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金曜日の昼過ぎ、研究所の同僚の一人が、「今度はロシアと戦争かな」とぼそっと言った。私は論文のデータ処理をずっとやっていたので何のことかよく分からなかったが、ロシアとグルジアに関する報道が始まっていた。アメリカがすぐ参戦するとは考えられないが、今のうちからそういう可能性を考えておくのが東部エスタブリッシュメントの頭の中なのだろう。
ちょうどその晩、オリンピックの開幕式の録画がNBCで放送された。アメリカ時間だと金曜日の朝に行われたことになるが、朝のニュースではスタジアムの中は見せず、録画を午後7時半から夜12時まで流した。インターネット時代に録画放送はないだろうと思ったが、視聴率を稼ぐためには仕方ないのかな。
マスゲームを見ていたアナウンサーが驚いて「あごが落ちちゃう(jaw dropping)」と言っていたのには笑った。中国に秩序があるところを見せたかった中国の気持ちも分かるけど、アメリカ人は多様な個性を称賛するから、アメリカ人はたぶん違う受け止め方をしてしまったと思う。その辺の感覚のずれを感じるなあ。せっかくの機会だったのにもったいない。
この日、小島朋之先生の最後の著書が届いた。国分良成先生の巻頭言を読み、小島先生の圧倒的執筆量に改めて驚く。きっとオリンピックもごらんになりたかっただろうな。先月末の偲ぶ会に出席したかったが、諸事情あって東京には戻れなかった。今書いている論文が終わったらこの本を読もう。
ケンブリッジ(ボストン)は雨ばかり。気温も上がらず、このまま秋になってしまいそうだ。暑そうな北京とはずいぶんなちがいだ。
ラウンジで妻にメールを出したかったのだが、かなわなかったので、ネット・カフェはないかと歩き始めると、公衆電話が目にとまった。その横には国際電話のカード販売機がある。手持ちには30ユーロ分の紙幣と小銭がある。一番安いカードは20ユーロである。これを買って電話をすることにした。10分ほど電話で話す。相変わらず体調は良くないようだ。少し遅延があるが、音質はまあまあである。
ゲートに行くと、だいぶ人が集まってきている。しばらくすると、プリボーディング・エリアへの案内が始まった。柵で区切ったエリアに入り、いったん入ると出られなくなる。ここでいくつかのセキュリティ上の質問を受けてボーディング・パスを切られてしまう。ボーディングに時間がかかるよりは、この方式のほうが良いのかもしれない。
座席は6Fである。ひょっとするとビジネスにアップグレードされたのかと思ったが、残念ながらビジネスは4列しかなかった。期待はボーイング767である。747よりも小さく、いささか古くなっている。シートテレビはなく、スクリーンを皆で見るタイプだ。映画は何と1本しかない。それもよく分からないホーム・コメディで、『Mr. なんとかwood』というタイトルである。本を出版して成功した主人公が故郷に戻ってくると、小学校の時に自分をいじめた体育の先生と母親がつき合っていることを知り、その妨害に乗り出すという話だ。どうでも良い内容である。
隣に座ったのは初老の男性で、座ったとたんに歌を歌い出したのでイヤな感じがしたが、その後はおとなしくしている。それよりも困ったのが前のスペイン人グループである。任天堂のDSを免税で買ったらしく、二人がけの席で三人が集まり騒いでいる。この辺がスペイン人らしさなのか。テーブルがぐらぐら揺れるのでやめて欲しい。
いよいよバッテリーがなくなってきた。ボストンに行くまでに原稿を一本書き上げたかったがそうもいかないようだ。日経のネット時評と産経のスクロールの原稿がある。
スペインのマドリードは、イベリア半島の中心部に位置する。全く海へのアクセスがない。かつてスペインが無敵艦隊を誇る海洋大国だったことを考えると、この陸封された首都は不思議である。
