女のくせに
 
序論
1. 前提という制約
2. 欲望としての仕事か、仕事の制度化か
3. 男らしい仕事、なにが
4. 女たちの”じりつ”神話
5. 組織、という罠
6. 子供たちの、におい
7. ”おんな”のレッテルの常識 
8. ”HANAKO”と『ぱなな』
9. 近代の超克:冗談っぽく、真面目に
10. 女のくせが交響させる、さまざまな顔
6.子供たちの、におい

(A)子供と結婚、そして罠と枷

女性が働くことは、結婚と子供という2枚のカードを放棄する覚悟さえできれば、さして困難なことではない。組織の男からすれば、若い女の子がいいから、成熟した女性には嫌味の一つも言いたくなるが、そんな戯言に耐える度胸さえもっていれば、仕事を続けることは充分に可能である。いざとなっても、今では男女雇用機会均等法が女性たちを守ってくれる仕組みが整備されつつあるので、さして不安になることはない。
問題は、≪結婚という罠≫であり、そして≪子供という枷≫である。この罠と枷がパワーを発揮しているかぎり、女性が家庭から離れて自由に働くことは困難である。現状では、結婚する男性の『理解という”きまぐれ”』に依存してしか、彼女たちは働くことができない。それは、働きたい女性にとっては辛い制約条件である。
女性が仕事をするとき、組織という敵が立ち塞がるばかりか、味方がしっかりと足を引っ張ってくれるような仕組みになっている。それが核家族という家族形態である。そこでは夫という役割は「お前は、まずは俺の妻であれ!」とほざいて、彼女の足を引っ張り、子供という役割は「お母さんが家にいないと、淋しい!」と涙を流し、彼女の仕事への情熱に水をかける。夫と子供が共同戦線をひいて彼女の足を引っ張るとしたら、どんなに組織が優しいまなざしを贈っても、妻と母の役割セットは仕事する女の役割を放棄させよう。こうして、専業主婦ができあがり、夫は安心して仕事に出かけ、子供は安心して学校にでかける。主婦の苛立ちには、夫も子供も目を閉じて、気づこうとはしない。

結婚して子供のいる生活を前提とするとき、女性たちは、仕事をすることをどのように考えているのだろうか。生活と仕事のジレンマを、彼女たちはどのように調整しているのか、以下に分析する。

1.結婚そして出産。ここまで進むと、生活のにおいがやっとにじみでてきます。これが、働くことにとって、どのような影響力をもつのか、不安はつきません。現状の社会では、生活臭は、働く能力を阻害する、という矛盾を女性にもたらします。どうしたら、よいと思いますか。

1.結婚の罠

A) 女性は、結婚を契機に仕事をやめるのが賢明である。どうあがいでも、現状では、仕事をとるか、家庭をとるか、の選択しかない。偉そうに、二兎を追っても、失敗するだけである。

支持する。現実の重さを無視はできない

そんなのは自明だ、そこをいかにブレークスルーできるか、が問題なのだ


男は、結婚すると、不思議と「夫らしさ」に憧れ、そのシンボリックな表現として、「俺の稼いだ金で、おまえを養っているんだぞ」と叫べるような場をすぐに創出しようと頑張ります。それが《専業化》という戦略である。「俺は、外で働く。だから、おまえは家を守れ。それが女の勤めだし、女にとって最善の幸せなのだ。」と説得します。
このような”夫らしさ戦略”も、最近の傾向から判断すると、若干の無理があるようだ。ここでも、過半数以上が、「仕事か、それとも家庭か」の二者択一には疑問を感じ、そこをブレークスルーするためのロジィックを模索している。しかもその模索にはジェンダーの相違は、ほんど意味がない(1%水準では、有意な相関にはなっていない)。男の学生でさえ、「現実の重さを知れ」とカノジョにアピールするほどの勇気はないようだ。55.1%の男性が「現実の重さは自明だ。そこをいかにブレークスルーできるか、が問題なのだ」と発言している。かれらでさえ、「やはり仕事は楽しいし、家の中でじっとしていても、つまらないだろう。専業主婦は、何が楽しくてやっているのだろう」と、自分たちの不利は省みず、ふと優しさを示している。
女性(64.6%)は、男性以上に、仕事か家庭かの選択そのものに”NO”と発言している。彼女たちにしてみれば、結婚を契機に全く異なった生活に入ることは納得しがたい矛盾なのであろう。そこで待ち受けている専業主婦の役割が、「楽しい」ものではなく、「真面目で、しっかりとした主婦・妻・母」であることが美徳とされた過去完了形に近い演技の台本である以上、家庭に”入る”(そして、永遠に”でられない”)ことにためらいを感じるのは当然であろう。
彼女たちは、いま二兎を追うことに、矛盾を感じない台本を探している。仕事も家庭も平気で両立させるトリック探しに夢中である。それは核家族ではない形態である。

2.仕事の代償: 犠牲 断念 苦悩

B)女性が、どこまでも仕事を続けたいならば、結婚や子供をもつことを断念すべきだ。それが、仕事の代償である。自分の欲求だけで、夫や子供に不幸を与えてはならない。

その通りだ。犠牲になることの大切さを知るべきだ

子供をもつことは断念すべきだろう。DINKSならば、いいではないか。ネコを子供だと思って可愛がろう。

苦しみは、仕事を続ける女性にあるのだ。その苦悩を子供も含めて乗り越えるのが家族ではないのか。だから、子供をもって、仕事を続けたい。確かに、理想論ではあろうが。


ここでも仕事の代償を、「結婚をしない」とか「子供を断念する」といった現実的な妥協策に求めることには、かなりの反対がみられる。一応、理想論を支持しようとする勢力がメジャーである。「苦しみは、仕事を続ける女性にある。その苦悩を子供も含めて乗り越えるのが家族だ」という選択肢にたいして、女性は66.7%が共感を示し、男性も62.8%が支持している。かなり高いスコアである。
DINKSの妥協案は、若い世代には現実的な方策としてかなり説得力があると思われるが、ここでは支持率がもっとも低い。ジャーナリズムが叫んでいるほと、普通の人は「子供をもつこと=家庭」のイメージに固執しているのだろうか。一般的傾向としては「犠牲になることが大切」という保守派の意見の方がDINKSよりも多くの支持を獲得している。とくに男性の場合、かれらが大学生であり<おじさんではない>にもかかわらず、DINKS支持がたった6.8%で、「犠牲が大切」(もちろん犠牲は女性に強いるもの!)にはその5倍近い30.4%の支持が集っている。男たちは、家庭にかんしてまだまだ保守的なイメージにこだわっている。
理想論は、女性の仕事と家庭の両立を求める。しかもその間に子供という十字架を背負う宿命をも選びとるのだから、安直な両立ではない。苦悩に生きるクルセイダーズである。「家庭である以上、子供を創ることは、家庭の存立に不可欠な条件であり、そのためにはいかなる苦労も厭わない」という気負いが理想論にはある。このメジャーな家族論には「子供なしの生活は嘘だ、あるいは空虚だ」といった発想が潜んでいる。伝統的な家族ではないから「子は鎹(かすがい)」とは言わないが、子供を媒介にして苦労・苦悩を共有する「つらい家族ごっこ」を経験しなければ本物の家族にはなれない、という思いが理想論にはみえる。もっとも、なぜこのような苦悩をわざわざ背負うクルセイダーズの家族を理想論とレッテルを貼るのか、については議論の余地が多過ぎるので、ある視点からすれば、といういい加減な逃げで論争を回避しておく。
確かに子供の有無は家庭の存立を語る場合避けて通れないテーマである。

