2009年2月
中でもTodd Rundgrenのライノレーベルからの再発は、ちょっとした大事件であった。とくにファースト、セカンドは当時ほとんど手にはいることはなく、そのジャケットセンスと名曲Be nice to meがはいったセカンドはかなりの値がついていた。それがすべて再発である。
このアルバムは、Toddのメロディセンスがいかんなく発揮されたアルバムであるが、何よりも手触り感のする音の作りが素晴らしい。1曲目はドリーミィな雰囲気をただよわせた、Toddらしいポップな曲。そして2曲目はチャイムの音が美しい、バラード。いかにもToddらしい甘美でメランコリックな名曲。5曲目はワルツのリズムにのせた、わずか2分半の小曲だが、ギターの音色のせつなさが心に響く名曲。そしてアコースティックギターから始まり、Toddのヴォーカルが重なるうちに、曲が壮大に展開する6曲目は、このアルバムの一番の盛り上がりどころである。とくにThis is the ending of my songの歌詞にぐっとくる。
Toddのアルバムのなかでこのアルバムが人気があるのも、どの曲もメロディがまとまっていて、他のアルバムにある変調や、あるいはとっぴょうしもなくヘヴィーな曲がほとんどはいっていないせいだろう。その分Toddがかなりの嗜好をみせるハードロック感はここでは抑えられ、こじんまりした感じも受けるが、それほどソウルでもなく、もちろんフォークでもなく、エンジニアとして凝りに凝ったというほどでもない・・・。それらのテイストがほどよく織り込まれ、そのあたりのアレンジの品のよさが、Toddの職人芸のなせるわざなのだと思う。ここまでのポップアルバムをつくるのは並大抵のことではないだろう。そしてここにおさめられた曲は決して古くならない、時代をこえたエヴァー・グリーンな輝きがある。
Be nice to meはやっぱり美しい。曲の後半、nice to meの「ミ〜」の高音のところがすっとひきのばされ、ピアノと鐘の音がかさなるところなど、何度聞いても心をうたれる。
なんだか凡庸な比喩ばかりで、「Toddらしい」という言い方に終始してしまった・・・が、とにかく時代の流れとはまったく関係のないところに存在する、ロックアルバムの古典だということは間違いないだろう。
だが、ここ数年英語でそのままロックを演奏するミュージシャンが増えてきた。先日Téléramaのpodcastを聞いていたら、トゥーレーヌ地方のバンドにはイギリスのロックの音を聞かせるものも多く、いまやトゥールはイギリスのマンチェスターに匹敵すると言っていて、おもわず微笑んでしまった。それはほめすぎだと。
このCocoonも、フランスらしさをみじんも感じさせないデュオ・グループである。エリオット・スミスに影響を受けたということだが、確かにピアノとアコースティックギターによって織りなされる曲の進行は、もろエリオット・スミスだ。On My Wayや、Christmas songなどそっくりそのままである。
しかし、マンチェスターだのエリオット・スミスだの言われても、感動しないのは、彼らの音楽には、どうしても音楽にたいする「せっぱつまった」ところを感じられないからだ。これしか方法がなくて表現されている音楽には聞こえてこない。たとえばTétéのサードなどは、ビートルズとボブ・マーリーの影響から抜け出して、トラジ・コミックのようなせつなさとユーモアをうまくまぜあわせた名盤だと思う。ここにはTétéが自分のスタイルをサードにして打ち立てた充実感がある。それに対して最近の英語で歌うフランスのバンドの大半には、結局はそうした表現の必然性を感じられないのだ。内省的であること自体はそれでいいのだが、それに陶酔していても、こちらに届く音楽は生まれない。ならばHip-Hop系の音楽のほうがよっぽど今のフランスの音楽シーンでは質が高いのではないだろうか。自らの表現手段に確信を抱き、それを信頼して自己を拡大させていくような、そして他者にぶつかってくる迫力の方がよっぽど、音楽の素晴らしさを教えてくれる。
アマチュアリズムが悪いというのではない。アマチュアであろうと、そのミュージシャンが「これしかできない」という緊迫感をもたらしてくれるのであるならば、それがそのミュージシャンへの思い入れにつながる。たとえばMy name is nobodyというNantesのSSWは、これもほとんどニール・ヤングなのだが、「おれはギター一本でこうしか歌えない」という潔さが十分伝わる好盤である。
