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Februar 28, 2005
2月
もうまもなく3月らしいです。
春。
春なのにお別れですか、という昔の歌があるけれど
春だからお別れなんですよね。
やだな。
悲しい。
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ほつれてしまった物語を
もう一度紡ぎなおし
同じ景色を同じ笑顔で
探しているのに
優しいあのことばは
もうどこにも見当たらない
ここまで来たこと
それはいつでも
たとえささやかでも
「僕の」決断があったはずなのに
どうして「僕は」
こんな場所で泣いているんだろう
まわりを見回して今さら気付く
100年後にはひとり残らず
ここにいる人はみんな消えてしまう
あと何度別れを
繰り返したならば
それが最後になるのかなんて
あたりまえすぎることは
とても悲しいこと
どこへいこう
組み直されてしまった物語の中で
今度はどんな顔で
あの人たちを見送ればいい
いつかどんな顔で
この場所を立ち去ればいい
残されたものは
並び方が違うだけで
何もかも違う世界
もうしまった物語を
一度紡ぎなおし ほつれ
投稿者 POE : 09:33 EM | コメント (0) | トラックバック
Februar 27, 2005
みらいもここまで...
センター試験用の小論文の自動採点マシンらしいです。
http://www.asahi.com/national/update/0215/019.html
「Jessは、あらかじめ、理想の小論文として全国紙の2年分の社説、コラム計約2000本を記憶し、「学習」している。文の長さ、漢字・かなの比、言葉の多様さ、受動態の割合、接続詞の使い方などの統計分布から割り出し、模範に近いほど高い点数を与える仕組みだ。 」
小論文って社説みたいな文章が模範だったとはじめて知りました。ときどき支離滅裂だったりしたほうがいいんですね。
というか、小論文ってもっと血の通ったものだと思ってました。公平さと人間味は両立しないことは知っているけれど、こうも機械で文章が判定されるとなると、夢も何もなくなってしまいます。
受験用の小論文にテクニックが必要なことはわかるけれど、それの追求でいいのかという割り切れなさ。いや、文章や絵が書けない人のためにさも文法のようにテクニックを提供することには賛成なのだけど、それを文法のように機械で判定してしまうとなると、それは一体誰のための何の小論文なのだ?という不信感。
まあ、もう2005年だし、いいのか。
投稿者 POE : 03:11 FM | コメント (0) | トラックバック
Februar 25, 2005
笑えれば
笑えればそれでいいじゃん、ていうのを心情に生きているのでたとえば本気で怒ってる人とかは苦手です。
いや、逆に本気で怒っている人ほど笑いがいはあるのですが、長期的に見ると本気で怒っている人は楽しいことを阻害する可能性が高いので無邪気に(怒りによる鼻堤燈や赤くつりあがっていく目などを)笑ってられません。
本気、というか余裕のなさですね。
曲や詞の一部が似ていれば盗作だって騒ぎ立てて、タレントが窃盗の告白をすれば犯罪だって目の色変えて怒って、ありえそうもない核の危機にミサイル防衛だ、国民の国防義務だとか過剰に反応して。
逆にそれさえも笑いにかえてしまったならば、それはそれで一気に好意的になってしまいます。事件そのものは別にどうでもいいんです。笑えるか笑えないかですね。
お祭り的に騒ぎ立てたり、さっそくはてなにあびるという動詞が掲載されたりは面白くて好きです。
北朝鮮もつい一年前までは笑いの対象だったのが、最近じゃ本気で怒る人が多くてちょっと笑ってられません。本気で怒ってると、せっかくの笑いどころも見逃してしまうのではないか、といういらない心配までしてしまいます。
