2006年12月アーカイブ
たまった新聞を読んでいたら、12月20日の日経夕刊で梅田望夫さんが、小澤征爾、広中平祐、プロデューサー萩元晴彦『やわらかな心をもつ—ぼくたちふたりの運・鈍・根—』(新潮文庫)を紹介していた。梅田さんが海外で生活して早起きして勉強するきっかけになったという本だ。
近所の本屋に行ったら、小澤征爾『ボクの音楽武者修行』(新潮文庫)も隣にあったのでついでに買ってきた。『やわらかな心をもつ』を読み始めたら、最初のところに『ボクの音楽武者修行』の紹介が出てきたので、『ボクの音楽武者修行』を先に読み始める。
小澤征爾さんの音楽は数年前にベルリンで聞く機会があったきりで、大した予備知識はないのだけど、その成功物語に驚く。最初にヨーロッパに行ったときは、スクーターとともに貨物船に乗って、60日かけて船旅をし、フランスをスクーターで旅してパリにたどり着いた。しばらく語学などを勉強して、ブザンソンというところで開かれた指揮者のコンクールで優勝してしまう。
それからヨーロッパとアメリカで修行が続き、日本に凱旋するところまでの話が、当時の手紙とともに語られている。日本にいたときには決して恵まれた環境ではなかったようだけど、留学して言葉の壁をあっさり乗り越えて成功してしまっている。音楽というユニバーサルなものだからこそできるのかもしれないけど(しかし、そうはいってもクラシック音楽はヨーロッパ色が強いはずだ)、見事なものだ。
『やわらかな心をもつ』は、数学者の広中平祐との対談。二人の全く違うタイプの天才が語り合っている。私も大学院生の時、副題にもなっている「うん・どん・こん」という言葉については聞かされた。学者になろうという人には大事な言葉だと思う。この本が語源なのかと思ったら、そうでもないようだ。
数学の世界は、割と正解がはっきりした問題ばかりをやっているのかと思っていた。しかし、先日、昼飯を食いながら同僚の数学者と話していたら(数学者と気軽に話せるのがSFCのすばらしいところだ)、数学の世界でも社会と同じようにどんどん新しい問題が生まれてきていて、それに対するアプローチは一つではないという。広中さんの話を読んでいてもやはりそうなのだと確認する。
二人はどうやら天才のタイプが違う。小澤さんは集中力がずば抜けているらしい。朝3時か4時に起きて一気に譜面の勉強をする。その分、演奏会の後は音楽のことはけろっと忘れてお酒を飲んで寝てしまう。広中さんは考え続けることができるらしい。数学の問題は解くのに数年かかることもある。努力し続けることができる(あるいは努力を努力と思わない)のが天才の条件なのだろう。小澤さんは若いうちに嫉妬心を殺すことを覚え、広中さんは元来「鈍い」のだそうだ。この辺も実は重要な点だろうなあという気がする。他人と自分を比べていたらきりがない。
音楽家、学者、そして教育者としての話、それにアメリカ生活の話もとてもおもしろい。音楽や数学を専門としていなくても楽しく読める本だ。
天才にはほど遠い私も一時期はずっと早起きをしていたのだけど、最近は諸般の事情があって諦めて、普通の時間に寝て普通の時間に起きている。相変わらず夜のつきあいはあまりしないので体調は少し良くなった気がする。しかし、問題は生産性が上がっているか、下がっているかだ。もう少し見定める時間が必要だ。
大学教員にはあまりきっちりとした「休み」の制度がない。裁量労働といえばそうだし、過少労働の人も過剰労働の人もいる。私は要領が悪いのでダラダラと仕事をして過剰労働気味である(無論、パフォーマンスがどうかは別の話)。
しかし、外でしなければいけない仕事は昨日で終わり。某所の勉強会で急場しのぎの発表をして、懇親会で楽しいお酒を飲んできた。大学の事務室も今日で終わりなので、一応の仕事納めだ。無論、休みに入っても原稿を書いたり、卒論、修論、博論を読まなくてはいけないからほとんど休みにはならない。外で拘束される時間がなくなるというだけだ。
