羊をめぐる冒険をめぐる解釈
僕=村上書樹のモダニティをめぐるシンボリック・アナリシス
 
1. 登場人物紹介
2 登場人物のおりなす関係
  -1 僕をめぐる性的な関係:排他性と完結性
  -2 僕をめぐる男友達(=青春)の関係:共存性と曖昧性
-3 羊をめぐる権力:“ゲーム”と“物語”
  -4 羊をめぐる交霊者の悲劇:権力と弱者
  -5 メディアとしての<物語環境>
  -6 コミュニタス・トラッドの世界
-7 ロンリークラウドの世界
  -8 とまどうハッピー・クエスターズの世界
  -9 メディアとしてのゲーム環境
3. 構造分析
2ー7《関係7》ロンリークラウドの世界

モダンであることを自覚し、だがらこそそこから逃げたいと願望しながら、まだモダンにこだわりをもって生きている集団が、“逸脱するモダン”のメディア環境です。この環境に生きる登場人物は、<相棒と鼠とジェイ>、そして僕である。

かれらはモダンに典型的な“組織人”としての行動ができす、組織のおこぼれをもらって生活する杜会的な逸脱者です。かれらは、しかもそのことをしっかりと自覚しており、しかもその自覚に、やや歪んではいるが、それなりの自負をもってします。かれらには、「真面目に、無駄なく、我慢して、大きく」生きることが素直に素晴らしい人生だとはもはや思えません。「がむしゃらに前進あるのみ」という思考には、どこかで戸惑うものを感知する恥じらいのセンサーがあったのか(僕)、それとも豊かさをすでに子供のときに経験してしまったからなのか(鼠)、それとも前進を阻まれた苦い体験から逃げるだけなのか(たぶん相棒)、それとも前進する資格すら与えられないからなのか(ジェイ)、その理由はさまざまではあっても、「ただ前進のみ」を強要するモダンの精神には疲れを感じたのでしょう。「もう逸脱のレッテルでもなんでも勝手に貼ってくれ」と、少し情けない声をだして虚勢を張るのが僕であり、3人の友人です。

この物語は「青春にさようなら」がテーマだから、本来ならば、その決別は大人になるとを意味するはずです。「もう大人なんだから、髪を切ってまともな組織人(そしてまともな家庭人)になろう」ということなのに、かれらの決別はモダンヘの恭順の誓いにはなっていません。

鼠は、死を選び
相棒は、酒に潰れ
ジェイは、永遠にバーにこだわる

永遠の青春が夢に過ぎす、だからモダンの世界に大人となって参加しなければならないのに、そうしたくない場合どうすればいいのか、この3人が教えてくれます。
青春を永遠にするには夢の世界に封じ込めることです。鼠はそうして死を選びました。
現実的な対応戦略としては、一時的なモラトリアムを採用することです。妻子を養わなければならない現実を抱えた人には、これはかなり有効です。相棒のアルコールの戦略は賢明な策です。ただしこの戦略も中毒化の危険があるので、注意が必要でしょう。
現実的でかつ永続的な対策を望むならば、モダンの陰を探すことです。ジェイの戦略がこれです。ジェイは、夜の裏世界に潜むバーの経営者であることに満足することで、モダンの逸脱者(ロンリー・ウラウド)として生きることが許されます。

そして僕は、ダンス・ダンス・ダンスを続けます