笑いのいいところに、オチのあとは何事もなかったようにもとに戻るということがあります。さすがに笑ったらそれできれいにおしまい、とまではいきませんが、怒りあうよりは笑いあう方が笑えるぶんだけ得です。
後味のよい怒りよりは、後味のよい笑いのほうが簡単に手に入ります。笑いには高度な論理力や重厚な知識もあまりいりません。
逆に、本気の人が必死の形相で何かを守っているのをみると少し心が痛みます。本当にそれがその人にとって守る価値があるのならばいいのですが、何も持っていないくせにそれを守ろうとしているのではないかという自問自答もなく、他人を攻撃してまでそれを守り通す人を、うっかり笑ってしまったらさらに怒ってしまうので対処にあぐねています。
投稿者 POE : 03:47 FM | コメント (0) | トラックバック
Februar 22, 2005
少女の悩みに答えてあげましょう
暇なので、色々な大学の入試問題を見て廻ってた。ああ、やっぱり数学は出来るようになってないなとか(2年間まったく数学に触れていないので、もしかしたらその間に勝手に数学が得意になっているのではないかと期待していたのだけど)、小論文は読んだ本や知ってる著者が結構あって面白いな、とか。
個人的な今年の一押しは、慶應文学部の「少女の悩みに答えてあげましょう」という小論文。
まあ、内容は「自分らしさ」とか「自分探し」っていうことばのパラドクスの文章なんで、そこまでの意外性はないんだけど。
投稿者 POE : 03:30 EM | コメント (3) | トラックバック
Februar 21, 2005
いのちの電話
一度くらいその名前を耳にしたことがある人も多いと思います。24時間体制で、色々な悩みを無償で聞いてくれるダイアルです。ボランティア紹介第17回、本日ご紹介するのはいのちの電話の相談員さんのお仕事です。
無償で利用できるこのサービス、相談員さんも無償でのお仕事となっています。逆に、相談員になるには一年にわたる研修や合宿をうけなくてはならず、その費用は未来の相談員負担となっています。
東京都の場合を見てみましょう。まず全10回の公開講座(25000円)を修了する必要があります。そこではじめて相談員応募資格が発生し、その後面接や心理テストによる選抜を経て、毎週の研修(100時間相当)が始まります(計100000円+合宿費用)。こうした過程をへて、はじめて相談員となることが出来るわけです。
他県も似たような制度をとっていることが多いようです(ただし負担額は東京都の半分程度が多い)。
はれて相談員になった後は、原則交通費も自己負担・無給で電話のまえにたつことになります。月2回、数時間の電話担当と研修会が主な仕事内容です。
こうして見てきたように、相当に過酷なボランティアでもあり、応募者の少なさに悩む県も少なくないようです。もしかしたら、電話先のいのちは自分の電話にかかっているのかも知れない。深夜業務もある。そんな仕事が無給で行われていること。
ついちょっと感動しかかったのですが、せめて研修費くらい行政負担にならないのかな。
投稿者 POE : 02:45 FM | コメント (0) | トラックバック
Februar 20, 2005
15秒
ぼんやりとCM2分くらいを眺めてた。ひとつのCMが15秒だから8本の商品をプレゼンされたことになる。
電話会社。食パン。歯磨き粉。車。育毛。映画。シャンプー。お茶。
どれも普通に生きていれば出会うものばかりで、CMを見た瞬間も別に特に違和感を感じることもなく、ああ、CMだって流して終わり。瞬間的に楽しいとか思うけど、それだけ。
15秒で残るモノって何だろう。確かに15秒のCMでも何回も見させられればその商品が記憶に残り、歯磨き粉くらいなら「あ、これCMで見たやつ」と手を伸ばすこともあるかも知れない。
だけど、車を買ったことがないからわからないけど、車やパソコンやオーブンって、CMだけを見て買えるようなものじゃない。そのとき、CMの果たす役割は?