マドリード空港に着くと、先に着いていたNさんと合流し、タクシーに乗ってホテルへ向かった。マドリード空港から市内へはタクシーで30分ほどである。マドリードの前にいたミラノとの違いは、まず車が大きいことである。ミラノでは細い石畳の道路を走り抜け、狭い駐車スペースに収まるように小さな車が多い。しかし、マドリードでは日本で見るようなサイズの車が多く、アメリカで流行っているようなSUVも走っている。
おもしろいのは、道路の脇の立ち並ぶアパート(マンション)群である。ワシントンDC近郊のバージニア州で見慣れたアパート群によく似ている。バージニア州には確かにヒスパニック人口が多いから、スペインの伝統をバージニアに持ち込んだのかもしれない。
マドリードの天気は真冬だというのに快適である。コートは無くても大丈夫であろう。しかし逆に、真冬でこの暖かさということは、真夏には灼熱の暑さということになるのだろうか。シエスタが必要になるのも分かる。
空港からのタクシーの中でFさんの機嫌が悪くなった。どうやらプロジェクトのお金で観光しようとしているNさんの態度が気に入らないらしい。Fさんは必死の思いでアポを確保しようと頑張ってきたのだが、Nさんはそれを無視して、フラメンコが見たいとか、美術館に行きたいとか、挙げ句には無理してアポを入れる必要はないと言ってしまったのだ。
仕方ないのでフラメンコの予約は私がホテルのフロントでした。レストランがオープンするのは何と夜の8時である。そしてショーが始まるのは10時15分と遅い。ホテルからタクシーに乗り、レストランへ向かうが、ここでさらにFさんの機嫌が悪くなる。旧市街を走るうちに、観光したいと行ったのが気に障ったらしい。そして、レストランに入り、食事を始めると、なにやら携帯に連絡が入り、様子がおかしくなる。そして、メインの料理が出てきたら帰ってしまう。病気のお母さんの面倒を見てくれているおばさんの具合が悪くなったと連絡が入ったそうだ。
フラメンコのショーでは、ギターを弾く男性が二人、歌を歌う男性が二人、そして踊る女性が四人である。計八人がステージに上がり、パフォーマンスを披露する。とてもおもしろいリズムだ。何だかまねできない。女性も男性も、いわゆるヨーロッパ系とは少し違う。紙は黒く、いわゆるジプシーと呼ばれる人たちに似ている。女性が踊りながら踏みならす音は、タップダンスの起源なのだろうか。1時間ほど見て、ショーが一区切り着いたところでホテルへ戻る。
翌朝、さすがに食べ過ぎなので、朝食をカロリーメイトで済ませ、8時15分にロビー待ち合わせる。富士通サービシーズという会社のルイースさんだ。Fさんの機嫌は悪いままだ。しかし、ええかげんにせいと私も腹が立ってくる。社会人らしくないのはどっちもどっちである。
一つめのアポが終わり、カフェで休憩。ここぞと思ってルイースさんにいろいろと質問をする。スペインでもアメリカ大統領選挙のニュースは大きくカバーされているらしい。文化的な影響力としてもアメリカは大きい。しかし、誰もがアメリカにあこがれているというわけでもない。街を歩いていると巨大なビルが並び、帝国の首府としての威厳が感じられる。スペインがかつて築いた帝国は中南米を中心にいまだ健在であり、帝国の首府へ人々を引きつけている。温暖(あるいは灼熱?)の気候は、強いエネルギーを生み出している。北ヨーロッパの都市と比べて、格段に街路樹が大きいのも気候が良い証拠であろう。
もう一つ、ルイースさんに、EUは新しい帝国になるのだろうかと聞いてみる。しかし、ルイースさんの答えはネガティブだ。というのも、ヨーロッパなるものがいまだないからだという。本当にヨーロッパとして統一されているのは通貨のユーロぐらいで、他にはそれぞれの国の文化が生きている。あと50年経てば分からないが、ヨーロッパとしてのアイデンティティの確立はまだまだ先になるだろうとのこと。内部からの視点は興味深い。
二つめのアポが終わった時点でルイースさんとはお別れ。三人でホテルに戻るが、Fさんは相変わらずの機嫌なのでもう相手にしないことにする。本人が落ち着くまでメールにも返事をしないでおこう。この性格が災いしてこの人はここまでの人生を誤ってきたのだろう。私も副査としてこの人の面倒を見るのがイヤになってきた。しばらくは事務的につき合うだけにしよう。とにもかくにもこんな人を抱えているK先生は気の毒だ。
