羊をめぐる冒険をめぐる解釈
僕=村上書樹のモダニティをめぐるシンボリック・アナリシス
 
1. 登場人物紹介
2 登場人物のおりなす関係
  -1 僕をめぐる性的な関係:排他性と完結性
  -2 僕をめぐる男友達(=青春)の関係:共存性と曖昧性
-3 羊をめぐる権力:“ゲーム”と“物語”
  -4 羊をめぐる交霊者の悲劇:権力と弱者
  -5 メディアとしての<物語環境>
  -6 コミュニタス・トラッドの世界
-7 ロンリークラウドの世界
  -8 とまどうハッピー・クエスターズの世界
  -9 メディアとしてのゲーム環境
3. 構造分析
2ー8《関係8》とまどうハッピー・クエスターズの世界

モダンそのものにサ∃ナラを言ったのが、羊博士と羊男です。この二人では落ち着きが悪いので、『ダンス・ダンス・ダンス』からもう一人借用します。それは、耳のモデルを殺した五反田くんです。

モダンを無視して生きるのが、この3人です。

羊博士は今ならば元祖オタクで、羊抜け後の博士は、モダンからすれば完全に降りたすが、その視点を無視すれば、膨大な知識をもって無意味な世界を探求する巨人です。羊博士は、知的な世界での常議では無視されても、その常識自体を疑うことができる人からすれば、恐ろしいまでの知的パワーを発揮する、天才バ力という両義的な存在です。

羊男も両義的です。羊と人間という2つの存在を同居させています。かれも世間の常識から無視されて生きています。かれには、戦争回運のためにそうなったというかなり生々噂がありますが、それを無視すると、浮浪仙人のような生き方をしています。都会にいれば汚い浮浪者のような風貌なのに、厳しい自然環境に生きることでなぜが仙人のような悟った高潔さを漂わし、人間でありながら羊でもあることに矛盾を感じない男/牡です。だからこそ、羊男は鼠に自分の身体を貸す(いわば恐山のいたこ)ということまでできたのでしょう。物語のクライマッウスである僕と鼠の出会いのシーンで、羊男が果たした役割は決定的に重要です。

かれらは、とまどうのだ
かれらは、ハッピーなんだ
かれらは、クエスターなのだ


かれらは世の中から逃走する。組織とも核家族とも縁を切って、自分の世界にこもる。それしか生きる方法はない、という絶望を背負いながら、あっけらかんとする潔さをもって、かれらは自分だけの閉塞的な世界を愛する。だから、外部との接触には戸惑いながら、あくまでも無関心を装い、閉塞的な完結性の世界では無意味な探究に凝り、満足する自分に安心する。

僕は、世界のおわりに憧れる
僕は、ハードボイルド・ワンダーランドの世界に疲れる
僕は、とまどうハッピー・クエスター“のようなもの”である

でも、僕は羊男ではないし、羊博士でもないし、五反田くんでもない。僕は、僕でしかないことで、物語を語らざるをえない。それが、僕の『羊をめぐる冒険』なのだ。