« Februar 2005 | メイン | April 2005 »
Mars 31, 2005
変わらないもの
□50年前の国会答弁
野坂参三(共産党)「全ての戦争を放棄するのではなく、自国を守るための戦争は正しいとすべきではないか」
吉田茂(自由党)「近年の戦争の多くは防衛の名によって行われた。よって日本はすべての戦争を否定し、放棄する」
結局あれから変わったのは立場だけ、か。
(お前は何歳だ)
□25年以上前のフォークソング
「変わらないものを何かにたとえて
そのたび崩れちゃ誰かのせいする」
牛丼、子供の安全、踏み切り、まちなか。
近代の公共圏の基本は、隣の席の人を信じること。
それは安全と同義なんかじゃない。
悪者を犯人ひとりにおしつけて、切り捨てて、必死に自分を守ろうとする。
イデオロギーの対立を皮肉った歌が、今じゃ別の文脈で意味を持ってしまう。
(ていうか中島みゆきです。恥ずかしい)
□10年前のラブソング
「このままいつかは終わっちゃうのかな
ちょっとだけゆとりが この頃持てない」
移ろいやすいのに、泣き虫。なのに強がる。
そんな人は可愛くて、守ってあげたくもなるのかも知れないけど、
愛想つかされたら終わりだよ。
(別に特定の個人のことじゃないですよ)
考えようによっては、国旗国歌法案だったり、盗聴法にしても、人権擁護法にしても、法律として堂々と施行するという点が、健全というかバカというか可愛いというか。認知科学や、広告代理店のノウハウを使えば、たとえばギミックを工夫して思想や嗜好を植え付けるようなことは可能そうじゃない?卒業式で国歌なんて強制しなくても、スタジアムに行けば大合唱が聞こえる時代。それを何らかの方法で掬い上げたほうが、コストも少ないだろうに(そういう話は復古的じゃない改憲派のひとはよく言っているけど)。それをしないで、上からルールで押しつけるって、バカか真面目のすることだと思う。
きっと、真面目すぎるんだろう。
だから、大丈夫だと、辛うじて信じてみる。
投稿者 POE : 08:34 FM | コメント (2) | トラックバック
Mars 30, 2005
イエローカード
「もらったイエローカードってどこに入れておくの?ポケットあるのかなあ。」
+++++++++++++++++++++++++++
夢の先にあるように見えた色が
振り返ったときにも見えること
気付いたときには
もう草原を歩いていた
吹きつづける風も
流れやまない雲も
行き先までは教えてくれない
ただ広い草原を歩いていた
それでも穏やかな風は
優しく告げてしまう
君はほとほと進んではいないよと
遠景だけが
かたちを変える毎日
それをどれだけ繰り返したとして
あこがれの色を
一つとして手に入れられず
朽ち果ててゆくだけかも知れない
夢の先にあるように見えた色が
振り返ったときにも見えること
それさえも幻だったと
認めてしまったとき
この草原は
何に姿を変えるのだろう
投稿者 POE : 09:50 EM | コメント (1) | トラックバック
Mars 29, 2005
あの頃に戻りたいだなんて
季節は巡るのに、どうして人は巡らずに過ぎていくのでしょう。なんて感傷的になりがちな三月。
別に今年の三月の次が今年の四月じゃなくて、去年の四月でもいいじゃないかとついつい恨み節でもたれてみたくなってしまいます。だけど、記憶をなくしてまで去年の四月に戻りたいかというと非常に微妙なところが、この問題の難しさでもあります(別に問題でも何でもないですけれど)。
この一年分の記憶を持たずに去年の四月に戻ったとしても、どうせ同じことを繰り返すだけです。記憶を捨てれば過去に戻れる、というのであれば、もしかしたら今日の自分も一年後からやってきたものかも知れません。
では記憶を引き連れて行けるなら、一年前に戻りたいか。それは戻りたいです。でも、何かが大きく変わるかといったら、そう変わらないと思う。この一年で劇的な岐路にでも立たされていたならば別だけど、そんなわけでもない。もう一度同じ重さの一年が与えられたとして、その一年を有意義に使えるかといったら、そんな自信はない。
だから「あの頃に戻りたい」という言葉は、半分嘘です。「あのとき、ああしていれば」と嘯く人(って自分のことじゃん)に問いたい。どうせ、あの頃に戻れても何も出来ないんじゃないですか?一度目に出来なかったことが、二度目で出来るんですか?