Nさんと二人でホテルの近所で食事。チキンを焼いたもので、たっぷりニンニク入りのソースがかかっている。ホテルに戻って着替え、Nさんと二人で地下鉄に乗り、ソフィア美術館へ。ここにはピカソのゲルニカもある。
ピカソやダリの初期の作品も置いてあり、普通の絵も描いていたのだなあと妙に感心する。1時間後にNさんと待ち合わせするが、1時間では見切れないことに気付き、スピード・アップ。一気にピカソの展示に行くが、ここは別館になっていて、四つも展示室があることが分かり、ますますスピード・アップ。気に入ったのはPaulo as Pierro(ピエロの格好をしたパウロ)だ。かわいい。ピカソらしくない。
最大の見せ物はピカソのゲルニカ。大きな絵だ。反戦思想が込められているという。別のところに展示されていた。作成途中の写真やデッサンも興味深い。芸術家は突然として政治活動に飛び込むことがあるが、ピカソを動かしたのはどんな気持ちだったのだろうか。
ソフィア美術館を出て、近くのプラド美術館まで歩く。ここに何があるのかよく分からないまま歩いたのだが、着いてみると長蛇の列になっている。とても待っていられるような長さではない。あきらめて、地下鉄に乗り、二つめの駅で降りて旧市街へ。良い雰囲気の町並みになっている。少し歩いて、早めに夕食をとろうということになり、オープンカフェに座るが、全然注文を取りに来ない。これも一種の人種差別なのかなあと感じる。
ばかばかしいので別の居酒屋風のところに飛び込む。ここは英語のメニューがない。スペインのビールをくれと頼み、料理も肉と魚を一品ずつと頼んでみる。出てきたのはポテトの上にタコを乗せてオーブンで焼いたものと、豚肉の煮込みのようなもの。実においしい。Nさんと二人で政策をどう実現するかなどを議論する。私も酒は控えていたが、ここは飲んだほうが気分が盛り上がると思い、ビールの次には赤ワインを二人で飲み続ける。
一番の成果は、スタンフォード日本センターの研究部門を私が受け継いでも良いという話だった。スタンフォード側で担当してくれる教員を見つけ、その人に支払うお金と、日本側で事務を担当する人の経費を確保できれば良いそうだ。MITも良いけど、スタンフォードとのコネクションは効くよと教えてもらって、かなりその気になってきた。
8時にはホテルに戻り、シャワーを浴びて、10時には眠ってしまう。明日のフライトは昼過ぎなので余裕がある。
翌朝、6時前に目が覚めた。8時間も眠れば当然か。これから一人旅だ。メトロで空港に行こうと考えていたが、2回も乗り換えしなくてはならないし、ユーロも余っていたので(ネット代を現金で払おうと思っていたが、カードでしか払えなかったのだ)。タクシーで行くことにする。
9時にチェックアウトして、タクシーを簡単に捕まえて空港へ。22.5ユーロだ。USエアウェイズでチェックインしようとするが、係委員に捕まり、ここでいきなり仮の入国審査が始まった。パスポートのビザを確認すると、書類を出せといわれ、その後はコンピュータで登録し、質問攻めである。スペイン語なまりの質問がよく聞き取れない。ホテルの領収書を出せとか、名刺を見せろとか、かなりしつこい。できればビザなしで入国したいと思っていたが、それは無理のようだ。そういわれれば、出国時点で情報を取得し、アメリカに送るという話があった。その一環なのだろう。年末に成田からアメリカに行ったときは実にイージーだったが、こういう変なところから日本人の私がビザを持って入国しようとするのはおかしいのだろう。
ようやくチェックインが終わり、セキュリティを通り抜ける。このとき係員のおばさんが、グッドバイと言ってくれた。気持ちがよい。
ラウンジに入ろうとするが、結局できなかった。チェックインの時にも聞いたのだが、USエアウェイズは自分のラウンジを持っておらず、spanairのラウンジに行けといわれた。ところが、行ってみると、別のラウンジに行けという。そっちに行ってみると、USエアウェイズのインビテーションがないと入れないという。まったく弱い航空会社はこれだから困る。またパスポート・コントロールをくぐって交渉するのはばからしいのであきらめる。
