書籍・雑誌: 2006年9月アーカイブ

フランシス・フクヤマ『人間の終わり—バイオテクノロジーはなぜ危険か—』ダイヤモンド社、2002年。

金曜日から一泊で慶應の鶴岡タウンキャンパスへ行ってくる。慶應のバイオ研究の拠点だ。一度行ってみたかったのだが、バイオのことはあまり分からないので、この本を読む。

フクヤマは、冷戦が終わりかけた1989年に「歴史の終わり?」と題する論文を書いて大騒ぎを起こした。リベラルな民主主義が勝利し、体制間論争が終わったという点で歴史が終わったと指摘したのだ。これはたくさんの議論を呼び起こした。

この拙稿に対する多くの批評を通じて考えさせられたが、唯一反論できないと思ったのは、科学の終わりがない限り、歴史も終わるはずがない、ということだった。(iページ)

というわけで書かれたのがこの本である。冷戦後の世界をポスト冷戦というが、フクヤマは、バイオが社会に浸透することによって、人間の時代が終わり、ポストヒューマンの世界が来るという。

本書の目的は、[『素晴らしき新世界』を書いた]ハックスリーが正しいと論じること、現代バイオテクノロジーが重要な脅威となるのは、それが人間の性質を変え、我々が歴史上「人間後」の段階に入るかもしれないからだ、と論じることである。(9ページ)

バイオテクノロジーは、将来大きな利益をもたらす可能性がある反面で、物理的に見えやすい脅威、あるいは精神的で見えにくい脅威を伴う。これに対して、我々はどうすべきなのか。答えは明白である——国家の権力を用いて、それを規制するべきだ。(13ページ)

飛行機でこれを読みながら、どんな恐ろしいことが起きているのかと思って、庄内空港に到着。

Kurage01 朝一番早いフライトにしたので、午前中は世界で一番クラゲの種類を集めているという加茂水族館へ。規模はそれほど大きくないが、クラゲだけは多い。クラゲには脳も心臓も血液もない。生物だから遺伝子は持っているが、意識はないわけだ。水槽の中で傘を閉じたり開いたりしながら浮遊している。ヒトも生物だが、クラゲも生物だ。クラゲアイス(刻んだクラゲが入っている)を食べながら、あらためて生物とは何かを考えるが、当然結論は出ない。バスに揺られて鶴岡へ(しかし、この水族館は、車がないとアクセスが悪い。バス停は遠くて、数が少ないので要注意。山形は車社会だ)。

鶴岡キャンパスのの施設はいくつかに分かれていて(行くまで知らなかった)、大きく分けるとキャンパスセンターとバイオラボ棟に分かれている(ここを参照)。両者は2キロぐらい離れていて、前者は市内中心部のお堀端、後者は田んぼの中。

バイオラボで施設見学をしたり、院生や教員の話を聞いたりする。ここでの研究の中心はメタボロームである。生物の細胞の中は、genome<transcriptome<protenome<metabolomeというようにレベル分けがされる。それぞれの細胞には600〜4万ぐらいの代謝物質というのがあり、メタボローム研究というのは、この代謝物質が何なのか、これがどんな病気と関係しているのか、というのを研究するものらしい。鶴岡にある先端生命科学研究所は、この分野で世界のトップだという。

メタボロームという言葉自体は新しくはないそうだが、最近ではメタボリック・シンドロームという言葉がバブル気味に使われている(ウエスト・サイズが問題だという話だ)。メタボロームの研究を始めたときは、センスが悪いといわれたそうだが、新しい電気泳動の装置を開発することによってブレークスルーが起きた(数年前アメリカで聞いたとき[この文章の後半のフォーマットが崩れているなあ]にはゲル電気泳動と言っていたが、それより進化しているらしい)。

話を聞きながら、『人間の終わり』とは違って、実にドライで、ビジネス・オリエンティッド(特許や創薬の話が絡むので)だと思った。フクヤマのような悲観論ではなく、科学が病気を治すことができるという信念に基づく楽観論である。ヒトはこのままどんどん変わっていくのだろうか。

それにしても、研究環境としては鶴岡キャンパスはすばらしい。ご飯はうまいし、四季折々を楽しめる。車社会だから若干渋滞はあるみたいだが、通勤地獄はない。SFCへの交通アクセスと比較すると何ともうらやましい。

藤本ますみ『知的生産者たちの現場』講談社文庫、1987年。

古本屋でたまたま見つける。筆者は京都大学時代の梅棹忠夫先生の秘書。秘書に雇われた経緯から、国立民族学博物館の開設に伴う京大研究室閉鎖までの時代について書いてある。

低血圧であること、先生がお酒好きなこと、それをだしにしているかどうかは知らないけれど、原稿がなかなかできあがらず、いつも締め切りにおくれること、それで編集のかたがご苦労なさること、どれもみなほんとうのことである。(97ページ)

『知的生産の技術』の番外編みたいで興味深い。梅棹先生が実は遅筆だったと知って驚く。一週間も編集者が見張っていたのに原稿が書けなかったエピソードも紹介されている。あんなにおもしろい著作がたくさんあるのに不思議な感じだ。

それにしても、アイデア・ハックの先駆者だなあ。

読売新聞中国取材団『膨張中国—新ナショナリズムと歪んだ成長—』中公新書、2006年。

 中国側は靖国問題にひときわ神経をとがらし、[二〇〇五年]八月十五日を見据えていた。なぜ、こうまで靖国神社にこだわり続けていたのか。
 七月末、南部の広東省で会った党内事情に詳しい関係者が、ようやく答えを与えてくれた。彼は声をひそめながら、「カギは四月の反日デモだ。実は、あの時、政権は追い詰められていた」と口を開いた。

新聞連載時から時々読んでいた。まとめて読み直すとやはりおもしろい。迫力がある。

ジェームズ・スロウィッキー(小高尚子訳)『「みんなの意見」は案外正しい』角川書店、2006年。

富士通総研の吉田倫子さんに原書の時から薦めてもらっていたが、翻訳が出るまでほったらかしにしていて、ようやく読んだ。おもしろかった。原書のタイトル『The Wisdom of Crowds』は、チャールズ・マッケイの『Extraordinary Popular Delusions and the Madness of Crowds(狂気とバブル)』のオマージュなんだそうだ。

正しい状況下では、集団はきわめて優れた知力を発揮するし、それは往々にして集団の中でいちばん優秀な個人の知力よりも優れている。優れた集団であるためには特別に優秀な個人がリーダーである必要はない。集団のメンバーの大半があまりものを知らなくても合理的でなくても、集団として賢い判断を下せる。一度も誤った判断を下すことがない人などいないのだから、これは嬉しい知らせだ。(9〜10ページ)

確かにうれしい知らせだ。

一〇〇年の間にはどんなに賢い人でもおバカな発言をすることがあるので、彼らの見当違いの予測を珍しい例外と見做すこともできる。だが、専門家たちの悲惨な業績の記録はとても例外的とは思えない。(51ページ)

これはうれしくはないが、たぶんその通りだ。専門家(研究者)は、常識とは違う説明を追い求めている。常識通りの研究の価値は低いからだ。今までと違うからこそ研究の意義がある。

マスコミにコメントを求められるときも、「なるほど」と人をうならせるコメントを求められる。しかし、真実は常識的なところにあることが多い。人が知らないことならいざ知らず、奇想天外な仮説はやはり外れることが多い。だからこそ研究は難しい。

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