反転する快感
"Like A Prayer"にみる“うそのような”解釈
 
序論
1. 話題の表層−イデオロギーとしてのマドンナ
2. 「Like(〜のように)」に意図された戦略
3. シーンのシンボリック・アナリシス
4. 映像のシークエンス:構造とプロセス
5. 歌詞のオーバーラップ:6重奏
6. メディアの嘘、だからリアリティ
7. 最後の快感?
6.メディアの嘘、だからリアリティ

こうして、「ライク・ア・プレイヤー」の映像と歌詞をめぐるコンテンツ解釈は、「両義性」と「反転性」のコンセプトをもとで、マドンナのイデオロギー解釈を超える地平を開いてきた。マドンナの「ライク」の戦略は、多様なイデオロギー解釈を呼び込み、多くの話題を提供して、いかにもマドンナというイメージをばらまきながら、その答えをすべて見る方にゆだねて、「どんな解釈をしても、お好きなように」と突っぱねることであった。それがこのビデオの成功の秘密である。

しかしこの戦略は、まだ終わってはいなかった。コンテンツは、お芝居装置を暴露することで終わるが、その背後にはもう一つの仕掛けが隠されていた。それは、MTVで放映されるビデオ・クリップというメディアそのものの嘘である。マドンナがポーズをとってきたリアリティとイメージをめぐる虚実の両義性と反転性は、最後にメディアの嘘によって再び新しいプロセスを導入する。つまりミュージックビデオ自体が、その内容に関係なく、虚構性そのもののメディアなのである。しかしそれは、たとえば湾岸戦争をリアルタイムで撮った映像のリアリティがもたらす嘘という視点とは対照的に、「ミュージックビデオの虚構性自体がリアリティとして支持される」という反転性をもたらすのである。だからこそ、メディアの真実らしさを装うことからの嘘ではなく、逆に嘘そのものであることから逆にリアリティがみえるという仕掛けがミュージックビデオにはある。ここに、メディアの嘘の反転性がかくされているのだ。

ここでも、メディアの表現は嘘でもあるし、リアリティでもある、と両義的な解釈が許容される仕組みになっている。

ビデオクリップというメディアそのものがもつ特徴が、このようなものであるとき、これは、コンテンツの特徴とまったく同様のものであることで、コンテンツ解釈と強く共振する関係をみせる。だから、マドンナはMTVの申し子なのである。マドンナがこのメディアからスーパースターになっていったという成功物語は、マドンナのビデオのコンテンツがもつ解釈の両義性と反転性の特徴がMTVというメディアの形式の特徴と同一であることと深く関連している。しかもマドンナがマイノリティを支持するメッセージをマジョリティに向かっては挑発的に伝達するほど、それはメディアのマイノリティ性(CATVやMTV)とも共振して、虚構性とリアリティ感覚の反転性と絡まって、大きなうねりを呼ぶのだ。それが、マドンナをスーパースターへと浮上させるメディアとメッセージの見事な融合なのである。マドンナはビデオクリップで歌うからこそ、マドンナはどこまでもセクシーであり同時にピュアな存在たりえるのだ。このビデオクリップの枠を超えて映画で冒険するとき、歌わないマドンナはいつも失敗する。それは自明のことだ。それは、メディアにもメッセージにも「ライク」がないからである。