンも珍しい。だが、それはアメリカの今ときちんと向き合った、正々堂々とした内容だ。自分の感情や考えの変化、あるいは何があっても変わらない自分の芯としている部分。自分を見つめ、自分と社会のつながりを見つめる視線は、誠実で説得力をもつ。そしてそれが先鋭的なメッセージソングとならずに、美しいメロディに乗せて歌われるところが、アーティストとしての奥深さを感じさせるところだ。Not ready to make it niceは、強い意志をもって歌いあげる決意表明の歌であるが、決して感情の起伏にまかせた歌いかたではない。シャウトする寸前までいきながら、しかしあくまで歌を伝えようとする冷静な意志がある。

「成熟・深み・知性」。ライナーノーツに載っていたインタビューの抜粋だが、この女性バンドを表すもっとも本質的な表現であろう。

 そしてこのアルバムにはもうひとつ「優しさ」がある。Lullbyのような素敵な曲がおさめられているのもこのアルバムの魅力だ。

 ここまで書いてきてあらためて思うのは、このバンドは「カントリーバンド」ではまったくありえないということだ。ぼくにとってのカントリーはウィリー・ネルソンです。彼女たちはそんな安易な制約などとっくに破ってしまっている。クオリティの高い音楽は、どんなジャンル分けも無効にしてくれる。

Sep
14
2008
nine_lives.jpg 自分がロックを愛している理由を考えてみると、結局はロックというジャンルは、はっきりしていないことにつきるように感じる。ロックとは関係ない映画をみてて、「これってロックだよね」などとつい言ってしまうが、そのロックの意味の根拠など実はきわめてあいまいなのだ。だがそれがロックの強みなのだ。

 かつてトルコ人の友人に、「日本人はとても優秀な民族であり、自分は尊敬している。だが、西洋の文化に汚染されてしまっているのが残念だ。日本には素晴らしい伝統ミュージックがあるのに、なぜおまえはビートルズやローリング・ストーンズなど聞いているのだ(注:ぼくはあまりストーンズは聞かないけど)」と言われたことがあるが、まさにそこにロックの秘密がある。ロックは、イギリス、アメリカで生まれたかもしれないが、その源流にはブルース、ジャズ、あるいはフォークなどの影響があるわけで、「源流」は結局「源流」にはなりえない。だがその雑食性にロックの楽しみがあるのだ。ぼくは、いまだに「本物」のブルースやソウルは聞けない。日本の伝統音楽も同じ理由で。

 そう考えると、このSteve Winwoodのアルバムはまさにロックアルバムである。アフリカンなパーカッションに、ブルースぽいギターライン、それに白人Winwoodのソウルフルなヴォーカルがからむ。この雑食性に富んだアルバムに、Winwoodの音楽観の豊穣さが十分に凝縮されている。60歳のミュージシャンが作るアルバムは、これまでの音楽を咀嚼しつくした上で、それらを奥深くまで含みこんだロックである。

 どの曲もリズムの進行が素晴らしい。パーカッションとギターのリフのからみや、ハモンドオルガンがフューチャーされる瞬間、個々の楽器がこれほど完璧にセッションしているアルバムが他にあるだろうか。

 そしてSpencer Davis groupの頃から変わらない、これこそホワイト・ソウルというヴォーカル。

 とくに心を奪われるのはたとえば、ソプラノサックスが美しい、大地の広がり、飛翔の高みを感じさせる二曲目。On a brave new morning, smiling at the skyという歌詞のすがすがしさから始まり、どこまでも深みを感じさせるアレンジが展開され、やがてOh what you're healingと、歌い上げられる。このヴォーカルも素晴らしい。だが一番素晴らしいのは、この曲がアフリカにもイギリスにも、どこにも根をはっていない、真にロックとしかいいようのない曲のエッセンスだ。

 もちろん繰り返されるギターリフが印象的な一曲目から、ロックのかっこよさに引き込まれる。三曲目の変則拍子の展開も緊迫感があり、そこにはりのあるヴォーカルが重なるところが、聞き所だ。そしてブルージーなギターがはじけ飛ぶ、クラプトン参加の四曲目。黒っぽいロックが聞きごたえたっぷりである。他にも八曲目の最初のハモンドオルガンが入ってくるところなどは、何度聞いても鳥肌がたってしまう。パーカッションの効いた部分と、盛り上がるところでのハモンドオルガンとヴォーカルの絡みの対比に本当にどきどきする。最後の十曲目はまずもって泣けてくる名曲。

 40年以上のキャリアをもつ人間が、今だにクリエイティブなアルバムをだし、人々を感動させ続けている。ロックの存在価値は、Winwoodのような最高の仕事人によって保たれているのだと実感できる2008年最高のロックアルバム。

Sep
02
2008
black_rose.jpg ロックを聞き始めたころは、フォーク、ハードロック、あるいはアメリカン・ロックのようにジャンルで聞いていたわけではなかった。FM放送で自分のお気に入りのDJをみつけ、そのDJがかける曲で、新しいグループを知っていった。ロックの知識もなく、あるミュージシャンを系統的に追いかけるのではなく、ただただ自分の耳にひっかかったものを、DJの趣味を信頼して、お気に入りミュージシャンとして、レコードを買っていた。しかし、気に入ったもの全部をかえるわけではない。結局ヒット曲としては記憶しているものの、LPは買わずじまい、ということも多く、Cars, Police, Bommtown Rats, などLPは1枚も持っていない。

 ヒット曲を追いかけるなかで、出会ったのがこのThin Lizzyである。当時「アリバイ」という曲が売れていた。それは、ニュー・ウェーブ全盛時で、ポップで疾走感があり、キャッチーなリフで、まさにロックらしいかっこよさに溢れた曲である。だからThin Lizzyがハードロックに分類されるといった意識もなく、自分の中ではCarsのヒット曲と同じだった。

 しかしこのバンドもLPは買わずじまい・・・。大学に入ってから、おそらくレコード・コレクターズの特集で思い出し、「アリバイ」の曲がはいったアルバム「Black rose」を買う。当時は、Poguesが人気を集めており、いわゆるアイリッシュな風味のロックが注目されていたが、そのときにはじめてこのThin Lizzyも同じ風土のロックを感じさせるハードロックバンドであることを知った。

 CDで「アリバイ」以外の曲を聞くと、ビート感があって、ギターのフレーズも疾走感があり、曲にエネルギーがある。このエネルギーはこのバンドの生命線なのだろう。2曲目、Do anything you want to(邦題「ヤツらはデンジャラス!!」!!)のドラムの決め方に、サビのギター早弾きなど、「ロックといえば」の様式美に見事はまっている。そして5曲目Sarahはこう歌われる。

When you came in my life,
You changed my world,
My Sarah,
Everything seemed so right

 ハードロックというよりも、愛情のあふれたポップスだ。7曲目はミッジ・ユーロが参加しており、まさにニューウェーブ感あふれた曲の展開にどきどきする。そして9曲目Roisin Dubhは、アイルランドの伝説に基づいた、自らの根を見つめた曲である。

 79年。パンクからニュウェーブへと時代が移るなかで70年代初頭から活動してきたハード・ロックバンドThin Lizzyもその時代を感じさせるアルバムを発表した。しかし歌をかなでることは、いつか自分の故郷を振り返ることになる。単なる伝統回帰ではない。むしろ伝統をエレクトリックな音で引き受ける度量がフィル・ライノットにはあった。ライノットは86年に34歳で死んでいる。「ハードロックな子守唄」。そのやさしさがThin Lizzyの奥深さを物語っている。

Jun
08
2008

hutchinson4.jpg タワーレコードで初めてレコードを買ったのは、受験のために東京に上京したときだった。試験が終わった翌日、念願の渋谷のタワーレコードに行った。買ったレコードは2枚、The Smithsの新譜、The meat is murderと、友人から借りて録音したカセットしか持っていなかった、Elvis CostelloのArmed Forcesだった。友人のレコードはカッティングが悪く、A面の最初に針を落とすとすでに曲が始まっているような代物だった。自分でLPを買って、はじめてコンプリートなイントロを聴き、強い感動にうたれたのを今でも覚えている。

 東横線が事故で止まったため、久しぶりにタワーレコードに行き、いろいろ試聴した。金曜日の夜、ゆっくりアルバムを見ている人は、実はそんなにいない。試聴の順番をおとなしくうろうろしながらまっているのは、おっさんばかり。店内には「大人買い」や、「おやじのための紙ジャケ、ボックスコーナー」という文句がならぶ。

 今日はまだ買わなかったAimee Mannの新譜、She & himという男女デュオのデビューアルバム、Steve Winwoodの新譜などを存分に聞きまくった。その中でタワーレコードがプッシュしていたのが、このEric Hutchinsonである。タワーの説明によると、メジャー契約を結んでいない中で、ヒットしているミュージシャンらしい。これがファーストであることに確かに驚く。タワーの推薦ということで購入した。

 かなり老成したミュージシャンである。まずソウルフルでありながら、どこかフォークっぽい情けなさのただよう、ヴォーカルが印象的だ。そのわりにはバックのアレンジはかなり人工的でしゃれている。曲の雰囲気からは様々なミュージシャンが浮かぶ。フリージャズ的な即興性が潜まり、曲としてのまとまりを強く感じるようになったInto the musicの頃のVan Morrison。6曲目Oh!のサビは、Todd RundgrenのSomething, anythingのピアノワークを感じさせる。控えめなグルーブ感はThe fifth avenue bandなんかも浮かんでくる。そしてもちろん、Stevie Wonder。8曲目のパテティックなちょっとださい感じもする音はElton Johnあたりだろうか。

 ただ、そのようなミュージシャンの名前を連ねると、この新人は、その模倣なのかということになるが、全くそんなことはない。とにかく凝ったアレンジには新鮮なオリジナリティを感じる。曲によって目玉がストリートミュージシャンぽい弾き語りの音だったり、ピアノだったり、ブラスバンドだったりと様々で飽きさせない。声もまた実に奇妙なのである。ただ最大な魅力は、「明るい遊び心」だろうか。アルバムトータル37分の一気にきいてしまえる軽快な、遊び心がこのアルバムにはつまっている。

 もっぱらインターネットで情報を仕入れることが圧倒的に多くなってしまった今だが、タワーレコードのバイヤーたちのセンス、ポスターなどで宣伝して、プロモで1500円で売ってくれるところなど、タワレコ文化、まだまだ健在です!

