羊をめぐる冒険をめぐる解釈
僕=村上書樹のモダニティをめぐるシンボリック・アナリシス
 
1. 登場人物紹介
2 登場人物のおりなす関係
  -1 僕をめぐる性的な関係:排他性と完結性
  -2 僕をめぐる男友達(=青春)の関係:共存性と曖昧性
-3 羊をめぐる権力:“ゲーム”と“物語”
  -4 羊をめぐる交霊者の悲劇:権力と弱者
  -5 メディアとしての<物語環境>
  -6 コミュニタス・トラッドの世界
-7 ロンリークラウドの世界
  -8 とまどうハッピー・クエスターズの世界
  -9 メディアとしてのゲーム環境
3. 構造分析
3.《構造分析》離婚・青春・セックス・権力

『羊をめぐる冒険』におけるさまざまな関係をみせてきました。このような関係を構造化して解釈すると、どうなるのでしょうか。

<モダンがらのズレ>という構造化の視点が発見できます。この物語のすべての登場人物がモダンであることから逸脱しています。そのズレは、しかし三様です。

コミュ二タス・トラッドは、そもそもモダンの発想を解読する視点をもちません。先生と運転手のセットは、その典型です。

ロンリー・クラウドは、モダンの視線を理解しているからこそ、モダンからの視線に辛い思いをします。ストレートな生き方がモダンのあるべき姿と知りながら、蛇行しかできないロンリー・クラウドは、どこかに痛みをもって生きていかねばなりません。僕と鼠、妻と相棒、そしてジェイは、いつも“はずれ”意識をもっています。

とまどうハッピー・クエスターズは、僕たちに較べると、あっけらかんとしています。かれらにモダンかの逃走に恥じらいはありません。逃げることに平然としています。その強さは僕たちには羨ましいものでしょう。

こうして、構造がきまります。


では、モダンからのズレとは、何なのか。それは性的関係と権力関係、俗にはセックスと暴力です。モダンの世界ではルールの基本的精神は禁欲と理性であり、セックスと暴力はタブーです。家庭と仕事、そこでの妻と夫は娼婦とヤクザではありません。

夫は、一人の妻を永遠に愛し、
妻も、一人の夫を永遠に愛す。
主人は、仕事に全精力を傾け、
主婦は、家庭の維持に努める。
父は、知の神として範をなし、
母は、鬼になって青児をなす。
男は、権力よりも機能を信じ、
女は、性愛よりも情愛を好む。

『羊をめぐる冒険』の構造的テーマは、セックスと権力の話です。プロロ−グで語られた僕と3人の女性(寝る女→離婚した妻→耳のモデル)の性的関係の話は、変換されて、権力(星斑の羊)をめぐるゲームと物語として展開されます。つまり性的関係と権力関係は構造的には同型であり、3人の女性をめぐる話と全く同じことが、男の世界に変換されて、繰り返して語られているのです。男と女の関係におけるセックスと、男同士の関係における暴力的権力とは、ともにモダンの世界ではタブーなのです。

しかもここでのセックス話の告白は、一夫一婦制の否定(誰とでも寝る女/不倫に走る女/コールガール)を自明としておリ、語リ口のまろやがさとは対照的に、モダンの時代精神への激しい嫌悪を表明しています。

同じように、権力関係のゲームと物語でも、競争者であり、悪役でもある「黒服の男」はインテリ・ヤクザそのものですし、右翼の大物はヤクザのドンです。その戯画化された表現は、権力関係がモダンからいかにズレたものであるか、を理解しやすくするための操作なのでしょう。羊博士から右翼の大物そして鼠への権力そのものの移行は、権力関係がいかにモダンの時代精神からずれているかを示すものです。もっともこの権力の移行の順序は、性的関係の発生順序と異なっています。


構造的には、このような移行が循環するものだとすれば、近未来的な耳のモデルと戦前の羊博士との時間のズレは間題ではありません。両者は、同型なんです。

離婚と青春、これが最後の切り札です。

性的関係を暴露した3人の女性のながで、もっとも重要なのは離婚した妻です。耳のモデルはメイン・ストリートにも登場するので、彼女との開係がもっとも重要なのかな、と思わせますが、彼女はカモフラージュにすぎません。ぞの証拠に、彼女は『ダンス・ダンス・ダンス』の主人公なんです。ここでは、<僕と妻>の関係がテーマです。

なぜ、僕と妻の結婚生活は失敗したのか。その謎を解くために、メイン・ストーリーにおいて僕は冒険を強要され、クライマックスで僕が鼠に再会するシーンでは鼠の死が無情にも設定されているのです。

僕は、妻との結婚についに失敗した。
僕は、鼠との青春に封じ込められた。

セックスと権力のストーリーという大きな流れのなかで、さらにそれに共振する構造テーマとして、《離婚と青春》があります。


永遠の青春に封じ込められるとき、僕には「大人になる」分別がなくなります。組織人として真面目に働き、結婚して健全な家庭を築こうとする「大人らしさ」がなくなります。だから30歳近くなっても、鼠との再会を求める子供っぽい冒険が開始されるのですし、同時に離婚という事態も発生するのです。青春へのこだわりは、真面目に・無駄なく・我慢して・大きく生きることを拒絶します。だから核家庭は崩壊し、無意味な子供じみた冒険が展開されるのです。

『羊をめぐる冒険』は、永遠の青春物語だからこそ、離婚という悲劇(モダンの価値基準から判断すれば!)を呼ぷのです。とすると、離婚と青春へのこだわりは構造的には同型なんです。

村上春樹は、とても危険な作家です。