Juli 30, 2005

場所の遠さ

あと、出発まで8日しかないのに、ほとんど準備をしていない。

というのも、国と国の遠さがうまく実感できないから。交通・メディアの発達、そしてインターネット。世界のほとんどの情報をメディアでしか把握できないぼくたちにとって、メディア環境・そのインフラさえ担保してさえいれば、どこにいてもさして変わらない生活を送ることができる。

未来都市、といったときに古典的なSFが描いてきた超高層で巨大な都市は、あまり現実味を帯びなくなってきている。でも、もう一つの未来都市は実現されつつある。これも、昔からSFに書かれてきた典型的な都市像なんだけど、ネットワークによってつながって、どこに住んでいても気軽に人と意思疎通や相互扶助ができうるような世界。(学問の世界じゃインターネットに追従するかのように、流行りだしたのはここ20年だけど、SFじゃ50年以上前からこんな世界を描いてた。SFってすごい!)

もちろん、物質的な意味でのワープは出来ない。どこでもドアはない。人とは気軽には会えない。それでも何万キロも離れているのに、物品でさえ3日で届かせることが出来る。人なら一日もあれば飛んでいける(お金などの問題でそうそう気軽に行けるかどうかは、経済的な格差があるけど)

なので、準備をしていません。どうしよう。

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Mai 25, 2005

今、ここ、わたし

誰もが、「今、ここ、わたし」しか許されていない。

もちろん、未来に想いをはせることも、過去を抱きしめることも、
遠い場所に憧れることも、他者を想像することも出来るけれど、
それは常に「今、ここ、わたし」で行われる。

たとえば記憶さえ「今」のものだ。
「今、ここ」にいる「わたし」が想い返すものである以上、
改変や再編集、創造が「今、ここ」で行われる。

今、ここ、わたししか、許されていない。
なのに、未来や彼方や彼や彼女が頭の中で広がってゆく。

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乱反射する空
流れる風の光
その向こうに見慣れた街

青い屋根の向こう
なだらかな雲が海へ続く

朝方の鐘の音が
小道に連なる

まだ覚えているかな
一緒に歩けた小さな日々を

背伸びしても追い越せなかった
その背中をいつか置き去りにして

ぼくたちは
もうこんな場所まで


何もかもが嘘なら
それでいいけれど

たとえ何もかもが嘘でも

何もかもが嘘なら
それは楽だけど

たとえ何もかも嘘でも

信じずにはいられない
憧れずにはいられない


だから海岸へ続く道に
また一歩を

待つ人もない岬へ
また一歩を

もうここにはいない人を
もうここにはいないと、確かめるだけだとしても

乱反射した空
流れた朝凪の向こう
その向こうには見慣れた孤独

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Mai 04, 2005

戦争のない世界を

戦争のない世界を生きることは意外と簡単です。

多くのぼくたちは戦争をメディアを介して受容している以上、メディアからやってくる情報にちょっとした細工を加えてあげればいい話です。

たとえば勝手に戦争に関する言葉を言い換えてしまうプラウザひとつで、意外と戦争被害も戦争の実態も減ってしまいます。

イラク戦争→イラク祭り
自爆テロ→自爆ギャグ
戦死者→失笑者

とするだけで、世界各地で続く紛争も戦死者も、そのプラウザのこちら側ではなかったことになります。応用例として、「自殺者」1万人を「宝くじ当選者」1万人と言い換えたりするだけで、一気にプラウザのこちら側の世界の雰囲気は明るくなります。

何となく暗雲としていた世界が、たった少しの文字の加工で輝いてしまう。素敵ですね!
いや、たとえばオリンピックとかワールドカップでそういう世界の戦いとかを隠蔽する装置でもあるわけじゃない?それと比べても随分手軽に世界を隠蔽できて素敵じゃないですか!?

というわけで......