カフェテリアで飲みのを買い、テーブルでこの日記をまとめて書く。まあ、ラウンジじゃなくても良いか。ここまで書き終わったところで搭乗まで1時間。バッテリーは40分しかない。無線LANもつながらないことだし、ゆっくりガイドブックでも読もう。
午前5時の目覚ましで起床し、最後のパッキングをする。スープとパンを食べ、荷物を抱えて電車に乗り、成田エクスプレスに乗り込む。大学院生の博士論文の結論部分と、遅れて卒論を出してきたK君の論文を読む。
フライトは全日空で予約してあるが、運行はルフトハンザだ。最初、全日空のカウンターに行くが、ルフトハンザのカウンターに行くようにいわれる。ところが、ルフトハンザのカウンターに行くと、乗り継ぎ便の発券ができないという。どうなっているんだ。ひとまずフランクフルトまでの搭乗券を持って出国審査へ行く。なんと日本人専用窓口が作られていた。
全日空のラウンジで蕎麦を食べ、メールをして搭乗。席は一番後ろの列の通路側だ。隣が一人しかいないのは気楽だ。機内では猿谷要の『アメリカの歴史』を読む。5時間ほど眠り、映画は『ボーン・アルティメータム』を少しだけ見る。しかし、個人スクリーンではなく、天井からぶら下がっているものなのであまり見る気がしない。
フランクフルトで乗り換え。相変わらず大きいだけで意味不明の空港だ。世界で一番嫌いな空港だ。その次はワシントンDCのダレス空港か。フランクフルトからミラノへの道中はよく覚えていない。ミラノのマルペンサ空港に到着後、両替をして、バスに乗り込む。18時20分発のバスは丸一時間かかってミラノ中央駅へ。そこから地下鉄に乗ろうとするが、乗り場がよく分からないので、妥協してタクシーに乗り、ホテルへ。
ホテル到着後、先に来ていた三人と一緒に食事へ。ホテルから歩いて10分弱の普通の料理屋へ。実においしい。特に繊維状になっているチーズがおいしかった。大学のことなどをいろいろ議論する。法政大学の白田先生がmiauを辞めてしまったそうだ。なんだそりゃ。國領先生とはここでお別れ。
翌日、朝7時半にホテルを出て、中央駅へ。そこからインターシティに乗り、トリノへ行く。電車の中では口を開けて居眠りしてしまう。
トリノに着くとタクシーに乗ってテレコム・イタリアの研究所へ。ここでは実に歓待してもらい、長時間の議論につき合ってもらった上に、お昼までごちそうになった。1300人も働いているという大きな研究所でのんびりしている。
タクシーを呼んでもらい、ミラノの真ん中にある大きな広場へ。そこに隣接している大きな博物館を見に行く。地下にはローマ時代の遺跡が眠っている。なかなかおもしろい。
電車に乗ってミラノへ戻る。いったんホテルに帰ってから地下鉄に乗って夕食へ。良い雰囲気のシーフード料理屋へ行こうとするが、なかなか見つからない。ついに発見すると、改装してずいぶんお店のイメージが変わってしまっていた。何だか落ち着かない雰囲気で、店の端ではパスタ教室をやっている。味は悪くないが、居心地が悪い。ここで飲んだ赤ワインは、海の底に沈めて熟成させるそうだ。
翌朝、Nさんは違うフライトなので別行動。私はFさんと『最後の晩餐』を見に行く。人が殺到しているのかと思ったがそうでもない。しかし、受付のコンピュータが壊れていてスムーズに入れない。混乱の中、最初のグループに潜り込んで入る。バスケット・コートぐらいの部屋で、右手の壁一面に『最後の晩餐』がある。確かにキリストの左側の人物は女性に見える。そしてその左下に見えているナイフを持つ手は誰のものか分からない。
タクシーに乗ってホテルに戻り、預けてあったバッグを拾って、タクシーで空港へ。ミラノからボンバルディアの小さな飛行機でミュンヘンに飛ぶ。このラウンジがとても良くて、ポテトスープとマカロニパスタを食べる。そこから少し大きな飛行機でスペインのマドリードへ。