ただ、三度くらいあれば出来る気もします。ゲームだとLIFEが三回くらいあります。そのくらい、人生の選択も生きることも軽くすることが出来れば、何か出来るかな。もっと、全てを相対化させて、もっと全てを軽くしたい。もっと軽く行きたい。それは人生を大切にしないことじゃない。
人生は一度きりだから大切に出来ないんじゃない。一度きりだから大切にしすぎて腐らせてしまうんだ。
投稿者 POE : 10:40 EM | コメント (0) | トラックバック
Mars 28, 2005
ミカタ
遠のく背中が夕闇にまぎれた
闇が薄く僕たちをつなぐ
時流を急ぐ誰もが
同じ闇を往く
街はいつも孤独の味方
誰もが一人だと想えたならば
僕らはもう一人じゃない
すさんだ記憶を曖昧に脱ぎ去る
答えを出す時期はまだ先と
季節が変わる頃には
思い出も変わる
時はいつも未来の味方
今日を生きている誰一人も
未来のあいつには勝てない
闘うことさえも出来ない
投稿者 POE : 10:38 EM | コメント (2) | トラックバック
Mars 27, 2005
テレビ、愛に目覚める。
最近、やけに愛とか心とか倫理とか、歯がゆい言葉がテレビや雑誌やブログから聞こえてくる。
ついに、みんな愛に目覚めたんですね!
ついに、倫理に目覚めたんですね!
カントさんも大喜びですね★
と、目をキラキラさせてもいられないくらい、みんなが使う。一体、一日で何人の人が愛の言葉を囁いているんだろう。一日でどれだけの人が崇高な倫理を説いているんだろう。
まさか、ドラマ以外で、こんなに愛や心について語られるとはビックリです。かっこよくもかわいくもタレントでもない、識者と称するおじさんたちが呟く愛や倫理という言葉の数々。合法だが方法が問題だ、倫理観の欠如云々。
全然、ときめかないんで、識者には識者らしく、安易に「愛」とか「倫理」とか「心」とかいう言葉を使って欲しくないです。中身があるならいいとして(世界中の学者が何百年も格闘している「中身」を簡単に語れるかどうかはわからないけど)、そのあとに何を言い出すかと思えば、何も言わないか自分の「愛」や「倫理」観を語りだす。まるでラブコメ。
曖昧は素敵で、愛の言葉は魅力的だけど、一神教の伝統のないこの国で倫理って何ですか。他人の目のことですか。市場の心って何ですか。別におじさんの恋愛観や倫理観はそれ以上でもそれ以下でもありません。
極端な資本主義が意味する愚衆制の危険性はわかるけど、「金だけが全てだ」に抗する言葉や概念が中身のない「愛」や「倫理」だけだとしたら、あまりにも空疎すぎます。
投稿者 POE : 03:39 EM | コメント (1) | トラックバック
Mars 26, 2005
日記巡り
時節柄、卒業や別れについて書いている人が多い日記の数々。最近のブログばやりで色々な卒業を垣間見れて楽しいです。
でも、自分に置きかえると怖い。卒業式とか想像してしまうと怖い。あと二年っていう事実も怖い。二年って、入学時と同じ長さでしょ。二年なんて肌で覚えてるもん。たったそれだけの長さで、終わっちゃうなんてね。
通過点だってはじめから割り切っている人、目標がありここを通過点だと悟っている人には、無用な感傷なんだろうな。
