Dec
30
2008
ジャン=ポール・サルトル(Jean-Paul Sartre)、『存在と無』第四部第一章II(E)私の死(1943)
死についての考察で、最初に考えられているのは、死が非人間的なものか、それとも人間化されうるものかという点である。従来、死は「人間存在の無」に向かって開かれたひとつの扉であると考えられ、無は「存在の絶対的停止」であった。
この死の非人間的あり方が、人間化へと向かう契機は、死が内面化され、個別化され、私の「個人的な人生の現象」とみなされるときからである。死の個別化は、私のこの人生はかけがえのないものであり、二度とくりかえされることのない唯一のものだという考えをもたらすことになる。
この死の人間化に哲学的形態を与えたのが、ハイデガーであるとされる。ハイデガーにとって死とは「現存在の本来の可能性」であり、それによって、自己は全体として構成される。すなわち死の人間化は、人間を個別の、他とは取りかえのきかないものとしてとらえさせ、さらには、死によって、人生全体が個人に閉じられたものとしてとらえられるということである。そしてその個人が個人の人生を、全的に所有できていることが自由と呼ばれていると解釈される。
サルトルは、その上で死の問題の再検討を開始する。
死は非人間的な概念ではないとし、死を人間存在から切り離すことを否定する。しかしそれは死が人間存在にア・プリオリに属することを意味しない。
サルトルのいう死の個別性の可能性はあくまでも体験のレベルであれば、ということではないだろうか。死ぬ体験を最終的にするのはあくまでも私であり、この自明性は、感動を体験することが私固有であることと同じである。だれも私に代わって、愛することの感動を体験することはできない。
そしてサルトルは、死の個別性に、「世界のなかにおける私の諸行為を、それらの機能、それらの効果、それらの結果という観点から」考察することを対置する。ある女を幸福にするという「目的のため」ならば、誰かが私に「代わって」することができる。死についても同様で、祖国のために/代わって死ぬことは私の代わりの誰かでもできるのだ。したがって、死が私の死になるのは、あくまでも主観性のパースペクティブの中に限られるとする。
次の批判点は、死は期待できないということである。私の死の可能性は、「つねに考慮にいれられなければならないが」、「期待するわけにはいかない」。なぜならば、私の死の可能性は、生物的にのみ言いうることであり、この可能性はむしろ「empêchement inattendu」の側にある。ここには死は予見されえないという前提がある。生物的には一刻一刻と私たちは死に近づいているだろう。しかし死が予見されえない、死は突然襲ってくる、という立場に立てば、死が遠のく(たとえば国際会議によって平和を延長される手段が見出された)こともある。
意味づけという点から言えば、こうした死は、すべてを未決定に陥れるのであり(処女作を書いた後に死に襲われた作家が、書くべき書物としていたのはこの一作だけだったとは言えないし、彼は多くの書物を書いたとも言えない)、行為の価値が「宙ぶらりん」である以上、「死は原理的に人生からあらゆる意味を除き去るところのものである」とする。すなわち死がある以上、私たちのあらゆる行為が持ちうる価値、意味というのは、本質的に決定できないということであろう。
サルトルは、死が私の諸可能を無化するだけではなく、「死は、私が私自身についてそれであるところの観点に対する、他者の観点の勝利である」とする。つまり、人が死ぬということは、人生が中止され未決定のままになるのであるが、過去の生が相対的な意味付与を受けるのは、「他人の記憶」の中だけだということである。
サルトルに従えば、我々生者は、本質的に全ての死者と関係を持っている。その死者たちを「広い無名の集団」として把握することもあれば、「はっきりした個人」として把握することもある。この個と全体を、近親者と世界中の人間を、生者と死者との関係としてとらえることによって、隔たりを設けないこと、ここに個と共同性、他者と私の関係を考える大きな示唆があるように思う。たとえ、距離や関心に大きな違いがあるとしても、それは度合いの異なりであって、個と社会が断ち切れていないことが重要なのである。
生者は「対象的な意味づけ」を死者にほどこしていくが、それは同時に生者の人格の規定でもある。サルトルは言う。「それゆえ、対自は、自己の事実性そのものによって、死者たちに対する全《責任》の内に、投げこまれている。対自は、死者たちの運命を自由に決定することを強いられている」。また、死者とは私たち生者が生きている以上、たえず意味を更新される対自的な存在となる。
それでは生と死の差異はなにか。「生は、自己自身の意味を決定する。(...)生は、本質的に自己批判の能力、自己変身の能力をもっており、この能力によって、生は自己をひとつの《いまだーない》としてして規定する」。一方、「死は、一つの全面的な所有権剥奪をあらわすものである。(...)死の存在そのものは、われわれ自身の人生において、他者の利益のために、われわれをそっくりそのまま他者のものたらしめる」。すなわち、私たちの死後の存在は、そのまま生者たちの価値判断にゆだねられ、かつ、その価値は決定されることなく、そのつど、生者の責任において、意味を付与され続けるのだ。したがって、「私が生きているかぎり、私は、他人が私について発見するところのものを、否認することができる」のに対して、「死ぬとは、もはや他人によってしか存在しないように運命づけられること」となる。
こうしてサルトルは、死と有限性を根本的に切り離す。私たちが有限であるのは死ぬからであるという結びつきを引き離し、そうではなく、「有限であるとは、自己を選ぶことである」と定義しなおす。すなわち、私たちは、あるひとつの可能性を選択し、それにむかって自分を投企するが、それは、他の諸可能性を廃棄することであり、それによって自分とは何者かを限定するのだ。ここで、自由の行為とは、この有限性を引き受ける、ということになる。したがって、死とは、必然性でも、有限性でもなく、反対に私たちの有限性を奪いにくる偶然の事実なのだ。