2月2日から4日、伊豆稲取までゼミ合宿に出かけた。採点しなければならないたくさんのレポートがあったので、車で出かけたが、これが実に遠い。家を出る際、カーナビに行き先を入れると、3時間55分というアナウンスが出た。集合時間は12時半なのだが、カーナビ通りだとすれば到着は13時半になってしまう。いくらか多めに時間を設定しているとはいえ、12時半には間に合いそうにない。発表開始の13時までには着かなくてはいけない。
昼飯はコンビニで買ったおにぎりを車中でとり、13時に何とか合宿先にたどり着いた。コテージに泊まると聞いていたので、さぞかしぼろいのかと思っていたが、予想以上にきれいなところで安心した。結局13時半に発表を開始し、順次こなしていく。しかし、2日目の午後早くには、来ている全員の発表が終わってしまい、その後はディベートを行う。
そして、2日目の夜、事件は起きた。卒論を書かずにウダウダしていたK君が夕食の時にやってきた。そのK君を院生のF君たちと囲み、なぜ卒論を書かないのか言い訳を聞いた。そこで、酒を飲ませ、明日までに卒論を仕上げろとハッパをかける。K君はフラフラになりながら卒論を書きに出かけるが、足下があやうい。先輩のF君が助けに行く。
その後、皆で集まり飲み会が始まったのだが、盛り上がってきたところで、H君の勢いが増してきた。S君が本当は一番飲みたがっていたのだが、芸達者なH君を皆がはやし立てる。彼は4年生で卒業予定なのだが、今学期の単位を全て取らないと卒業できない。おまけに彼は一度SFCを退学になり、再入学しているので、かなり「年増」だということが分かった。彼は今学期、私の担当授業で8単位をとらなくてはいけない。そこで彼は、「単位をくれるなら飲みます!」という勢いでどんどん飲み始めた。私もおもしろがって、「まだ2単位だけだなあ」などとやってしまった。その結果、H君はかなり飲み過ぎ、自分でもうダメですと寝に行ってしまった。
その頃、K君の様子がおかしいという連絡が入ってきた。私もだいぶ飲んでいたので様子を見がてら切り上げることにする。ところが、歩いたところでやたらと気持ち悪くなってきた。私も飲み過ぎていたらしい。自分の部屋に戻り、少し吐いてしまう。吐くのなんて久しぶりだ。
そのまま寝入ってしまうが、ドンドンと扉を叩く音で目が醒めた。ドアを開けるともう一人のS君とN君が立っている。H君の具合が悪く、救急車を呼んだというのである。時間を見ると4時20分。慌てて服を着て、救急車に同乗する。H君は座ったままで、意識ははっきりしている。飲んだお酒の量もちゃんと説明している。
病院に着くと、彼は自分で立って歩き、診察室へ。私は彼の財布の中から健康保険証を探し出し、病院の受付をする。診察室に行くと、H君は診察台に座っている。医師と看護士がやってきて、点滴の準備をしている。2時間の点滴だそうだ。入れているのはブドウ糖で、おそらく睡眠誘導剤が入っている。H君は横になると気分が悪いというので座ったまま点滴を受けているが、眠くなるらしく、フラフラしている。しばらくしてこらえきれなくなり、横になる。
点滴のせいか、H君は寝息を立てて眠り始めた。しかし、時々のどに何かがひっかかれるようで、咳払いをしている。2時間点滴をしたが、気分が良くならなかったようなので、H君はもう少しここにいたいという。もう一本点滴をして、8時過ぎまで再び横になる。点滴は途中で終わったが、起こさずに待っている。途中、医師がやってきて、気分が良くなったら帰っていいと言ってくれた。
しばらくすると、はっとH君は起き上がり、気分が良くなったので帰ると言い出した。ちょうど看護士が来たので、点滴を外してもらう。会計を済ませ、タクシーで宿に戻る。H君をバンガローのベッドに寝かせ、食堂に行くと皆朝食をとっている。予定では9時半に発表開始だが、5人残っているので、少し早めの9時15分に開始することにする。
皆が集合してから、今朝のことを説明し、私も調子に乗ってしまったことを謝る。発表中に眠ってしまうかもしれないと心配だったが、それぞれおもしろいので聞き入ってしまう。最後の森野君は巨大な段ボールをスライドにするという大技だった。
何とか合宿を終え、私はSFCに車を飛ばす。途中、サービスエリアに止まり、SFCの学事担当に電話をかけ、阿川先生の持っている成績表を入手できるか聞いてみるが、解決しない。携帯電話の電池が無くなったので、そのままSFCまで行く。そこで成績表を入手し、大学院生の修士論文訂正の手続きをしてからまた車に乗って帰宅する。