卒業を怖がってるなんて、ここに甘えすぎちゃっている証拠だね。としはとりたくない。
++++++++++++++++++++++++++++
波風もなく
潮は引いてゆく
それをきれいだと
細目で眺める
あなたは微笑む
それを優しいと
細目で眺める
あなたはここを立つ
過ぎてゆくものは
たとえ優しくて綺麗でも
今に負けてしまう
靡いた雲が
隠す日没のせつな
旅立ちまでに
幾ときもない日々に
残せるものはもう
思い出しかない
何気ない日常や
緩慢な明日はもう
ここにはない
僕が「現実」だと呼ぶものを
あなたは「大切な思い出」と切り捨ててゆく
「忘れない」とか「ありがとう」とか
今はもうただの別れの合図
過ぎてゆくものは
たとえ優しくて綺麗でも
今に負けてしまう
そして
未来には勝ち目さえもない
過去しかないここには
勝ち目なんてはじめからない
投稿者 POE : 11:30 EM | コメント (1) | トラックバック
商業画家ということ
ゴッホ展に行ってきた。ゴッホがかなりcrazyな人だと知った。芸術家ってそんな人ばっかなのか?(草間彌生とか。比べる対象が違う気もする)
平日なのに膨大な人。いかに今まで人気のない美術館ばかり回ってきたのか思い知らされれた。
でも思い知らされた大切なことはそんなことじゃない。ミュージアムショップに売っているゴッホグッズに感銘を受ける。
ポストカード、クリアファイル、マウスパッド、ここまでは定番。
Tシャツ、ゴッホマーマレード、微妙だがまあ許せる。
ゴッホドライバー(ドライバー型4色ボールペン、そのケースにゴッホのシールが張ってある)
ゴッホ便利ペン(ケースにゴッホのシールが張ってあるだけ)
ゴッホ絵本(ゴッホの絵に適当な子供用のポエムをつけた本)
ゴッホひまわりの種(ひまわりのタネの袋にゴッホの絵。ただし版権の都合か、「ひまわり」ではなく「種撒く人」)
明らかに、思想の飛躍があるというか、越えてはいけない線を越えたというか、ひらきなおりというか、少なくとも一般に介される「ゴッホグッズ」の枠を打ち破っていて痛快だった。おなかが。
最近ではNANAのように、人気の商業作品はメディアミックス化が免れないが、考えてみればゴッホも同じこと。没後何年経とうが、どんな巨匠であろうが、資本主義の世の中で作品が残されて展示されている以上、仕方ないんだろう。
というわけで、新たなるゴッホグッズを考えてみた。
■あなたもゴッホの絵の中に
あなたの写真をゴッホ風に調整して、あなたをゴッホの絵の中の一員にするサービス。
■ネイルアート・ボディーペイント、キャラ電、着ボイス、ゲーム化、小説化(ダヴィンチコートに対抗、って小説はもうあった)
だめだ、難しいや。
でも、同じ巨匠でもなんでフーコー饅頭とか、レヴィストロースミラーとかデカルトの種がないんだ?人気の問題か。。。でも芸術文化っていう分野でも絵画って大衆的な人気があるのはなんであろう。見るだけだから、簡単なのかな。
投稿者 POE : 12:25 FM | コメント (0) | トラックバック
Mars 24, 2005
大作B級ドリーム
久しぶりに大作B級ドリームを見た。おかげで起きるのが二時間くらい遅れた。映画館に行ったと思えば納得だと言いたいのだけど、何せB級なのでそれほどの満足感はない。いや、C級か?
