Apr
13
2006
斧谷彌守一『言葉の二十世紀』
この本の優れている点は、日常の観察から初めて、言語論にまつわるタームを明快に解きほぐしているところである。例えば第一章冒頭の富士山の例をとってみよう(p.21〜)。ここで言われていることは、富士山という言葉から喚起するイメージは人によって異なる。しかし意味の了解が取れているということは、誰もが「あああの富士山ね」と、自分の知識から富士山の「意味」を呼び覚ますからである。この意味こそ、言葉のシニフィエと呼ばれているものである。つまり人の知識はそれぞれであるが、それでもその知識の共通項があるからこそ、お互いに意味の疎通ができるのである。この最大公約数的な意味の領域がシニフィエなのである。そして言語が示すのは、じつはこの意味の領域なのであって、決して現実の富士山ではない。このことがはっきりわかる例が「山」である。山は世の中にありとあらゆるほどある。そのどれもを山と呼ぶが、もっとも山らしい山というのは世の中に存在しない。それは我々の頭の中だけにある。その概念と照らし合わせて、目の前のものを「山」と読んでいるのである。この作品ではそれを「山という語の表す山は、一種の抽象的典型としての山である」と言っている。言い換えれば世の中に一つとしてまったく同じ形をした山は存在しない。つまりすべて異なるのにそれをひっくるめて山と呼べるのは、この抽象的典型としての概念が我々の頭の中にあり、その概念を分かち持っているから意味の疎通が行われるのである。
斧谷彌守一『言葉の二十世紀』(筑摩書房)