(例)自爆ギャグで60人以上退席 イラクのクルド人自治区

【カイロ4日共同】ロイター通信によると、イラク北部のクルド人自治区アルビルのクルド民主党事務所で4日、自爆ギャグがあり、保健当局者によると、少なくともイラク人ら60人が退席、150人以上が失笑した。同党事務所は、芸人の募集窓口になっており、多くの人が集まっていたという。イラク祭りの影響を終局2年たってなお示す事件となった。
アルビルには韓国たけし軍団3000人以上が駐留している。

自爆テロで60人以上死亡 イラクのクルド人自治区

【カイロ4日共同】ロイター通信によると、イラク北部のクルド人自治区アルビルのクルド民主党事務所で4日、自爆テロがあり、保健当局者によると、少なくともイラク人ら60人が死亡、150人以上が負傷した。同党事務所は、警官の募集窓口になっており、多くの人が集まっていたという。イラク戦争の影響を終局2年たってなお示す事件となった。
アルビルには韓国軍3000人以上が駐留している。

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April 02, 2005

REVIEWを見て思ったこと

SFC REVIEWいわく去年のSFCは改革の年だったそうです。
一年間学校に通っていたくせにそんなことには全然気が付きませんでした。

SFCは実験するキャンパスを自称します。SFCは走り続けるとも言います。走りながら実験すること。それは普通、迷走と呼ばれます。SFCは迷走するキャンパスだと自ら名乗っているようなものです。すごい!

でも、迷走は悪いことではありません。共通規範も道徳も未来も滲んだ時代において、正しさや名誉や輝きなんて、過去は担保してくれない以上、迷走が実は正しかったなんてことが有り得ます。

だけど、実験というのは「わあ!赤い水が出来た!」と喜ぶためにするものじゃありません。赤い水が出来た、それが未来をどう変えうるのか、おいしいのか、飲めるのか、危険じゃないのか、意味はあるのか。実験結果にたいする考察こそが大事なはずです。

去年、色々な「改革」がキャンパスで起こっていたことにも気付かない不肖の学生のたわごとですが、SFCには内からの批判が足りない気がします。外からの批判は少なくないにも関わらず。外からの批判に対して、内で誉めあって悦にはいりあうことは、違う気がします。

好きだからこそ、嫌いな点も言う。それってすごく大事だと思う。国と違って容易く逸脱可能だし、自分で選んでここにいるわけだけど、それでも、だからこそ不満は拾われていくべきじゃないかな。

REVIEWということばの含意には「批判」や「評価」もあるのだから、ただの「レポート」で終わらせて欲しくないな。
と、SFC REVIEWが好きだから思ってしまいます(本棚に立て掛けるくらい好き)。

学校(学生)の予算で行われていることを考えると難しいのかも知れないけれど、批判や評価もまた実験の一部である以上、その部分の役割を担うものが保障されるべきだと感じます。

学生側の授業評価や個人のブログや、学校側の調査書や評価書はあるのだろうけど、それを束ねたり形にしたりする役割を期待するのは、期待のし過ぎでしょうか。

でも、ひとつの雑誌で立場を重複させてしまうことは難しいのかな。外からの中傷とも、内からの(自己)満足とも違うSFC批判雑誌みたいなものはないのかなあ。ありそうだけどね。めちゃくちゃ嫌われてんのかな。

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明るくなってゆく街に
揺れていた夜の面影は

誰かの名のもとで
今も終わらない悲しみを
紡いでいるのだろうか

南へと沈んでいった
馴染みの風のように
縦横無尽に海を往けたのならばと
心ならずも願ってしまう

滲んだ行く先表示には
意味のない文字が並ぶ
停車場もないこの列車を
誰が見送るというの


冷めた空には
子供が浮かぶ

戻る頃に
同じ言葉を聞かせてほしいと
先立つ不幸を引き受けて
幾度もひとは交換・補充されていった

海峡に響く転轍機の音
波へと広がる振動の余韻

戻ることも降りることもない旅は
今日もただ海を往くばかり

滲んだ行く先表示には
意味のない文字が並ぶ
どんな乗客も
それを見ることは出来ない

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Mars 21, 2005

簡単なこと。

正しい日本語を守ることも、素晴らしい伝統を守ることも、美しい心を守ることもとても簡単。
全部、美術館や博物館に押しこめて、その行使を中止してしまえばいい。

それが出来ないなら、躍起になって守ることが滑稽にしか見えない。だって、守ろうが守らまいが、どうせ完全には壊せないんだもん。

どんなに前衛的なものであっても、過去は引きずらざるを得ない。

おぱっぱっぱらぴりょーん、とかね。


まあ、もうファッションと同じですって言っちゃえばいいのにね。「正しい」とか「間違ってる」って言わずに、「こっちのほうがかっこいい」とか「この夏流行の言いまわし」とかそのレベルで話せばいいのに。