May
13
2008
cover.jpg 1970年初頭のイギリスのフォークムーブメントを最も良く表現した一枚であろう。重厚なベースの音、スコティッシュな伝統の響き、アコースティックなギターの旋律、そして控えめでありながら全体の空気を作り上げているストリングスなど、シンガーの、こうしたアルバムを創りたいという意図がひしひしと伝わってくる力作である。他人の曲だけを歌っていても、SSWのドノヴァンや、ニック・ドレイクなどに決してひけをとらない、時代を代表するアルバムである。

 しかし、全体が同じ色調で染められているとはいえ、内容は単調ではない。ホプキンのヴォーカルは、瑞々しいが、決して少女っぽい歌い方ではない。むしろ堂々と声を響かせ、凛々しい歌声を聞かせてくれる。There's Got To Be Moreのようにノリがよく、しかも力強い抑揚を聞かせてくれる曲、Streets of Londonのようなフォークのミニマルな美しさが際立つ曲、さらにはWater, Paper and Clayは、単純なメロディが何度も打ち寄せるトラッドっぽい曲であるが、次第に、どんどん熱く荘厳になっていく展開は、決してフォークの一言ではすませられない、豊かな情感を表現している。

 このアルバムでのメリー・ホプキンは、まさに日本盤タイトル『大地の歌』にふさわしく、しっかり大地を踏みしめ、自然の息吹を感じながら、生命があふれる喜びを歌っているように感じる。それはジャケットの美しい写真のせいもあるだろう。表のEarth song、裏のOcean Song、それぞれにふさわしい情景の写真が使われている。写真におさまる19歳のホプキンには、イギリスの過去と今が見事に結晶化している。

Apr
23
2008
stupid.jpg 最近はiTunesに登録されているインターネットラジオで、Radioio acousticという番組を聞くことが多く、ここで気に入ったミュージシャンのCDをAmazonで購入というパターンが続いている。とにかく日本では知られていない、でも質の高いミュージシャンがアメリカには多いのだと当たり前のことに気づかされる。Aimee Mannは、もちろん日本でも知られているし、日本盤も出ている。それでもソングライティングの高さから考えるに、もっともっと話題になってもよいはずだ。

 95年に出された本アルバムは何と言っても10曲目のThat's Just What Yous areだろう。スクイーズのメンバーが参加しているこのアルバムであるが、この曲のサビのバックコーラスは、まさにスクイーズというか、なかでもChris Diffordのクセのある声に引き込まれる(去年出た、スクイーズの曲をアクースティックに演奏しなおしたSouth East Side Storyは名盤です。ときに過剰な味付けもあったスクイーズの曲が、本当にすばらしくよみがえっています)。この曲をはじめとしてAimee Mannのソングライティングとスクイーズのポップな世界はこれ以上ないというほど、素敵な取り合わせだ。

 そして職人が作るポップロックの風味は、このアルバムでも何も変わりはしない。70年代後期、イーノ、ケール、ラングレンといった70年代初頭のポップマニアアーティストがえさをついばむようにして、ニューウェーブバンドのプロデュースをしたが、このアルバムにはところどころ、そんな70年代の雰囲気がただよっている。それはスクイーズとの相性のよさでもうなづけるが、たとえば、5曲目Superballの楽器の音色や、曲の途中のギターのフレーズとそれに重なるハンドクラッピングはイーノのTaking tiger mountainを彷彿とさせる。

 アルバム最後の曲、It's not safeの一気に盛り上がる始まり方は、これはまさにマイケル・ペン。途中のギターソロ、これもちろんマイケル・ペンが弾いているのでは? とにかく最初から最後までドラマチックで、でも控えめで、最後を飾るにふさわしい一曲だ。

 80年代のうすっぺらい打ち込みの音の時代を経て、90年代楽器の音自体にこだわるアルバムが復活してくる。その音の作り込みがもっとも丁寧になされているアルバムとして、もっと評価されてもよいだろう。

Mar
17
2008
mann.jpg 往々にしてロックは、「瞬間」に生まれることがある。一夜にして録音を終えてしまったとか、1テイク録りでアルバムを作ってしまったとか、その時のエネルギーを一気に凝縮して、緊張感をそのまま閉じ込めたアルバムは、それだけで伝説として語り継がれたりもする。

 そうした最高度のテンションで、バンドの音を作り上げるようなロックがあるとするならば、Aimee Mannのこのアルバムはおよそそうした創作の仕方とは対極にあるものだろう。このアルバムは決して「偶然の産物」ではない。丁寧に織り上げられたハンド・メイドの肌触りがあるアルバムだ。これだけポップな曲作りをしていながらも、安易な既製品の音はまったく聴かれない。こうした仕事にはいったいどのくらい時間がかかるのかわからないが、音楽にまっすぐに対峙して、丹誠をこめて作られた曲が並んでいる。

 これだけポピュラーな音作りをしていながら、なぜ平板な音にならないのだろうか?たとえばReal Bad Newsのアレンジは、夫Michael Penのアルバムにも似てとても深みがあるエコーの音で、けっこう不思議な音色だ。Pavlov's Bellのギターソロは、これだけ聞くと、曲の憂うつな感じとはそぐわない結構派手な音なのに、曲の中では違和感がない。そしてInvisible Inkの慎ましやかなヴォーカルに重ねられる控えめなストリングス・・・どの曲も実によく練り上げられたプロの音だ。Aimee Mannのヴォーカルを一切邪魔することなく、いやそれどころか単に美声で歌われるだけのなじみやすいメロディでは終わらない、聞き込めば聞き込むほど、全体のカラーが浮かんでくるコンセプトのしっかりしたアルバムに仕上がっていることがわかる。もちろんAimeeのヴォーカルの表現力もすばらしい。 This is How It goesのようなヴォーカルが全面に出ている曲での、彼女の抑揚の効いた歌い方は、とても地味なのだが、聞き終わった瞬間から、心の中で彼女の声が再生し始めるような印象深い歌い方だ。Pavlov's〜のOh Mario, という歌いだしなど、ほんとうにぞくぞくする。

 なぜこんな音作りができるのだろう。それはやはりこのアルバムがソロ・アルバムではなく、バックミュージションとの共同作業によって作られたことが大きいのだろう。しかしそれが仲間内の楽しみに終わらないところが、Aimee Mannというミュージシャンの職人芸のなせるわざなのだろう。どこにもあるようでいて、実はどこでも得られないような、コマーシャルに十分なれるのに、安易な使い回しの手法は一切ないというストイックさに貫かれているアルバムだ。この作品は上質なポップアルバムとして、年を経ても聞き継がれていくであろう名盤である。

Mar
14
2008
almanac.jpg Ryan Adamsの在籍したWhiskey Townのセカンドアルバムがデラックスエディッションで再発になった。オルタナ・カントリーと言われる彼らの音楽だが、聞いていて感じるのは若さゆえの、破裂感を持ったと言おうか、結構パンキッシュな曲が多いのに驚く。この青々しさを聞いていると、Byrds〜Gram Personsというより、ニュー・ウェーブの動きを作り上げていった、あるいは、その中から生まれてきた、Big Star, dB's、Feeliesなどの、熱さの中にもどこか醒めてしまったバンドの音がむしろ浮かんでくる。だからBurn's on fire sessionsのプロデューサーに、元dB'sのChris Stamyの名前があることにとても納得がいく。

 屈折したというほどニヒルではなく、情熱を向けるほどの希望への確信もない。そんな中途半端なやるせなさが、いろんな曲調で表現されたのが本作ではないだろうか。喜びや怒りといった単純な感情に流されることもできなくなってしまったアメリカの若者の心理を知るためには、もっとアメリカの時代思潮を考えた上で捉え返してみる必要があるのだろう。そうすればREMなどとつながる線もみえてくるかもしれない。

 Ryanのアルバムを聞いていてうれしいのは、突然、今まで聞いたこともない美しい曲に出会えることだ。もう何十年も音楽を聞き続けているはずなのに、Ryanの曲にはいつも新鮮な発見がある。様々なバックボーンを感じさせながらも、新しく瑞々しい体験をさせてくれる、これこそRyan Adamsが天才的とよべる証拠ではないだろうか・・・

Jan
24
2008
There_Goes_Rhymin_Simon170.6599061.jpeg Paul Simonのソロ作品は、ワールド・ミュージックの剽窃だなどとよく言われたせいか、自分の中でも、安易なミュージシャンというイメージがずっと残っていた。それはピーター・ガブリエルが、同じくワールド・ミュージックの文脈に依拠しながらも、それをスタジオ・ワークによって高度に再構築してみせたアルバムを出していただけに、Paul Simonのアルバムは、ろくに聞いたこともないのに、素人くさいものと思ってしまっていた。

 今回この実質ソロ2作目を初めて聞いてみて、Paul Simonの仕事の根幹には、良い意味でも悪い意味でも、「アメリカ」をどう歌い込むかという問いがあると感じた。そして、それらを飾るアレンジはまさに飾りでしかないと。

 1993年12月号の『レコード・コレクターズ』で高橋健太郎は次のように書いている。

「ただし音楽的にそのような要素を取り入れても(レゲエやゴスペルコーラスなど)、サイモンのアプローチにどこか醒めた距離感があり、ニューヨークのインテリが作り上げた文学的、あるいは映画的な作品であることを逸脱しない」

 つまりどのような他者の音楽に触れようと、結局出来上がった作品は、アメリカのポップ・エッセンスをセンスよく取り込んだものになっている。ゴスペルやカリプソがあったてもそれは、ゴスペル「風」、カリプソ「風」であって、趣味の範疇をでるものではない。そしてこのアルバムには、永遠に歌い継がれるだろうポップソングが、上質なアレンジでもっておさめられている。それは4曲目のSomething so right、そして6曲目のAmerican tuneだ。この2曲に代表される質の高いポップスこそ、このアルバムの通底音ではないだろうか。「明日に架ける橋」ほど大げさではない。 American tuneで歌われるアメリカは、mistaken, confusedといった言葉に象徴されるような疲弊したアメリカである。しかしそれでもtomorrow's going to be another working dayと歌われるように明日がやってくる。このささやかさがこのアルバムをつくったときのPaul Simonの気持ちではないだろうか。

 だからこのアルバムは奔放な音楽探究の旅とは到底言い難く、たとえば自分の子供のためにつくった子守唄、St Judy's cometが、Paul Simonのプライベートな心情をつづっているように、パーソナルな小品をまさにアルバムジャケットの様々なオブジェのように集めたイメージが強い。 Something〜も、パートナーにあてた感謝の気持ちをこめたラブソングだ。このように自分の生活に向き合っている姿を素直に眺めれば、様々な音の意匠はまさに飾りで、そこには音楽を丹念に生み続けるひとりの才能あるアメリカの音楽家の姿が浮かび上がってくるのではないか。イギリスにPaul McCartneyがいるように、アメリカにはこのPaul Simonがいる。そして何よりもこの2人のポールの曲は思わず口ずさみたくなるほど、親しみがあり、それでいてきらめくほど美しい。