子供を断念した気楽なDINKSになるのか、

子供のために女性を犠牲にする核家族か、

それとも苦労好きなクルセイダーズごっこなのか、

この選択には終りがまだみえない。

3.核家族の危機

C) 仕事にこだわるならば、家族の形態には妥協が必要であろう。核家族の幻想ではやっていけない。ジジ・パパを含んだ大家族しかなかろう。とくに、パパを大切にし、家事のメインになってもらうしかなかろう。家庭はジジとババが、パパとママ抜きで、孫とセットになって維持してもらうことしかない。パパとママは家のローンを稼いでくれれば結構です。

もう核家族では限界です。ババ抜きは過去のことです

あくまでも核家族にこだわりたい。親との同居はお互いの自由を剥奪し、よくない。子供の世話は、保育園やヘビーシッターで解決できるようにしなければならない。理想論か。


ここではジェンダーの影響力がみえる(1%水準で有意な相関)。男性は、その63.4%が「もう核家族は限界だから、ジジパパと同居」しようと提案している。これにたいして、女性はその48.9%が「あくまでも核家族にこだわり、核家族の砦だけは死守したい、三世代同居は我慢できない」の立場を堅持しようとしている。ただしこの立場も女性の間ではややマイナーではあるが。
男たちは、女性の仕事を前提とすると、簡単に核家族にギブアップしてしまっている。「女性の仕事を認める代りに三世代同居をのめ」といった交換条件をつきつけ、男たちの負担はいままでと変わらずという戦略を採ろうとしている。ここには男の気軽な立場が生活の現実をいかに甘くみているか、が分かる。
最近、流行りの二世帯住宅(三世代同居)の発想は、大勢としては支持される方向にある。ここでも大勢は三世代同居に解決策を求めている。
核家族の思想は、女が社会に出ると主張し始めることで、脆くも崩壊する。「どんなことがあっても、核家族で頑張ろう!」と妻が言っても、夫たちは「子供のことを考えたならば、誰か面倒を見てくれる人がいなければ、不安だ、僕は仕事に専念できなくなる」と主張し、その結果妥協として「自分たち(正確には妻)のジジ・パパ(できれば、ジジはいらない)が面倒な世話をやってくれれば、これに勝ることはない」ということになる。いつも親族の中で解決しようとする発想が強い。ここには、子供は何といっても「血の繋がり(結束)」で育てるのがベストだ、というかなりのアナクロニズムが潜んでいる。
これでは、いままで頑張ってきた核家族の思想は何だったのだろうか、という疑問が沸いてくる。血縁という血の濃さは、どこまでそのカを温存しているのだろうか。不死鳥のごとく再生する「血とイエ」は、女性の仕事を陰でコントロールするお化けなのかもしれない。

4.行政の怠慢

D)行政にも、意識の改革が求められなければならない。たとえば、保育園や小学生の授業後の面倒にかんして、行政はもっと働く女性の味方にならなければならない。極端なことをいえば、子供の保育にかんして24時間体制までを考えるほどの発想の転換が必要であろう。

子供は、その親が育てるのが基本である。とすれば、保育時間の延長のような形態は、改悪にすぎない。それは、子供を駄目にする。

子供が親とべったりしているのは人類の歴史からみても異常なことである。子供は子供の世界を大切にすべきなのだ。だから行政の頭の切り換えは、当然のことである。


行政はしっかりと自分たちの味方を確保している。このデータが示すように、圧倒的に「子供は、親が育てるものであり、行政に頼ってはいけない」という結果になっている。男性は、その78.1%が、女性の場合は70.3%が、「子供は親が育てるのが基本である。だから行政による保育時間の延長などは制度の改悪である」と発言している。これでは、女の社会的進出は「核家族から拡大家族への後退」(つまり祖父母と同居して、孫の世話を頼む)によってしか解決できない。つまり家族形態が昔の伝統的な世界に戻ることによってしか、女性の仕事への進出という新しい時代の試みはもたらされない、という矛盾がここに露呈する。その結果、矛盾は「ジジパパとの同居が嫌なら、キミ(女)は内にあって家を守れ、だってキミが”働きたい”と言ったんで、ボクが働いてくれと頼んだわけではないのだから」という家庭内で問題とされるだけで、行政は高見の見物をして楽しむだけである。ここには新しい解決のルートが発見できない。
すべての解決の鍵は、行政の制度改革にあるのに、それを主張しないところに、女の仕事をめぐる弱い現実がある。これでは行政は喜ぶだけで「そうだろう、子供には母親の温りが全てだ、行政には何もできない。」と逃げるだけである。この発想は、「高齢化社会にあたって、老人の看護は子供が看るのが最適である」という主張に共通するもので、すべての解決を既成の家族の枠内で処理させようとする、行政の怠慢以外の何物でもない安易な発想である。しかも、それを正当化するような結果が、上記のデータである。役人がほくそ笑むのが、よく分かる。
子供と親の絆は、他の第三者が介入できない神聖な絆なのだろうか。もしもそうならば、女性は母親として子供のために家庭を守る人に専念すべきである。
核家族の神話は、夫婦の絆(愛)と親子の絆(血)の不可侵性を前提にして生成された家族の物語である。そこでは他の誰も侵入できない防御壁として「愛情と血縁」が共有されるとき、核家族のメンバーは安心してそれぞれ自分に相応しい専門的な役割(外で働く夫/内を守る妻)を遂行するのである。
核家族の神話を支える「愛と血」について、すでに愛の絆にはかなりの破綻がみられるが、親子の絆の方は相変らずその神聖なパワーを維持している。親子の絆への自明性をそろそろ疑う時期に入っているにもかかわらず、それはまだタブーとなっている。だからそれを補うために、伝統的な家族の復活が叫ばれたりするのである。しかし問題は、親子の絆をいかに柔らかなものに変換できるかであり、血のつながりを絶対視するのではなく、行政を含めてさまざまなメディアがその絆にコミットできる方法を探すことである。そのとき、女性は自らの意思で働くことにためらいがなくなるはずである。

5.おんなの弱味《組繊と子供》

E) 働くことの在り方を変更することも必要でしょう。なぜ組織でなければいけないのか。女性にふさわしい仕事の場を再考する時期にきているのではなかろうか。”職場で子供が暴れる状況”を考えるのも楽しいのでは。