<紹介とあらすじ>
くにに何らかの理由で消されようとしている主人公のはなし。政府は収監計画、裁判計画を発表。主人公には一日の猶予こそあるが、すでに監視下にあり逃げ出すことは困難な状況。
仲間に助けを求めた主人公の逃走がはじまる。収監前夜のやりとり、仲間と政府の攻防には鬼気迫るものがあると好評を博した。車に情報機器を積みながら、政府から逃げる主人公たち。情報戦とカーチェイスという物理的な攻防が絡み合う。
だが、突然政府側の追跡は停止。そのまま取り残される主人公たち。一体何が起こったのか。原因不明のまま話は展開を変え、第三京浜を舞台にしたひとりカーチェイス(仲間の暴走)に。京浜工業地帯に車が突っ込んだ瞬間、夢は終わる。
<講評>
政府に消されるという点から陳腐だが、その理由となるきっかけの描写が弱いのが致命的といえる。いくら現実離れしていようが荒唐無稽であとうが、臨場感を感じてしまう夢という媒体に甘えてすぎてしまっている。
政府からの逃亡劇となる中盤の展開はテンポが良く好感を持てるが、その勢いが持続しなかったのが残念。途中で意味不明の方向転換は「夢らしい」といえばその通りなのだが、ここでもあまりに説得力に欠ける上に、フォローもない。唐突な幕切れも、視聴者に印象を残しにくく、すぐに忘れられてしまうという従来の夢を出ていない作品といえる。
特別な装置も、膨大な制作時間もなく五感を使ったエンタテイメントを提供できることが夢というメディアの強みなのだから、より説得力と構成力を持った作品の登場を期待する。
投稿者 POE : 11:15 EM | コメント (1) | トラックバック
足跡が滲んでゆく
足跡が滲んでゆく
歴史が変わる訳ではないのに悲しい
雨は明日も続くでしょうと
笑顔のアナウンサーが伝える
まるで前線にそびえる金網を
掴んだ時のよう
変わられない現実と
それを変えられない自分を
恨んでいたあの日のよう
100年前も
100年先も
街は忙しいのに
100年前も
100年先にも
どこにも僕はいない
100億年前も
100億年先も
宇宙は広がるのに
どこにも地球はいない
消える足跡を憂い傷んだこころや
フェンスをにぎりしめ流れた血に
どれほどの意味もないはずなのに
どうして傷跡はうずき続けるのだろう
明日は雨
明後日は晴れ
やがて雨も枯れ
ただそれだけのことなのに
投稿者 POE : 02:22 FM | コメント (1) | トラックバック
Mars 22, 2005
survive
SURVIVE→越えて(SUR)、生きる(VIVE)
たとえ、大切な人がが死んでも
たとえ、大切なものが壊れても。
生き残るということは、そういうこと。
残されるということは、そんなもの。
投稿者 POE : 11:11 EM | コメント (1) | トラックバック
Mars 21, 2005
簡単なこと。
正しい日本語を守ることも、素晴らしい伝統を守ることも、美しい心を守ることもとても簡単。
全部、美術館や博物館に押しこめて、その行使を中止してしまえばいい。
それが出来ないなら、躍起になって守ることが滑稽にしか見えない。だって、守ろうが守らまいが、どうせ完全には壊せないんだもん。
どんなに前衛的なものであっても、過去は引きずらざるを得ない。
おぱっぱっぱらぴりょーん、とかね。
まあ、もうファッションと同じですって言っちゃえばいいのにね。「正しい」とか「間違ってる」って言わずに、「こっちのほうがかっこいい」とか「この夏流行の言いまわし」とかそのレベルで話せばいいのに。
言葉に間違いも正しいも、(それが変わり続けるものである以上)歴史的には有り得ないんだから、あるとしたらそれは社会的な間違いでしかない。
たとえばスカートの下にジャージをはきつつ、上はネグリジェみたいな服装は今の日本社会的にはおそらく「間違っている」。でもそれを絶対的な間違いと切り捨てて禁止することなど誰にも出来ない。
なので、日本語も間違ったや正しいに躍起にならず、猥褻物陳列を冷笑するくらいでいいと思う。所詮、マナーとかその程度の話なんだから。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
またひとつ切り取り線を無視した
悲しみが飛んでゆく
順序に逆らって
君が薄れてゆく
同じ道を
歩くのも
これで最後だと
どんなに余裕を見せて
笑いあっても
本当の最後に
勝ち目はない
見知らぬ朝に臨んでもなお
見知った星を探している
こんな時こそ
うまく笑うべきだと