 ところで、06年の紙ジャケにはボーナストラックがはいっているが、これが最高によい。あらゆる意匠をとりさった、原曲だけが歌われている。

Jan
19
2008
tracy.jpg まず耳をうつのは、何年にもわたって使い込まれたと感じさせる、素朴だけれども味わいの深い楽器の音色だろうか。日本盤ライナーにあるように、プロデューサーのチャド・ブレイク、そしてレコーディングに参加しているミッチェル・フレームのコンビといえば、ロン・セクススミスでの仕事が思い浮かぶ。たとえば 5曲目、Never Yoursのアコースティック・ギターのエコー処理、同じリフが浮遊感をもってくりかえされるところなど、同じ空気を共有しているといってよいだろう。弦楽器の弦がゆっくり指ではじかれる響きや、パーカッションの鉢が太鼓の表面をかすめる響きが、丁寧に掬い取られて、やがて少しずつ消えていく、そんな一音のはかなさにまで気を使った音作りである。

 なかでも一番好きな曲は3曲目の3,000 milesだ。パーカッションの懐かしい響きから始まり、そこにトレーシー・チャップマンの声が重なる。さびのI'm 3,000 miles awayの誠実な歌い方が心をうつ。次のGoing Backもよい。とても淡々とした曲なのだが、そのゆっくりとしたリズムが、心を落ち着かせる。

 トレーシー・チャップマンは88年にデビューしているので、今年で20年になる。こうしたミュージシャンが20年にわたって活動をし、7枚のレコードを出していることを考えるとき、アメリカの音楽の奥深さを感じないではいられない。もちろん、彼女が優秀なシンガーソングライターであることは間違いない。しかしそれでも、彼女の作品は、けっしてコマーシャルではないし、派手な社会的メッセージを全面に出す訳でもない。彼女にあるのは歌だけだ。しかしその歌には確信がある。ことばがひとを揺り動かす、そのフォークロックのスピリットがまだ、彼女には生き続けているようだ。そんな存在が、きちんと評価されて、コンスタントにアルバムを出せるアメリカとは、やはり文化の度量が広いと言わねばならない。

Dec
16
2007
nyro.jpg このアルバムは、まるで自分自身に対する鎮魂歌のようである。初期の3枚にあった激しい情念はここではすっかり昇華されている。しかし確信をもったその歌い方は、初期のアルバムと変わらない。強い情念として歌を表現する代わりに、ゆっくりとやさしく、しかし強靭な精神をたたえて歌が表現される。

「癒し」とはいったいなんだろうか?心が平安を取り戻し、前向きになれるということだろうか?ローラ・ニーロの声を聞いて感じるのは、そうした単純な自己肯定ではない。もっと深く自分の生をみつめ、その生を愛する、その人生のすべてを含み込んで愛する、きわめてひかえめな態度だ。それは肯定ではなく、希求だ。

Angel of my heart
Come back to me
Angel in the dark
So I can see
Cause I can't live no more
Without an angel
Of love so if you hear.

 祈りの中の愛の希求、ここにローラ・ニーロの音楽が真のソウル・ミュージックであると言える理由がある。誰かが、何かがそばにいてくれないと、すぐにもくずおれてしまうような弱さ、そんな弱さを抱え込みながらも、人生をしっかりと自分の目で眺め、自分の足で歩んでいく、達観した強さ、それがローラ・ニーロの魂だ。彼女のまわりでは天使だけではない、子どもたちや、犬たちも彼女のやさしいまなざしとほほえみの中、踊っている。ニューヨークのビルの屋上に偶然根をおろした一本の草花への愛から、大地にしっかりと根を下ろした木々へ愛へと、ローラ・ニーロのみている世界は変わっていった。しかし、歌うことによる、対象への愛は、どの時代のアルバムであっても、どの曲であっても変わらない。

 このアルバムにはキャロル・キングのカバーなどもおさめられているが、オリジナルを知らなければ、すべてローラ・ニーロの曲だと思ってしまう。それほどどの曲も強い説得力に満ちている。何度も何度も聴き直しても、決して感動は薄れることのない傑作である。

Dec
13
2007
lane.jpg 冒頭の、イギリスの田園風景をツアーバスが走り、ミュージシャンたちのインタビューが挟まれるシーンをみただけで、この映画がいかに素晴らしいかよくわかる。ロニー・レインの生涯を素直に追っていく構成だが、使われる映像、写真、そして曲の選択、どれもがいかに制作者がロニー・レインを愛しているかを教えてくれる。

 70年代にキンクスがPreservation を発表し、いったいどこに行ってしまうのかという混沌とした状況の中で、結局はアメリカに渡り、ハードロックバンドとして成功を収めたのに対し、ロニー・レインの場合は、そうした道に重なるようでいて、決してショー・ビズの世界には身を染めなかった。

君と一緒に目覚める
朝の光がさしこんでくる
外では犬の鳴き声がする

 ファーストソロアルバム(Anymore for anymore)に収められているTell everyoneの一節だが、ここに描かれる農村での生活の情景が実際にはどのようなものであったか、今回の映画をみてよくわかった。ファーストアルバムは、セカンド、サードにも増して名曲ぞろいだが、これら素晴らしい曲が、こうした生活だったから生まれたのか、それともこうした生活をしていたにもかかわらずなのかよくわからない。それほどロックとは遠く隔たった世界なのだ。でも仲間との演奏が、農作業や、パブでの談笑や、そうした日々の一部であり、彼らの生活そのものから生まれてきたことはとてもよくわかる。

 普通に考えれば、ロニー・レインほど、ロックの裏街道のような人生を歩んだ人もいないだろう。なにせまわりにはスティーブ・マリオット、ロッド・スチュワートという、稀代のヴォーカリストがいた(映画では彼らがいかに才能があり、ロック的興奮のるつぼにいたのかを実感させられるライブ映像があって、どぎもをぬかれる。ロッドスチュワート、まさにスーパースターです)。そしてクラプトンにピート・タウンゼント。マリオットを除けば、みなロックの栄光を掴んだ連中だ。そんな人脈がありながら、ロニー・レインだけはロック的成功とは縁遠い生活を送る。

 インタビューの中で、「みな、アメリカへ行こう。アメリカに行けば成功が待っている。しかし実際に行くことはなく、バンドは解散した」という証言がある。すでに病の予兆があったのかも知れない。ロニーは、田舎の生活を続ける。その後多発性脳脊髄硬化症の基金設立のためにようやくアメリカへ行ったときには、基金を横領されるという不運に見舞われる。みなが成功したその場所でロニーだけは裏切られるというのが何とも痛ましい。

 マリオット、スチュワートというカリスマティックなヴォーカルがいたので、目立たないのだろうが、しかし、ロニーのヴォーカルはとても素敵だ。何と言ってもアコーディオンやマンドリン、そうしたトラディショナルな演奏に見事に溶け合った声だ。スリム・チャンスに関係する、グリースバンド、ギャラガー・アンド・ライル、マクギネス・フリントも同じ空気をもっていて楽しめるが、やっぱりロニーのヴォーカルが最高だろう。

 映画の最後の方で、病気が進行し、もうベースも弾けなくなった(バンドを始めたころ一番人気のなかったベースを担当したというのもロニーらしい)ロニーが、腰をかけて、精一杯声を振り絞って歌う姿が素晴らしい。これが音楽だと思う。ロックを聞いてきて、ロニー・レインに会えてよかったと思う。

 インタビューに答えたすべての人々がロニーを愛していた。ロニーのレコードを聞けば、だれもが彼を愛したくなる。そうならないではいられない。

 ロニー自身が最後に言っている。「人生は短編映画だ」でも、その短い一瞬に無限の愛が込められている。

Nov
18
2007
cale.jpg「これ絶対気に入りますよ」と、大学時代に後輩が貸してくれたレコードは、Small FacesのSmall Facesと、The WhoのSell outと、John CaleのこのアルバムParis 1919だった。ロックは前衛であるだけではなく、一線を引いたところにもロックを探求したレコードがあるのだと、気づかせてくれたのがこのアルバムである。Velvet Undergrandを信奉したり、Lou ReedのBerlinをやたら褒めそやすのではなく、喧噪のその後にも、たとえポップな音楽であっても、「前衛」でありつづけることができる、 Velvetのようなスタイルをとらなくても、禁欲的に「ロック」であり続けることはできる、それに気づかせてくれたのがJohn Caleである。

 今あらためて聴き直してみると、オーケストラの入り方が過剰で、仰々しいのが耳につく。脳天気な曲もあったりして、John Caleの「転向」は果たして正しかったのかと疑問に思わないでもない。

 しかしJohn Caleが作りたかった、クラシックとは違う世界での「美の世界」、Roxy MusicやT-Rex、あるいはDavid Bowieのようなまがまがしい見せ物とは違うレベルで追い求めようとした美の世界が、ここにはある。その意味でこのアルバムは、ロックがアンディ・ウォホールが口出しするようなまがいものではなく、ひとつのジャンルとして認識されうる標準まで達したことをきちんと証明してくれるアルバムであると言える。

 Lou Reedは「インテリになりたかったやくざ」、John Caleは「やくざになりたかったインテリ」。確かにJohn Caleの音楽は、その品の良さからいえば、インテリの遊戯なのかも知れない。表題曲などは確かにオーケストラを導入して、きわめてインテリぽく作られていて、鼻につくかもしれない。でもこれを聞いていた当時の僕は、たとえ寝そべって聞いていてもロックは存在し続けるのだと、考えていた気がする。それは今から考えれば、早くも60年代半ばにたとえばThe KinksがSunny Afternoonで描いていた世界だ。しかもThe Kinksは70年代にはいってもしつこくその世界をMirror of Loveのような曲で何度も念を押す。John Caleも、Velvetへの反動なのか、Lou Reedへの敵意なのか、そのけだるさを全面的にロックとして演奏してはばからない。その決意がこの70年代初頭の動きだったのだろう。しかしこのけだるさは、けっしてこの時代だけにとどまることはない。ロックを聴き始めて、正面切った反抗だけがロックではないと気づくとき、日常の生活の中でもロックを聞き続けようと思うとき、John Caleの作り上げた様式美もひとつの地道な営為だと思うのだ。

Nov
15
2007
plus.jpg あるレコード屋(死語!)の試聴機に、「洋楽ファンにもぜひ」と書いてあったので、早速試聴し、見事気に入ってしまった日本のミュージシャン。しかしその音楽は、洋楽とか日本とか、そうした国籍を消し去った雰囲気がある。The Guitar plus meは全編英語で歌っているが、だから洋楽っぽいというわけではない。むしろこうした種類の音作りが、今、世界のあらゆるところで様々なミュージシャンによって行なわれている気がする。趣味や、感性が日本も欧米もそんなに変わらなくなってきているし、日本にこだわって音楽を考える時代でももはやなくなってきている。みな最近の若い人たちは、軽々と国境を越えて、自由に自分の世界を表現しているように思う。

 the guitar plus meはミニアルバムも含めて5枚ほどアルバムを出していると思うが、どのアルバムも構成はほぼ同じである。無表情なうち込み、ときおりループする電子音と、アコースティックギターの音色がすべての曲調を作っている。