CMをきっかけにウェブサイトを見てもらったり、雑誌やパンフレットを見てもらって、最終的に買ってもらうためのきっかけかな。
でも、それって、とんでもなく無駄なばらまきだよね。わかっててやっているのだろうけど、これだけ何もかもが細分化されてしまった時代に、何百万単位が見てるテレビっていう箱に15秒を投げ放つって行為は、まさにマスメディア的で、ひとつ昔の時代のにおいがしてならない。
機能してなさ度てきには、アドグルくらいだと思う。
制度的に、15秒で何が出来るか?という発想のもとで作らざるを得ないCM。ハードディスクレコーダーが普及してきたら、CMのかたちももっと多様化してくるのかな。いや、むしろCMはカットされて録画されてしまうのが普通になって、おざなりなCMばっかになるのかな。それはちょっと楽しみかもしれない。
やばい、たかが15秒にこんな5分間も時間を無駄に使ってしまった。
投稿者 POE : 12:12 FM | コメント (0) | トラックバック
Februar 18, 2005
0217
三越のキャパ写真展と東京現代美術館と夢の島の第五福竜丸まで行ってきた。珍しく、少し「活動したな」と自己内省が出来る一日。
別にロバートキャパに興味があるわけじゃないのだけど、第二次世界大戦の写真がやけに生々しいカラーで映ってたから。戦艦の形状や写真の技法にとおい僕なら、「去年、イギリスまで行って撮ってきたんですよ」とだまされても「ああ、そうですか」と普通に流してしまいそうな写真がたくさん飾られていました。
ついつい「ああ、そうですか」と流しそうになるのをこらえて、「この写真は60年前に撮られたんだ」とこころのなかで唱えながら何とかふみとどまりました。
*東京現代美術館 愛、孤独、そして笑い
別にこれは三越からバス一本で行けるから、何の気なしに行ったのだけど、ちょっと一部すごかったです。
強烈だったのが澤田知子というヒト。こんなに笑ったのは辛酸なめ子以来です(ここで「これほどの精神的な感銘を受けたのは岡本太郎以来です」とか言えればかっこいいのに)。
自分を変装させてそれを街角のインスタント写真で400パターン撮ったり、学校の集合写真を数百人の生徒に扮装して撮ったり、普通は思いついても実行に移さ(せ)ないことをやってしまうあたりが、ぶっとんでいて笑いが止まらなかったです。今日が木曜で、入場者が少なくて良かった。
ただ残念なのは、作品の説明やコンセプトがすごい真面目で別に文章も面白くないところ。たとえどんなに真面目な意図があったとしても、こう臆面もなく当たり前のことを言われてしまうと、笑いが冷めて「ああ、そうですか」と流したくもなってしまう。
他の作品は男が子宮を移植してもらって出産するという光景をドキュメンタリー風に描いた映像だったり、普通の主婦が突然壊れ出したり。
そもそもこの展示全体の企画意図がフェミニズム、だったみたいで「ああ、そうですか」と納得。ゲストレクチャーに上野千鶴子や竹村和子を呼んでいたり、ショップにはジェンダー関係の本が学術書を含めて大量に売っていました。
意図を知らされないと意図を創造する前に探そうとしてしまうくせに、意図をやすやすと知らされてしまうと冷めてしまうのは自分勝手ですか。それでも、論文が何万字も費やしても結局読者のこころに残るモノはその中の一部なはずで、それを何万字の論文じゃなくて一瞬で受け手に何かを残す美術のちからをまた信じてみたくなりました。
公式サイト(があったことだけでも驚きなのに)、URLがかっこよくてびっくりしました。d5fってD-51とかよりもよくないですか?いや、同じくらいかな。
小学生が社会科見学に来ていて、なんだか侮蔑的な視線を感じました。こんな時代じゃ仕方ないですね、って簡単に時代のせいにするヒトを構築してしまった時代のせいだと思います。僕は悪くないです。
+++++++++++++++++++++++++++
そのさきはゆめのしま
おきわすたじだいのゆくえ
まだなにもしらない
ぼくらがあるきそしてめざした
いくど
ふたたびのあしあとを
おなじみちにきざもうと
なにもかもは
もうかわってしまったあとで
なのにおなじものをほしがるから
よけいいびつにゆめはからまる
ほつれてしまったそらは
まだいろをすてていませんか
いつかまた
きみにあうことはありますか
そのときぼくは
なにかかけるべきことばをもてますか
よみかけのほんや
わすれてしまったえほんを
たよりに
あたらしいものがたりを
はなしてあげるあいてをもてますか
ゆめのなか
そしてもういっぽ