音数の少なさや、男女コーラスの心地よさは、彼らの一つのミニマルな美意識の表れであるとはいえるだろう。しかしそれは、しょせんおしゃれなカフェでかかるBGMなのではないか。彼らの寂寥感は、人の心を締めつけるものではなく、午後のひとときを心地よく過ごすための材料にしか過ぎないのではないか。
これは飾りであっても、表現ではないだろう。
さて、このアルバムのタイトルはBasement tapes。「地下室」でのセッションを「寄せ集めた」アルバムである。セッションの記録である以上、ここにはアルバムのトータル感=作品としての完成度はもちろんない。しかし、そうした作品性とは別の次元で、アルバムを通した強い意志がすべての曲を覆っている。それは真摯に音楽と対峙し、「私にとっての」音楽とは何か?「今この場で生まれる」音楽とは何か?そうした問いを正面から受け取って、曲をつくり出しているそのエネルギーだ。A面4曲目のYazoo Street ScandalやD面2曲目Don't ya tell henryのロックンロールのヴォーカルと演奏の激しさが物語るエネルギーだ。
とにかく力強さが充満している。いわゆるリハーサル音源なのだが、練習も本番もない。バンドとしての音の強さが、今それぞれの楽器とヴォーカルを合わせようとする緊張感が、アルバム全体を支配している。
トラディショナルなのに新しい。「ロックにはもう何も新しいものはない」といったディランだが、その過去の音楽を自らの手に入れ、そこにロックにしかありえない切迫感をもって演奏しているところが、それまでの音楽にはなかったのではないだろうか。この古い新しさがディランの汲めども尽きせぬ魅力だ。私と伝統の妥協のないぶつかり合い、アメリカの懐の深さを感じさせる。
音質やアレンジではなく、演奏している「人」を感じさせるのが、このセッションだ。The Bandのセカンドだったろうか。全員がやさしく目を閉じて写っている写真があった。うっとりと音楽を聞いているのか、あるいは眠りにつこうとしているのか。そこには死を想わせるほどの静謐があった。20歳そこそこにして人生の悲しみを表現しうるほどの演奏に達してしまった、The Bandの面々そしてディランには、彼らにしか出せない、老成した個性がある。
ところでこのアルバムはディランが素晴らしいのは言うまでもないのだが、実は心につきささるのは、メンバー同士のヴォーカルのかけあいだろうか。A面3曲目Million Dollar Bashの「ウー、ベイビー」というコーラスのはもり、6曲目Katie's been goneはリチャード・マニュエルのリードヴォーカルがまずもって泣ける。そしてB面2曲目Bessie Smithはセカンドあたりにはいっていてもおかしくない。オルガンの音にこれまた泣けるけれど、この曲もハモリが高揚感を募らせる。決定打はやはり「怒りの涙」か、最後の「火の車」か・・・いや、D面1曲目You ain't goin'nowhereのサビの部分だろうか。
ロックはこうして生まれたといっても過言ではない、アメリカン・ロックの礎としてのアルバムだ。
で、ジャケも最高。隠遁しながらも、たえず創造へと向かう、男たちの群れを描いた傑作。
Vivant jusqu'à la mortは、Ricoeurの死後草稿のまま残されていた未完成の原稿を発表したものである。実際には1995年頃に書かれ始め、そのままにされたということであるが、死をimminent(切迫した)ものであると意識していたRicoeurの思考の姿がうかんでくる。ときに、覚書にとどまり、十分な展開はなされていない部分もあるし、言いよどみ、繰り返しも多いが、それゆえに、Ricoeurの思考の筋道を丁寧に追って私たちはこのテキストを読むことができる。
骨子のひとつは「生き残り」(survivant)ということだ。しかしそれは、最後の審判におけるrésurrectionではない。Ricoeurは物体として肉体そのものが最後の審判において復活するという「想像」は否定する。Préfaceを書いたOlivier Abelによれば、それは神話の解体であり、「報い、償い、罰という概念」の否定である。しかしそれは、ひとつの宗教の否定であって、宗教性そのものの否定ではない。死を生き残りとして問うことは、他者との関係を問うことであり(生き残るとは、私の死を超えて生き残る他者、他者の死を超えて生き残る私という本質的関係を定義する)、その他者とのつながりを考えるとき、そこには愛と倫理が生まれ、必然的に宗教的なるものへと近づいてくる。「想像」を否定するとは、宗教を否定することであっても、宗教性を否定することではない。