 このアルバムのテーマは冬。小品が多い彼の作品の中では珍しく、1曲目Silver snow, Shivering soulは10分ほどもある長尺な曲である。でもこの曲の中で果てしなく続く、打ち込みと電子音のゆらぎがとてもすばらしい。ここまで人工的でありながら、ゆっくり舞い散る雪の自然の情景がとてもリアルに浮かんでくる。

 どの曲もリズムは単調であるのだが、その曲、曲ごとにテーマがあって、微妙な曲調の違いがそのテーマを浮き立たせているのが楽しい。例えば4曲目はNew year。新年を迎える時の浮き浮き感が伝わってきて、ちょっとした幸福を噛み締めることができる。

 the guitar plus meの憎いところは、同じように見えても、この「テーマ」ということにとてもこだわってアルバムを作っている点である。動物のユーモラスな情景がうかぶZoo, 水をテーマにしたWater musicなど、音によるイメージの喚起がとても上手に作られている。

 そう、職人の手仕事感といえばいいだろうか。それが一番よく感じられるのは、やはりアコースティック・ギターの音色である。パーカッションが作る音の空間を刻むようにしてギターの音がおかれていく。そんな構成美にとてもひかれる。そんな構成にとことんこだわったのは、2003年のTouch meだろう。ミニアルバムの5曲目Bakeryから6曲目Castleへの流れは、ギターの音は、チェンバロにも似て、バロック的な構成が見事に生かされている。特に5曲目の終わり、単純なリフを繰り返すギターの音色がだんだん大きくなっていき、突然途切れて終わるところで、僕は大きく息をついてしまう。

Nov
14
2007
cockburn.jpg ながらく再発を待っていたカナダのシンガーソングライターBruce Cockburnのセカンド・アルバムです。サードもよいけれども、初めて聞いたのがこちら『雪の世界』だった。弾き語りの質素なアルバムであるが、聞き込むとかなり曲ごとに雰囲気が違うことがわかる。比較的ピッキングが強くて、Stephen Stillsのギターワークを思わせもするが、このアルバムはずっと内省的だ。

 1曲目はタイトルにブルースとついているが、ギターの音色はずっと軽快で、あざやかなコード進行が楽しめる。朝起きたら外は一面の雪景色、まさにジャケットの写真通りの世界が1曲目から描かれる。2曲目もずっとひかえめなギターとヴォーカルだけで作られていて簡素な感じだが、それでも、ギターの緩急をつけた展開が実はダイナミックな曲だ。

 また曲調もヴァラエティに富んでいる。4曲目はカントリー・フォークの懐かしい雰囲気をたたえた曲。かとおもうと5曲目はピアノがはいり、6曲目はブリティッシュフォークの憂いをたたえ、8曲目はブリティッシュトラッドの香りがする。

 このように様々なテクニックを随所にちりばめながらも、決してそれを全面に出さず、音を織り込んでいるところがこのアルバムの素晴らしいところである。

 曲がずば抜けてよいわけではないし、ボーカルも朴訥として、けっしてうまいとは言えない。アルバムのどこかに盛り上がりどころがあるわけでもない。CDで聞いているとB面の1曲めがどこだか見当もつかない。それほど単色の世界なのだ。しかし、このように控えめでありながら、聞けば聞くほど、1曲、1曲が個性を放ち始めるところが、このアルバムが名盤たるゆえんではないだろうか。

 ところでこのBruce CockburnやArtie Traum(名盤Double back!)といったシンガーソングライターは、その後いわゆるギターの教則本といった世界に入っていく。それはそれで彼らのギターテクニックが卓越しているという証拠ではあるのだが、もはやアルバム1枚でひとつの世界を創りだすだけの余力は残っていないのだろうか。そこが少々寂しいところである。ジャケットもそうで、近年のアルバムはなんだかヘアーバンドが似合いそうなふぜいで、それじゃあ南こうせつだと少し悲しくなったりもする。

Nov
11
2007
ryan2.jpg お決まりのリフ、無駄なシャウト、どこかで聞いたことのあるおなじみのメロディ展開、そこらへんに落ちている、「ロックンロール」の常套句をちりばめたこのアルバムは、普通のミュージシャンであれば、オリジナリティのかけらもない失敗作として、片付けられてしまうだろう。

 でも、Ryan Adamsのアルバムに感じることは、「この程度のことならば、やってしまえる」という、不敵さだ。「ロックンロール」は中途半端な、彼のアルバムにして珍しく、ボーナストラックの方が本編よりいいのではと思ってしまうほど、本心の見えないアルバムなのだが、「望みとあればくだらない作品だって作れるぜ」という歪んだ心情を堪能できるところに、Ryan Adamsの一筋縄ではいかない、持って生まれたロック気質を感じてしまう。こうしたアルバムが出てしまうと、あくせくとロックンロールのパーツを接ぎ木してアルバムを作っている凡百のミュージシャンは塵と消えてしまいそうだ。とはいえ、これは音楽の健全な聞き方ではないだろう。音楽を聞くというより、ミュージシャンの破天荒な生き方そのものに音楽を通して接しているようなものだ。

 Neil Youngのアルバムにもそうしたものを感じてしまうことがある。アルバムそのものの楽曲より、こんなアルバムを作ってしまう人間とはいったいどんな人間なのだ、という人本位の聞き方だ。

 実際一曲目から、どう考えてもミスマッチなプロデュースでしかない楽曲が並ぶ。ヴォーカルも一歩調子だし、サビも、今は死語かも知れないが「産業ロック」のエッセンスがふんだんにぶちこまれている。シングルカットされたらしい5曲目のSo Aliveなど、ギターのメロディの陳腐さに苦笑いをしないではいられないほどの、古びた80年代ブリティッシュロックを聞かせてくれる。そして10曲目のアルバムタイトル曲Rock N Rollだけがピアノの弾き語り、しかも中途半端なフェイドアウトというふざけ方である。

 結局はRyan Adamsが好きだからこそ、こんなアルバムにも価値を認めてしまうのだ。こうした生き方をしてしまうロック・ミュージシャンだからこそ、駄作にもリスナーとして愛を注いでしまうのだ。ミュージシャンにつきあって、新譜がでればどんなものでも買ってしまう、Ryan Adamsはそうしたつきあい方をせまられるミュージシャンである。

 日本盤のボーナストラック「Funeral Marching」はなかなかの名曲です。

Oct
18
2007
girlfriend.jpg ギターを弾くのが大好きな青年が、その自己満足的な音楽生活を捨てて精一杯攻撃的なレコードを作った。それが思いもせず90年代のアメリカを代表とするアルバムとなった。

 Matthew Sweetはカリスマ的なロッカーでも、超絶なテクニックをもつミュージシャンでもない。それでもキャッチーなメロディがかける大学生、ただプロとしてもそこそこは売っていけるミュージシャンとして、Girlfriendの前に2枚のアルバムを出している。2ndのジャケットをみれば分かるように、内省的な青年が自宅録音をしたような、ナイーブなアルバムである。

 ところがGirlfriendとの別離を契機にして、どん底の生活から、なんとか音楽を作ってみるという、これまたナイーブな場所から届けられたこのアルバムは、ギターの音も生々しく、すべてをぎりぎりまでそぎおとした、きわめてストイックな作品として完成をみる。どんな加工もせず、そのまま感情を投げ出し、その感情をギターのひずんだ音色に反映させた時、Matthew Sweetは、他の誰にもまねのしようがない、ストレートな世界を作り上げることに成功する。ふだんは恥ずかしくて絶対に言えないようなこと、たとえば I'm alone in the worldのような歌詞を平気で歌う。しかも叙情的なギターのフレーズつきで。しかしそのいさぎよさ、時代の音など何も意識しない、虚飾のない音楽こそが、聞く者も、おそらく味わったことのあるつらい体験をやさしく包み込んでくれるのだ。

 川崎チッタで、Matthew Sweetが姿を現した時、会場がどよめいた。その理由は、アルバムの裏ジャケットの写真とは似ても似つかない、普通のアメリカ人並みに太ったおにいちゃんがステージに現れたからだ。本人はその観客の反応の意味はつかみかねていただろう。せつないほど、センシティブで神経質な青年を予期していた客の前には、ぜい肉のだらしなさがTシャツから透けて見えるアメリカ人が、脳天気にギターをひきまくっているのだ。

 その後、Matthew SweetはGirlfriend以上のアルバムは作れていない。というか作りようがないだろう。この密度ある時間はもう決して戻ってこない。それは青春時代に誰にも訪れる一瞬だけの才能だったのだ。だがその一瞬が、このアルバムに結晶として収められている。

Oct
07
2007
ryan.jpg CDで2枚組、原盤は18曲入りのアルバムである。といっても散漫な作りの曲は1曲もない。Ry CooderやJohn Hiattあたりの作品に敬意をはらいながらも、しかしそうした完成度の高さとは無縁でありたい、いつまでも未熟でありたいというロック的な激しい欲求が「オルタナ・カントリー」というような安易な呼称を斥けている。親しみのある思わず口ずさみたくなるメロディでありながら、しかしけっしてBGM的な心地よさへとリスナーを誘いはしない、正面切った叫びがこの作品をまさにロックのアルバムにしている。

 曲はどれも、ひとひねり効いていて、単純な展開を許さない。たとえばCherry Laneは、ガレージバンド風な始まり方をするが、途中でささやかれるI can never get close enoughのリフレインはほとんど後期のフリードウッド・マックといってもよいセンチメンタルな曲調だ。しかしそんな展開もまったく無理なく聴かせてしまう曲作りの才能が彼にはある。

『Gold』はまさに青くて、胸がひりひりさせられるが、『Cold roses』はもう少し、自分に対する距離感が生まれているようだ。また演奏そのものも、バンドに対する信頼が、安定感を生んでいるのか、余裕が感じられる。もちろん『ゴールド』もよいアルバムなのだが、多少型にはまりすぎた曲もあるのに対して、『Cold roses』は、アルバムのトータルなイメージがきちんと作り込まれている。どの歌詞にもroseがちりばめられいて、ちょっときざなのも、かれの羞恥心の現れのような感じがしてとてもよい。

 Ryan Adamsのヴォーカルは、Stan RidgwayやChris Isaakなど、憂愁を帯びた感じなのだが、センチメンタルな叙情には流されない激しさを持っている。それが彼のどのアルバムも生々しい感情を感じさせる理由だ。

 60年代にBob Dylanの音楽が生まれ、70年代にはそれをBruce Springsteenが受け継いだ。どの時代にもその時代と対峙するボブ・ディランが必要ならば、00年代のディランはこのRyan Adamsだ。ファースト・ソロアルバム『Heart Breaker』の2曲目「To be young」の始まりは、完全に「Subterranean Homesick Blues Farm」、あるいは「Maggie's Farm」のそっくりコピーだが、これは単にディランへの憧憬ではない。ディラン程度のことなら、こんなに簡単にコピーしてしまえるという、Ryan Adamsの若々しい、不敵な決意の宣言だ。しかしその決意は、まさにHeart Breakerという言葉が表すように、傷を隠しきれないナイーブさと同居している。Dyranは70年代にはいってThe Bandと組む。Ryanも同じようにCardinalsというバックバンドとくんで、『Cold roses』などのアルバムを作りあげることになる。それによって、たくましい土着のアメリカン・ロックをこの時代に謳いあげることに成功した。その骨太さがいかんなく発揮されたのがこのアルバムだと言える。