仕事はそんなに甘くはありません。仕事は仕事です。

仕事が遊びや生活と融合するようにしていくことが大切なのです。もう組織だけで仕事をする時代ではありません。


ここではジェンダーの影響力がみられる(1%水準で有意な相関)。仕事場に子供はいてはならない、「職場は職場であって、遊び場ではない」という機能分化の発想は、女性の方が強く意識している(61.5%)。これにたいして男の学生の方は新しいセンスを示している。男性の49.7%が「仕事と遊びの融合を求めた新しい組織形態を模索すべきだ」という意見に共感している。この意見にたいする女性の共感は38.5%にすぎない。
このような事実は、前述した『組織の罠』で展開してきた論旨と明らかにズレている。そこでは女性は既成の組織に強く否定的で、男性が保守的であったはずである。にもかかわらず、ここではその反対に、女性が既成の組織観にこだわり、男性は脱組織の方向性に共感している。この矛盾は、とのように解釈されれば説得的なのだろうか。
組織と自分(大人)との関係ではなく、《組織と子供》との関係をつかれたとき、女性はうろたえたのである。あくまでも自分との関係で組織をみる場合には、強気な評価を既成の組織に下せたのに、それが子供と組織の関係になると、女性は子供の保護者の立場にたつことで、必要以上に現実的にならざるをえなかった。子供が原因で組織の生産性に問題が生じれば、それは子供をつれてきた自分たち女性の責任だ、という意識が優先され、その結果、彼女たちは保守的な守りの姿勢つまり既成の組織に迎合する態度を鮮明にせざるをえなかったのだろう。
図らずも、ここには女性の弱点が露出している。自分が働くことにはためらいがなくても、子供のことになると急に弱気になってしまう現実がある。《子供にたいする責任は、まだ女にある》というジェンダーヘのこだわりが女性にも色濃く残っている。子供と女の関係に新しい視野が開けないかぎり、女性が外で仕事を始めることは困難である。自分が仕事ができるかどうか、という女性の仕事能力の問題以前に解決の方策を見つけなければならないのが「子供問題」である。デスクでうろつき、仕事の邪魔になる子供ギャングたちににたいする認識と評価の方法論が発見されないかぎり、女性は子供のつけを払わされるだけである。
ここでも親(母)と子の絆をいかに柔らかくするか、が問題である。

6.頭張れ、アグネス!

F) アグネス・チャンは大胆です。仕事場に赤ん坊を連れていくのですから。仕事も家庭も両立させてしまおうとするしたたかさが目立ちます。意外と簡単にできることなのかもしれません。頭のスイッチの切り換えだけの問題かもしれません。

不愉快です。公私混同に腹がたちます。

声援をおくります。がんばってください。


「アグネス頑張れ」の方が高い支持率になっている。女性は63.5%が、男性は59.5%が、アグネス頑張れと声援を送っている。これは、批判のロ火を切った林真理子の意見とは異なった結果になっている。普通の人はアグネス支持である。
これも子供問題ではあるが、ジェンダーによる相違はなく、女性はそれなりにアグネスを支持しており、上記5の《組織と子供》における評価とは矛盾した結果になっている。5では、「仕事はそんなに甘くない。仕事は仕事だ」という主張が女性の特徴的な傾向であるのに、ここでは男性と同じように、「アグネスに声援を送っている」。その矛盾はどのように解釈すればよいのか。
そこで対象サンプルを「女性」に限定して、5の《組織と子供》と6の《アグネス》のクロス表をみると、つぎのように非常に明確な関係が表われている。


ここでは、「仕事は仕事だ」と子供と組織の融合に反対している女性は、はっきりとアグネスの行動に「不愉快感」を表明しているし、対照的に「仕事と遊びの融合した新しい組織」に期待する。女性は、強くアグネスに「声援を送っている」。このように、女性にかんして、男性との比較では一見矛盾した傾向を示してはいても、その実態を詳細にみれば、組織と子供の関係について納得できる傾向が明瞭にででいることが分かる。
子供と組織の問題は、家庭と組織の境界線を「明確(強固)にするか、それともファジー(柔らかい)にするか」という問題である。境界線が明確であるほど、核家族の世界になり、ファジーにするほど、脱核家族(粒子家族)化が進展する。現状では、境界線にかんして、男たちは組織の強固な境界線に固執しながら、家族の境界線を崩そうとして三世代同居を希望する戦略をとり、反対に、女性は核家族の境界線をしっかりと守りながら(子供には、母親が必要だ!)、組織への進出(組織の境界線のファジー化)を希望している。両者とも、自分のテリトリーにかんしては境界線を強固にしながら、相手のテリトリーには境界線のファジー化を求めるという矛盾した行動をしている。その矛盾に両者が気づき、境界線を<組織も核家族も>共にファジーにすることを選択するとき、核家族ではない新しい家族への展望が開けよう。
ただしそれが理想的な家族なのかどうか、はまだ分からない。

7.在宅勤務のゴールデン・ドリーム

G) 在宅勤務というのもあります。この情報化社会です。そろそろ馬鹿みたいな通勤列車に殺されて、ボロボロになって出勤することの異常さを悟るべきです。情報化は自宅をオフィスに変えてくれます。子供のそばで、充分仕事ができる時がまじかに迫っています。情報化は女性を救います。