ようやく家にたどり着き、ご飯を食べてから採点の仕上げを始める。実に眠い。おまけに明日の出張の準備もしなくてはならない。朝7時半の成田エクスプレスなので、睡眠時間が削られてしまうのは避けられない。何とか午前1時にベッドに潜り込む。大変な3日間だった。
アメリカへの目を再び開かせてくれたのはサントリー文化財団で行われた「文明論としてのアメリカ研究会」だった。この研究会は、阿川学部長(当時はまだ学部長ではなかった)から参加の機会をいただいた。確かに私は国で言えば一番アメリカを見てきた。しかし、自分をアメリカ研究者だと思ったことはない。したがって、参加には少し躊躇する気持ちもあったが、何か新しいことを話してくれれば良いという阿川先生の言葉を信じて参加することにした。
この研究会は今まで接点を持つことが無かった方々とネットワークを築けたという点で実にありがたいものだった。メンバーの中で以前から面識があったのは慶應法学部の細谷雄一さんだけだ。メンバーになったのは、京都大学の待鳥聡史先生、大阪大学のロバート・エリドリッヂ先生、外務省の松田●さん、自衛隊の八木●さんであり、阿川先生が座長になった。そして、オブザーバーがそうそうたるものだ。山崎正和先生、猪木武徳先生、●先生、●先生、●先生である。
トルコ話が進んでいるとき、「ネットワーク政策」という授業のゲストとして渡辺智暁さんに来てもらった。渡辺さんと知り合ったのは2000年ぐらいではないかと思う。最初は金正勲さんが始めたメーリング・リストであった。情報通信政策を議論しようということで、声がかかったのだが、その時点では渡辺さんのことも金さんのことも知らなかった。二人はインディアナ大学の大学院でともに勉強しており、彼らの先輩にあたる金サンベさん(今は韓国のソウル国立大学の教授になっている)と私が友人だったので、彼が紹介したようだ。
その後、金正勲さんは日本にやってきて研究者としての頭角を現していくが、渡辺さんはその後もインディアナ大学に拠点を置いていた。私がワシントンDCに滞在していた2002年の正月、インディアナ大学まで妻と一緒に訪ねていったことがある。それが初めての対面だった。
さらに月日が流れて2006年、渡辺さんは博士論文執筆の最終段階に入っていたが、その時ちょうど、彼のお父さんが病に倒れるという事態になった。渡辺さんは論文執筆を一時中断して東京に戻り、お母さんと交代でお父さんの看病をするという生活になった。
渡辺さんはあまり自慢して回っているわけではないのだが、ウィキペディアの日本語版を発足当時から手伝っている。その関係でクリエイティブ・コモンズなどにも詳しく、私がクリエイティブ・コモンズ・ジャパンの活動に携わっていたときは、アメリカからたくさん手伝ってくれた。そうした知恵を拝借しようと授業のゲストに読んだというわけである。授業では80分の濃密な話と、10分の質疑応答をこなしてくださった。私にとっても勉強になった話だった。
この授業の前、少し二人で雑談をしたのだが、アメリカでの研究の国内消費(domestic consumpition)の話になった。私はそれをどうやって避けるべきか悩んでいたのだが、アメリカでの研究生活の長い渡辺さんのアドバイスをもらいたかったからである。授業が終わった後、その日の夜に渡辺さんからはアドバイスのメールをもらった。基本的には今までの私のスタイルでいいのではないか、あるいはそれを発展させる形でいいのではないかというものである。これには大いに勇気づけられた。渡辺さんは私が書いたものを熱心に読んでくださり、そして、おそらくその行間をも読み取ることができるまれな読者である。
その翌々日の土曜日、先述の通り、藤沢市民講座があったのだが、その日の午前中は、三田キャンパスで韓国の延世大学および中国の復旦大学から教員と学生が集まってワークショップを開催していた。それを午前中だけ聞いたのだが、そこから大いに刺激を受けた。あるグループが、豆満江開発にはアメリカの関与が必要だと主張していたからだ。