Sep
23
2007
mavis.jpg 67歳の黒人女性歌手Mavis StaplesとRy Cooderとの共作アルバムである。60年代の公民権運動で歌われた曲を中心に取り上げられているが、過去の歴史に対する郷愁はみじんもない。今に激しく切り込む、メッセージ性の強いアルバムである。

 メッセージ・ソングとは何だろうか?たとえば誰にむかって、何を歌うのかが明確になっている歌と定義できるだろう。しかし、そうした対象が明確であればあるほど、メッセージは時の流れには、逆らえない。歌われている問題が解決されていないのに、歌の方が薄命にも消えていってしまうのだ。また訴え方が直情的であればあるほど、それが喚起する反応も一過的なものになってしまう。結局は、当事者たちだけが、苦しみ続け、外にいる者は日々の生活に戻っていく。取り残された者は、表現を失い、内に閉じこもっていく。それがメッセージ・ソングのあやうさであろう。

 ではどうしたらメッセージ・ソングは時の試練を経て、生き続ける、あるいは生まれ変わることができるのだろうか?その一つの答えの試みがこのアルバムである。

 まずは音の塗り替えだろう。音のバランス、音質が素晴らしい。21世紀らしく、どの音もクリアに録音されている。特にRy Cooderの乾いて張り詰めた音色のギターは、曲に立体感を与え、空間の広がりを堪能させてくれる。きわめて現代的な音響処理である。

 そして、Mavisの声が素晴らしい。といっても、それは怒りや、悲壮な訴えなどではない。歌っているうちに、自らが興奮のあまり、気を失ってしまうようなファナティックなものでもない。迫力はあっても、それは、バネのようにしなやかな伸びをもつ声だ。叫んでもつややかな、ささやいても強くひびく声だ。

 こうした素晴らしい音楽だからこそ、そこで何が歌われているのか、耳を傾けるようになるのだろう。そして、そこにとても素朴な歌詞を発見する。リフレインで繰り返される言葉が、聞く者の心に強く刻まれる。寄せてはうちかえすリズムでくりかえされるDown to Mississippiのフレーズ。繰り返されるWe shall Not be Movedからは、腕を組み、その場を決して去ろうとしない抑圧された者たちの決意の姿が浮かんでくる。アルバム最後の«Call him up and tell him what you want»の、繰り返すうちに次第に高揚してくるゴスペルの醍醐味。こうしてメッセージは、時と場所を超えて、聞く者の今・ここへと届けられるのだ。そして「あなたはどうする?」と問いかけられる。真の怒りが、告発が始まるのは、ここからだ。

 この音楽にはジャンルがない。ゴスペル、ブルース、ロック、フォーク、どの要素もあるが、決して一つにおさまらない。強いていえばここには音楽がある。だからこそ、このアルバムは普遍性を獲得し、永遠のメッセージ・ソングへとどの曲も高められていく。音楽が「芸」である以上、楽しんで歌えて、踊れなくては、聞きはしない。それが真に「芸」としての音楽ならば、声をだし、体を動かしているうちに、その声と体は「行動」へと向かう。権力と差別を撃つ行動へと。

Aug
24
2007
waltz.jpg 一聴して、解放感のあるアルバムだと思った。それはロックの切迫感をかなりそぎ落とし、メロディの流れにヴォーカルを乗せていく、曲調のせいだろうか。

 そして、とにかくやりたいことをやってみたという潔さがある。しかし制約を受けずに自由にまかせて創られた作品が、その人間の想像力と創造力を十分に発揮した作品になるわけではない。限られた機材、予算、時間、スタッフ、そうした制約の中でぎりぎりの状態で創られた作品であっても、歴史的な価値を生む作品はいくらでもある。その意味でくるりの文脈では、意味をもつ作品であっても、現在の日本のロックシーンへの位置づけとしてはどれだけの価値をもつ作品になるだろうか?そうした今現在への共振の少ない作品であることは確かである。

 しかし走り続けるということは、ある意味貪欲に様々なものを吸収、咀嚼しないでは難しいだろう。様々なものに影響を受けつつ、しかし自分を律することで、自分であり続ける。それはけっしてたやすいことではない。なにせ自分で居続けるために、外からの影響を受けないではいられないというジレンマをかかえるわけだから。メンバーもどんどん少なくなっていく今のくるりはまさに「長距離ランナーの孤独」という状態かもしれない。しかし、作品がでるたびに、その作品に対峙し、丁寧に聞き込んでいるリスナーは数多くいるだろう。また真剣にアルバムに向かわせるほど、くるりの凝縮度は、今の日本のロックシーンにあって群をぬいている。今後どんな方向に向かおうと、誠実に創られたアルバムが創られる以上、それをきちんと受け止めるリスナーは存在し続けるだろう。

 今回も佳曲が多い。その意味では『アンテナ』以降のストレートな曲調が、このアルバムでも引き続き生かされている。特にアルバムの最後に無理矢理押し込められたような「言葉はさんかく、こころは四角」は、単純だが、くるりの叙情性がいかんなく発揮された曲だ。「ブレーメン」や「ジュビリー」も、『NIKKI』に入っていてもおかしくない、盛り上がりどころを心得た楽曲になっている。また初期ルースターズのような「アナーキー・イン・ザ・ムジーク」や、東欧民謡といった風情の「スラヴ」のような曲も、いさぎよいほどストレートに、シンプルに曲が創られている。その意味では、途中で聞くのをやめたくなるほど極端ではなく、とにかく「まやかしのない楽曲」が並んでいる。ただ、コンセプト性はほとんど感じられない。だからCMソングになっても十分通用するのだ。

 消費される音楽にどれだけ立ち向かえるか、くるりの果敢な挑戦にこれかも胸を躍らせていきたい。

Jul
20
2007
eno.jpg Brian Enoは、私がロックを聴き始めたころに知った名前のひとつである。最初に夢中になったのは、Police, Elvis Costello, Ian Dury and the BlockheadsそしてTalking Heads(この中でPoliceだけがライブに行ったことがない!再結成ライブには行かねば)。このTalking Headsのプロデューサーとして、そしてDavid Burnとアルバムを作ったミュージシャンとしてEnoの名前を知った(発売日の前の晩に、閉店ぎりぎりに金宝町の電波堂にて購入)。その後 Discreet Musicを聞いたりはしていたが、ロックミュージシャンとしてのEnoの音楽はずっと聞く機会がなかった。70年代後半のEnoは事実、ロックミュージシャンを半ばやめていたのではないだろうか?

 大学に入ってしばらくしてから、友人が「Enoはこんなことをしていたんだよ」と貸してくれたのがTaking Tiger Mountainである。聴いてすぐ、そのポップセンスにうたれた。Enoのソロ4枚は、動から静を描いているが、このアルバムはまさに躍動感のあるポップミュージックである。Another Green WorldのB面や、Before and after scienceのB面における、静謐なメロディも大好きだが、1st, 2ndはそのジャケのごちゃごちゃ感もあいまって、Enoのポップへの病的とまで言えるこだわりを堪能させてくれる。

 このアルバムを聴くと、Talking Headsとの共通点が、まずはなによりもその「ひきつり感」にあることがわかる。たとえば一曲目のギターのリフなどは、なんだか普通ではない。しかし曲調には上品さがあり、このアンバランスがおかしい。二曲目も三拍子にEnoのひきつったボーカルがかさなるのがなんともミスマッチだ。他にもバックヴォーカルの声質とか、数え上げたらきりがないほど、「ビザール」なレコードだ。70年代初頭のポップとは、このエキセントリックさをいかにポップなものとして仕上げるかにその価値があったのではないか? それは職人といってもよい作業である。そうしたテイストがたとえばバウハウスのようなバンドに引き継がれていったのもおもしろい。つまり「ひきつり感」は、ニュー・ウェーブの先鋭性にもつながりをもつのだ。70年代に多くのミュージシャンがプログレに流れていったが、そうした大げさな音楽ではなく、あくまでも3分間のポップ・ミュージックにこだわったのがEnoである。そのひねくれ感こそが、次の世代を用意したのだ。B52'sや前述のTalking HeadsそしてDevo、Ultravox のようなテクノ黎明期のバンドもふくめて、Enoがその出発点であったことはこのアルバムがはっきり示してくれる。たとえばB面3曲目の反復されるメロディは、この数年後にうまれてくる交配雑種のニュー・ウェーブの音をすでに実現している。それは801Liveのような冗長なプログレとは完全に一線をかくしている。

 B面の最後Taking Tiger Mountainは、そうしたアグレッシブなポップの雰囲気にあって、唯一、けだるさを演出してくれるインストゥルメンタルの曲だ。この曲を初めて聴いて、おそらく僕はロックにおける成熟を知ったのだと思う。それはロキシーの喧噪からぬけだした、Enoの音楽に対する意思表明でもあった。そのEnoの姿に背伸びして、自分のロック観をかさねあわせていたのだろう。

Jul
14
2007
who.jpg The Whoのディスコグラフィーをみていて驚くのは、このWho's Nextがわずか5作目だということだ。わずか5作にして、ビートバンドからはるかに遠い地点にまで到達してしまった。25、26歳の若者たちがすでにブリティッシュ・ロックの金字塔を打ち立ててしまった。

 ロジャー・ダルトリーの一本調子の「がなり唱法」は正直苦手で、ピート・タウンゼントのソロ・アルバムの方にむしろ情感がわくのだが、このアルバムに限っては、アルバムのトータル性という点で、ほとんど気にならない。ヴォーカルも曲のうねりの中に見事に調和している。ピートの素晴らしいギター奏法、キースのドラムワークの独創性(一人ドラムの天才を選べと言われれば間違いなく彼を選ぶであろう)、そして控えめながらも曲を下支えするジョンのベース、どのメンバーが入れ替わっても、もはやこのような作品は不可能であると言えるほど、4人のパフォーマンスがしっかりと結ばれている。

 だから、どの曲も展開が頻繁で、ドラマチックであっても、決して大げさにはならない。ハードロックの頂点にたつレッド・ツェッペリンの音楽の美学がその形式性にあるのにたいして、The Whoの音楽は、4人の力量が渾然一体となったところからうまれてくる圧倒的な力のようなものにその魅力がある。だから、ツェッペリンのライブでは、ソロの聞かせどころがあり、それが時に冗長な感じが否めないのにたいして、The Whoにはそういったソロが際立つということがない。いかに素敵なパフォーマーたちであろうと、実は他のメンバーとの緊密な関係の上に成り立っているのだ。それがThe Whoという「バンド」の「バンド」たるゆえんだ。