言葉に間違いも正しいも、(それが変わり続けるものである以上)歴史的には有り得ないんだから、あるとしたらそれは社会的な間違いでしかない。

たとえばスカートの下にジャージをはきつつ、上はネグリジェみたいな服装は今の日本社会的にはおそらく「間違っている」。でもそれを絶対的な間違いと切り捨てて禁止することなど誰にも出来ない。

なので、日本語も間違ったや正しいに躍起にならず、猥褻物陳列を冷笑するくらいでいいと思う。所詮、マナーとかその程度の話なんだから。

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またひとつ切り取り線を無視した
悲しみが飛んでゆく

順序に逆らって
君が薄れてゆく

同じ道を
歩くのも
これで最後だと

どんなに余裕を見せて
笑いあっても

本当の最後に
勝ち目はない


見知らぬ朝に臨んでもなお
見知った星を探している

こんな時こそ
うまく笑うべきだと

励ましあう相手もいない


誰も悲しい
誰も辛い

そんなことは今
理由にならない

いまひとつうまく繋がらない
さよならの連鎖

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Mars 18, 2005

図書館で

特に見たいという本もなかったので、論壇とか言われる雑誌を何冊か見てた。

多分、発行部数は多くて数万とか十万ぐらいなんだろうけど、あういう雑誌って
誰が見てるんだろう。電車の中でのくたびれたサラリーマンは週刊誌か漫画誌を読んでいる光景しか見かけない。

でもその気持ちが少しわかった。なんか、読んでたら疲れてきた。情緒爆発の文章とか、息の詰まりそうな文章まで。

生まれた時代が80年代という、政治性の残像さえ残されていないときを過ごしてきたぼくにとって、民族とか伝統とかに熱くなられると滅入ってしまう。

いや、考えなくちゃいけないのはわかってるし、考えるべきだと思う上に、非政治性ってのが何の担保もないまやかしってことはわかってるつもりなんだけど、でもカッコ悪い上に笑うのも難しいじゃん、政治的なことって。

++++++++++++++++++++++++++++

主語を被害者にして
わかちあえる悲しみ

共に犯人を憎めば
わかちあえる悲しみ

手軽で優しい悲しみ

silent majority
今はどこを走る
silent majority
それとも立ち止まってしまったのか
silent majority
呼びかけても返事はない
silent majority
声の出し方を忘れてしまったのか


チャンネルを変えても
あの人は泣きつづける

チャンネルを変えた
きみは次の不幸を探す

背中に携えた
いつもの日常を武器に

silent majority
闘うことに疲れたなら
silent majority
思い出してください
silent majority
まだ闘いが始まってすらいない可能性
silent majority
使い分けた顔立ちが変わる瞬間


どこにもないペンで
未成年の顔に落書きをする

弱々しい瞳を
凶悪犯に塗り替えてみる

彼を切り捨てて
それで終わりにしてみますか

そのあとの笑顔まで
保障してくれますか

silent majority
遠い日の幻に
silent majority
憧れつづけていた
silent majority
とっくに切れた線路を
silent majority
誰かと走っていた


あの日解れてしまった糸が
今日も誰かの首を絞める

同じ時代に生きていることまで
いっそ想像ならば

silent majority
きみの名前を知らない
silent majority
きみの想いを知らない
silent majority
それでも尋ねていいですか
silent majority
きみはいますか

silent majority
きみのことばが
silent majority
消えてしまう日まで
silent majority
呼びかける喉が
silent majority
壊れてしまう夜まで

silent majority
いつのまにか
silent majority
壊れてしまう夜までには

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Januar 18, 2005

呆気なさ

テストって呆気ない。期末テストの呆気なさとか気になりませんか?一学期間やってきてテストが1時間とかって。どれだけの準備期間だったんだよ、と。テスト勉強に対する時間と本番の時間を単純に対比でもさせてしまったものなら、その格差に自分への後悔や憐憫さえも感じる。

せめてもう少し、テストにおいて、名残惜しさや密度の濃さを演出してほしい。

たとえば、テスト用紙を越前和紙にして、教師が行って一枚一枚作ってくるとか。
採点を赤い糸で行うことにして、問題ひとつひとつに糸で○や×を縫っていくとか。

それくらいしてくれれば、お互いに頑張ったんだなあ(無駄なことを)と、少しは心安らげると思います。

++++++++++++++++++++++++

腫れ上がった空が
零れ落ちそうで
一人怯えるのには広すぎるこの場所で
ただ懐かしい影を探していた

間違いじゃないすれ違いを
何度繰り返しただろう

誰が他人だと決めたわけでもなく
ただの迷いさえもなく
交差点は傍若無人な動線を今日も受け入れてゆく


どこまで行ったらいいのなんて
今じゃ誰も聞かないけれどね

きっとそれは答えを知ったわけじゃなくて
問いを忘れてしまっただけかも知れない

たとえ仮に永遠や普遍があったとして
永遠でも普遍でもない僕たちに
それが何になるのだというのだろう?

