反転する快感
"Like A Prayer"にみる“うそのような”解釈
 
序論
1. 話題の表層−イデオロギーとしてのマドンナ
2. 「Like(〜のように)」に意図された戦略
3. シーンのシンボリック・アナリシス
4. 映像のシークエンス:構造とプロセス
5. 歌詞のオーバーラップ:6重奏
6. メディアの嘘、だからリアリティ
7. 最後の快感?
2.「Like(〜のように)」に意図された戦略

問題は、メッセージの背後にあるフレームである。マドンナのイデオロギーをめぐる多様な解釈をすべて取り込むようなフレームを設定することがマドンナの戦略である。トリックスターもスティグマもともに解釈可能にするフレームが重要である。その意図からすれば、上記のような対照的な2つの解釈が生 まれたことは「すでに予定されたこと」であり、だからこそマドンナのスーパースターらしさがここでも十分に発揮されたことになるのだ。

すべては意図された戦略である。

マドンナ解釈のメタフレームは、「Like(〜のように)」にある。かつての「ライク・ア・ヴァージン」にしろ、今回の「ライク・ア・プレイヤー」にしろ、そこでのメッセージ以前に、「ライク(〜のように)」という形式がどのような意味を誘発する装置になっているか、を解釈することが必要である。

「ライクX」とはアナロジーの形式であるから、それは『「Xではない」のだけれども、しかし「Xである」といわざるをえない』という表現形式である。しかしこの形式には、同時に『「Xではある」のだけれども、やはり「Xではない」ことも確かである』という表現も存在している。だからこそ、この形式は「Xと非X」をめぐる選択の形式ではなく、両立させながら同時に「Xと非Xの間を自由に移動する」ダイナミックな形式なのである。したがって「ライク・ア・プレイヤー」というマドンナのこの曲は「祈りではないけれども、しかし強く祈りであるといわざるをえない」曲であり、しかし「祈りではあるけれども、やはり祈りではない」曲なのだ、いう解釈になる。ここでは祈り(X)/祈りではない(非X)という行為をめぐって、『両義性』(Xと非Xの両立可能性)と『反転性』(Xと非Xとの間の自由な移動)のルールが設定され、そのルールにもとずいた解釈がいかようにでも許容される、ということが多様な意味を生成する装置になっているのである。あたかも図と地が瞬時に反転するかくし絵やだまし絵のように、自在にいかようにでも見える構造がここでいう「ライク」なのである。(図2)


とすれば、黒人は「善玉であり、悪玉でもある」という言明は可能であり、同様に白人は「善玉でもあり、悪玉でもある」という言明も可能であり、同様にマドンナは「トリックスターであり、スティグマでもある」ということにもなる。ということは、どちらの言明が正しいか、というイデオロギー上の選択が問題なのではなく、そのような多様な言明が幾層にもかさなり共振しながら、さらなる意味を増幅するという生成プロセスが重要なのである。

とすると、どのような「ライク」がこのビデオクリップのなかに隠されているのか、それらはどのような重層性と共振性をもっているのか、を探ることが、メッセージをめぐるイデオロギー解釈をする以前に必要な作業になる。これがフレームを探ることである。