子供は仕事を邪魔するだけで、効率的な仕事などできません。だから在宅勤務は夢物語です。

子供の邪魔は自明です。それを許容するところから、仕事を発想することが必要なのです。


情報社会は、なし崩し的に秒読みを始めている。
いま、産業社会を支えていたさまざまな社会構造が大きく変動している。勤務形態の変化は、その一つの兆候である。サテライト・オフィスをはじめ、勤務形態は多様な方向性を模索されている。そのなかでも在宅勤務の夢は、組織と家庭の境界線を一気にファジー化させる試みとして、新しい情報社会に向けての魅力づくりの目玉になっている。
そのような在宅勤務の夢が、ここでは強く歓迎されている。ジェンダーに関係なく、74%の人が「子供が邪魔しても、いいではないか、子供がそばでうろちょろしても仕事はできるものだし、それが自然なのだ」という意見に共感している。情報社会という条件のもとでは、組織変化が前提とされているためか、組織と子供の関係もファジーであってもおかしくない、と認識されている。
しかし在宅勤務の夢は、現役の企業戦士にとっては悪夢のはずである。かれらは、なんでもいいから、会社にでていって、みんなと一緒にいないと安心できない企業戦士である。なぜならば、かれら企業戦士は既成組織の管理=経営機構に組み込まれてはじめて能力が発揮できる人々だからである。かれらにとって、会社にみんなが一緒にいることが組織の統合には不可欠な儀式なのである。誰もいないところでは、地位は空虚である。地位が実感されるのは、デスクをなるべくたくさん並べ、そこのトップの座を獲得する競争がみられるときである。とすると、通勤地獄は、地位獲得競争のスタートラインとして重要な意味をもっていると解釈できる。まずは通勤地獄を味わうなかで、将来の出世への夢が、「こんな地獄から一日も早く這い上がるぞ!」というバネとなって、実現化への階段を一歩踏みだすのである。通勤地獄は「組織の最大の課題は管理=経営の問題である」というメッセージを実感する最適な場である。したがって企業戦士は、通勤地獄よりも「同僚から孤立して自宅にいる方がもっと地獄だ」と言うはずである。
情報社会の到来によって、通勤地獄が解消され、在宅勤務が可能になっても、組織の基本構造が依然として「管理=経営機構優先」にあるとしたら、在宅勤務は窓際と同義であり、在宅勤務者を苛立たせるだけである。なぜならば、ここでの在宅勤務者は組織の中心から弾き出された周辺に位置する単なる無用な組織人だからである。在宅勤務が新しい勤務形態として意味をもつには、在宅勤務者が「管理=経営」の関係から一定の距離をとることができ、かれらにとっては《制作や創作》が組織課題として重要であるという認識ができる場合である。そのとき、かれらはビジネスマンというよりも、『アーキテクト』であり、在宅勤務の家庭はオフィスではなく『情報工房』である。家庭が情報工房になり、そこで作業する組織人がアーキテクトと自己認知し、そこでの仕事が管理業務ではなく創作や制作であるとき、在宅勤務は既成の組織から脱皮して新しい組織形態を生成したといえよう。このような展開は、情報社会の到来を前提にしてはじめて可能なことである。

8.主夫の逆転する世界

H)この際、主夫の世界を考えることにしましょう。男が家庭に入って、女が外で仕事するパターンはどうですか。

夫婦間での合意があれば、かまわない。新しい可能性が期待できそうだ。

これでは、いままでと全く変わらない。両者が共に働き、共に家を守ることが必要なのだ。ここでは、個の自立はない。


意外と、こんなパターンもいいかもしれない、と冗談を言う人がけっこういます。男性は70.1%が主夫の世界には「新しい可能性があるかもしれない」と共感し、女性も59.7%が「それも、いいんじゃない」ととぼけます。
ただこのパターンは、男女が交代しただけで、その点を除外すれば、産業社会システムとしてはなんら変化はない。除外されたジェンダーが問題なのだ、という意見を無視するわけではないが、ここで主張したい『効率的で合理的な《役割分化=統合》の産業社会の基本的なシステム』には変化がないので、そのかぎりでは、現状の社会構造にはなんら変化は起らない。所詮ここでの変化は、キャリアウーマンが、「私が稼ぐから、あなたは家のなかで頑張ってください」といえば、料理が好きな旦那は喜んで台所に飛んでいくだけのことである。これは仕事好きな夫と料理好きな妻との関係をジェンダーだけ逆転させただけのことである。ここでは、専業の発想は温存され、好き嫌いあるいは損得勘定の視点で、どちらかが外で働き、<残り>が内を守る、という役割分担が夫婦間で合意されただけである。違うことは、内に入る男性が「気軽かもしれないが、家庭内では弱者の地位に立たされる(経済的に妻に依存し、妻に養ってもらう)ことを覚悟しなければならない」という下降変化に許容的でありうるか、ということである。役割分担はその意味では「外と内」の機能的な関係でしかないが、その補足として「上と下」の関係をも内包しており、その結果「外=上で内=下」という関連性が暗黙の裡に想定されているので、主夫になるには、心理的にクリアーしなければならない高いハードルが一つある。それさえクリアーできれば、主夫の逆転された世界も、それなりに居心地のよいものなのかもしれない。
しかし、居心地がいいとしたら、主婦たちがなぜやっきになって仕事をしたがるのか、分からない。好んで嫌な世界に入るおばかさんはいないものである。
そこでデータの結果を再度みる。女性は40.3%が、主婦と主夫の変換に嘘をみて、「これでは、いままでと全く変わらない。両者が共に働き、共に家を守ることが必要なのだ。ここ(主夫の世界)では、個の自立はない」と発言している。男性は20.9%の支持にすぎない。このジェンダーによるスコアの違いは、1%水準では有意な相関はないが、2.5%水準では有意である。この程度の認識・評価としてではあるが、女性は、逆転された主夫の世界にたいして男性のようには甘い夢をみてはいない。テレビドラマのコメディならば、おもしろそうですまされるが、それ以上のリアリティを主夫の世界に描くことには、彼女たちは若干の抵抗感を抱いている。
彼女たちは、「主婦の世界は居心地がいいわけではない」、「もっとおもしろい世界が外にはあるはずだ」と思っている。それが幻想かどうかは、実際にやってみなければ分からないではないか、と思っている。彼女たちは、役割分担の世界からのテイクオフを期待している。それは核家族の制度を拒否することであり、産業社会のトリックにたいして”NO”ということである。彼女たちは、ここまで来ている。
好き嫌いの問題ではなく、《制度》として「外で働く妻と、家を守る夫」という関係が成立したら、どうするのであろうか。完全に逆転した日が来たら、誰がそれを認めるのだろうか、誰がそれを喜ぶのだろうか。たぶんこのような完全に逆転した日を期待する人は皆無に近いのではなかろうか。とすれば、主夫の世界は、主婦の世界に苛立つ女性を宥めすかすための懐柔策にすぎないことになる。
制度次元ではなく、好き嫌いの次元で問題解決がはかられているとき、誰がその策を仕掛けたのか、をよく見極めなければならない。きっとどこかで笑っている奴がいるはずである。

9.裁断される夫婦の役割: したり顔の大人らしさ

I) いつも最後になると、男は汚い手を使います。「女(お前)の仕事なんて、男(俺)の仕事に比べれは、たいしたことないし、しかもその程度の給料で家族が養えるのかよ」ときます。どうしたらよいのでしょう。