死は知りえないものであるからこそ、私たちの「想像的なるもの」が働き、死者の運命を問いかけざるをえない。また、死後のイメージは、あらゆる文化によって形成されてきた。私たちはこうして「死後」を先取りして、想像をするのだが、Ricoeurが批判するのが、この想像である。その批判の根拠は、私たちが人生の終わりまで生きる喜び、gaietéと呼ばれる生きることの欲求への配慮のためである。
次に考察されるのが、moribondという概念である。moribondとは人間をagonie(死への衰退)の状態として、すなわち直に死ぬ者として扱うことである。しかし重要なのは、encore vivant(まだ生きている)と、生の面をとらえることである。つまり、死後に存在するものへの配慮ではなく、生の最も深い源(les ressources les plus profondes de la vie)をとらえることである。Ricoeurによれば、grâce intérieure(精神的な恵み?どのように訳すべきか宗教的な含意がどこまで反映しているのか?)は、終末において、本質が浮かび上がることにある。これは告白を行なう宗教とは異なる、religieux commun(共通の宗教性?)であると言う。ここは難解なところだが、宗教であれば、それは歴史的、文化的事象として本質が限定されてしまう。そうした限定性から解放された真に深い場所にあるところの「本質」ということだろうか?死という現象が文化に限定されないこともあるが、ここには、告解という死にゆく者として、他者をとらえることに対するRicoeurの批判があるのだろうか。そして死に逝く者によりそいながら、その死に逝く者を、死者として先取りしてしまう(il sera mort)想像のあり方が批判されているのだろう。
では死に逝く者への視線とは、どのような視線なのか、Ricoeurは次のように言う。
C'est le regard de la compassion et non du spectateur devançant le déjà mort.
それは共苦の視線であり、すでに死者となっている者と先回りをして見つめる者の視線ではない。
Compassionーともにといっても同一化するわけではない。そこには友情という距離があるのだ。
それでは生者とともにいる(accompagner)者はどのような態度であればよいのか。ここで引用されるのがホルヘ・センプルンの『ブーヘンヴァルトの日曜日』(原題L'écriture ou la vie)である。センプルンがモーリス・アルブヴァクスをみとったときの証言である。Ricoeurは、Ricoeurはアルブヴァクスがセンプルンの手を握り返す場面に、「与えるー受け取る、まだここで」と注をつけている。人と人がお互いの生を確証する。生の根拠が他者によって与えられること、私は死んではいないことは他者との生の交感によって確証されることをRicoeurは指摘しているのではないか。
Ricoeurはさらにセンプルンが、死期のせまった友人によりそって、医学的でも、告解でも、詩の言葉をつぶやくことに着目する。「彼(アルブヴァクス)は微笑む、死にながらも、私を見つめて、友愛の」。Ricoeurはここに「本質」があるという。
この死と対照となる死が、カディッシュをとなえる「死」の苦悶の声である。Ricoeurは、センプルンが「死が歌っている」というのは比喩でもなんでもないという。なぜなら「みとる者なしに死に逝くことは、死者(moribond)と、人物となった死(mort)の区別をつけないことである」からだ。イディッシュ(死者の祈り)のことばが自分自身に向けられたものであるならば、そこにはユダや民族の歴史全体が集約されているとする。そして、「自分自身」にむけられたということは「与えるー受け取る」という行為を可能とする外部が(レヴィナス)不在であるということだ。
Moribondとmortの区別がつかなくなった状況、それはmasse indistinctな状況である。ここでRicoeurはセンプルンの選択を問題にする「書くことか?生きることか?」生きるとは忘れることであり、思い出すとは書くこと、語ることであるが、それは生きることを阻害する。なぜならば、死こそが現実であり、生は幻影に過ぎないからだ。この状況を生み出すのは、死というものが、絶対悪のしるしのもとに置かれたときである。友愛と絶対悪の二項対立、これがマルローに言わせれば、最も古いキリスト教の対話である。ならば悪がなければmoribondとmortの混濁はないのか?悪の問題で看過しえないことは悪とは体系化できないということである。どちらがより悪か、といった比較はできないし、個別の事象から総体を作り上げることもできない。だが、神学においてはあらゆる死が、暴力的な死として同一視されているのではないか。罪を背負って死ぬということである。これがRicoeurが、1)死後、2)死に続いて、批判の対象としてとりあげる3)絶対的悪による集団としての死である。