いつかゆめをおえ
だからもういちど
ゆめのはなしを
ゆめじゃないどこかで
はなしてみてもいいですか
そんなひを
わすれてもいいですか
わすれないでもいいですか
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Februar 17, 2005
うみのそば
立ち止まる時期は終わったのだと
まわりはとっくに列車に戻り
次の街へと旅立ってゆく
うまくは乗り継げなかった複雑な駅や
怖くて歩けなかった真夜中の世界も
何時の間にか恐れもなく あの人たちは歩いてゆく
空が眩しいだけのこんな場所で
夢を見なさいと優しいひとが
隣にいてくれたのはもういくつ前の季節だろう
夢なんてないよと
社会を見破ったフリをしていたのは
どんな夢を引き受ける余裕もなかったから
君はきちんと夢を探して
そして夢をあきらめて
現実を生きているのに
僕は夢ひとつ見れずに
生半可な現実を前に
未だ夢に憧れている
どこへ行けばいいのかとか
どんな場所ならいいのかとか
波打ち際に描くことばで 昨日を欺くばかり
次の街まで
もうとっくにおりてしまった線路を
使うわけにはいかなくて
なのに歩いてゆけることは
出来そうもない
そんな午後2時の低くなる空
誰もいなくなってしまう前に
一周遅れになってしまう前に
闇に影が飲みこまれてしまう前に
何を
何かを
それでも
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Februar 15, 2005
石鹸の配給
石鹸の配給、ということばがテレビから聞こえたので画面に目を向けると、モノクロの画面で弱そうな男の子が、体にまとった胸をはだけて白い噴射液を体中に受けていた。
進駐軍から提供されたDDTだそうです。農薬としても残留性が強いとして30年以上前に使用が禁止になっている薬品を体中に吹きつけるシュールな画面。
60年前って、もうきっと現実感がない昔だとたかをくくっているから、こんな冷めた反応しか出来ないのかな。
その態度は何千キロも離れれているからとたかをくくっている中東とかに似てるのかも知れない。
もちろん、別に60年前や何千キロも離れなくても、たとえば隣のいる誰かにさえいつだって共感できるわけでもないし、ことばは通じるのに話が通じないヒトにはこころがあるのかと疑うこともある。
だけどその実感できないレベルというのは、その誰かの存在まで疑うものじゃない。60年前のDDTを吹きつけられる誰かは、本当にその誰かが存在したかという次元にまで実感がもてない。下手したら、個人的にはドラえもんよりも現実感が軽いのかも知れない。
ドラえもんはいるかも知れない。実はこっそり。まわりに記憶を残さない道具を使って。でも、DDTを吹きつけられていた誰かは、どこにもいないかも知れない。そう思わせる何かは何か。
それを厳密に考え出すときっとつまらなく難しい話になりそうなので、考えることはとりあえずやめておくことにしているのだけど、ひとつ挙げるとしたら色かも知れない。
色のないものに個人的にあまり現実感を感じることが出来ない。たとえばhttp://www.magnumphotos.co.jp/ws_exhibition/carcolor_1.htmlを見て少し、第二次世界大戦の現実感があがった。
ドラえもんが白黒アニメじゃなくて良かった。
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Februar 13, 2005
かたづける
部屋を片付けた。いつも思うのだけど、片付けるって一体何なのだろう。
捨てる、ということも含めてそうなのだけど、結局はものを移動する行為。
机の上から本だなへ。ベッドの上からごみばこへ。
部屋はきれいになりました。
でも、それはものをあるべき場所へ移動しただけのことで、きれいというものが神々しくも自然的に発生したわけじゃなくて、ものがあるべき状態にあることを僕ら一般にきれいだと呼ぶだけのはなし。
片付けるということは、あるべき状態へものを移動させること。さらに、整理・公式化され、わかりやすい状態がよいとされる。ごみはごみばこ。本は作者順、ジャンル順。
考えてみれば、あらゆることは、片付けること。
ものは消えなくて、質量は保存される以上、ものは消えるんじゃなくて、片付けられていくにすぎない。
きたない部屋よりも、片付けられた部屋がよいとされる。
たとえば、ひとも片付けられた状態のほうがよいのだろうか。