ついに男の本性がでました。離婚を覚悟すべきでしょう。

ついに女が仕事を止める時がきました。長い人生では、時には妥協することも必要なのです。


現状の共稼ぎ夫婦(DINKSなんて、しゃれた言葉はここでは使えない!)にたいする現実的な評価がどのようなものか、がこのデータには表われている。ジェンダーによる差異はなく、ほぼ70%前後の人が「ついに女が仕事を止める時が来た。長い人生では妥協することも必要だ」と物知り顔をして、空虚な納得をしている。
「男は女よりも偉い」と、男もそして女もどこかで納得しているのではないか。でもその納得に、時たま女性が我慢できなくなると、夫婦喧嘩になります。理由は、他人に説明できないほどくだらないものです。外からみれば、アホらしくて、発する言葉を失うはずです。これが、客観的にみる、という無意味な立場です。
しかし喧嘩する夫婦にとっての、この血み泥の相克は、相性が悪いとか、性格がおかしい、といった問題ではなく、いわんや生理的嫌悪感でもありません。
《夫婦関係という役割関係それ自体が、裁断きれるべきなのだ》。核家族における夫婦関係が、いまは素直に信じ合えそして安心して維持できるような関係ではない。
妻からすれば、子を鎹にすれば問題解決だとは思うけれども、それではあまりにも伝統的すぎて自分のプライドが許さないし、外に目を向けると、夫にちょっかいをだしてはしゃぐ若い女どもが目障りで、そんな彼女たちに異様な憎悪をむきだしにし、罵声を浴びせ、最後にはすべてが自分の無力に回帰して、キッチン・ドリンカーになっていく。そんなどうしようもないのが、今の<妻の座>である。もうここには、やすらぎも平穏もない。毎日、夫を会社に送りだした瞬間から、不安と疑惑が妄想と混ざって一気に膨らむ。誰がおかしいのでもない。妻(=事業主婦)の座という役割がすでに時代遅れの記号なだけなのだ。
夫は、といえば、かつては若かったために懸命に仕事に走り、いまでは仕事に逃げることで、家庭との絆をかろうじて保ち、にもかかわらず、無実なのにかけられた浮気の疑惑に応える術をもたないまま無力な微笑みを返すだけである。こんな顔では妻の不安を解消させることなどありえない、と奇妙に確信しながら、それしかないカードを繰り返しめくることで、理由のない許しを妻に乞おうとする。単純に仕事で疲れているだけなのに、浮気で疲れているのかと誤解されても、妻に反論する気力すら失せている自分に気づいて、夫はただ呆然とするだけである。だから夫という役割演技にも、救いはありません。「夫婦ごっこ」をするには、時代の空気はあまりにも残酷です。
そこで離婚というカードがちらつきます。でも簡単に出せないのがこのカードです。離婚すれば、夫だった彼は「男が偉いなんて、やはり嘘だった」と気づき、妻だった彼女は「男はやはり偉いものだ」と知るからです。それが分かっているので、両方とも離婚に躊躇します。離婚しても幸福が訪れるわけではない、ことだけは理解できるまでには大人になっているからです。人生なんて、こんなものです。どうしようもない矛盾、解決なんてできないと分かっていても諦められない問題が夫婦関係には山積しています。だから、できそうでできないのが離婚です。するのは簡単ですが、だからといって問題の解決ができたわけではありません。つねに矛盾はつきまといます。
70%は、矛盾を抱えたまま妥協の道を選択して大人らしさを装うことにします。かれらは、大人のしたり顔をすることで、矛盾になんらかの決着をつけて空虚な安心を買います。かれらにとって、「女は弱い」の立場に妥協することが、人生の航路を一歩前進させる術なのである。
これにたいして、マイナーな30%はきつい選択を決断する。離婚の覚悟です。核家族が築き上げてきた《真面目な夫婦関係の嘘の演技》に鋭い嗅覚をもつかれらは、キッチンメドリンカーになる予兆を感じ、夫婦役割から逃げようと決意する。その後に何が起こるか分からないまま、ただ逃げることに意味をみつけようとする。
10.家庭への誘惑

J)育児も家事も大変なことです。自立をめざす女性も、疲れを感じて、ふと、“もう仕事をやめようかな”、と思うこともあるでしょう。そんな女性に、どのようなアドバイスをしますか。

仕事は止めてはいけない、何の為にここまで頑張ったのか。

このへんでゆっくり休養したらいい。家庭を大切にすべきだ。


ここでもジェンダーに関係なく、70%の人が「休職しなさい、そして家庭を大切にしましよう」と発言している。「家庭を大切に」とは、やさしさにあふれた美しい言葉です。だから男も女も、疲れたら素直になって家庭に入りなさい、とついアドパイスしてしまいます。女は、仕事が嫌になったら、疲れたら、もう駄目だと思ったら、いつでも家に逃げなさい、そうすれば女の幸福が待っています、というメッセージが働く女たちのBGMとして流れている。
ここには、男と女の役割の<分化と統合>への強い信仰が存在している。女性にとって仕事は制度ではなく、単なる欲望でしかない。好き嫌いだけが、女の仕事にとって重要な指標であり、仕事をするのも逃げるのも、それは女の浮気な心一つで決定されるものにすぎない。このように女性の仕事が欲望としての仕事であるかぎり、女性には外では働かなければならないという制度(社会的コンテクスト)からの拘束はなく、したがってそこには「いつ家の中に戻ってもかまわない」という暗黙の了解があり、さらに言えば「女性は家を守ることが本筋であり、外での仕事は家事の余りの暇にするものだ」という制度的拘束が旧態依然として勢力を誇っている。
男性は、女性の仕事が欲望次元のものでしかない場合、女性の進出によって自分たちのテリトリーがたとえ侵されたとしても、それは構造的なものではなく、単なる一時的な現象にすぎない、と解釈できるので、かれらは安心して女性の仕事を支援し、彼女らに寛容な態度を示すことができる。その安心を支えるのは、「外は男で、内は女で」の役割分化と統合の発想が女性にたいしても依然強い信仰として維持されている事実である。男性は、女の仕事はカルチャーセンター通いと同じ余暇活動だ、と解読できるかぎり、男の組織の境界線は維持され、組織の絆はいままで通り強固だと確信し、その確信の裏返しとして「女には家庭が一番似合っている」と口を滑らす。
これにたいして、30%のマイナーな人々は「仕事を止めてはいけない。何の為にここまで頑張ったのか」と仕事に疲れた彼女を励まし、仕事の継続をアドバイスする。ここでは女性の仕事は、欲望次元としての仕事ではなく、制度化を求めたラディカルな運動の視点から捉えられている。「疲れたから止めた」では、女の仕事はいつまでたっても男性と対等な地位を獲得することはできない、「疲れるのは自明である」と決断したとき、女性の仕事は男らしさに接近する。だから頑張ろう、というメッセージには、男女の役割の分化を超えた論理を想定しようとする意気込みが感じられる。「男らしさ=組織=外なる専業化」そして「女らしさ=家庭=内なる専業化」という自明の論理がここでは無視され、組織と家庭の境界線をファジーなものにすることで新しい組織と家庭のあり方を模索する視点がアピールされている。