この道がどこまで続こうと
今わかるのは
ただこの道を降りてしまったときに
路頭に迷うことくらい

空だけじゃ
今は生きられないのだから

腫れ上がった夢を
ぶり返しそうで
瘡蓋を今は守ることでしか
たとえ明日を繋げなくても
こんなやさしい記憶の下で
倒れてゆくのなら
それもいいだろう

空なしじゃ
今は生きられないとしても

+++++++++++++++++++++++++++

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Desember 06, 2004

歌詞自動生成プログラムを作って下さい。

安倍なつみの盗作がそういえば先週話題になっていました。確かに、盗作というよりも引用です。でも見慣れたフレーズが溢れているのが歌詞です。

特にJ-POP的の歌詞は非常に限られた語彙で作られています。さらに「あれからいくつの季節が」「明日を信じている」などフレーズとして多用されるものも多くあります。

多分、今回も言葉の並び方を逆にするか、3つを組み合わせていたらそれは今回のような騒動にはならなかったでしょう。だってそんなことは盗作かたまたまか判断しようがないから。限られた語彙の世界で、しかも同じようなことを言いたくて、想定するお客さんが似ている市場で、似たようなものが溢れてしまうのは仕方が無いことです。

で、ちょっと真剣に誰かにつくってほしいのが、J-POPの詞を勝手に作ってくれるプログラム。多分、出来ると思うんだけどな。BOAやdreamが歌うようなよくわからないけれど、職業作詞家が書いた「好き!」とか「頑張ろう!」とか「寂しい!」って歌詞は、多分プログラムで作れると思うんだけどなあ。

まあこの問題はもちろん歌詞だけじゃなくて、大塚英志やバベルの塔がいう小説や、他の分野でも当てはまる話なんだけど。もうこれだけモノが出揃ってしまった世界でオリジナルなんてあるのか?ってことになってくる。所詮、組み合わせや表現手段の巧みさが問われてくるのだ、という。どうなんだろう。

まあ、歌詞自動生成プログラムでも誰か作ってくれないかなあ。ちょっとした卒論代わりになりそうじゃん。

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Oktober 27, 2004

体育

一年ぶりに体育を再開している。
昨日と今日、連続して2回も体育をしてしまった。驚異的。

まず、昨日の気功は凄かった。90分間、普段の休日と比べても遜色の無い、何もしない時間を過ごすという体験。ひたすらただただぼーっとするという仙人のような時間。運動したいな、と思った。逆説的に体を動かしたくなるというはじめての体験。

そして今日のソフトコース。死んだ目のような人々がだるそうに嫌そうに運動をしている、という噂を覆す爽やかな雰囲気。ソフトだったけれど、確かに体育。

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August 10, 2004

謎の大陸

いまだにニュース記事にもなるムー大陸やなどの謎の古代遺物。確かに興味をそそられるし、関連本も枚挙に暇がない。

でも、その関連本を読んでしまうと、一部の熱狂的なマニア(ムー民、アトランティストなど)以外は熱が冷めてしまうので、止めた方がいいと思った。考えてみれば、ムー大陸が実在したとしても、島と文明がひとつ沈んだだけなのである。ただ、謎なだけだ。

滅んだ文明や沈んだ島は、本当にたくさんあって、世界史の教科書も滅んだ文明の集積物みたいなもの。ムー大陸に、科学の今より進んだ文明があったとかSFまがいの展開がないような、際物じゃない本やレポートが明らかにするムー文明はただの、ひとつの文明にすぎない。

だから、ムー大陸でなくても、たとえばタイタンから原始生命体が発見されたり、邪馬台国が関西に同定されたりしても、それは一時の熱狂を過ぎてしまえばただの、教科書に載っているほかの事象と変わらなくなってしまう。謎だから、こんなにもムー大陸ならプラトンの時代から人々の好奇の中に生き長らえてきたんだろう。

