“デート”(糸井重里)をめぐる社会学的想像力:1991.3
 
1. 構造分析
2. 長嶋さんからの模範回答
3. ゲームの達人からの回答
-1 状況分析
-2 戦略:知性の差別化戦略
-3 戦略:美貌の痴呆化戦略
-4 戦略:“やさしさ”の戦略
-5 長時間プレイへの回答
4. 山口さんちのマサオ君からの回答
-1 モデルとしての「蒲田行進曲」
-2 長時間プレイへの回答
5. code99からの回答
6. code99:期末レポート"date"
4−1.モデルとしての「蒲田行進曲」

いじめっこの構造を理解するために、モデルとして、つかこうへいの『蒲田行進曲』を提供します。


ここでは、まず最初に、銀四郎はかつてのスター女優である小夏をいじめます。妊娠した小夏にたいして、銀四郎はどこまでも冷たくあたります。やっと映画で主役をとった銀四郎にとって、小夏は邪魔な存在なのです。これは、銀四郎の好き嫌いの問題ではなく、今のスター=主役の自分に似合った女性でない、ということだけで、妊娠した小夏にたいするいじめが開始されるのです。重要なのは、スターの銀四郎にかつてのスター女優は似合わない、というミスキャストの関係がいじめという演劇空間を創造している、ということです。

関係を、好き嫌いで考えるのは『ゲーム』であり、それは達人の話で充分です。ここでの『芝居』という関係は、似合っているかどうか、つまり『期待されている演技にどれだけ見事に応えているか』が問題なのです。銀四郎は、主役を演じることができるようになったスター(=自分)にとって、すでにスターの座を降りた小夏では、恋人として役不足だ、と思っているのです。しかもその彼女が妊娠したとあっては、銀四郎のスターらしさが一挙にしぼんでしまうではないか、これではスターらしい芝居ができないではないか、というのが銀四郎の主張なのです。これは、好き嫌いといったゲームの次元ではなく、どこまでも役割期待に沿っているか、という芝居の次元で小夏との関係をつけようとする話なのです。だから、その期待に沿うために、小夏をいじめるのです。いじめることが、銀四郎が小夏との関係を維持できる唯一の絆なのです。いじめの芝居だけが二人の関係を支える絆なのです。


いじめの関係は、役者の地位(格)によって決定されます。今のスターはかつてのスターをいじめ、かつてのスターは大部屋俳優をいじめます。そのいじめは役者の格とその差異によって生じる関係です。いじめは、何度も強調しますが、好き嫌いといったゲームとは関係ないところで維持される、役割の関係における表現形態なのです。ですから、大部屋俳優でしかないヤスは、虫けら同然の扱いが似合っているのです。いじめられることで、ヤスはこの世界での自分らしさの表現を獲得するのです。変な同情をされたら、それはかえって、ヤスの役者としての地位を剥奪することになるでしょう。

ヤスは、銀四郎の子供を宿した小夏を大切にします。どんなに、小夏から馬鹿にされようと、ヤスは小夏に尽くします。ヤスには、すべての不幸を背負うことでしか、自分としての『らしさ』の表現ができないことが分かっています。それが格の低い俳優が演じるべき演技(=期待)なのです。そこを逸脱したら、ヤスには何も残りません。勿論ゲームをしようとする自分がそこにはあっても、それはヤスを小夏と銀四郎に関係づける絆にはなりません。ゲームだったら、すぐに解放されるだけです。つまりそれは、いじめらるのが損だから、ヤスが銀四郎や小夏から逃げるというだけのことです。それが、たとえヤスにとって得なことであったとしても、だから何なんだ、と言われたら、それだけのことです。ヤスには何も残りません。そこでの逃走は死と等価です。

ヤスは最後に「階段落ち」を決意します。その芸は、大部屋俳優しかできない芸であり、しかも、それによって銀四郎のスター性を輝かせることになる芸です。ヤスは、スター(銀四郎)をスターらしくするために、大部屋俳優として最高の演技を見せます。それが、スターと大部屋俳優とのいじめ関係にかんして、大部屋俳優に期待されている演技なのです。“いじめ”には“どこまでも尽くす”というパフォーマンスしかありません。それが、いじめの関係を劇的な空間にしたてあげるのです。


ヤスの尽くす演技は、滑稽です。死を賭けたダイビングの階段落ちであるにもかかわらず、ヤスの演技はどこまでも喜劇のセンスで一杯です。ヤスが必死の表情をみせるほど、それは単純な悲しみの涙を誘うばかりか、いかにも道化といった笑いをも誘います。泣きと笑いの融合がみられます。ヤスは、階段落ちで、やっと銀四郎のいじめの演技に相応しい演技を完成します。そこには、ヤスの満ち足りた表情が窺えます。演技した快感がヤスの体中に走ります。満足は、期待にこたえた演技によっても得られます。

すべての不幸を背負って尽くすという行為には、いままでの流れ(いじめの方向性)を受け止め、それを逆流させるパワーが潜んでいます。そのポテンシャルが大部屋俳優のたくましさであり、その演技がスターを支えるのです。

銀四郎とヤスの関係は、銀四郎と小夏の関係でもあり、また小夏とヤスの関係でもあります。この3つの関係はすべて『いじめ/つくす』という関係で成立する演劇空間です。このような関係の束のなかで、はじめて愛の絆が保たれます。愛は、単純に二人だけのものではありません。銀四郎と小夏だけでも、小夏とヤスだけのものでもありません。三人の関係の束のなかで、愛が生き生きとします。この束がほどけて、ある関係だけが走りだしたら、愛は一挙に消滅するはずです。銀四郎と小夏とヤスの三人の関係で、愛は成立し維持されます。しかもその愛は、どの関係でも『いじめ/つくす』として表現されなければなりません。ですから、銀四郎は誰にたいしても『いじめ』の演技をすることが期待され、ヤスは対照的に誰にたいしても『つくす』演技が期待され、小夏は銀四郎には『つくす』演技、ヤスには『いじめ』の演技が期待されているのです。三人相互の役割期待の連鎖によって、三人の愛は成就するのです。一つの関係が崩れたら、愛は崩壊です。


愛は三人に共有された価値です。その価値のために、銀四郎はどこまでもいじめの演技に磨きをかけなければなりません。小夏は、アンビバレントな感情を示す演技を期待されています。銀四郎にはつくす女になり、どんなに邪険にされようとじっと堪えるふりが期待され、他方ヤスにたいしては、ヤスのハートを傷つけることを平気でする女にならなければなりません。それが、小夏に求められた愛の価値を実現するための演技なのです。そしてヤスは、銀四郎と小夏の罵倒に堪える演技をすることで愛の価値を実現します。すべてを受け入れることで、いじめられることが単純な意味での不幸ではなく、それを超越して深い至福に到る道であることを示します。だから、ヤスは最後のところでトリックスターにならなければならないのです。それが階段落ちの演技です。この、いじめられる男が見せる道化としての意地が、三人の愛を意味(価値)あるものに変貌させるのです。これによって、つくすことがいじめを超越し、いじめが本来的にもつ負の価値は一気に逆転され、いじめこそが愛の価値を形成するという構造が形成されるのです。

「監督、銀ちゃん、かっこよかったですか?
銀ちゃんのいいシーン、撮れました?」

つかこうへい『蒲田行進曲』角川文庫 P.210