 アルバムはシンセサイザーの人工音ではじまる。それが空間をゆったりとめぐる。そこにピアノ、そしてキースのドラムが重ねられる。この余裕をもった展開の中、ロジャーの正統的なヴォーカルが始まる。この始まりだけをとってみても、音の絡まりのスリリングさが伝わってくる。2曲目でほほえましいのは、クラップ音だ。こうした小細工も実はThe Whoの魅力だったりする。そしてA面の最後の曲The song is overには、小尾隆さんが指摘しているように、Pure and easy(Odds and Sods収録)からのフレーズが織り込まれている。これはピート・タウンゼントのファーストWho came firstの一曲目にもそのデモバージョンが収められている。実に美しい曲だ。

 めまぐるしい展開があっても、それが緊張感を保って曲として成立しているのは、「余裕」があるからである。それは「風格」といってもいいだろう。ロックが若者の好むやかましい音楽ではなく、楽曲としても成熟し、作品として十分聞かれ続けるにたる、そんな大人のロックが、The Whoによって始まった。それがイギリスの1971年だ。

Jun
10
2007
elliott2.jpg 本人は、どんなジャケットで、どの曲が、CDになって発売されたか知る由もない。しかし、この作品をみたら、きっと本人は満足するに違いない。ミュージシャンの死後、周りの人間がその仕事をきちんと外にだしてくれる。そうした作品に触れるたびに、そのミュージシャンがいかに愛されていたのかがわかる。そして私たちファンもそんな愛をともにする。

 From a Basement of the Hillは、制作途上のアルバムであり、そのせいか、アレンジのバランスが悪かったり、曲の展開が散漫だったり、やはり途中の仕事という事実は否めなかった。それに対して、アウトテイクを集めたNew Moonは、アウトテイクとはいえ、完成された曲ばかりだ。95年から97年ごろの曲が中心に集められており、Another Either/Orという雰囲気の曲が多い。これ自体が、アルバムとして発表されてまったくおかしくない。10年のブランクを経て私たちに贈られたアルバムと言ってもよいだろう。

 なかでもうれしいのはDisk1の13曲目、Thirteen。Big Starのファースト、No.1 Recordの4曲目に収められた曲のカバーだ。クリス・ベルとアレックス・チルトンの2人によるBig Starのラフさや、叙情的なメロディ、枯れた雰囲気は、エリオット・スミスに大きな影響を与えたに違いない(Big Starについては、そのアルバムもそうだが、クリス・ベルのソロ作品I Am the Cosmosもおさえておきたい)。そう、エリオット・スミスを語る際にニック・ドレイクの名前が出されることに今一歩しっくりこなかった理由は、ここにある。クリス・ベルやアレックス・チルトンの名前をむしろ出すべきだろう。彼らの音楽の質感のほうがずっとエリオット・スミスの曲の質感に近いからだ。ニック・ドレイクの叙情性は、けっこう華美だし、ウエット感がある。しかしエリオット・スミスの叙情性は、ずっと乾いた感じがする。言ってみれば大げさではないのだ。この乾いた感じがエリオット・スミスをBig Starにひきつける。

 このアウトテイク集を聞いて、様々なバリエーションの中から、アルバムテイクが生まれていったことがわかる。しかし、あらためてくりかえすが、ここに収められているのは、制作の途中のスケッチではない。セッションでギターをかなでる姿は、きっと幸福感にあふれていたのではないか。そうした自分の曲への愛情という点では、アウトテイクもアルバムテイクも何も変わりはしない。

Jun
01
2007
dylan.jpg アメリカ建国200周年を機に行なわれたライブツアー「ローリング・サンダー・レビュー」。旅芸人のように街から街を巡りながら、その日その日の音楽を奏でていく。同じ演奏は2度とできない。その瞬間、その場所で音楽が生まれていく。そんな音を切り取って収められたのがこのライブ・アルバム「Hard Rain」だ。このタイトル通り、とても激しい音楽である。といってもディストーションでひずんでいるとか、大音量で圧倒されるというわけではない。むしろそれぞれの楽器の音はひかえめでさえある。ギターはつまびかれ、ヴァイオリンの音は、哀愁を感じさせる。それでも激しいのは、ディランの魂の圧倒的な存在感、これにつきる。

 ディランの歌声は、本能的な感情の叫びではない。それは、確信をもった魂のうなりだ。単なるその場だけの感情の爆発ではない、表現をしようとする魂の激しい動きが、そのまま声にのりうつる。

 ディランの本質は、よく言われるようにアルバムではなく、ライブにあるのだが、それはこのレコードでも実感する。一曲目のギターのチューニングのような音を聞いているうちに、いきなり演奏が始まる。この唐突な始まり方に、鳥肌がたつ。そして例のごとく、原曲をとどめないアレンジに、この曲が Maggies' Farmだとはなかなか気づかない。この曲、ブレイクの仕方が最高にかっこいい。そして二曲目One Too Many Morningsは感傷的なようでいて、バンドの高揚感が激しいエネルギーを感じさせてくれる。そして三曲目The Memphis Blues Againは、サビの部分、ディランの声が虚空に響き、ゆっくり消えていく終わり方が最高です。四曲目はOh, sister.『欲望』収録の曲だが、張り詰めた空気の圧倒感で、こちらのライブバージョンのほうが断然いい、B面一曲目のShelter From The Stormはギターのかけ合いが最高、こんな生き生きしたナンバーを耳にしたら、踊り狂ってしまう・・・と、きりがないのだが、どの曲もその演奏のテンションの高さに驚かされる。『血の轍』と交互に聞きたいアルバム。そうでないと、こちらの緊張感がもたない。しかもどちらもLPで。

 76年11月にはThe Bandのラスト・ワルツが行なわれている。このコンサートは、ロックの終焉とよく言われるが、このディランのツアーと重ね合わせれば、確かにロック・コンサートのもたらしてくれるユートピア幻想に決定的な終止符がうたれたのがこの時期であるというもうなづける。ジミ・ヘンドリックス、ジャニス・ジョプリンなど、ロックの伝説が死んでいくなか、残されたミュージシャンたちの苦しい模索が今後始まることになる。

May
17
2007
eric.jpg ジャクソン・ブラウン、ジェームス・テイラー、エリック・アンダーソン。長髪の顔立ちには、内面のナイーブさ、繊細さが映し出されているかのようだ。社会に跳びかかっていくのでなく、自分を破綻に追いつめるのでもない。情熱と狂気が失われてしまった時代にあって、自分の立っている場所をもう一度見つめ返すような内省的な態度といえばいいだろうか。エリック・アンダーソンの2枚のアルバムジャケットは、どちらも本人のポートレイトである。そのまなざしは、外に向かって投げかけられた、というよりも、おそらくは自分自身の内にむかって深く沈んでいくような印象をうける。しかし、それは決して自己閉塞ではなく、控えめであっても何かを見据えた力強いまなざしだ。

 1972年に出されたこのアルバムは、もはやフォーク・シンガーのアルバムではなかった。フォークというには、あまりにも老成している。誠実ではあっても、もはや素朴ではない。いわゆるトラッドという、過去の伝承を歌い継いでいくような素朴さは、もはやここには認められない。憂愁や追慕はあっても、それはきわめて個人的なものである。この私的な音楽が、しかし、人々の心をとらえていくのだ。

 先に挙げた3人の中で、エリックの声が一番線が細い。ジャクソン・ブラウンの力強さ、ジェームス・テイラーのきらびやかな歌声に比べてと、エリックの声の特徴は、その震えだと言えないだろうか。名曲Blue Riverでは、ゆったりとしたリズムにあいまって、高音の震えがはっきり伝わってくる。感情をあらわにすることなく、たんたんと歌を紡ぎだす。もしかしたら、押し殺した感情があるのかもしれない。でももはやそれを語る時代ではないのだ。その失われたものへの憧憬をもちながらも、一歩前へ踏み出す決意、それがSSWたちの創造への意欲だったに違いない。

 この音楽はやさしい。軟弱といえばそれまでだが、あくまでも誠実な歌である。人に聞いてもらおうと、わざとおもねりはしない。彼の声はひとすじのよびかけだ。たとえどんなにかぼそくとも、よびかけは、多くの人の心に届いていく。エリック・アンダーソンを聞く者は、その音楽によって、孤独とは何か、おそらく問いかけるはずである。そうした繊細な魂に、彼はよびかけるのだ。Be true to youと。

May
01
2007
nico.jpg 恋人の贈ってくれた歌を歌う時、人はどんな気持ちになるのだろう。愛し合う者同士の心は、きわめて私的なものだ。ジャクソン・ブラウンの曲を歌うときの、ニコの心情、ニコの歌を聞くジャクソン・ブラウンの心情、ふたりの想いは決して外の人間にはわからない。それなのに、私たちは、アルバムを聴きながら、ニコの声に心をうたれる。音楽の限りない魅力の秘密は、きわめて個人的なものが、多くの人々の心に共感を得て広がっていくところにあるのではないか。いつまでも手元に置いておきたい、そんな思い入れを強く感じさせるアルバムだ。

 このアルバムが出されたのが67年10月。その数ヶ月前には、ヴェルヴェットアンダーグラウンド&ニコのファーストアルバムがでている。ロックがひとつの前衛であること、トータルな芸術運動であることを、一つの作品という形におさめた類い稀なアルバムだが、ロックのコミューンとしての性格は、じつはヴェルヴェットよりニコのアルバムのほうが色濃くでているかも知れない。ヴェルヴェットがあくまでもバンドのサウンドを全面に出しているのに対して、ニコのアルバムは、ジョン・ケールとルー・リードのコラボレーションが音作りに生かされているからだ。ニコ、ケール、リードのとりあわせは、ロックが共同体の中から生まれてくる芸術であることを教えてくれる。人と人がある時、偶然出会い、お互いを触発し、強い創造性を生むこと、そこにロックの醍醐味があることを教えてくれる。

 だから、ソロアルバムでありながら、ニコと、彼女を取り巻く様々な人々のサポートによって出来上がったこのアルバムは、合作という感じが強い。しかし出来上がった音はあくまでもストレートでシンプルだ。弦楽器や吹楽器の音は美しく、ニコの声はとても生々しい。その少し鼻にかかったような、しかし芯のある歌い方は、ニコの魂の赤裸々な姿だ。

 死の直前のニコのライブは、すでに祈りにも似た、厳粛なものだった。しかしこのファーストアルバムのニコは、けだるくも、十分に瑞々しさを感じさせてくれる。実は光りにあふれたた、優しさに満ちたアルバムだ。

Apr
30
2007
dinosaurjr.jpg 10年ぶりにだされたDinosaur Jrの再結成アルバム Beyondを聴いた直後に、Green Mindを聴き直した。Matthew SweetのGirlfriendと並んで、90年代のアメリカのロックの冒頭を飾る傑作である。新作と聴き比べて歴然としているのは、やはり若いアルバムだということだ。この疾走感はもう二度と再現できないのではないか。Green Mindは、確かにそれ以前のDinosaurのアルバムより数段ポップで聞きやすい。しかしそれは、決してメジャー向きの音楽に転向したわけではなく、バンドのメンバーの緊張が結果としてバランスのとれた曲を生んだのだと思いたい。

