2006年9月アーカイブ
水曜日に一泊二日で北京まで行く。記憶違いでなければ北京は5年ぶりだ。2001年に行ったきりのような気がする。ネット関係の聞き取り調査で、Hさんにお世話になりっぱなしだった。ありがとうございます。
回れたところは当然少ないけれど、人民日報のウェブ版である人民網や政府とパイプを持つコンサルティング会社などで良い話を聞くことができて、大きな収穫があった。一枚目の写真は、人民網でライブチャットをするときのスタジオ。ちょうど終わったところだったが、こんな風に輪になりながら、オンラインで議論しているらしい。
本当はいつもお話しをうかがう星流さんにも行きたかったのだが、時間がなくて断念。平壌ウォッチャーの方との朝食も実におもしろかった。
夜は、Hさんの友人であるYさんの会社の大宴会に参加させてもらった。なんと西太后の避暑地だった頤和園である。ネット系ベンチャー企業なのだが、中国、アメリカ、日本、ドイツ、カナダに拠点を持つ勢いのいい会社だ。舞台では音楽や踊りを見せてくれているが、宴会自体が賑やかなので実に楽しい。英語、中国語、日本語が飛び交う。
しかし、疲労と寝不足と北京の砂埃にやられて、帰国してから一日ダウンしてしまった。おかげで出なくてはいけない研究会に出られず、何のために弾丸ツアーにしたのかよく分からなくなってしまった。
大学の夏休みは長くていいですねといわれるが、そんなことはない。単に授業がないというだけだ。確かに自由裁量の余地が大きいが、こういう時にしかできない仕事も山ほどある。そうした仕事が終わらないうちに授業開始が迫ってくるのは恐怖に近い。世の中は連休なのだろうが、休んでいる余裕はない。
Niall Feruguson, "Empires with Expiration Dates," Foreign Policy, Semptember/October 2006, pp. 46-52.
昔の帝国は長命だったが、20世紀以降の帝国は短命だそうだ。15世紀に始まったオスマン帝国は469年、ハプスブルグ帝国は392年、大英帝国は336年。しかし、継続中の米国は106年、同じく継続中の中国は57年、ソ連は69年、大日本帝国は49年、ナチスは6年。帝国の定義が広いのだと思うけど、おもしろい数字だ。
帝国としての米国も短命になりそうだと示唆している。国内的な制約があるからだ。第一に兵士の赤字、第二に財政の赤字、第三に注目の赤字である。米国は兵士もお金も失いたくない。国民が戦争を支持してくれる期間も短いというわけだ。
フランシス・フクヤマ『人間の終わり—バイオテクノロジーはなぜ危険か—』ダイヤモンド社、2002年。
金曜日から一泊で慶應の鶴岡タウンキャンパスへ行ってくる。慶應のバイオ研究の拠点だ。一度行ってみたかったのだが、バイオのことはあまり分からないので、この本を読む。
フクヤマは、冷戦が終わりかけた1989年に「歴史の終わり?」と題する論文を書いて大騒ぎを起こした。リベラルな民主主義が勝利し、体制間論争が終わったという点で歴史が終わったと指摘したのだ。これはたくさんの議論を呼び起こした。
この拙稿に対する多くの批評を通じて考えさせられたが、唯一反論できないと思ったのは、科学の終わりがない限り、歴史も終わるはずがない、ということだった。(iページ)
というわけで書かれたのがこの本である。冷戦後の世界をポスト冷戦というが、フクヤマは、バイオが社会に浸透することによって、人間の時代が終わり、ポストヒューマンの世界が来るという。
本書の目的は、[『素晴らしき新世界』を書いた]ハックスリーが正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、我々が歴史上「人間後」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(9ページ)
バイオテクノロジーは、将来大きな利益をもたらす可能性がある反面で、物理的に見えやすい脅威、あるいは精神的で見えにくい脅威を伴う。これに対して、我々はどうすべきなのか。答えは明白である——国家の権力を用いて、それを規制するべきだ。(13ページ)
飛行機でこれを読みながら、どんな恐ろしいことが起きているのかと思って、庄内空港に到着。
朝一番早いフライトにしたので、午前中は世界で一番クラゲの種類を集めているという加茂水族館へ。規模はそれほど大きくないが、クラゲだけは多い。クラゲには脳も心臓も血液もない。生物だから遺伝子は持っているが、意識はないわけだ。水槽の中で傘を閉じたり開いたりしながら浮遊している。ヒトも生物だが、クラゲも生物だ。クラゲアイス(刻んだクラゲが入っている)を食べながら、あらためて生物とは何かを考えるが、当然結論は出ない。バスに揺られて鶴岡へ(しかし、この水族館は、車がないとアクセスが悪い。バス停は遠くて、数が少ないので要注意。山形は車社会だ)。
鶴岡キャンパスのの施設はいくつかに分かれていて(行くまで知らなかった)、大きく分けるとキャンパスセンターとバイオラボ棟に分かれている(ここを参照)。両者は2キロぐらい離れていて、前者は市内中心部のお堀端、後者は田んぼの中。