こんなところでもアメリカは求められている。アメリカという帝国の磁力が働いているのだ。私はひらめいた。やはり世界のいろいろなところからアメリカを見てみるとおもしろい。世界の人たちがアメリカをどう考えているのかを知りたい。帝国の磁力がどうやって働いているのか、なぜそんな磁力が存在するのかを考えたいと思ったのだ。この研究を可能にするためのプロポーザルを書き、ある財団に申請してみようと思い立った。
そして、これが書ければ、アメリカの人たちもおそらく知りたいに違いない。これをテストするためのケースとして2008年米国大統領選挙はまたとない機会だ。これで私は国内消費問題をクリアできるかもしれないと思い始めた。
11月26日、阿川学部長からメールが来て、村井純常任理事の代わりにトルコの首都アンカラに行き、シンポジウムでサイバーテロ対策について話をしてこいとのご下命があった。しかし、開催日が3月10日と11日というのがいただけない。3月1日にボストン入りする予定だったので、おそらくまだ生活は安定していないだろう。そんな段階でやるのはあまり得策には思えない。数日考えていったんはやめようと決めた。しかし、トルコという国には興味があるし、これまでとは全然違う人のネットワークができそうだということもあり、行くことにする。
村井研の秘書に連絡すると、日本国際問題研究所の藤原稔由事務局長を紹介される。藤原さんは外務省時代にトルコ駐在が長かったようだ。シンポジウムを主催するムスターファ・キバールオール先生が東大の鈴木達二郎先生に相談したら村井理事が紹介されたようで、村井理事は日程が合わないので阿川学部長に話を振り、阿川学部長はサイバーテロ対策なんて分からないから私に話を持ってきた。その間、キバールオール先生は村井理事から返事が来ないので、別の会議で会った藤原さんに連絡し、藤原さんが村井研をつついてせかしたということらしい。
藤原さんにメールを出したものの、数日返事が来ない。おかしいなと思ったものの、忙しさにかまけて放っておいたら日曜日になって返事が来た。なんと入院して手術を受けられていたとのこと。
藤原さんからキバールオール先生に連絡してもらい、その返事が藤原さん経由で転送されてきた。トルコ語での返事なので、藤原さんが翻訳を付けてくれた。それによると、費用は(妻の分も含めて)全部負担してくれるとのこと。これで費用の心配をする必要が無くなった。後は、いつ行くかだけだ。
キバールオール先生に私からも返信を書き、喜んで参加すると伝える。二日ほどしてから返信があり、正式な招待状を送るとのことである。程なくして事務スタッフをしているトルコ海軍のキャプテン(大佐か、一佐か、大尉か不明)からメールをもらう。15日土曜日に二つまとめて返事をする。
不思議なのは、私の「blood group」について書けと書いてあることだ。これは血液型のことなのか、あるいはエスニックなグループのことなのか、よく分からないので、返信に質問として書き込む。
この土曜日はちょうど藤沢市民講座があった日で、キャンパスに学生の数は少ない。メディア・センター(図書館)に行って、ボストンとアンカラに関係するガイドブックや本を9冊借りてきた。暇なときに読み進めよう。もちろん、暇なんか作らないとないのだが。
12月7日、UCバークレーのジョン・ザイスマン教授がRIETIで行われた講演を聴きに行った。ザイスマン教授はKさんを通じて連絡をとっていた先生であり、薬師寺先生の旧友でもある。講演会後の質疑応答では生意気にも最初に適当な質問をぶつけた。印象に残すための一種の戦術だ。講演終了後、名刺を交換して簡単に挨拶する。バークレー訪問のことはKさんにすべて任せるとのこと。一安心だ。
ところが翌日、Kさんから電子メールが来て、夕方、ザイスマン教授とお茶をしないかという話が来た。よく分からないが、もっと自己紹介をしろということだろう。自分の英語のホームページを印刷し、丸の内ホテルまで向かう。