 特にギターの轟音と、音数の多いドラムとの絡みはこのアルバムの魅力のひとつである。たとえば3曲目の「Blowing it」から4曲目「I live for that look」へのスリリングな流れは、ドラムからギターへと音の主役が移っていくことによっている。「Blowing it」のノリを決めているのは、まさにドラム。フックの効いた間合いの取り方がこの曲のスピード感を高めている。そして曲の最後になってからの轟音のギターが、4曲目への橋渡しをしてくれる。こうしてアルバムの構成に注意してみると、Mascisの爆音ギターは、ノイズの垂れ流しどころか、ここぞという微妙なタイミングで流れてくることがよくわかる。もちろんギターとドラムのかけあいは一つの美しいユニゾンも作ってもいる。たとえば8曲目(というか、 LPのB面2曲目)の「Water」では、ギターとドラムが同じ調子でリズムを刻む。2分26秒あたりの「ダ、ダ、ダ、ダ、ダ」というドラムにあわせサビが始まる瞬間のギターのメロディ、そしてその美しいメロディにかさなる「カモン、ベイビー」という歌詞の高揚感は、このアルバムの白眉と言ってもよい。

 そして耳をすませばすぐにわかることだが、Mascisのギターの美しさは、やはりニール・ヤングゆずりである。「Thumb」のようなスローテンポの曲では、まさに泣きのギターが堪能できる。ただそれは、ジョージ・ハリスン、エリック・クラプトンとは異なる泣きのギター、優秀なギターリストの音ではなく、衝動のギターリストの音なのだ。

 Dinosaur Jrの魅力はもちろんMascisのヴォーカルにある。特に彼の声が裏返った時の、情けない歌い方は、このバンドの人生に対するだめさ加減をこれでもかと伝えてくれる。そう、このだめさ加減がまた若いのだ。人生の目的をさだめてしまった大人には決してこのロックの素晴らしさはわからないだろう。そしてこんな音楽にのぼせてしまった人間は、いつまでたっても人生に責任をとるほどの成熟さには至ることができないだろう。だらしなくて、いいかげんで、無能な人間が、汚いソファーにぐったり寝そべって、ヘッドホンで大音量で聞く音楽。それがDinosaurだ。

Apr
15
2007
carole.jpg ポップスからロックへの移行をこの「Writer」ほど象徴的に表しているアルバムもないだろう。「Writer」の登場は、キャロル・キングという天才ライターのロックミュージシャンへの変化を意味するだけでなく、ロックというジャンルそのものの確立を意味している。もちろん、ことアメリカにかぎっても、すでにロックは存在していた。だが、それまでのロックはポップスのアンチテーゼという、「反」としての存在だった。キャロル・キングのロックは、時代遅れになりつつあったポップスというジャンルを吸収した上で成り立つロックである。

 ではこのアルバムの何がロックと呼ばせるのか?まず明らかなのは「Writer」というタイトルが示しているSSW(シンガーソングライター)という、個人を出発点とした音楽制作スタイルである。ポップスが担っていた、作曲家と歌い手という、職人の分業体制によって担われるビジネスではなく、個人の発露として音楽が生まれることがロックである。

 そして個人の発露というのは、キャロル・キングの場合、その唱法にある。いや、彼女は、意識してこのように歌っているのではないだろう。その歌は、一本調子で、はりはあっても、ふくよかな陰影はない。あくまでもストレートで、ただ声がのびるにまかせるような歌い方である。言ってしまえば職業歌手としては失格なのだ。しかしこの不器用なストレートさは、ピュアであることの裏返しだ。キャロル・キングの最高傑作といってもよい「The Carnegie Hall Concert - June 18 1971」で、この瑞々しい歌声は十分に満喫できる。

 そして楽曲の構成であろう。アレンジの妙はいかされているが、何よりも心をひくのは、ピアノやギターの生の感触だろう。その意味でたとえば「Rasberry Jam」のような曲は、どんなにすばらしいアレンジを聞かせてくれても、このアルバムの中ではすでに「時代遅れ」である。そして時代の幕開けを飾るのはアルバムの最後の曲「Up on the roof」だ。「The Carnegie Hall 〜」で、ジェームス・テイラーという、もう一人のSSWとの美しいコラボレーションが聞けるこの曲こそ、70年代ロックを運命づける一曲であり、そしてこの時点でロックは、前衛や実験であることをやめた。

Apr
13
2007
mine.jpg ノイズに満ちた音で癒される。このアルバムで構築される音の渦は、ノイズと呼んでいいだろう。そのノイズの渦に身を浸しながら、癒されれていく体験がこのアルバムにはある。それはどんな感覚だろうか。2曲目は「静かの海」。深海で砂が何らかの拍子にふと舞い上がるときのかすかな音は、きっとこのアルバムで聞かれるような音に違いない。それは音楽とはいえない、たんなる音のかたまり。しかしその音こそが癒しをもたらしてくれる。そんな雑音がちりばめられたこの「The world is mine」は、くるりの最高傑作である。ここまで音響、音の破片でしかないものが、ひとつの音楽に結晶するなど、いったいどんな力量があればできることなのだろう。

 しかしこのアルバムが恐ろしいのは、極端に音数が少なくなる瞬間があることだ。「アマデウス」は、たとえいくつもの音が聞こえるとしても、印象に残るのは単調なピアノの音色とヴォーカルだけだ。そしてもう一つの特徴は、メロディとリズムの反復だ。「Buttersand/Pianorgan」や「Army」は、うねるノイズだけで構成されている楽曲だといえよう。

 しかしそんなアルバムの印象も「水中モーター」あたりから、ロック色が強まっていく。「水中モーター」のヴォーカルはスチャダラパー的なアプローチといってもよいが、そうした雑食性もまたくるりの楽しさである。「男の子と女の子」は、ハナレグミもカバーしているが、あきれるほどめめしい曲だ。そんなロックのストレートさは、「Thank you my girl」で最高潮になる。そして再びアルバムは、「砂の星」、「Pearl river」を辿って、深海へ戻っていく。たゆたう水のうねりがゆったりとはてしなく円を描く。

 このアルバムが最高傑作と言えるのは、どう頭をひねってもシングルカットできない曲ばかりならんでいるからだ。どの曲もこの音の流れから引きはがすことができない。それほどの緊張感をもって作り上げられたアルバムである。

Apr
07
2007
elliott.jpg エリオット・スミスの曲がとても生々しく聞こえるのは、それは「音楽が生まれる瞬間」に立ち会っている印象をとても強く受けるからではないだろうか?最小限の楽器。あらかじめ決まめられたリズムや、コード進行もないかのように、最小限のささやきと、ギターを刻む音で、音楽が始まる。エリオット・スミスが最初に浮かべたメロディそのまま、音はおさめられ、聞く者にとどけられる。だからエリオット・スミスの音楽を聞くと、本人の存在をとても身近に感じられる。エリオット・スミスの曲は、加工という作業からもっとも遠い。だから皮膚がすり切れるような痛々しいつぶやきまで僕たちは感じてしまう。

 およそ他人に聞かせることなど念頭になかったのだろう。おそらくはBasement tapesにおさめられたまま、誰にも聞かれずに忘れ去られていくはずだったろう。しかし本人の意図とは別に、「グッド・ウィル・ハンティング」のサントラ曲として、突然、広く知られることになった。その時の違和感は確かに、彼の素直な反応だったのではないだろうか。自分の独り言にも似たメロディが、人にも聞かれてしまい、気に入られてしまうという戸惑い。そんな戸惑いによってその後の生き方そのものを縛られてしまうミュージシャンは多い。ピンクフロイドのシド・バレットはロック(産業)の歴史の中で、その最初のミュージシャンだろう。そして同時代のカート・コバーンを思わずにはいられない。ただしエリオット・スミスとカート・コバーンはとても対照的なミュージシャンでもある。あくまでも内に沈潜していくエリオットに対して、カートはやはり攻撃的だ。たとえその攻撃が結局は自分に向かってしまうとしても。

 タイトルもない、断片だけの曲。エリオット・スミスにとってはそれだけで十分だったに違いない。しかしエリオット・スミスは、自閉的な、自己満足の音楽ではない。彼の歌の中には、時に他人との深い関わりを感じさせる歌がある。そのときの彼のメロディは本当に優しい。

I'm in love with the world through the eyes of a girl who's still around the morning after. (Say yes)

 恋する彼女の目を通して、世界を見る。そんな風に他人と重なるような一瞬がある。たとえ淡く崩れてしまう一瞬でも、それを静止画のように切り取ることのできるエリオット・スミスは素晴らしい詩人だ。こうしたまなざしをもったエリオット・スミスは、これからもロックを聞く者たちに一番に愛され続けていくだろう。ロックの優しさをここまで純粋に感じされてくれるミュージシャンは希有なのだから。

Apr
02
2007
rahsaan.jpg ソウルというジャンルはいったいどうやって分類されるのだろうか?ひとくちにソウルといってもその幅はきわめてひろい。たとえばリズムの躍動はソウルの本質だろうか。それはジェームス・ブラウンのようなきわめて個性的なミュージシャンに負うところが大きいのかも知れない。ソウルのもつ高揚感、グル−ブ感ならば、まずはマーヴィン・ゲイを思い浮かべるだろう。そして黒人の魂の訴えならば、単なるメッセージソングに堕することはなく、しかし政治的なムーブメントとして大きな流れを作っていくほどの力をもったアルバムを生んだカーティス・メーフィールドだろうか。ここまで黒人の名前ばかりを挙げたが、ソウルは黒人の専有物ではない。60年のロック草創期からすでにスティーブ・ウィンウッドのようなきわめてブラックな、そして質の高いソウルフルなミュージシャンがいる。その歌唱の素晴らしさは、「ソウル=黒人文化」というきわめて安易な図式を払拭してくれる。

 少し振り返っただけでも、ソウルの歴史は、さまざまな豊かな財産を持っているわけだが、97年にファーストアルバムを出した、このRahsaan Pattersonの音楽が、ソウルと呼べるとしたら、それはどんな意味だろうか?

 まずはっきりしているのは、90年代以降のソウルの流れは、かつての黒人という人種的枠組みにもとづく、プロテストとしてのソウルとは根底から異なっているということである。また汗の匂いといった肉体性も、パッションを歌い上げるような魂の叫びもない。しかしそれでもなぜ彼の音楽がソウルとしてここまで人の心をひきつけるのか?

