羊をめぐる冒険をめぐる解釈
僕=村上書樹のモダニティをめぐるシンボリック・アナリシス
 
1. 登場人物紹介
2 登場人物のおりなす関係
  -1 僕をめぐる性的な関係:排他性と完結性
  -2 僕をめぐる男友達(=青春)の関係:共存性と曖昧性
-3 羊をめぐる権力:“ゲーム”と“物語”
  -4 羊をめぐる交霊者の悲劇:権力と弱者
  -5 メディアとしての<物語環境>
  -6 コミュニタス・トラッドの世界
-7 ロンリークラウドの世界
  -8 とまどうハッピー・クエスターズの世界
  -9 メディアとしてのゲーム環境
3. 構造分析
2ー9《関係9》メディアとしてのゲーム環境

『羊をめぐる冒険』の<冒険>には、物語とゲームがあります。物語としては、僕は耳のモデルと一緒に、鼠を探すという青春物語を創造します。これにたいして、ゲームとしてほ、僕は、羊(=鼠)と獲得するという権力ゲームを展開します。

僕にとってのゲーム環境という視点からみると、その用意をした相棒と黒服の男が重要です。相棒は、実際にはゲームに参加しません。かれの代わりに、耳のモデルが僕と一緒に羊探しをします。そしてその耳のモデルを『ダンス・ダンス・ダンス』のなかで殺したのが五反田くんなので、ここでも五反田くんに参加してもらいます。

なにしろこの冒険では“3”が隠された記号なんです。

相棒は、僕を耳のモデルに会わせる………………メディアです。
黒服の男は、僕に鼠を探させる……………………メディアです。
五反田くんは、僕に耳のモデルを探させる………メディアです。

本来ならば、僕は相棒と一緒に鼠を探すべきなのでしょうが、これでは男ばかりになってしまって物語としてはつまらなくなるので、相棒に代わる女性が必要だったのです。では女性ならば誰がよいのがというと、相棒との意味的に<同型性>の基準からすれば、妻が最適なのでしょうが、これではあまりにも物語としての「ふくらみ」に欠けるので、妻と僕との開係に離婚という状沢を設定することで、妻の登場場面をなくしたのです。ですから耳のモデルの登場には、相棒に関係しながら、相棒とは異なった意味をもつ女性という条件が必要だったのです。

しかし耳のモデルは、この冒険の最大のクライマッウスでは排除されてしまいます。その直前までは僕と一体化して主役を演じていたのに、僕と鼠が再会するクライマックスになると、彼女は邪魔者としてあっさりと切り捨てられます。でもよく考えると、それは当然です。僕と鼠の関係は、基本的にはジェイや妻が相棒に共振する意味世界を背景にもつので、耳のモデルがいたのでは、意味の論理が通らないのです。彼女はあくまでも脇役なのです。つまり彼女の排除によって、相棒と僕が鼠を探すという基本パターンに戻るのです。それではあまりにも耳のモデルが可哀相ではないがというので、その後に耳のモデルを探す『ダンス・ダンス・ダンス』が書かれたのでしょう。ここでは、鼠から耳のモデルにクエストの対象が変化していますが、<クエストと死>のテーマは共有されており、違いは登場人物の世界の中心をロンリー・クラウドがらハッピー・クエスターズの世界にシフトさせただけです。その結果、ここでは僕と五反田くんの関係が、僕と相棒の関係から<変換>され、しかも構造としては<継承>されています。