Ricoeurはここから「いったい、普通の死は、どのような状況下で、極限の死=恐怖の死に汚染されるのだろうか?」。ここで「恐怖を悪魔払い」するものとして出てくるのが、「記憶の作業」、「喪の作業」である。ここで再びセンプルンの書くこと=思い出すことに焦点があてられる。死から生還したもの、すなわち証人となった幽霊である。
だがここでRicoeurが引用しながら、言及していない点を考えなくてはならない。それはこの書くことというのが、センプルンによれば、「文学的エクリチュール」として可能だと言われており、またその意味が«Avec un peu d'artifice»と言われていることの意味だ。文学的エクリチュールでなくては、たとえば宗教的な祈りのことばという内部化された「与えるー受け取り」のないエクリチュールになってしまうだろう。しかし文学がartificeであるならば、それは、物語の留め具として、つまり、物語を理解可能とするための留め具として使われてしまう危険を意味しないだろうか。誰もが想像しうる物語とは、artificeというわかりやすい虚構仕立てをするということではないだろうか。
もちろん書くことが、死者についての記憶を回復することであり、忘却から生き延びることが、実は自分の生を危うくするというこの悪がもたらす矛盾に書く者をさらし続ける。Ricoeurが引用するように「収容所を<現在>として語ること」ができないならば、なおのこそ、文学的エクリチュールの孕む「物語」のあやうさを、もっと緻密に分析するべきではないのか。
しかしRicoeurの本論での意図は、死後という問題を、宗教によらず、また宗教がもたらす死後の想像的形象によらず扱うことにある。その意図から、この表象の難しさを、死の瞬間の形象の難しさへと転用する。だからこそ、Ricoeurは死から生還してきたrevenants(死から戻ってきた者=亡霊)という名のsurvivants(生き残り)に、集団としての死の先取りを読み取るのだ。
Ricoeurは自問する。センプルンは生きることと書くことを両立することができた。レーヴィにはなぜ不可能だったのか。ここでティリッヒのThe courage to beへの言及があるが、書き込みだけで終わってしまっている。
最後に、先ほど述べたartificeについて言及がなされる。
Si l'écriture a quelque chance de se réconcilier avec la vie, lorsqu'elle est au service de la «mémoire de la mort», tout n'est pas attendu de la technique du récit, de l'artifice.
もし書くことが、現実の生と和解できるなにかを有するとしても、そして、書くことが「死の記憶」に役立つとしても、すべてを物語の作法、技巧に期待することはできない。
Ricoeurは「記憶が記憶の作業と喪の作業をひとつにあわせなくてはならない」という。Ricoeurにとって、それは集団の中に消滅してしまう死から(これは、自己の消滅の問題ではなく、死後の生という人間の想像を問題にしていると思われる。これは文化的事象とはいえ、こうした死の捉え方をするのは、自己の死を想像する自己の問題になるのだろう)、死を救い出すのは、この死の記憶でしかないという。ここも解釈に慎重になるところだが、喪の作業とあわせるということは、自分の死との関係において生き残る他者に自己の死後の生をゆだねるということだろうか。それが悪から解放された死の位置づけということになる。ならば、悪そのものとはどのような対峙をすべきなのだろうか。ここについてはRicoeurの「悪」として洞察を深める必要があるだろう。
他者という問題。最後に触れられるのが他者という問題である。それは「書くことが自己を抑えながら自己からの離脱する方法であり、それはつまり人が常にそうである他者の存在をみとめ、その存在を生み出すことで自己自身であるということだ」。書くことがどれほどの困難であっても、non-dit「言うことのできないもの」=沈黙でないという一点で、希望を持ちうる。記憶の作業、喪の作業は、この希望のことばでならなくてはならないとRicoeurは言う。つまり書くことへと至らせる根拠はfraternité(友愛)なのだ。