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60年代を生きた世代は、ラディカルが好きです。
いまの人は、それを”レトロね”と冷やかします。
ラディカルとレトロの落差には、障壁を感じます。
この調査は、そんな世代のズレが産んだものです。
もしも、よろしければ、つきあってみてください。
”おんな”という記号に快楽があるのかないのか。
ヌクヌクの家庭から、働く苦行に入っていくとき、
女たちは、いかなる幻想に酔おうとしているのか。
自立のカードに隠されている意味は何なのだろう。
落書気分でこの調査に協力していただけるならば、
うれしい。
余白はどこでも、あなたの為の落書スペースです。
どんな思いでも好き勝手に主張してみてください。
これでも新しい生活世界を創ろう、とする気分だけは負けません。
女になんて、ふん、女のくせに。 |
落書気分で協力してくれた人が、1007名います。かれらは単なるサンプルではなく、”親切なひとたち”です。かれらは、ぼくたちとのコミュニケーションを楽しんでくれた人たちであり、調査目的に利用されるだけの断片化された”もの”ではありません。だから1007名の思いをどう解釈するか、を大切にしなければと思います。
調査は、【女のくせに】というタイトルで、1987年10月−12月に実施されたものです。調査に参加してくれたスタッフは、日本大学文理学部の社会学専攻の学生たち10名で、社会調査法演習の授業に出席してくれた学生たちです。
女たちが、はたらく。なぜなのか。
女たちが外で働いている。では、すべての女が働くべきなのか、それとも仕事が好きな女性だけが働けばいいのか。
<価値規範/コードとしての女の仕事>にかんして、多くの共感がえられつつある。女たちが働くことは良いことである(少なくとも悪いことではない!)という理解は多くの男性の間でも承認されつつある。もちろん専業主婦しか認めない意見(女の最高の幸せは結婚して家庭に入って、夫に尽くすことだ)も、まだそれなりの勢力を維持してはいるが。
一応ここでは女たちが働くことは許容されたとしよう。では彼女たちは、仕事好きな女性が勝手に仕事をすればよかろうという<欲望/ニーズとしての労働>を考えているのだろうか、それともすべての女性が仕事をもつべきだという<制度/コンテクストとしての労働>を期待しているのだろうか。女の仕事にかんして、一歩進んだところに踏み込もうとすると、分からないことがじつに多い。たぶん彼女たちも、まだ戸惑っているのだろう。
経済的な必要といった制約を除いたとしたら、女性が働くことに求めているものは何なのだろうか。
”生き甲斐”という不思議な響きをもった新しい幻想に酔うことなのか、それとも素直に男たちとの激烈でマゾ的な労働=快感ゲームを楽しむためなのか。野暮な意地を見せて、雇用均等法に殉じるつもりなのか、ついに家庭に閉じ込もることのつまらなさに気づいてしまったのか。あるいは自立というキーワードを拾って、子供を持てる決心をしたためなのか。単に、社会の表層の変容と戯れ、流されているフリをしているだけなのか。
もしかしたら、男たちがそそのかしているのかもしれない。
さまざまな擬間をもって、女が働くことの気分と顔色をうかがおう、というわけです。これがクエストする意味です。
<核家族>は、みんなが豊かな社会への階段を懸命に登っているとき、その豊かさの幻想を獲得するのに最も合理的で効率的なシステムとして機能していた。誰もその自明な約束事を疑うことはなかった。働くのは男の仕事と決められ、女は家を守れば、それでいい。これが核家族に課せられた暗黙のそしてあまりにも自明すぎるルールであった。
ここでは<働く女性>は社会的逸脱のレッテルを貼られていた。そのレッテルからかろうじて逃れることができたのは、未婚の女性(ずっと未婚のままでいる、という高等戦略をとった腎い女性もいました)であり、働かざるをえない状況(例えば、離婚して子供を抱える女性)にある女性だけであった。だから、未婚の女性が結婚すれば、彼女が働く世界から消えるのは彼女に課せられた当然の役割期待でした。居残りでもされたら、会社も家庭も、みんなピックリしたし、困ったことになったと悩んだはずです。そのような最悪な事態を防ぐためにも、みんな(正確には、ものわかりのいい男と女)のレッテル貼りは強烈なものでなければならなかった。この余波が、永久未婚戦略の女性に及んだのは十分に予想されることでした。親を巻き込んだ”恥”という脅しのカウンターパワーは、想像を越えたものだったはずです。だから、<核家族>は永遠に不滅です、と誰でもが信じていました。パーソンズも、核家族は最小の家族単位であり、家族の最後の砦だ、なんてことを言っていました。
しかし、あっという聞に、現実という重たい尻でさえ、核家族を嫌い呪いそしてもう放棄しようとしています。そのため、核家族も一つの家族形態にすぎない、といった程度の前線後退で許してもらうという戦略転換を謀っています。それしか核家族が生き延びる策はありません。
そこで、おんながはたらく、ことになりました。女の仕事のスタートと核家族の衰退は、表裏一体です。核家族というコンテクストを無視して女の仕事を語ることはできません。「女の仕事と核家族」の進出と衰退のゲームは、さらに男の組織を揺がします。組繊のなかを女が自由に闊歩するようになり、住みづらくなったばかりか、組織だけに熱中することが許されなくなり、なぜか家庭の細々とした事件にも口を出すことが期待されるようになりました。すると、「男の仕事と組繊」が変わることになります。これは、もう近代社会の価値と制度への反逆になりません。
女たちの仕事は、はたして単なる<女のくせに>なのでしようか、それとも<女らしい>ことなのでしようか。女たちがいまどんな気分と顔色を示しているか、をかなり実証的(=まじめ)にクエスト(=あそぶ)してみることにしました。
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