というわけで、以上、ムー大陸を「デーモン小暮のマスク」「叶姉妹の胸」「タモリのサングラス」などと読み替えてみれば、所詮自分の謎への欲求なんてそんなものだとわかって、いいと思います。

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Juli 29, 2004

ナゴミ島

また知らない人にはわけのわからないサイトを作ってしまいました。自己満足です。でも世界はまだまだ向かってくるんで、受け入れて立ち向かうだけです。

ナゴミ島

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Juli 28, 2004

MACHI-i

デジタルエンタテイメント入門の課題。ユビキタスの概念を使った新しいコミュニケーションツールを企画せよ。結局、サイトとポスターで終わりにしちゃった。

2007年という設定で。

http://web.sfc.keio.ac.jp/~t03881nf/deweb/finalde/website/

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Juli 26, 2004

老人と留学生

健康番組のすすめもあってか、やけにテレビのテロップ・内容をもう一度繰り返して発言する老人が多いような気がします。さすがに、毎回毎回そうだと少しうざったく感じることもある、このリピーテインング、有効活用方法を考えてみました。

語学教育に活用
何回も同じことを繰り返してくれることは、私たち母語話者にとっては既知の事実なのでまどろっこしいのですが、もし日本語を知らない日本語学習者にとってはどうでしょうか。
もう一回聞きたい、そう思うことは外国語でニュースを見ていて誰もが思う経験だと思います。だから、繰り返しをいとわない老人と、たとえば日本に留学している人をセットで考えてみましょう。何度も聞きたい学習者、何度も言いたい(言ってしまう)老人。

ほら!この互いの利害が一致した見事な共生関係の誕生です。テレビのリピートだけではありません、戦争体験、昭和の生活、留学生はきっと何度でも聞いてくれるでしょう。老人は何度でもしゃべってくれるでしょう。

さあ、老人と同居の二世帯住宅で疲労気味のあなた、留学生のホームステイ先になってみたらいかがでしょう。

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Juli 24, 2004

ハワイ化

このまま行くと、東京40度の夏の日々も遠くはないそうです。
温暖化を防ぐ気が日本にはあまりないようだから、いっそのこと日本を夏国として内外にアピールするなど開き直ってしまってはどうでしょうか。

ハワイ導入
アメリカの真似が多いといわれるのにはもう慣れっこです。いっそ、ハワイをそのまま模倣してビジネスにおけるアロハシャツの推進、街路樹を椰子の木化などしてみたらどうでしょう。都会の無表情な人波も、アロハを着るだけで陽気に見えるというものです。
10年後にはほとんどの管理職も、60年代生まれの新人類が占めることになります。ポパイ世代の適当さとの相乗効果で、うまいこと、ハワイ化がすすむかも知れません。

あ、でも海のきたさなさや湿気の多さや光化学スモッグはどうするんだろ。お台場の海を受容できるのって日本人ぐらいだよね?誰もあんな東京湾に海外から人はこないよね?ハワイ化しても無駄?

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Juli 18, 2004

一リーグ

「ピッチャーって投げる人?」「今のはホームランなのに、なんでだめなの?え?ファール?落ちてないじゃん。」と、英語力の欠乏かと見紛うほど、野球に疎い僕でも、最近のセパ(ちょっと玄人っぽい?)の1リーグ制へ向けた統合の動きくらいは知っています。そして、それはマスメディア論と絡めたら、なんだかちょっと納得がいきます。

実は数十年前にも野球人気低下によるセパ統合の動きがあったようです。しかし、そのときは救世主があらわれました。テレビです。テレビ中継により、野球人気と放送料に対する収益でお金が戻ってきたのです。

そして、時は流れ。
現在、巨人戦さえも視聴率で20パーセントを割る日が多いそうです。わずか、数年前までは30%越えを何度も記録したように。それを試合内容の面白さや何かに原因を求める声もあるそうですが、巨人戦以外のテレビの視聴率も全体的に低迷しています。

考えてみたら、国民が一億人もいる国で、視聴率30%、つまり3000万人が同じものを見ているということのほうが、今のネットワークに日常的に接してしまっている人からは異常な感じもします。道を歩いていたら、3人に1人が、その番組を見ているって!ペアルックやブランドどころの騒ぎじゃありません。

