羊をめぐる冒険をめぐる解釈
僕=村上書樹のモダニティをめぐるシンボリック・アナリシス
 
1. 登場人物紹介
2 登場人物のおりなす関係
  -1 僕をめぐる性的な関係:排他性と完結性
  -2 僕をめぐる男友達(=青春)の関係:共存性と曖昧性
-3 羊をめぐる権力:“ゲーム”と“物語”
  -4 羊をめぐる交霊者の悲劇:権力と弱者
  -5 メディアとしての<物語環境>
  -6 コミュニタス・トラッドの世界
-7 ロンリークラウドの世界
  -8 とまどうハッピー・クエスターズの世界
  -9 メディアとしてのゲーム環境
3. 構造分析
2ー6《関係6》コミュニタス・トラッドの世界

運転手と先生(右翼の大物)と黒服の男は、この物語のトラッド環境に生きるメディアてす。外部社会からは<右翼の大物>と恐れられている人物も、このトラッドな世界では<先生>として運転手たちから共感され尊敬されます。

先生は絶対的でかつ包括的な権力者であるがゆえに、また権力者としてのパワーを充分に発揮してきたがゆえに、下からは強い共感をもって全面的な信頼と尊敬がもたらされます。先生には、矢敗はありえません。たとえ失敗したとしても、その貢任はすべて部下が背負うものです。ですから先生の威信と権威は傷つくことはなく、永遠に不滅な存在としてトラッドな世界に君臨します。

運転手はこの世界の安定と安全を体現するメディアです。自分のおかれた杜会的な位置を素直に疑うことなく全面的に受け人れるかぎリ、身も心も安定しています。僕が運転手とかわす会話には、運転手への温かい共感の意思がみられます。伝統的な杜会の善とは何か、その精神を滲ませる運転手には、僕も共感せざるをえないのです。

運転手(そして先生)とは対照的に、黒服の男はこの世界を組織・運営する役割を担わせるだけ、ダーティで損な存在(悪役)として描かれます。その悪役は、その行動が権力(先生)の運営と大衆(運転手)の操作という、きわめてモダンな性格をもつがゆえに、貼られたレッテルなのです。つまり黒服の男はこのトラッドな世界ではフリークであるために、悪役にならざるをえません。この世界では、ビュア・トラッドの運転手と先生は善玉であり、モダンすぎる不純な男は悪玉なのです。


このような環境のなかで、先生と黒服の男は死に、運転手だけが残ります。この物語は、トラッドな世界は最後には破壊されるように構造化されています。僕が黒服の男とのゲームに勝つとき、それはトラッドのメディア環境の死を意味します。