1時間弱、自分がアメリカで何をやりたいのか説明する。インテリジェンスの研究をしたいと言ったのだが、なぜバークレーでやるのかと聞かれる。どうやら、インテリジェンスは筋の悪い研究で、あまり踏み込まない方が良いとのアドバイスだ。もしやるなら(政府で仕事をしている)薬師寺先生から推薦状をもらうとともに、何を研究したいのか明確にしてから来た方が良いという。インテリジェンスに関係しないことなら大歓迎だともいわれた。
そして、もう一つ。1年間アメリカで行う研究は、日本国内で食いつぶすためのもの(domestic consumption)なのか、あるいはグローバルに自分をイスタブリッシュするためなのか考えたほうが良いとのアドバイスをもらった。まさにその通りだ。この1年間で私の研究スタイルが決まると言っても良いし、この1年間で私の国際的な知名度も決まるだろう。アメリカで通用する研究成果を出さなくてはならない。そのためにインテリジェンスが良いのか検討しなくてはならない。
Kさんからも同様のアドバイスがあった。インテリジェンスというど真ん中に切り込んで行くと警戒されるので、むしろサイバーテロなどの研究の一環としてやったほうが良いのではないかという。それもそうかもしれない。私としては、このブログのタイトルにもなっている「帝国の磁力」をキーワードに、アメリカ文明論をやり、公文俊平の理論を展開させるようにしたいとも考えている。悩みどころである。
ザイスマン教授との会話は、自分の枠を考え直す良いきっかけになった。アメリカに行くまで、この点を考え続けなくてはいけないだろう。つまり、私は自分をアメリカでどう売り出すのかということだ。あるテーマについては土屋大洋が確実に浮かぶコンセプトが必要になる。これはMITメディアラボの石井裕教授が指摘していたことでもある。
MITでお世話になりたい旨、サミュエルズ教授に告げると、事務担当のロバートを紹介してくれた。ビザ取得のための手続きは彼と行うことになる。ビザ取得の手続きがとても面倒なことは分かっていたので早めに動き出した。求められたのは、パスポートのコピー、大学から資金手当てがあることの証明、サバティカルの間の給与についての証明、銀行の預金残高の証明である。これらを郵送やメール添付という形で送る。比較的順調に手続きは進み、11月末にはビザ取得に必要な書類がMITから送られてきた。
在日米大使館のホームページで非移民ビザの申請について情報を集める。これがなかなか複雑だ。意味不明の書類をたくさん書かなくてはいけないし、どれくらいの時間でビザが出るのかもはっきりしない。年内に西海岸への出張があるから、それが終わってからビザを申請するのがいいだろう。
問題はアパート探しである。2001年にワシントンDCに行ったときにはアパート探しに大変苦労した。今度は同じ失敗を繰り返したくない。しかし、3月という時期はアメリカの大学でアパートを探すには良い時期とは言えない。日本なら年度末で人の動きもあるだろうが、アメリカでは夏に人が動く。官庁からボストンに派遣している人が動く可能性もなくはないが、役所の人事も通常は6月とか7月だからあまり期待できない。
ロバートに相談すると、6週間前から探すといいという。しかし、絶対に物件を見ないで借りてはいけないというアドバイスをもらった。3月はじめに入居するとして6週間前となると1月である。1月20日ぐらいまで授業があるし、その後は試験や大学院修士の最終発表、ゼミ合宿などが続くのでまとまった時間をとるのは難しい。
ゼミ合宿が終わってすぐに、ヨーロッパへ出張に行く話がある。これに合わせてボストンまで出向き、アパートを探すということも考えたが、6週間前ではなく2週間前になってしまう。たぶん、時間的余裕があったほうが良い物件が見つかるだろう。MITのウェブにも情報が載っているらしいが、MITのIDをもらってからでないと具体的な物件を見ることができない。ボストン在住日本人向けの掲示板もあるので、そちらも定期的に眺めることにしよう。
ビザがいつ出るかはっきりしないのにアパート探しをするのも何だか難しい。複雑な連立方程式を解く気持ちだ。それも答えが複数あるからなかなか決まらない。