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1.話題の表層−イデオロギーとしてのマドンナ
ロナルド・スコットは、論文「黒人文化への正統的なアプローチ『ライク・ア・プレイヤー』」のなかで、このビデオがいかに黒人文化を正当に理解しているか、とくに黒人教会を核にした人種と宗教のイメージにかんして、既存のステレオタイプの解釈を排除して、黒人文化の現実を素直に表現(価値的には賛美!)しようとした優れた作品である、と高く評価している。(注1)
(注1)「黒人文化への正統的アプローチ『ライク・ア・プレイヤー』
マドンナと人種観念と宗教イメージ」Ronald B.Scott
『マドンナ・コネクションー誘惑・倒錯・破壊・イメージ操作』
edited by Cathy Schwichtenberg
このようなメッセージ性について、確かにそのような特徴をみることは可能であろう。マドンナを除けば、「黒人=善玉」と「白人=悪玉」という常識を逆転させた役割設定がなされており、それを素直に解釈すれば、このビデオが黒人文化を支持していることは自明である。また宗教イメージについても、黒人教会がもつ機能が多様に語られており、常識としてある「コーラスやダンスだけで、神を冒涜している教会」というイメージを払拭するものになっていることも事実である。黒人社会に今でも残る「世俗(政治・社会的機能)と宗教の融合」がメッセージとして伝わり、黒人教会が白人社会における教会とは異なった多様な社会機能をもった組織であることが表現されている、ということは確かである。
したがって導かれる結論はこうである。マドンナは、白人であるのにもかかわらず、通常の白人が抱く黒人とその社会への偏見にみちてしかもステレオタイプ化された価値言明(「黒人は悪役である」と「黒人教会は神を冒涜する」)にたいして、それを真正面から否定するメッセージを伝えている。このような意味において、しかもスーパースターのマドンナ自身がもつ社会文化的な影響力を考慮すれば、マドンナがこのビデオのなかで伝えようとした社会文化的なイデオロギーとしての意義は大きいし、白人文化の常識に挑戦したマドンナを支持することは強く正当なことだ、ということになる。その通りであろう。
しかしそれはあまりにも平凡な解釈である。ビデオのメッセージのなかのイデオロギー性をまじめに解釈しても、それは表面的な解釈にすぎず、立場の違い(マドンナにたいする好き/嫌いあるいはフェミニスト/反フェミニストなど)によって、そのイデオロギー性の解釈は多様になる。事実、スコットの論文が、もう一つの平凡なアンチ・マドンナの立場からの解釈(神を冒涜するセクシーすぎるマドンナ、という常識的な論文:ラモナ・カリー)に対抗する解釈にすぎないことからして、イデオロギー解釈の限界は理解されよう。
図1に示すように、スコットとカリーの解釈の違いは、単にイデオロギー上の立場の違いだけで、その基本となる解釈のフレームはまったく同型である。違いは、「黒人とキスするマドンナ(白人)」を、既存のタブーを超越しようとするトリックスターとみる(スコット)か、それともタブーのなかで戯れるだけの淫らなスティグマ(カリー)とみるか、という程度の相違にすぎない。「白人/黒人」と「善玉/悪玉」という2軸と、スーパースターとしてのマドンナの役割設定(トリックスター/スティグマ)というフレームにかんしては、まったく同じ構造になっている。この同一のフレームのなかでの論争にすぎないという意味では、その解釈の違いは些末なことでしかないといえよう。
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