(B)リアリズム&ラディカリズム: ≪”しばり”と”ほどき”≫

<結婚と子供、そして罠と伽>にかんする10項目の関連性を数量化V類によって分析すると、つぎのようになる。


○結婚の罠(女性は、結婚を契機に仕事をやめるのが腎明である)
1 支持する。現実の重さを無視できない
−1 現実の垂さは自明だ。いかにブレークスルーできるかが問題だ
○仕事の代償(仕事をするならば、結婚や子供を断念すべきだ)
2 その通りだ.犠牲になることの大切さを知るべきだ
-2 子供をもつことは断念すべきだ。DINKSでよかろう
±2 苦悩を背負い、子供をもって仕事を続けるべきだ。それが家族だ
○核家族の危機(仕事をするならば、核家族ではやつていけない)
3 核家族は限界だ。三世代家族にしよう
-3 あくまでも核家族にこだわる
  行政の怠慢(行政は働く女性の味方になるべきだ)
○行政の怠慢(行政は働く女性の味方になるべきだ)
4 子供は親が育てるのが基本。保育時間の延長なとは制度の改悪
-4 子供には子供の世界がある。親ばかりでなく、行政の支援が必要
  ○おんなの弱味(子供をもつ女性に相応しい仕事場)
5 仕事は甘くない。仕事は仕事だ
-5 子供が遊んでいるような、仕事と遊びが融合する場を創造しよう
○頑張れ、アグネス(子供を仕事場につれてきて、仕事と生活の両立)
6 不愉快。公私混同に腹が立つ
-6 声援を送る。がんばってください
○在宅勤務のゴールデン・ドリーム(在宅勤務の評価)
7 子供は仕事の邪魔だから、在宅勤務で効率的な仕事はできない
-7 子供の邪魔は自明。それを許容することから仕事を発想すべき
○主夫の逆転する世界(男が家庭に入り、女が外で働く)
8 夫婦の合意があれば、かまわない。新しい可能性が期待できる
-8 いままでと変わらない。両者が共に働き、家を守ることが大切
○裁断される夫婦の役割(男の汚い手「女の給料で、家族が養えるか」
9 ついに男の本性がでた。離婚を覚悟すべき
-9 女が仕事を止める時がきた。長い人生では妥協も必要だ
○家庭への誘惑(仕事を止めたくなった時のアドバイス)
10 仕事を止めてはいけない。何の為にここまで頑張ったのか
-10 ゆっくり休養したらいい。家庭を大切にすべきだ

ここでは、つぎの2軸が設定され、さらにその2軸の解釈から2つの重要なクラスター(そしてスケール)を設定する。

(a)”維持”と”変革”

第一の軸は、産業社会を支える組織と家庭の《分化と統合》の発想にたいして、それを「維持」しようとする現実的妥協の方向と、反対にその発想に反発して、それを積極的に「変革(ブレークスルー)」していこうとする、新しい融合的な発想を重視する方向との対照性である。前者は現在の産業社会の論理(効率性・合理性・生産性)を支持する方向であり、後者は情報社会の到来によって実現可能性が語られつつある方向である。

(b)”対立”と”協調”

第二の軸は、産業社会の論理を維持するにせよ変革するにせよ、「対立的」な視点で主張するか、それとも「協調的」な視点で主張するか、という対照性である。対立的な場合には、怒りや反発を全面にだして反駁する姿勢が重視されるし、反対に協調的な場合には、相手を包み込む寛容性や優しさが重視されている。(c)クラスター1: リアリズム(→リアリズム・スケール)

第一のクラスターは『リアリズム』であり、つぎの5つの選択肢から構成される。

1.<結婚の罠> 支持する。現実の重さを無視できない

2.<仕事の代償> その通りだ。犠牲になることの大切さを知るべきだ

3.<おんなの弱味> 仕事は甘くない。仕事は仕事だ

4.<頑張れ、アグネス> 不愉快。公私混同に腹が立つ

5.<在宅勤務> 子供は仕事の邪魔だから、在宅勤務で効率的な仕事はできない

これは、産業社会を構成する組織と核家族の機能的な分化と統合のメカニズムを現実的なものと支持し、そこからの逸脱にたいしては厳しい批判的な意見を表明し、「現実はそんなに甘くない、安易な理想論を言ってほしくない」という姿勢を鮮明にしているクラスターである。だから、このクラスターを『リアリズム』と呼ぶ。
「結婚したら女性は会社を止めて専業主婦になりなさい」「もしも仕事を続けたいのならば、結婚を断念しなさい」「仕事は男が命を賭けた世界だから、子供をつれてきて、子供の世話をしながら片手間に仕事をするなんて許されない」「だからアグネスには腹が立つ」「在宅勤務なんかは、子供が邪魔で成功するわけがない」ということである。
ここでの主張は、仕事と生活はその空間を明確に分離させてはじめて効率的で合理的に物事を処理する場になる、という分化と統合の発想である。この立場からすれば、たとえば「空気の悪い仕事場に子供をつれてくることに、母親のエゴの満足以外に何のメリットがあるのか」とか「アグネスのようなインチキな芝居に、理想論だと言って賛美する奴の気が知れない」という厳しい批判が展開される。
現在この立場は、かつてのように強い自信にみち、相手がどんな理想論を言おうと余裕をもって対処できるほどのパワーはない。専業化(専業主婦と仕事に熱中したがる夫)には、大きな揺らぎがみられる。だからこの立場は、そこに固執しようとするほど、対立する論争相手にくってかかる《怒りと苛立ち》のポーズを必要とする。「理想論を展開するならば、そのための具体的な対案を示してくれないと賛成しかねる」という、かつてならば考えられないような<余裕のない科白>を発せざるをえないところまで、追い詰められている。だから、苛立ちと怒りが、アグネスのような事件には反射的に飛び出してくるのである。
<リアリズム>が示す怒りと苛立ちは、無駄と分かっていながら、やっきになって産業社会のエートスにみんなを縛りつけようとする最後のあがきのようだ。かつては縛りつけられていることが気づかないほど、快感であったリアリズムのエートスが、いまではそこから逃げたいと思っている分だけ、苦痛を伴った固い縛りとしてしか感じられなくなっている。リアリズムにいま固執することは、ある種の殉教的な行為である。
つぎに、このクラスターの5つの選択肢から『リアリズム・スケール』を作成する。この5つの選択肢にいくつ共感しているか、によって、組織と核家族の分化と統合のメカニズムがもつ《現実的な立場(リアリズム)》にたいする支持の程度が分かる。