励ましあう相手もいない
誰も悲しい
誰も辛い
そんなことは今
理由にならない
いまひとつうまく繋がらない
さよならの連鎖
投稿者 POE : 09:53 EM | コメント (0) | トラックバック
Mars 20, 2005
付着物
体に気が付くと、予期していないものが付着していることがある。
刺激臭がするなと思って服を見れば、白いものがどばっとついていて、ビックリしたら歯磨き粉だったとか。
何で歯磨き粉が体につくのか。
多分、歯磨きの仕方が悪い。
基本的に5分くらい、無意識に手を動かしながら、本やテレビを見ながら歯磨きをする。歯磨きに粉をつけるときも、無意識。なので、どこかでこぼれたりしているんだろう。
無意識といえばフロイト。
フロイト流に分析したら歯磨き粉が自然に体に付着してしまうのはどんな意味があるんだろう。
歯のように磨いても磨いても、欧米人のように純白にはなれないという限界を抱えながら、それでも磨かずにはいられないという矛盾した想い。同様の気持ちを体にも抱いている可能性があるのではないか。
ウェルネスセンターでも行って来ようかな。
投稿者 POE : 12:17 FM | コメント (0) | トラックバック
Mars 18, 2005
図書館で
特に見たいという本もなかったので、論壇とか言われる雑誌を何冊か見てた。
多分、発行部数は多くて数万とか十万ぐらいなんだろうけど、あういう雑誌って
誰が見てるんだろう。電車の中でのくたびれたサラリーマンは週刊誌か漫画誌を読んでいる光景しか見かけない。
でもその気持ちが少しわかった。なんか、読んでたら疲れてきた。情緒爆発の文章とか、息の詰まりそうな文章まで。
生まれた時代が80年代という、政治性の残像さえ残されていないときを過ごしてきたぼくにとって、民族とか伝統とかに熱くなられると滅入ってしまう。
いや、考えなくちゃいけないのはわかってるし、考えるべきだと思う上に、非政治性ってのが何の担保もないまやかしってことはわかってるつもりなんだけど、でもカッコ悪い上に笑うのも難しいじゃん、政治的なことって。
++++++++++++++++++++++++++++
主語を被害者にして
わかちあえる悲しみ
共に犯人を憎めば
わかちあえる悲しみ
手軽で優しい悲しみ
silent majority
今はどこを走る
silent majority
それとも立ち止まってしまったのか
silent majority
呼びかけても返事はない
silent majority
声の出し方を忘れてしまったのか
チャンネルを変えても
あの人は泣きつづける
チャンネルを変えた
きみは次の不幸を探す
背中に携えた
いつもの日常を武器に
silent majority
闘うことに疲れたなら
silent majority
思い出してください
silent majority
まだ闘いが始まってすらいない可能性
silent majority
使い分けた顔立ちが変わる瞬間
どこにもないペンで
未成年の顔に落書きをする
弱々しい瞳を
凶悪犯に塗り替えてみる
彼を切り捨てて
それで終わりにしてみますか
そのあとの笑顔まで
保障してくれますか
silent majority
遠い日の幻に
silent majority
憧れつづけていた
silent majority
とっくに切れた線路を
silent majority
誰かと走っていた
あの日解れてしまった糸が
今日も誰かの首を絞める
同じ時代に生きていることまで
いっそ想像ならば
silent majority
きみの名前を知らない
silent majority
きみの想いを知らない
silent majority
それでも尋ねていいですか
silent majority
きみはいますか
silent majority
きみのことばが
silent majority
消えてしまう日まで
silent majority
呼びかける喉が
silent majority
壊れてしまう夜まで
silent majority
いつのまにか
silent majority
壊れてしまう夜までには
投稿者 POE : 11:03 EM | コメント (0) | トラックバック
Mars 17, 2005
鉄の処女というか、拷問
今日は美術館の日。と、朝決めたので行って来た。
まずは明治大学ミュージアム。さすが山の手にあるだけあって、現代的な開口部や窓の多い高層建築のキャンパス。その一角にあります。
