反転する快感
"Like A Prayer"にみる“うそのような”解釈
 
序論
1. 話題の表層−イデオロギーとしてのマドンナ
2. 「Like(〜のように)」に意図された戦略
3. シーンのシンボリック・アナリシス
4. 映像のシークエンス:構造とプロセス
5. 歌詞のオーバーラップ:6重奏
6. メディアの嘘、だからリアリティ
7. 最後の快感?
7.最後の快感?

1994年11月、マドンナは新しい戦略を開始した。その以前までの挑発的な性的なポーズを止めて、一転してイノセントな自分を演出し始めた。裸体のすべてを「SEX」でみせたからこそ、マドンナは新しい挑戦をする正当性を付与され、もう一方の方向を見せ始めたのだ。マドンナには、他の多くのスターのように「裸でおしまい」ということがない。彼女には、裸になったからこそ、次の一手をそれに対抗するほどの大きな手を打てる資格がある。そのために、マドンナは両義性と反転性の戦略を今まで駆使してきたのだ。マドンナだからこそ、イノセンスは裸体をすべてさらすことの対照性として獲得されたのだ。

しかしこの新しい戦略(もう裸にはならない)が、マドンナの大きな賭であることも確かだ。マドンナの最大の武器であるセクシャリティを放棄すれば、いままでの両義性と反転性を駆使した戦略がうまく作動しない危険性があることは確かだ。同時にマドンナの年齢を考慮すれば、セクシャリティが有効でなくなりつつあることも自明であろう。「SEX」が最後のチャンスだったことも理解できるところである。とすれば、ピュアなマドンナと対抗する新しいイメージをいかに創造するかが問題である。しかもそれは、いままでのマドンナの戦略の基本フレームである「両義性と反転性」を継承するものでなければならない。それは可能なのだろうか?