スコア5は、「女が結婚したら、専業主婦になるのが幸福であり、なまじ張切って仕事に頑張るなんていうことは絶対に止めた方がいい」と主張する、最高のリアリズム度を示すものである。これが、いわゆる《男のこだわり》である。男らしい男たちは、結婚した(しかも子供をもった)女が外で働くことには消極的な態度をとるものである。「現実はこのように重たいものだ」の科白がかれらの自己正当化の論理である。これを『リアリズムの威力(男の勝手)』と呼ぶ。
スコア5は、男性で6.8%、女性ではわずか4.4%である。非常にマイナーな立場でしかないことが分かる。こちこちの現実主義者であることは、もう完全に時代錯誤なのだろう。《女の幸福は、結婚と子供だ》という幻想を素直に信じる人は、若い男そしてすべての女性に、もういません。
完璧なリアリストではなく、少しリアリズムの威力を薄めたスコア4の人になると、女性で9.7%、男性で12.9%になる。さらに薄めてスコア3になると、女性で13.8%、男性で12.9%である。この数字は、予想以上に低い。そこで、この3つのスコア(スコア3,4,5)をまとめて、「リアリズム++」とする。
リアリズムの威力が急激に衰退している事実が、このようなデータから推測される。女性が男性の「君は僕の良きパートナーだ」という甘言にのせられて、専業主婦の役割をおしつけられてきた女たちの歴史は、いま大きく転換しようとしている。
対照的に、スコア0は女性で22.9%、男性で28.0%と多く、またスコア1は女性で26.5%、男性で16.7%になっている。ここではジェンダーに関係なく、リアリズム(男の勝手)にたいして、はっきり”NO”が宣言されている。
リアリズムを拒否する女性たちからすれば、「結婚したからといって、なんで仕事を止めなければならないのよ!」であり、「仕事を続けたいなら、結婚や子供を断念しろなんて、誰がそんな戯言を言ってるのよ」とどなり、「仕事場は男の世界だから、子供づれは駄目だ、なんて、古臭い組織にしがみついてる男どもがそんなこと言うのよ」とだんだんエスカレートし、最後は情報社会の在宅勤務の夢にふれて「そうなったら、仕事はやりやすくなるわ。仕事も家事も一緒だから」と言い切ります。『リアリズムとかいって、男たちは勝手な現実をつくって、”それは重たい”というが、そんなに重たいならば、弱い女ではなく、逞しい自分たちがかつげばいいのだ。そんな男のトリックに騙されてはならない』と、彼女たちは厳しい対立的な発言をします。
 そこまでの度胸は、組織に生きる男たちにはありません。(d)クラスター2:ラデイカリズム(→ラデイカリズム・スケール)

第二のクラスターは『ラディカリズム』であり、つぎの4つの選択肢から構成される。

-2<仕事の代償> 子供をもつことは断念しよう。DINKSでよかろう

-4<行政の怠慢> 子供には子供の世界がある。親ばかりでなく、行政の支援が必要

9<裁断される夫婦の役割> ついに男の本性がでた。離婚を覚悟すべき

10<家庭への誘惑> 仕事を止めてはいけない。何の為にここまで頭張ったのか

この4つの選択肢の背後にある意味は、外にたいして仕事のチャネルをもつ女性が、結婚を契機に家庭との関係で新しい役割(主婦/妻/子供が誕生したら母親)を背負う時、もっとも優先的に考慮すべき役割は外的な仕事役割であり、少なくとも他の家庭内の役割のみを排他的に優先してはならない、というルールである。
このルールには、「子供が仕事の邪魔ならば、子供を産むことは潔く断念しよう」そして「たとえ子供をもっても、親だからといってべったり子供に寄り添うのは止めて、さらっとした母子関係を生成しよう。そのためには、子供の独自の世界を大切にして、それを支援する母子関係以外の幅広い子供のネットワークを創らなくてはならない。行政がこの点ですべきことは山ほどある」というふうに、子供と母親との関係を、新しく創出しなければならない、という意気込みがある。ここでは、従来の母子関係のように「子供のすべてのことを理解していることが母親の義務であり、子供の世話を他人(夫をも含む)には任せられないという使命感が強く、したがって子供との関係ではすべてにおいて母親との関係が優先される」というべったりとした粘着的で盲目的な母子関係ではなく、多くの子供の関係(父親やきょうだいとの家族関係、地域や学校や友人との社交的な関係そして行政などの社会とのフォーマルな関係)のなかの一つとして母子関係を位置づける方向が模索されている。母親であることの役割負担を軽減しないかぎり(軽減の極致がDINKSで生きることの決断)、仕事をもつ女性が子供との関係を維持することは不可能である、という新しい親子関係のルールづくりが問題なのである。したがってこの新しいルールに理解を示さない夫には、彼女たちは離婚を覚悟するし、あくまでも<仕事をする女であること>にこだわり続けるのである。
このようなルールを支持するクラスターを『ラディカリズム』と呼ぶ。ラディカリズムは、核家族における専業化のシンボルである母親の役割に根源的な批判のまなざしを向け、核家族の構造をゆるがすことに躊躇しない激しさを示す。《文句を言う夫には離婚を、子供には産まない自由を、産れた子供には母親から離れた自由を、そして行政の支援を》と、ラデイカリズムは既成の母子関係では想定できない新しい爆弾を投げ込んでくる。
「核家族を支えてきた『外と内の神話』に、そろそろ幕を下ろしてもいいのではないか。女も男も、何か一つのことしかできない《専門人という部品》から解放されて、もう一度自分のあるべき姿を問い直してみてもいいのではないか。女は主婦(妻/母)だけではないし、男には仕事しかないわけではなかろう」というメッセージが、ラディカリズムには隠されている。核家族と組織という強固な枠と絆を再考する時期にきている、という認識が、ラディカリズムにはある。それは産業社会の論理(分化と統合の社会的メカニズムと、それを正当化する《真面目に、無駄なく、我慢して、大きく》のエートス)の自明性を、核家族という影の部分から突き崩そうとするしたたかな戦略的思考である。しかし誰が、その仕掛け人なのか、まだ分からない。
つぎに、このクラスターの4つの選択肢から『ラディカリズム・スケール』を作成する。この4つの選択肢にいくつ共感しているか、によって、いままでの組織と核家族の境界の強固で明確な枠と絆を《柔らかくそしてファジーなものに変換することへの共感(ラディカリズム)》の程度が分かる。


もっともラディカルなスコア4は、女性で0.7%で、男性は0%であり、スコア3をみても、女性で7.5%、男性ではまだわずか3.8%である。ここから推測すると、『誰もまだそこまではラディカルになれない』という結論になる。したがってこのかぎりでは、まだ核家族の神話は存続可能である。離婚と産まない自由は、女性にとっても、切り札として使うにはまだ危険すぎるカードなのである。
スコア2になって、やっと女性で17.7%、男性で18.9%までに上昇する。そこでスコア2、3、4を足して、ラデイカリズム(+)を作成すると、女性で25.9%となりやつと4分の1に到達する。しかし男性はまだ22.7%にすぎない。
対照的に、スコア0というラデイカリズム(−)をみると、男性はじつに48.5%にも達し、女性も43.3%にまで達している。ラディカリズムが強く嫌悪されている、事実がよく分かる。大勢は、まだ核家族の強固な枠と絆を大切にしたい、という信念をもっている。
核家族の神話にすがることの心地好さが、ずるずるとこぽれ落ち始めているのに、多くの人は、まだ気づかぬふりをして核家族の芝居にのろうとしている。固い枠と絆の幻想カードは、離婚と産まない自由の危険なカードを排除できるほどの威力はもっているようだ。温存することで得られる安心は、破壊する危険よりも、実態がみえるだけに共感されやすいのであろうか。それとも核家族はまだ充分に威力を誇れるほどのパワーを実際に温存しているのだろうか。
スコア1というラディカリズム(±)は、女性で30.7%、男性で28.8%に達している。4つの危険な選択肢のうち、わずか一つのカードだけれども引いてしまった密かな快感と揺らぎが、ここにはあるのだろうか。ラディカリズム(−)のようには現状の核家族に安穏とはしていられない、「何かおかしい、けれどそれが何なのか、まだ分からない」という思いがあるのだろう。矛盾を抱きながら、その矛盾を探く自省することもなく、しかし《核家族の枠と絆を無意識的に解きにかかる》行為にでるという大胆さがここには予感される。