明治大学の建物って好きです。あの質実剛健というか古臭いというかバンカラの明治らしい雰囲気が、現代的な建築とうまく調和がとれている気がします。昔を感じさせて不器用そうなのに、実はうまく歩けている漢みたいな。誰ですか、それ。
三田の、そのまま近代建築のデザインを持ってきました的な安易さがなくて気持ちがいいです。
ここのメインはギロチンや鉄の処女の展示。他にも獄門張付の写真や拷問道具をはじめ公事方御定書など刑事関係の資料が展示してある、規模はそれほどでもないのですが好きな人には好きそうなミュージアムです。
地下二階にあるのですが、平日ということもあり他には誰もおらず、静謐ってこんな漢字かなと頭の中でなぞっていました。
だって、右手にはギロチン、左手には鉄の処女、背中には絞首の道具というシュールな状況には静謐という言葉でも当てはめないと、お化け屋敷になってしまいそうで。
なのに、ギロチンも鉄の処女も複製ということがパンフレットを見て判明し、一気にさめてしまいました。
次に向かったのがICC。新宿にあるメディアアートを展示する美術館。
SFCっぽかったです。岡本太郎的なポストモダン時代のアートもよくわかりませんが、ここに展示してあるものは、わかりやすいのによくわからない作品が多かった気がします。
つまり、作品の結果はすごくわかりやすいんです。人の影に応じてラジオを受信する装置だったり、現実とネット上をリンクさせた追跡ゲームだったり。
ただその意図がすごくわかりにくい。「だから何?」って、解説を読んでもよくわからない。
「要するに、この技術を使ってみたかっただけでしょ?」「ただそれがやりたかっただけでしょ?」みたいな作品が多かった気がしました。
まあ、作品に必ずしも作者の意図は必要ない、と脱構築してみせたあとの時代のアートは難しいのかも知れないけれど。。。
強烈だったのは、暗闇の部屋に一人ずつはいり3分間轟音を聞かせられ、その後白色電球が無数に設置されたやけに明るい部屋に通されるという作品。
解説には「トリップできる」とか「音を体感する」とか色々書いてありましたが、要するに拷問でした。
この時代、この国では拷問はすっかり博物館に押し込められただけではなく、横文字の清潔な美術館でのアトラクションで無菌化されるまでになったようです。
安全で無害な拷問。
拷問が安全で無害になることは喜べるけど、そのうち人権や人間性や悲しみとかまで美術館に押し込めらたら嫌だな。なんて、また乙女のような感想。
投稿者 POE : 09:30 EM | コメント (3) | トラックバック
Mars 16, 2005
死亡者
サイレンが響く。
また誰かが死んだのだろう
また誰かが傷付いたのだろう
また誰かが泣くのだろう
また何かが失われるのだろう
新聞には毎日、百人以上の死亡が伝えられる。
世界では毎日、15万人の人が死んでいる。
なのに、死なんて直面でもしない限り、意識もしないし、意識しても実感はわかない。
目撃者は多数。
身を乗り出して行方に興味を隠さない人々。
いつもの駅で、やけにサイレンの数が多かった。
どんなに言葉や気持ちを尽くしても、部外者にはせいぜいそれだけのこと。
投稿者 POE : 02:32 EM | コメント (2) | トラックバック
Mars 15, 2005
315!
なんでもないような一日が終わってはまたはじまって。
焦りはあるんだろうけど、あまりにも現状に甘えすぎてて、何とかなるって信じきっている。
だから、動き出せても走り出せない。
気軽に幸せって言えるし、気軽に笑えるし、気軽に絶望も出来る。
たやすく手に入れたものだから、たやすく失うわけじゃない。
でも、たやすく手に入れたものを、必死で守りきるのは難しい。
自動的に世界が動いていくような気がしているけど、
もちろんそれは世界に参加していないから言える戯言。
時間ですよと告げられるまで、
きっと終わりがきたなんて信じられない。
もうすぐ時間です。
ということは知っています。
でも、信じられない。
信じられないまま
自動的に世界に編入されていくだろうなという
諦めはあるけれど、それも浮世から離れすぎている。
何もかもがありすぎて、
希望さえも残されていて。
未来から来たみたいだ。
戻りたいと願って、過去を生きているみたいだ。
逆算なんて全くしていないのに、
やがて失われていくだろうということだけはわかっていて、
だからすべてが好き。
投稿者 POE : 01:55 FM | コメント (2) | トラックバック
Mars 10, 2005
310!
