Mona Ozouf, Régénération, in. Dictionnaire critique de la révolution française(1992)
再生ということばは、革命以前に遡るが、しかし現実味を帯びたのはルソー以降である。その意味で、再生は革命による断絶がきっかけになっているといってよい。またこの再生は、あらゆる領域に関わる再生である。
たとえば、子ども、若者、老人に関わる肉体自身の再生。また宗教的な意味に捉えられれば、新たな生(洗礼による生まれ変わり)、原初社会の再生という意味にもなる。たとえキリスト教という宗教的文脈に頼らなくとも、革命の思想の中に、法から慣習までのすべてを含み込んだ「回心」を認めることは誰もが受け入れる考えであったろう。
そして「再生」ということばは、「改革」という言葉を追いやった。なぜならば、「改革」には、まだ過去の痕跡が残っているからである。それは「専制、教権、封建制」の残滓といってよく、革命は、それらの過去を「腐敗と頽廃」とみなす。こうした過去を裁断し、あらたな人民(peuple)を到来させるために「再生」を必要とするのだ。
この再生の具体的方法としては2つの方法が示される。一方は未曾有の出来事をした人間は、「自然と」、「突然奇跡のごとく」新しく生まれ変わるという考え方である。他方は、「再生」を遂げるためには、まだ過去の残滓があり、これを抹殺しなくてはならないという人々の考え方である。現実の変化と魂の変化の間にはまだ差が存在している。これを考えていかなくてはならない。そのためにはまず内心の中にある過去の残滓を強制的であっても解体しなくてはならない。しかしこの考え方は、疑わしき成員を、再生された共同体から排除していくことも意味する。
そして重要なのは、この自由・自律の再生と制約・他律の再生とは、異なる政党、異なる時期、異なる人物にきれいにわけることができないという点である。
再生において最も重要になるのが教育の再生であり、子どもをより有益な国民にするために、学校は課題の中心を占める。そしてやはり自由か規律かということで方針はたえず揺れ動くこととなる。たとえば革命初期におけるコンドルセの公教育案は自律と自由にまかせたものであり(無償で、義務ではない教育を提案)、一方ジャコバン期の教育とは、制約である。この案では、再生の道具は、寄宿舎と義務である。
しかしこの2つの再生には共通点がある。それは第一に「時間」がもたらす限界である。実際に精神や魂の育成には時間が必要となるが、「突然奇跡のごとく」再生が果たされると思っている革命家たちにはこの遅さは致命的である。また、体系的に新しい人間を創り上げていこうと考える革命家にとっては、時間の存在は、いくら法令を布告しても、時間の経過によってこそやりとげられる現実もあるということを思い知らせる存在なのである。
第二に、新しいものの誕生に古い世界を使うことはできないということである。前者にとってはすでにそれは存在しないものであり、後者にとってはそれは消えるべきものである。
最後は、感覚論である。この問題は、前者に、個人が変わるのは、たとえば革命の光景といった外在的なものであり、その意味で人間個人の自発性とは言い難い。他方、後者にとっては、制約を課す教育も、人間が変わりやすい存在である以上、その制約は逆の教育によって解体されてしまうという危機意識である。そして、この統制主義が優位にたっていく。
革命の難しさは、個人にそのまったき権利を与えた後に、その個人を集団へとつなぎ止めなくてはならない点にある。革命が混乱の事態に陥るにつれ、個人の精神を従わせることのできるほど強力な集団精神が必要となった。そして集団精神により大きな統制力をもたせるために、権力はあらゆる方法を用いるのである。