(e)アグネス・林論争

リアリズム・スケールとラディカリズム・スケールを利用して、アグネス・林論争を解読しよう。一般的には、林真理子は男性的で保守的な見解で、アグネスは女性的でしかも革新的な立場を実践している、という印象が強いが、ここでの2つのスケールに両者の見解を位置づけると、一般的な印象とは異なった結果になる。


上図に示すように、既成の組織に生きる《強く男らしい男》は、「高いリアリズムと低いラディカリズム」に共感するはずである。かれらは、「女性は、結婚したら家庭に入り、専業主婦になり、外で頑張る夫を助けて家の内をしっかりと守ればよい。子供を産まない自由とか離婚のカードをだすといった危険な考えは強く慎むべきである」と確信している。ここには組織と核家族の分化と統合への強い信仰があり、外で仕事に頑張れる男には、家の内を専業に守る女が不可欠であり、2人がセットになってはじめて核家族の維持と存続はありうる、という『くすぐりのトリック』が見え隠れする。
これにたいして、既成の男中心の組織に反発と嫌悪感を露骨に示す《強く女らしい女》は、対照的に「低いリアリズムと高いラディカリズム」を信奉する。これが60年代の闘うリブたちの生き方である。彼女たちは、「男たちは現実の重さを強調して、女に耐えることを説き、馬鹿な女はそれを真に受け、静かに抑圧されたまま男どもに仕えることに慣れ、家事と育児に忙殺されることが女の生甲斐だと誤解して死んでいき、結局は男たちだけが生甲斐のある仕事人生を享受する」ことに嘔吐する。重い現実への抵抗と、ラディカルな変革意識は、強い女の生き方を生成した。それが60年代という男への対立を明確にした女の歴史の1ページである。カウンター・カルチャーには、懐かしさが滲み込んでいる。
この2つの対立図式は、容易に了解可能である。男と女が、産業社会の組織と核家族の境界(枠と絆)をめぐって、その維持存続に命を賭ける男と変革廃棄に夢を賭ける女とに分裂して、ホットな戦いを開始したのが、ゴールデン60'sであった。対立は全面的であっただけに、どちらの味方になるか踏み絵を突きつけられ、"戸惑うペリカン"が多かったはずである。
このような対立図式にたいして、<アグネス・林論争>の図式は奇妙に歪んでいる。それは、女の世界の成熟と多様化の結果生じた内部抗争であるだけに、ジェンダーとは異なった新しい切り口を提起している。
アグネスは、「低いリアリズム」と「低いラディカリズム」を主張している。現実の重さを知れという男からの指令には、静かに抵抗して、しっかりと子供を仕事場につれていくという力強い行動を決起する。このかぎりでは、アグネスはリブが喜ぶ「低いリアリズム」を体現している。かつてのリブでも決起するには勇気がいる行為を平然とこなしてしまう凄さがここにはある。しかし彼女は、子供との関係をファジーなものにしようとするわけではない。その逆であって、子供は可愛いから、だから自分の手で育てたいから、彼女は子供を仕事場までつれてくる。したがってこのかぎりでは、アグネスは男性の主張に同調し、従順である。子供には母親がもっとも大切であり、その役割を放棄して、仕事をするわけにはいかない、と彼女は言い切る。
これは、明らかに男と女の対立図式からはズレている。仕事場に子供をつれていくという男の聖域を侵犯する土足的な行為を起こしながら、「ただ子供と一緒にいたいだけなの、だから男の組織的な発想には反発しません」と、すまし顔で言う。現実の重さには、それを軽く乗り越える力をみせながら、現実の原理には抵抗する意思はなく、ただ同調する姿勢を宣誓する。これは、矛盾である。しかしそれ以上に戦略なのだろうか。アグネスは、分化と統合のメカニズムを超克する論理を求めた戦略を展開しているのか、それとも単純に矛盾の理解ができない無知な女の我が侭なのだろうか。
林真理子は苛立つ。彼女は、アグネスは無知で我が侭な女にすぎないと理解することで、働く女性の敵だと断定する。林真理子はまず「高いリアリティ」の立場を鮮明にする。ここでの林は、現実の重さを男性以上に強調し、男の世界に生きることの辛さを甘い女たちの前に説得的に披露する。この点では、彼女はまさに男の代弁者であり、この論争に参加する不利を知っている男たちは、沈黙を守りながら、密かに林真理子を応援する。林が、現実の重圧のハンディを背負いながら女が男との熾烈なゲームを勝ち抜くことの厳しさを訴えるほど、それは男らしい組織を輝かせ、仕事は男の特権であることを正当化するだけである。林真理子は疑似男性(男の世界に参加できる資格を獲得した、選ばれた男性もどきの女性)であることで男との仕事ゲームに参加するプレイヤーであり、その参加ルールをはみだす勇気をもとうとはしない。彼女にとって、ルール違反はタブーである。それが男の世界に生きる《女の節度》なのである。その結果、彼女がアグネスにみせた苛立ちは、彼女の本来の意図とは違って、男のほくそ笑みを誘うだけという、男にとって都合のよい結末を迎えることになる。
しかし林の苛立ちは「高いラディカリズム」としても表明される。彼女は、離婚や産まない自由といった危険なカードを戦略的に活用することに躊躇はしていないようだ。ここでは、男の微笑みを誘う子供べったりのアグネスの姿勢とは違って、男性には脅威的な言明になっている。林には、核家族を壊すことに”ためらい”はない。子供嫌いのポーズをみせ、まぬけな専業主婦を嘲笑うことで、男たちの嫌悪感を誘発させ、その男のパートナーを自負する専業主婦の怒りを増大させる。林は、危険なスターである。
このようにみてくると、アグネスと林真理子の立場は、かつての男と女の対立図式では抜けていた現実的な2つの中間領域であり、戦略的には女の世界への2つの移行領域となる。したがって、両者の対立する関係のみが強調されているが、その対立を煽って得するのは、組織と核家族の強固な境界線の存続に期待する男性だけであり、働く女性には不利な状祝にすぎない。したたかな男性は、戦略的に両者の対立関係を扇動することで、組織と核家族の分化と統合のメカニズムの安定をはかろうとするのである。女性がそのような舞台にのって踊るかぎり、男が可愛がるマリオネットの宿命から逃げることはできない。アグネスと林真理子が、対立を自明として、にもかかわらず共闘するポーズをとり、強く男らしい世界を包囲するネットワークを生成できるならば、かつてのリブたちが舐めた挫折とは一味違った世界を創出するきっかけになるはずである。
できるか、できないか、男たちは沈黙をきめこみ、女のざわめきに聞き耳をたてる。