よるべのない悲しみの澪を
広げた海は色を重ねながら
雲の中へ溶け込んでゆく
帆を下げた船が
地平に飲まれてゆく
今はもう
闘いの日々は
ただのおとぎ話
降り注ぐ光の礫を
掻い潜り
訪れた時代で
君は
またあの光に憧れている
火傷の跡を
隠す服を
破れたままにしておくのは
見破られたいわけでも
哀れみを受けたいわけでもない
ただ忘れて欲しくないだけ
綴られた言葉や
流された涙も
眩しい光線の前には
ぼやけていくばかり
たとえ全てを
認めてしまっても
その先には
情けないほど圧倒的で
当たり前の日常
守る価値は
毀損されたまま風化の一途
壊れてしまったら
たやすくは直せないのに
空の色は幾百
残された名前は幾億
まぶたを焦がすほどの
明日はなくても
届かなかった手紙に
出来ることはただ
それを馳せることだけ
波の手に飲まれた
いくつもの意味は
崩れるだけの
価値しかなかったわけじゃない
投稿者 POE : 07:05 EM | コメント (1) | トラックバック
Mars 06, 2005
想像力とマンガ
いまだにそんな人がいるかどうかはわかりませんが、一時期「マンガは想像力がなくなるからだめだ。活字を読め」みたいに言っている人がいた気がします。
でもぼくは小説を読むときよりもマンガを読むときに、想像力を必要とします。
小説を読むときに使う想像力は基本的に、活字を絵やイメージにすることに使ってしまい、その他のことを考える余裕があまりないんです。
しかも、小説って基本的には長編と呼ばれるものでも500ページくらいで完結しているものが主流で、一気に読んで「はい。終わり」となってしまう。
一方でマンガ。絵はもう描いてあるので絵を想像する必要はないのだけど、逆に頭に余裕があるぶんだけ、ほかの事を考えざるをえなくなってしまいます。この人は何を思っているの?え?なんで?マンガには多少のモノローグはあるものの、文字量や文字による心理描写は圧倒的に少ない。やはりそこでは想像力が必要になってきます。
さらに、マンガはなかなか終わらない。全20巻って一体?連載期間20年ってつまり?というわけで、もう想像するしかないわけです、この状況。
まあ、今はマンガの活字も読まない人も多いみたいで、「マンガくらい読みなさい」って時代になりつつあるんだろうけど。ことばはいつまでその力を持てるのかな。まあ、簡易さと速度の問題で、テレパシーでも出てこないまでは、大丈夫だと思うけど。
投稿者 POE : 11:32 EM | コメント (2) | トラックバック
日記です。
ここは映画館の出口。純愛映画を見終わった二人。
「チョー感動したー」
「ね。まじで感動したね。」
と言ってそれだけの感想でわかりあってしまう二人。
こんな光景を見たらルソーは、「おお、21世紀の日本には一般意志が体現されているのか!」と感動するのでしょうか。いや、そんなことはどうでもいい。
そんなことを帰りの京王線で考えていました。南大沢は素敵なまちでした。駅を出てから都立大までの道は、にせものみたいに素敵で、人は映画みたいに幸せそうでした。
こんな場所なら日本にも住んでみてもいいかなと思いました。いや、ここも日本でしたね。そういえば。でも、にせものの街ならにせものも許容されそうで、というかにせもののくせに本物であることを強要されるようなばからしさがなくさそうで、ますます南大沢への想いは募るばかりです。一目ぼれです。まさか。
今日はともだちの劇を見に行ってきました。前衛的なものが出てきてもいいように、待ち時間に不条理小説を読んで身構えていたのですが、劇は安心できるというか、堅実なものでした。好きです。欠如を不条理で誤魔化してしまうような作品よりずっと好きです。
いつも劇って、舞台の上が眩しすぎて、とてつもない距離感をわずか数メートルの客席から舞台のあいだに感じてしまうのですが、今日の劇は不思議とその断絶を感じませんでした。こんなぼくでも置いてきぼりをくいませんでした。わお。