 Pattersonのソウルの魅力は、緻密に練り上げられた、楽器それぞれの粒だった音の構成にあるのではないだろうか?たとえばソウルを聞きながら「快適」と言えるのは、そのストリングスのアレンジのバランスの良さにあるように思う。それは、ソウルが本来持っていた、情念とも言えるスピリチュアルな部分を抜き取ってしまい、メロディの妙だけで聞かせるイージーリスニングにも似たお手軽なソウルになってしまったという危険も意味する。

 しかしPattersonの音楽が、そうした批判に耐えうるとしたら、それはまさに計算されつくした、楽曲のよさによる。それぞれの音が個性を持ちながら、うまくアレンジされることで、曲としての一体感を醸し出していく。音と音の間の取り方が、いわゆるグルーブを生み出していく。そこがかろうじてソウルなのだと言えよう。つまり徹底的に知性的な音作りをしているのである。天性の才能や、人間の激しい生き様を聞くのではなく、最高のスタジオ環境で、過剰になる部分は極力抑えながら、音を重ね合わせていくその妙を堪能するのだ。そうした音作りは、彼の男性としては、ずいぶん細くて、高音にいけばいくほど、金属質になっていく声質にとてもあっている。この中性的な声は、音のアレンジの中でほとんど楽器の一部として溶け込んでしまっている。いってみれば人工的なソウル。しかし音楽の楽しさは、なにも生身の人間らしさだけにかかっているわけではない。スタジオワークによってここまで完璧な音作りをしてくれれば、それは、ひとつのエンターテイメントとして、聞くに堪えると言えよう。

 なお、Rahsaan Pattersonはこれまで3枚のアルバムを出している。デビューはRahsaan Patterson, 2ndはAfter hours。どのアルバムも素晴らしいクオリティである。

Mar
28
2007
sokabe.jpg このアルバムを聴くとちょっと驚くことがある。それは曽我部恵一の声が、とてもハスキーになっていることだ。ツアーのさなかで声が枯れてしまったのか?それとも彼の声は、シャウトするとこのようなしゃがれた感じになるのだろうか?憂歌団というには、そこまで成熟していないというか、成熟を拒否しているか、どちらかなのだが、いずれにせよ、観客への挑発という点では、かなり魅惑的な声質だ。それは曲と曲の間に入れられている、しゃべりの部分でも同様だ。当日ライブの場に居合わせた観客はもちろん、このライブアルバムを聴く者さえ、どんどん音楽のなかに引き込んでいく。

 サニーディ・サービスのころには、こんなしゃがれた声を聞くことはなかった。「東京」のクレジットに記された吉井勇という詩人の名が示すように、とても内省的で、叙情的な詩にふさわしい声。「江ノ島」に歌われる、ゆるやかなカーブ、平日の昼間の海といった、静謐さを歌うのにふさわしい声、それが曽我部恵一の声だったと思う。でもこのライブアルバムでは、たとえば「浜辺」のような、グルーブたゆたう曲でさえ、彼の声は枯れて、震えている。

 そんな声質の違いが、サニーディ・サービスとソロになってからの彼の音楽の違いなのだと思うが、それでも変わらないところはいっぱいある。それはたとえば、「恋の始まり」。曽我部恵一ほど、「恋の始まり」を素敵にスケッチしてくれるミュージシャンもいないのはないだろうか。「恋に落ちたら」は、今日のデートで、おそらく二人は、お互いがすきだってことを感じるはず、だから、今家をでて、デートに向かう「僕」の心を歌う。「テレフォン・ラブ」は、相手が見えないのに、声だけは耳に生々しくすぐ近く聞こえてくる、「電話」。それはいざとなれば真夜中だって彼女の声がきけるのに、でもダイヤル(!)するには、とっても勇気がいる、そんな「恋」を歌ってくれる。

 ちなみにこのアルバムの名義は「曽我部恵一Band」である。Bandってなんだろうか?それはアンサンブルなんだけど、それぞれのパートが勝手に自己主張するグループのことではないだろうか。そんな緊張感をここちよく感じながら、一気につっぱしって聴いてしまえる、イカしたライブアルバムである。

Mar
25
2007
dream.jpg ケヴィン・エアーズの曲には、「ブルース」とつくタイトルの曲が多い。この「夢博士の告白とその他の物語」にも2曲おさめられている。一聴すると、どの曲もブルースっぽいところはないのだが、エアーズが「ブルース」とつける理由は、おそらく、ロック調のめりはりではなくて、ルーズさが曲の魅力だいうことなのだろうか。とにかくルーズという言葉がぴったりな人だ。ソフトマシーンにいながら、さっさと脱退してしまう。髪の毛もぼさぼさで、かなりだらしないヒッピーの雰囲気である。カンタベリー系のミュージシャンには結構ポップ志向の強い人がいるが(たとえばホークウィンドのロバート・カルバート。名盤多し)、エアーズほど、能天気なポップアルバムを作る人もいないだろう。

 しかしこのアルバムのポップさは、かなりシュールなポップさである。複雑な転調を繰り返すが、けっしてプログレのように壮大な展開にはならない、でもやはり直尺ものの曲。メランコリーな色調で心情にうったえるというよりも、こちらの頭の活動を鈍らせるような夢幻的なバラード。そんな一筋縄ではいかない曲がつまっている。

 そして何よりもエアーズの魅力は、その低くて、やや鼻につまった声だろう。アルバム最後のTwo goes into fourは、その低い声で紡がれる優しい子守唄である。リンゴ・スターのGood nightと並ぶ最高のおやすみソングだ。

 この後、エアーズのアルバムは、どんどん平板なポップへと流れていく。しかし、決してルーズさは失っていないし、ルーズな人間ならではの優しさをつねに持っているミュージシャンである。下北沢のディスクユニオンで、あまりきちんとチューニングしているとは思えないギターで数曲を歌い、その後サイン会までしてくれたエアーズは、ずっとほほえんでいた。九段会館のコンサートでは、すでに客席に明かりがつき、終了のアナウンスが流れている中で、何度もアンコールをしてくれた。アンプも最後には故障してしまったが、そんなことは関係なく、楽しそうにギターをひいていた。そんなケヴィン・エアーズを私はこよなく愛している。人から「聴いてごらん」と貸してもらったレコードで、もっとも深い印象を抱いたのがこのThe confessions of Dr.Dream and other storiesである。

Mar
25
2007
tokyo.jpg 地方性を感じさせるミュージシャンがいる。くるりは京都の出身であり、様々な曲の京都を思わせる歌詞、ジャケットに使われる写真など、自分たちの故郷への執着を感じさせる。ただここではそのような地方への執着とは違う意味で、もう少し地方性ということを考えてみたい。

 たとえば若き日の細野晴臣が、東京の自宅で舶来品に囲まれながら、銀座山野楽器で買ってきた最新の輸入盤を友人たちと聞きながら、曲をコピーするような都会性にたいして、音楽の情報といえばNHK-FMの番組しかなく、地元の県庁所在地に、一軒かろうじて輸入盤屋があるような地方性という意味ではない。くるりの世代であれば、そのような情報格差はもはやなかっただろう。ブリティッシュロックの30年を咀嚼しつくしたような楽曲を聴くだけで、彼らがおびただしい量の音楽に触れてきたことはすぐにわかる。

 ここで考えたい地方性とは、東京へ出てきた人間が、地方の風土への感覚を、肌の感覚として忘れずに、自分たちの音楽へと組み込んでいく、その姿勢である。

 このアルバムにおさめられている「東京」で、彼らはこんな風に歌う。

話は変わって今年の夏は暑くなさそう
あいかわらず季節には敏感にいたい

 東京以西の人間からすると、東京ではよく三月に冬が戻ってきて、雪もちらつく風景をみることがあるが、そんな時に地方との差を肌で感じるような感覚である。自分の中はすでに春になっているのに、東京にいると、その肌に冷たい風がふいてきて、不意をうたれるような感覚である。

早く急がなきゃ飲み物を買いにいく
ついでにちょっと君にまた電話したくなった

 日常の切れ端のなかで、かつての自分の生活の場所を思い出すようなスケッチである。東京での生活の中で、「ついで」でするようなこと、「忘れてしまって」思い出せないようなこと、それが、心を強く締めつける感覚。電話の世界は、きっとすでに遠い世界なのだろう。でもそれが切れ端の間から、ふと痛みをもって、戻ってくる。

 岸田繁のこの曲でのヴォーカルは激しい。彼のすきっ歯から、絞り出されてくるだけに、いっそうその声は、切実さを帯びる。いったい彼の黒めがね、やせ細った頬、分厚くて紅い唇、そして歯並びの悪い口ほど、ロックっぽいものはあるだろうか。

 そしてこの曲の最後のさびの「ぱ、ぱ、ぱっぱぱっぱ」というコーラスを聴くと、実に仲のよいバンドなのだと思ってしまう。

 このファーストアルバムには、『アンテナ』以降ふりきった、屈折が痛ましいほど感じられる。でもくるりの最高傑作は『The world is mine』です。

Mar
22
2007
live_rust.jpg ニール・ヤングのライブアルバム「Live Rust」は、その前作「Rust Never Sleeps」のツアーから収録された。「Rust〜」はヤングからの「パンクへの回答」と表現されることが多い。このアルバムのA面はアコースティック、B面はエレクトリックで構成されている。確かにこのB面のエレクトリックな曲調の激しさは、ロックがもつ緊迫感、「明日を生きられない」といった性急さを、見事に表している。それをパンク世代ではなく、60年代後半からアメリカン・ロックを生き抜いてきたヤングがしたことに、大きな意味がある。

 パンクとは果たしてそれまでのロックへの否定、断絶だったのであろうか?今から振り返ると、そうした「否定、断絶」といった衝撃度は、むしろショービジネスとして演出されたものという面が強い。たとえばピストルズの曲なども、今から聞けば、いたってポップ、言動に反社会的印象がつきまとうとしても、音楽的には、既存の音楽の破壊といった斬新さは認められない。つきつめていえば、パンクは、ロックがそれまで標榜してきた「否定、断絶」といったものを、ファッションのレベルで、パロディ化してしまったものではないだろうか。そして、もしロックの存在価値のひとつが「否定、断絶」にあるならば、まさにそれはヤングが70年代に実践してきたことである。

 ヤングの場合、「代表的なアルバム」というのが挙げにくい。まずどのアルバムも似ていない。毎回やることが違うのである。そして、アルバムを単位として聞くというよりも、ひとつの曲の緊張感に対峙するという、聞き方をせまられるのである。この決して一カ所にとどまることなく、常にぎりぎりの切迫感をもって、ロックミュージックを作り上げてきた、この態度こそ、ヤングが「パンクへの回答」としたものではないか。

 このライブアルバムもアコースティックから始まり、そしてエレクトリックへと展開していく。しかしある曲をアコースティックで仕上げるか、エレクトリックで仕上げるかはたいした問題ではないだろう。それは「My, My, Hey, Hey」、「Hey Hey, My, My」の2曲が端的に示している。Suger Mountainの澄み渡ったギターの音色も、Powder fingerの大音量のバンドのアンサンブルも、どちらであっても、会場に張りつめる緊張感は変わらない。

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