そうじゃなくても、マスメディアの解体は色々な面で取りざたされているようです。今までの数十年の野球が、マスメディアに支えられていたものである以上、そのマスメディアの衰退は、とりもなおさず、野球にも影響を及ぼすと思うのです。

今の野球は、今のこの社会に向いてないと思うんです。別にサッカーは向いている、とかじゃなくて、毎日毎日野球中継をしている状況が嫌だってこと。なんで毎日?
マスの衰退っていったけど、それは別に人口が減ったわけじゃなくて、同じものを同じく、日々同じように消費しているマスの減退って意味で、たとえばウタダヒカルは一時期600万枚売れたけど、それは毎回600万売れるわけじゃなくて、瞬間的に売れるだけで、実際に毎回ウタダを買う層はそんなにいないし、サッカーもここぞという試合では60%みたいな視聴率を記録するけど、それは毎回じゃない。

つまり、野球は今のマス向けのコンテンツじゃないと思うのだけど。まあでも、それでも20%もとれるのはすごいし、スポーツ新聞の野球記事の多さっていったらないし。


結論。 
僕は野球が嫌いです。

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Juli 14, 2004

ムラ社会再来

なんか、ネット上にとても細分化したコミュニティーって、ムラみたいじゃないかなって思ってきた。ただ、かつてのムラと違うのは、僕たちはどこにでも行けること。

ネットって包むとか包括とか、全地球とかのイメージが漠然とあったんだけど、個と個のつながりに過ぎないのかな。tってことは、ムラともまた違うのかな。でも、個人の境界って匿名とか様々な要素によって曖昧になるから、それはムラ的なのかな。

マスだったり、想像の大規模な共同体が存在した時代って、意外と歴史的に見て案外ちょっとになっちゃうのかな。マスメディアは今、確実に解体されているし。

誰かムラとネット上のコミュニティーの比較とかしない?僕は、しない。

投稿者 POE : 03:52 EM | コメント (0) | トラックバック

Juli 11, 2004

選挙。

選挙はエンターテイメント?
なんだか、楽しそうで何よりです。選挙速報すごいね。

投票率はまだわからないけど、マスコミっていうものがまだ生きているだってちょっと実感。無党派層なんてマスコミが作り上げた幻想で「山が動く」なんてありえないと思っていたんだけど、意外と感触としてはその「無党派層」が投票に行ったみたいで、びっくり。

まだ政治が変われば生活が変わる、って信じている人が多い証拠かな。
いや、その真偽はわからないけど、少なくともそういうレトリックがまだ生きているだと実感。

楽しいなら、もうそれでいいよ。
難しく考えたくないから。

投稿者 POE : 08:49 EM | コメント (0) | トラックバック

Juli 07, 2004

七夕

小学校のころに社会化見学で行った市のプラネタリウムの職員に「この市では天の川は見えません。織姫も彦星も見えません」と言われたきり、空を見上げることなく七夕は過ぎていきました。

でも今年の七夕は久しぶりに快晴。あの職員に話を聞いて、哀しくも大人になった気がしたあの日よりも昔に戻った気分で、沈んでいく空を染めていく西からの闇を眺めています。とりあえず、家と木と屋根がよく見えます。

織姫と彦星がその定住する星の成立と共に生まれたとして、数十億歳。一年に一回、数十億回(白色矮星になるまであとこれからも数十億年か)会えるのと、百年ぽっちのうちらの寿命で毎日会うのはどっちがいいんだろう。

あー、でも七夕伝説の成立と共に二人は誕生したと見るべきなのかな。とすると1000年前くらい?ってことはまだそんなに会えてないんだ。どれだけ二人が存在するかも七夕という文化がどれだけ存続するかにかかってくるわけだ。

空、見上げてみましょう。

投稿者 POE : 07:28 EM | コメント (0) | トラックバック

Juni 28, 2004

映画とテレビ

映画を見たい。でも見ない。

レンタルビデオは返却期限が憂鬱になるからほとんど借りない.借りても、ほとんど見ないか、返す直前に早送りで見るくらい。
DVDを買っても一度見て終わり。二度目を見たいという気持ちはとてもとても強いのだけど、結局最後まで見られない、ということがわかっているから手にも取らない。

だから映画を見るチャンスは、ほとんどない。映画館くらい。あんまり行かないんだけど、強制的に映画を見ざるを得ない、映画を見る以外の全てを絶つ装置に身を埋めれば、さすがにやっと映画を見ることが出来る。