ポロポロと外国からクリスマス・カードが届くのだけど、12月の忙しい時期によく書けるなと思う。日本は年末がやたらと忙しいけど、たぶん、アメリカではそれが少し早く来て、感謝祭あけからは休みめがけて猛烈モードに入るんだろうな。私は相変わらず年賀状を書いていない。こちらからあまり出さないから届く年賀状は減り続けている気がするが、初めて会った人から来てしまうので無くなるわけでもない。来年は仕事始めが実質的に9日(火)だから、大学に届いている年賀状を見て、申し訳ない思いをするような気がする。
私は忙しくなると新聞を読まなくなる。今日になって読もうと思ったら12月10日からたまっていた。毎日メールやウェブは見ているから、大事件を知らないということはもちろんない。しかし、やはり見落としている記事にへえっと思ったり、あの人が言っていたのはこの話かと思うこともある。つまり、インターネットも従来のマスコミもそれなりに居場所があるはず。
今年は通信と放送の融合がずいぶんと議論になったが、あんまり「融合」は進まないのではないかなあと思う。せいぜい「混合」ぐらいじゃないだろうか。この話は12月15日のコンテンツ政策研究会でも話したが、賛否両論あった。来年のバズワードは何なのだろう。
二泊四日で英国に出張。 帰国便は夜だったので、午前中の用事を済ませた後、午後はチャーチル博物館を見に行く。ブレア首相のいるダウニング街10番地のすぐ裏手にあって、非常にこぢんまりとした入り口だ。実はここは第二世界大戦中の内閣が置かれていたところで、この入り口から先が複雑な地下施設になっている。閣議が開かれた部屋や、チャーチルの書斎、寝室、キッチン、スタッフの寝室、通信室、作戦室などがあって展示されている。その戦時内閣室(War Cabinet Rooms)の奥にチャーチルの博物館がある。
ところで、第二次世界大戦中の日本の暗号が解読されていた話はよく知られている。しかし、なぜ日本はそれほど情報を軽視したのか、その理由がよく分からない。
谷光太郎『情報敗戦』(ピアソン・エデュケーション、1999年)を読むと、日本の参謀本部はドイツを手本にしていたからだという説明がある。プロイセンの伝統を受け継ぐドイツでは情報参謀よりも作戦参謀のほうが幅をきかせていたのに対し、フランスや米国では両者が対等な関係にあった。日本はドイツをまねしてしまったために、情報よりも雄弁を好む作戦参謀の暴走を許したということらしい。
そこで、渡部昇一『ドイツ参謀本部』(中公文庫、1986年)を読んでみる。しかし、ドイツの参謀のヘルムート・モルトケが電信を重視するなど情報を重視したことは書いてあるが、情報参謀と作戦参謀の力関係については何も書かれていない。
飛行機の中で、大江志乃夫『日本の参謀本部』(中公新書、1985年)を読む。これによると、モルトケの推薦を受けたお雇い外国人のクレメンス・メッケルを通じて、確かに日本はドイツの影響を受けていたことが分かる。もっと興味深いのは、明治の元老・山県有朋が情報政治家、謀略家であり、山県の影響が陸軍に強く残り、「日露戦争を契機として情報活動とは謀略活動であると考える伝統が成立した」ということである。こうなってしまうと、まっとうな精神の持ち主が情報を忌避したくなるのが分かる。
しかし、チャーチルは、「すばらしいこととは、それが何であれ、真実の姿を得ることだ」といっている。ここが違いだろう。
ボリス・グロイスバーグ、アシシェ・ナンダ、ニティン・ノーリア「スター・プレーヤーの中途採用は危険である」『DIAMOND ハーバード・ビジネス・レビュー』2004年10月号、135〜148ページ。
二年前の記事だが、たまたま読んでおもしろかった。金融アナリスト1052人の調査の結果、スター・プレーヤーが引き抜きにあって移籍すると、たいていはパフォーマンスが落ちてしまうという。
スター・プレーヤーは、個人の能力の要素も大きいものの、組織やチームワークによってもそのパフォーマンスは大きな影響を受けている。元の実力が移籍先で簡単に出せるわけではない。高額の報酬で入ってくるスター・プレーヤーを元からいる人たちがよく思わないことも多い。組織になじむのに二、三年かかるし、一度移籍した人はまた移籍しやすくなるともいう。
プロ野球を見ていてもそうだし、大学でも当てはまる気がする。
筆者たちの結論は、忠誠心の高い生え抜きのスター・プレーヤーを育てるべきだというもの。
組織は人事。難しい(私は人事に一切関わっていない。念のため)。