死んでしまった人や、「私は39歳の会社員です。」と簡単に自己を紹介しきれてしまう人は、わかりやすい。きれいだ。軍隊の行進は片付けられている。ドラゴンボールでの悪者は徹底的に悪者だ。簡単に、片付けてしまうことができる。
でも、わかりやすいことは、それほどに優先されるべきことなのか。
本当に、ぼくたちは、片づけを必要としているのか。
複雑な問題や関係性が跋扈する社会において、ばかみたいに単純な「経済制裁すればすべてが解決だ」みたいなこたえは必要なのか。そんなに、出来事は片付けられていたほうがいいのか。
ぼくたちは、きれいな部屋にすみたいと願う。
でも、たとえば、きれいに整頓できる量を超えてしまったものや、
分類不可能なものがそこにあるとき、それでも、きれいな部屋を願うべきなのか。
以上、うまく部屋が片付かなかったことに対する自分へのいい訳。
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Februar 11, 2005
国道沿いの光とかはもうこのあたりにはないけれど。
少しだけ離れてしまった背中を
もう影さえもつなごうとはしない
濃縮された空を
夜が片付けてしまう前
ガード下に続く国道の光
そのどれよりもはやく
寂しさは通りすぎ
そしてまた寂しさはぶりかえす
一緒にいるのに
ひとりを思い出してしまうこと
ひとりきりで
ひとりを感じていること
比べるまでもなく
どちらも受け入れざるをえない出来事で
制限さえなく
溢れてしまう忘れていた気持ちを
彩ることばひとつ
うまく伝えられないまま
またたいた信号機はまた
人の歩みをせかせ
そして誰でもない誰かの中の誰かに
ぼくはあっさりと溶け込んでしまう
もう思い出さなくていい
今度止まるときまで
もう立ち止まらなくていい
どうせ立ち止まれないんだから
投稿者 POE : 12:13 FM | コメント (0) | トラックバック
Februar 07, 2005
宇宙学校
宇宙学校というあやしげな名前のくせに、小学生と老人が多いめちゃくちゃ健全なイベントに行ってきた。宇宙ロケットとか太陽系探査とか、ちょっと胸をときめかせることばに惹かれたから。
JAXA(元宇宙開発事業団などが合併して出来た日本の宇宙分野を担当する独立行政法人)、お金あるんだね。カレンダーとかポスターとか無料で配ったり、パワポや資料もあきらかに外部に発注したきちんとしたもので。それなのに、講師のプレゼンが10分で、質問タイムが60分だったり。
市民参加型のイベントはいいと思うんだけど、何だか頑張る方向性が微妙にずれている気がする。いや、日本の宇宙開発なんてそんなものか。
投稿者 POE : 07:05 EM | コメント (0) | トラックバック
Februar 03, 2005
最近読んだ本
夜のピクニック
去年売れた本。ただひたすら高校生が歩くだけの話。って書くとバトルロワイアルのもとになった(と言われている)立ち止まったら殺される競歩大会のはなしみたいだけど、そんな残忍さはなかったです。
なぜか春休みになると恩田陸が読みたくなる。
カタコンベ
洞窟ミステリー。伏線と人物がやけに多いと思っていたけど、以外にあっけなく収斂。謎といった謎はあまりないんだけど、ついつい読み進めてしまう。でも、マンガにした方が読者も多そうだしいいんじゃないか。
野ブタ。をプロデュース
普通にほくそえむ感じ。内容的な新しさはないんだけど、核の部分は社会学者の描く若者論と大差はなくて、論文じゃなくてエンターテイメントとしてそうした概念を打ち出していく能力ってこれから求められていくのかなって思ったり。
封印作品の謎
小説じゃないのに、読んでいて面白いと感じられる本。すごくいい。大好き。B級っぽさが漂う物語じゃない本ってあんまりないよ。
ものが壊れる理由
核爆発は原子がわれることによって起こるらしい。じゃあ何で包丁で野菜を切るときに核爆発は起きないの?とかいう話。
+
守りたいものを守るその腕は
今までどれだけの人を傷付けてきたの
それと引き換えに今手にしているものは
今でもどれだけの夢を与えてくれるの
遠ざかる波の膜を
はがすような凍える朝に
後姿はひとつ
向こう側の国へ消えた
+
明日の顔はまだ
決めていないけれど
大丈夫
微笑みのかたちに
こころをあわせれば
うまく笑えることが出来るから
生きていくだけで
いいよと笑う
君へかえす言葉はなくて
今日も誰かが演じてた
あの役が
繕った微笑みは
僕らの全てだったのかも知れない
仮面の裏側には
無表情な顔が仮面が
隠されているだけ