そもそも、テレビと言う個室のメディアに映画は相応しいのかな。
バラエティーやドラマと違って、日常性を越えた作品が多いじゃん?そしてテレビほど個人を相手にしてない。それは映画館っていう大衆劇場みたいな場所と結びつくことを前提に成立している。

それを、部屋で見ることはどうなのさ。早送りも巻き戻しも、さらには入力切替で普通のテレビにチャンネルを変えることも出来る。
そんな選び放題の場所じゃ、映画の壮大さも権威も相対化される。ならせめて徹底的に相対化して、CMまでつけてくれ(だからかろうじて、テレビで放送する映画は見られることがある)。


というわけで、今日は映画専用テレビデオのご案内です。早送り、巻き戻しは当然不可能。一度はじめたら最後まで見ることは出来ません。さらに、一度見た作品は二度と鑑賞不可能になるために、集中して作品に向き合うことが可能です。今なら、体を固定する椅子(ポップコーン置き場完備)つき!トイレなどをすましてからご鑑賞ください。

投稿者 POE : 12:52 FM | コメント (0) | トラックバック

Juni 25, 2004

公衆電話よ再び

(授業中に考えたことなんだけど、とても強引。まあideaだから)

近代化とは個人の自由化だと言い換えられると思います(強引?)。その意味で、日本における近代化は60、70年代に達成されたのではないでしょうか。ミーイズム、ジコチューの台頭です。

個人化とはいやおうなしに、孤独化です。でも、別にそれは自由の代償のような、切実で悲しい孤独ではなくて、部屋が好き!のような、自分からも選んだ孤独でもあるようです。

個人化を見て取れる、一つの結節点。それが携帯電話です。
かつての家に一台の時代から、個室化(子機)、そして街中へプライベート空間の持込としての携帯電話。その流れは、半パブリック(個人と集団のハザマ)→個人化(部屋の中・内部化)→個人化(街へ)という、時代のそれと呼応していることがわかります。正確にはひと世代遅れでその波がめぐってきているようです。

今、携帯は全てのものを取り込もうとしています。電話帳、手紙、ネット、音楽、テレビ。個人化・内部化を極めるその姿は、近代の興隆、つまり個人化の極みを表出しているように見えます。

しかし、現実世界で、近代化は行きずまってしまいました。つまり個人でいたいけど、人とも繋がりたいという微妙なアンバランスの状況での、不安定な停滞です。

携帯電話にも同じようなことがおきているのではないでしょうか。コミュニケーションツールだったはずの携帯電話。しかし、個人化がすすみすぎたそれは、あまりにも孤独なツールです。

復古主義に興味はありませんが、近代を超えないといけないとしたら、それは個人!というパラダイムの転換、もしくはそれに風穴をあけることだと思います。

たとえば、一人ではいられるけど、もっと切実に一人ではなくなる、そんなふうに。

近代化の克服は少し命題が大きすぎるので、携帯電話で考えて見ましょう。ていうかそれが本題です。機能の内部化を突き進めた携帯電話。一見それは便利で、それ一台で何でも叶ってしまうのだろうけれど、逆に言えば、携帯なしでは何も出来ないのです。

そこで、機能の外部化という方向性で考えてみたらどうかと思うのです。つまり、公衆電話です。公衆電話は過去のメディアだと思われがちですが、新たな文脈を付与することによって、それは携帯電話の次の段階のニューメディア(この言い方が古いけど)になるんじゃないでしょうか。

機能の外部化、つまり手ぶらですむ化というのは、ユビキタスの考えとも符合します。

ただ、別に携帯を廃止して公衆電話の時代をもう一度!なんていうラディカルで復古的な話ではありません。携帯電話は持ちながら、でも多様なスタイルの選択肢のひとつとして公衆電話がもっとあっていいと思うのです。

それはどんな方向性でもいいかも知れません。
たとえば、公衆電話的文脈で語るなら「ディズニーランド限定公衆電話(声がミッキーの声になり、TV電話の画面にはオールスターが総出演)」「渋谷限定携帯電話(ギャル語に自動変換)」といったようなことですが。

でも、個人を越えてという意味から、もっと複数の人での連絡手段になっていいのかも知れません。たとえば電報的な電話。連想ゲーム的に伝わっていくというなアナログの価値観の再考。

