|
2ー2《関係2》僕をめぐる男友達(=青春)の関係
共存性と曖昧性
物語のエピローグでは、僕の性的関係とは対照的な関係が語られている。それは僕と鼠とジェイの懐かしい友情(青春の思い出)の関係である。
この3人の関係は、強い絆に結ばれた男の真の友情といった「男らしい友人関係」からはもっとも遠い距離にある男の友情である。鼠は2人に「さよなら」も言わずに街を出ていってしまって音信不通であるし、そもそもジェイは僕や鼠と異なった人(年齢や国籍や生き方)であって、いわゆる友情を共有する資格すら危うい人だし、僕にしてもジェイズ・パーの力ウンターでビールを飲んでいれば「それだけでいい」という人で、友情へのこだわりなど気色悪がるだけである。
このように、この3人の友情は<希薄>であリ、完全にリアリティ感に欠けた偽物っぽい<虚構性>が目立つ。『嵐の歌を聴け』といわれれば、聴けそうな感じがするほど、気分だけで成り立つ細やがな関係である。さらに、物語のなかで獲得した大金の小切手をジェイに渡して、いつ来るとも知れないジェイズ・バーの共同経営者に死んだ鼠と一緒になろう、という完全に虚構的な関係に酔うことも忘れない。その結果、ここですべてのことが<共存>することが可能で、排他的になることもなく、またいつ終るとも確定できない<曖昧>で永続的な関係が維持される。死んでしまった鼠が永遠に生きられるのもこの関係においてのみである。
このような関係が近代的=私的所有から離れることて成立することは、3人の女性との性的関係との対照性を想定すれば、容易に理解可能であろう。『共有』する考え方を優先する時、友情は永遠の輝きをもつ。それが僕たちの『青春』なのだろう。
|