Jean-Claude Chevalier, L'«Histoire de la langue française» de Ferdinand Brunot in Les Lieux de mémoire.
Ferdinand Brunot(1860-1938)は、第三共和政下において、大きな足跡を残した言語学者である。とりわけL'Histoire de la langue française(以下HLF)は1905年に着手され、彼の死後も公刊され続け、11巻、20,000ページ以上に及ぶ畢竟の大作である(その後HLFは弟子の Charles Bruneauに引き継がれ13巻となった)。「人権擁護連盟」の設立に加わり、「Association des amis de l'abbé Grégoire」が、グレゴワール師没100年を機に、また時代の全体主義的な風潮への危機意識の中で1931年「Société des amis de l'abbé Grégoire」と改称したとき、その議長を、ソルボンヌ大学文学部名誉学部長として、務めたことからもわかるように(Cf. Rita Hermon-Belot, L'Abbé Grégoire, La Politique et la vérité, p.254.)、熱烈な共和国主義者であった、Brunotは、フランス語教育、その普及政策にも深く関わった。彼が傾倒したグレゴワール師と同様、啓蒙と進歩への揺るぎない確信から、その根底を作るとされる言語を多くの人間が学び、理解していくことに心を砕き、骨を折ったのである。ここでは「心を砕き、骨を折った」と言ったが、それは例えば、Louis-Jean Calvetが引用するように、「良き共和国主義者であるためにはフランス語を話さなくてはならない」という手段ー目的が明らかな前提になっており (Cf. Louis-Jean Calvet, Linguistique et colonialisme, p.214. )、Calvetのような言語学における人種差別的偏見に敏感な立場から見れば、こうしたBrunotの愛国主義的態度は、人種差別、植民地主義の裏返しとうつるであろう。確かに、例えばLHM第9巻は革命期の言語の問題を扱っているが、国民語形成の事実を、冒頭に載せたRenanの論調通り、「国民の意志がなしとげた、フランス語による言語統一」という観点が、ページの随所に見られる。しかし、こうしたイデオロギー的立場から、共和国主義者として生きた Brunotを裁断する前に、今一度、HLFという作品を検討してみなくてはならない。
Les Lieux de mémoireの第3巻「Modèles」におさめられたJean-Claude Chevalier, L'«Histoire de la langue française» de Ferdinand Brunotは、その意味でいえば、イデオロギー色を排した、「人と作品」に焦点をあてた、Brunotの紹介である。ノルマリアンとしての大学でのキャリア、フランス語の教科書の出版、そして、録音という方法を使った口語資料の収集などを挙げながら、今現在のフランス語自体が、学問の対象となり、また学ぶべき教科の対象となっていく時代の中心としてBrunotを位置づける。それはつまり、規範としてのフランス語を明示し、伝える(学ばせる)ことを意味する。このことが「真理の追求、自由への愛、科学の信仰」(p.3391.)という共和国の価値に即していることはあきらかだろう。こうした信条をもった Brunotがフランス語教育法のマニュアルを書いたり(L'Enseignement de la langue française. Ce qu'il est, ce qu'il devrait être dans l'enseignement primaire)、正書法の改革に乗り出したのも、至極当然である。
論文の後半は、中世、16世紀、古典主義時代、18世紀、そして革命期にわけてHLFの内容が紹介されている。その基本線は、旧体制下の連邦主義的な言語のあり方に対する、革命時の言語の政治学のあり方である。Chevalierのこの論文ではそのような視点には立っていないが、先に触れたCalvetが言明するように、フランス語以外の話者の地域=反革命の温床とは言い難く、またBrunotもおそらくはそうした淡白な見方はしていないだろう。ちなみにこの巻は、Brunot自身も認めている通り、他の巻に比べて恐ろしく資料が欠落している巻である(cf.久野誠「革命前後の仏語研究小史」http://www.ha.shotoku.ac.jp/~hisano/revolution.html)。
Chevalierはここで、革命期の語彙の増加、共同体の紐帯としてのフランス語という観点を概観しているが、その中でpatoisに対する、 Brunotの見識が、この人物の寛容さの証拠として述べられている。確かにBrunotはグレゴワール師と同じく、patoisを「啓蒙を阻み、国語の理想に反し、そして地方の連帯をも阻害する(patoisはさらに細分化されたものであるから)」ものと考えている。しかし、だからといってpatois を破壊するような、性急な態度はとらない。それはpatoisは話者の生活、日々の活動、深い感情の印だからである。Brunotは強制ではなく、「学校を通した自然な学習、時代を経て、そして人々の良識」に期待しているとChevalierは理解する。これは国家という枠組みと、その枠組みの中で制度化された学校を前提とした上で、Brunotの信条である、「人々が学びたいという意志の尊重」を意味する。すなわちフランス語とpatoisとはその慣用がまったく異なるのである。フランス語とはまさに国民語であり、啓蒙の言語、それに対してpatoisはやはり、人々の生活にとどまる言葉である。そしてさらにその前提には「愛国」、誰もが国を愛する証明としてフランス語を話したいという前提が不文律としてあるのではないか。
Pendant la première période de la Révolution, les Sociétés populaires alsaciennes n'ont pas travaillé consciemment à la diffusion du français. Néanmoins, j'estime qu'elles l'ont servie. Des gens de langue allemande y coudoyaient des Français et c'était beaucoup. Pour peu qu'ils eussent une première teinture de français, ils apprenaient à comprendre, sinon à parler. Si jamais la méthode directe a donné des résultats, ce fut là, dans ces milieux échauffés, où le patriotisme avivait singulièrement la curiosité, et où l'on souffrait impatiemment de paraître des Français incomplets.
「フランス革命の第1期においては、アルザス民衆協会は、意識的にフランス語の普及に務めてはいなかった。しかしながら、私は、協会はフランス語の普及に役立ったと考えている。ドイツ語を話す人々は、そこでフランス人と膝と膝を突き合わせた。それだけで十分だったのである。かれらは、話すことはなくても、理解することは学んだ。もしダイレクト・メソッドが結果をもたらしたとすれば、まさにこの熱気のこもった場所である。ここでは愛国主義は強く好奇心を刺激し、不完全なフランス人に見えることには、とにかく耐えられなかったのである」
(Ferdinand Brunot, L'Histoire de la langue française, Tome IX, p.70.)
ここには、人々の愛国心への十全たる信頼がある。これがあるからこそ、Brunotは強制に頼らず、慣用に任せるという立場に立てたのではないか。