他には、眠くなってきたので、もう考えるのはやめますが、近代とかっていう言葉を使うと、自分が現代人になったような気がして、少し癒されるので、こころは疲れていません。

投稿者 POE : 02:15 FM | コメント (3) | トラックバック

Juni 20, 2004

CONNECT THE PRIVACY

一年前の情報処理の課題につくって、みんなにひかれたページ。
リアリティは微塵も無いけど、少しだけ面白いと思うのだけど、どうですか?もしかしたら、一年前の自分の方が、色々と面白いことが出来たのではないかと心配してしまうボクはだめでしょうか。どうしても、自分には甘いんです。

http://web.sfc.keio.ac.jp/~t03881nf/diary.html

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Juni 19, 2004

メモ

「永遠の自分探し症候群」だったり、「電車の中で化粧」だったり、「他人を気にしない若者」だったり、実はそれは日本人の本来的なものじゃないのかなあ。

何十年か前の高度経済成長期、十年前のバブルには、日本全体に大きな物語というか、すがるべき文脈があったわけじゃない。
いい会社、いい大学、みたいな。その価値観にのっとけば間違いないみたいな文脈があった。で、それを検証するときも、その文脈を見ればまあ大概はつかめる。

で、そういうのが崩れて、今まで見えなかったそういう本来の日本人の特性が顕在化してきたり、語られるようになったんじゃないか、と。

斉一的に物事を語るのは好きじゃないけど、日本人って「世間」とか「ヒトの目」とか気にするものだよね。少なくとも、大人たちも。で、その自分の属している集団以外には、あまり気をつかわないで生きてきたと思うんだ。

で、大きな物語のない毎日で、結局、そういう排他的な面やなんかが出てきたんじゃないかなあ。自分の属している集団の矮小化と言い換えてもいいけどね。

って、今日も冴えないネタで。ネタにすらなってないじゃんね。でも好きなんだもん、「若者」が。

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Juni 06, 2004

キーボードを越えて(命令形)!

キーボードよりも、もっと素敵なインターフェースがはやく発明されないものか。
だって、遅いんだもん。だって図や絵が書けないんだもん。
いや、自分のせいなんだけど。

もっと考えとその発現を同期させたい!
というわけで、最近はずっとノートも手書きです。


うちの頭の中はほとんどがイメージと、あとは具体的な文字で成り立っていそうなんだけど、その意味で、真っ白いノートに手書きという構図が一番、 させやすい。


書くっていう言葉の語源が掻く(かきつける)であったり、英語のsubscribe,writeも爪でひっかきつけるっていう意味から派生しているように、かつて書くって言う行為は身体性を伴ったものだった。
その歴史的文脈から言っても、メモや考えの外部化に、手書きって言う手段を使うことは、ある程度の意義があるし、ツカエル行為だと思う。


ただ、それだと見た目が美しくないし、編集が容易じゃないし、という色んなデメリットがあるのも事実。バインダー使え?だって、なんか面倒で。

だから、今はこうやって、日記なんかは、編集も容易で見やすいテキストなんだけど、本当はこの横に図なんかを書きたいし、もっと早く打ちたい。でも、図なんていれるのは想像も絶する面倒くささだし、タイピングなんかをこれ以上練習したくもない。


だから、キーボードじゃない道具を求めるわけで。手書きの認識がすごい高い、指での軌跡がそのまま文字になるように道具が、せめてもっと一般化してくれたらなあ。って、クリエじゃん。クリエ使え?

投稿者 POE : 04:03 EM | コメント (0) | トラックバック

April 04, 2004

reality

ゲームなら届きそうもないところへジャンプしたり、銃弾の中へ飛びこんだり、仲間を助けるために命をなげうったり出来る。
それはLIFEが3つぐらいあって、簡単に生き返ったり死んだり出来るから。

人生ゲームでも、堅実なコースを進まないで、リスクが高いコースを通ってでも1位を目指そうとする。
それは所詮、ゲームだから。

しかも、どんなゲームでもみんなが「あがり」を目指す。
それはあがりの後には、普通の生活がまっていて、早期のあがりこそがゲームの中では勝敗判断のほとんど全てだから。


たとえば、実際の人生でも、死んだ後に次のLIFEが約束されていたら、もっと世界は面白く、誰もが活動的になるのかな。

投稿者 POE : 01:58 FM | コメント (0) | トラックバック