ただ、設定をいかしきれていないなー、と途中からハラハラ。もしかして、この設定をいかさず終わっちゃうのか。もう少しで、感動度は結構上がるのに。でも卒業講演じゃやっぱり後味悪い話はなしか。とか。
まあ、そんなことはいいですね。
問題はルソーとか一般意志じゃなくて、南大沢です。
投稿者 POE : 12:50 FM | コメント (2) | トラックバック
Mars 04, 2005
信
コンビニのおでんは食べられて、何で再犯者にそんなに怯えているんですか。
保存料・添加料を使用しないお弁当を消費期限後に「大丈夫だよー」と食べられて、何で未明の襲撃にそんなに怯えているんですか。
変わらないものを牛丼にたとえて、
それが崩れるたびに
騒ぎ出すんですか。
信じることは難しいですか。
なぜ信じないで迎合してしまうのですか。
隣の席の誰かは敵でしかありませんか。
画面の向こうのヒガイシャはあなたですか。
画面の向こうのキョーアクハンはあなたではありえませんか。
すれちがう誰かは誰かでしかありませんか。
あなたの知らないあなたはあなたではありませんか。
「間違い」の反対は全て「正しい」ですか。
そうして割り切れるなら、何が怖いんですか。
投稿者 POE : 01:44 EM | コメント (2) | トラックバック
Mars 03, 2005
にき
暇過ぎて(やることはあるけれど、本質的に暇)、ちょっと日記でも書こうと思い、キーボードを打っています。
日記って何で書くんだろうな。蜻蛉みたいに、1000年後にでも読まれて「これは嫉妬や儚さへの嘆きについて書かれたものです」とか解説されるならともかく、こんな電子の海(古い比喩...)のなかでのプランクトンみたいな(陳腐な比喩...)数バイトの文字が、1,000年も生き残るわけないのに。
蜻蛉で思い出したのだけど、古文って訳しかたを工夫したり、翻案すれば絶対もっと面白くなると思うんだけどな。昼ドラくらいには。しかも、1000年っていう歴史の重みまでついてるから、soap operaなのに知的に見えてしまうという、プチ勉強ブームの昨今に便乗できないでしょうか。
というわけで本日ご紹介する商品はこちら、伝説の作品、蜻蛉日記を原作に忠実に再現しながら現代に蘇らせた「KAGERO」です。愛人のもとに通う夫に対する嫉妬を実際の夫婦を使って再現。喧嘩のシーンには本場韓国のワイヤーアクションを使用。息子への母性愛の目覚めの瞬間のCGを多用した画面効果には賛否両論の声が噴出!
DVD版にはメイキング映像だけではなく、ジェンダー学の専門家や歴史学者、ドラマ監督の座談会を収録。途中退席のあと、まさかのどんでんがえしが。。。。。
....って日記じゃないじゃん。
投稿者 POE : 09:57 EM | コメント (0) | トラックバック
Mars 02, 2005
消極ということ
まわりの色々な人と比べて思うのは、自分の消極的な姿勢。来るものは拒まないようにしているけど、自分からどこかへ乗り出すなんてまずない。
たとえて言うなら携帯電話を耳に当てながら誰かからメールや電話があるのをずっと待っているかんじ。もしくは電話帳を眺めながら、いつか連絡のあることもありうる人の顔を想像しているような(あくまでもたとえです)。
そして去るものを追うことも出来ない。
離れていってしまうことを、引き止めるなんて無理。離れてしまうことや終わってしまうことは悲しいけれど、そのもの(生物・非生物問わず)がここに留まる価値を見出せなくなって見切りをつけてここを立ってしまう以上、そこには引き止める言葉なんて有り得ない。
あきらめた人にあきらめるなと言える資格があるのは、その人にもう一度希望を与えられる人だけ。容易く軽々しくオチのない言葉なんて発せられるほど強くも弱くもない。
これでいいやって自己完結したらそれまでの話なのだけど、一応まだ若いので自己完結の一歩手前で留まっていたいです。
たとえて言うならば、窓の近くで携帯電話を耳にあて続けたり、別れ際にぼそっ明日の天気を呟いてみたり。
余計だめですね。