バイオラボで施設見学をしたり、院生や教員の話を聞いたりする。ここでの研究の中心はメタボロームである。生物の細胞の中は、genome<transcriptome<protenome<metabolomeというようにレベル分けがされる。それぞれの細胞には600〜4万ぐらいの代謝物質というのがあり、メタボローム研究というのは、この代謝物質が何なのか、これがどんな病気と関係しているのか、というのを研究するものらしい。鶴岡にある先端生命科学研究所は、この分野で世界のトップだという。
メタボロームという言葉自体は新しくはないそうだが、最近ではメタボリック・シンドロームという言葉がバブル気味に使われている(ウエスト・サイズが問題だという話だ)。メタボロームの研究を始めたときは、センスが悪いといわれたそうだが、新しい電気泳動の装置を開発することによってブレークスルーが起きた(数年前アメリカで聞いたとき[この文章の後半のフォーマットが崩れているなあ]にはゲル電気泳動と言っていたが、それより進化しているらしい)。
話を聞きながら、『人間の終わり』とは違って、実にドライで、ビジネス・オリエンティッド(特許や創薬の話が絡むので)だと思った。フクヤマのような悲観論ではなく、科学が病気を治すことができるという信念に基づく楽観論である。ヒトはこのままどんどん変わっていくのだろうか。
それにしても、研究環境としては鶴岡キャンパスはすばらしい。ご飯はうまいし、四季折々を楽しめる。車社会だから若干渋滞はあるみたいだが、通勤地獄はない。SFCへの交通アクセスと比較すると何ともうらやましい。
藤本ますみ『知的生産者たちの現場』講談社文庫、1987年。
古本屋でたまたま見つける。筆者は京都大学時代の梅棹忠夫先生の秘書。秘書に雇われた経緯から、国立民族学博物館の開設に伴う京大研究室閉鎖までの時代について書いてある。
低血圧であること、先生がお酒好きなこと、それをだしにしているかどうかは知らないけれど、原稿がなかなかできあがらず、いつも締め切りにおくれること、それで編集のかたがご苦労なさること、どれもみなほんとうのことである。(97ページ)
『知的生産の技術』の番外編みたいで興味深い。梅棹先生が実は遅筆だったと知って驚く。一週間も編集者が見張っていたのに原稿が書けなかったエピソードも紹介されている。あんなにおもしろい著作がたくさんあるのに不思議な感じだ。
それにしても、アイデア・ハックの先駆者だなあ。
読売新聞中国取材団『膨張中国—新ナショナリズムと歪んだ成長—』中公新書、2006年。
中国側は靖国問題にひときわ神経をとがらし、[二〇〇五年]八月十五日を見据えていた。なぜ、こうまで靖国神社にこだわり続けていたのか。
七月末、南部の広東省で会った党内事情に詳しい関係者が、ようやく答えを与えてくれた。彼は声をひそめながら、「カギは四月の反日デモだ。実は、あの時、政権は追い詰められていた」と口を開いた。
新聞連載時から時々読んでいた。まとめて読み直すとやはりおもしろい。迫力がある。
ジェームズ・スロウィッキー(小高尚子訳)『「みんなの意見」は案外正しい』角川書店、2006年。
富士通総研の吉田倫子さんに原書の時から薦めてもらっていたが、翻訳が出るまでほったらかしにしていて、ようやく読んだ。おもしろかった。原書のタイトル『The Wisdom of Crowds』は、チャールズ・マッケイの『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(狂気とバブル)』のオマージュなんだそうだ。
正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。一度も誤った判断を下すことがない人などいないのだから、これは嬉しい知らせだ。(9〜10ページ)
確かにうれしい知らせだ。
一〇〇年の間にはどんなに賢い人でもおバカな発言をすることがあるので、彼らの見当違いの予測を珍しい例外と見做すこともできる。だが、専門家たちの悲惨な業績の記録はとても例外的とは思えない。(51ページ)
これはうれしくはないが、たぶんその通りだ。専門家(研究者)は、常識とは違う説明を追い求めている。常識通りの研究の価値は低いからだ。今までと違うからこそ研究の意義がある。
マスコミにコメントを求められるときも、「なるほど」と人をうならせるコメントを求められる。しかし、真実は常識的なところにあることが多い。人が知らないことならいざ知らず、奇想天外な仮説はやはり外れることが多い。だからこそ研究は難しい。
わがSFCの卒業生はすでに1万人ぐらいになるらしい。そのほぼ全員が驚き、失望したのが、あの「香り」であろう。雨が降った後などにキャンパス中に漂う強烈な「香り」である。おしゃれなシティ・キャンパスでないことは分かっていても、あの香りと慶應のイメージとは明らかにかけ離れており、新入生をがっかりさせてしまう。
その原因についてはすでにSFC CLIPが詳細なレポートを出している。この辺から香りが飛んでくる。
誰もが忌み嫌うこの香りなのだが、一度この豚肉を味わうと許せるようになるという噂がある。
藤沢市遠藤近辺ではSFCができる前から畜産が行われていたとのことで、頑張っているのがみやじ豚.comである。SFCの卒業生の宮治さんがやっている。しかし、ここの豚肉はなかなか手に入りにくいらしい。
そのみやじ豚をなんとlunch_lunchさんが苦労してなんとか入手し、バーベキューに持ってきてくれた。この写真ではそのおいしさは伝わらないと思うけど、やはり許してしまおうかなという気になった。mshoujiさんやktagumaさん他、皆さんもありがとう。