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9.近代の超克:冗談っぽく、真面目に
(A)モダンとポストモダン
近代社会のエートスは、『真面目に、無駄なく、我慢して、大きく』というメッセージである。これを信じることができるとき、誰でも近代に生きる気分に浸れるはずである。「頑張って、真面目に我慢して生きて、大物になるぞ、それが男の生きる道だ」と、思い込むことで、近代化は進展したのである。どこまでも満足することを延期し、未来にすべての価値は発見されるはずだという幻想に夢中になることで、近代社会という歴史の中でもっともユニークな歪んだ時代が出現した。
そして気がつくと、お父さんだけがガムシャラに働いているのに、お母さんはカルチャースクールやテニススクールに忙しいとかで、お父さんの面倒もみてくれなくなりました。子供たちは、《父親のような虚しい人生は送りたくない》、せめて母親程度の自由は欲しい、と生意気を言います。お父さんは、ふと今までの人生を振り返り、そっと溜息をつきます。「いや、これでいいんだ。これがオレの使命だ。」と、自分を慰めるだけの力を絞り出すのが精一杯で、「いま自分は何がしたいのか」を考えるような余裕はありませんでした。いつも未来ばかり見つめていたお父さんに、足許にころがっている石は、どうみても宝石には見えなかったのです。
近代社会を支えていたエートスが大きく変貌しようとしていることは確かである。高度経済成長期まで疑うことのなかった近代性への信頼は、いまではすっかり色褪せ、過去の幻影リストの主要メンバーの地位を獲得しているほどである。真面目に生きる青春ドラマは完璧な冗談コミックでしかなく、忍耐・我慢・根性に涙する人は単純にマゾヒストですかと疑われ、将来大物になるぞと宣言したら誇大妄想狂のレッテルをもらうだけで、誰もその志の大きさを称賛しようとはしない。
そしてポストモダン。しかしこの流れを、流行通信としてみるかぎり、それさえも終焉のドラマをみせている。足許にちらばる宝石に夢中になっていても、朝になれば、やっぱり本物の石みたい、と夢から醒めてしまい、宝石の嘘に永遠の輝きをみいだすほどのパワーをもっていない自分に気づき、ポストモダンも疲れるとすぐにギブアップする。
そしてまたモダンの再生。揺れるまなざしが、また揺れる。
1.ポストモダンという言葉が“あっ”と言う間に風化してしまいました。言葉の流行なんて、いいかげんなものです。これにたいして、実像はまだモダンの風体で頑張っています。そんな簡単に時代は動きません。言葉の軽薄さと行動の保守性のアンバランスにあきれてしまいます。
ここでは、あなたの軽薄な層で応えてください。つぎの近代派のライフスタイルは、好きですか、嫌いですか。
(AからKまで、それぞれにかんして「好き」「嫌い」のどちらかをチェック)
1.頑張る快感
A) 難関にあったら、歯をくいしばって頑張る
ジェンダーに関係なく、ほぼ60%が頑張ることが好きだ、と言っています。まだ頑張るという行為にたいする価値は放棄されてはいません。難関を前に最初から頑張ることを放棄する「敵前逃亡組」は現状では40%程度で一応マイナーなグループです。
頑張る発想は、現在の行為を未来の目的達成のための手段として位置づけることです。だから、頑張る行為それ自体は、本来的にはつまらないことです。そのつまらなさを超える価値として、未来の目的が無限の輝きを示している場合には、歯をくいしばって頑張ることに価値を発見することは可能です。それが《手段としての価値》ですが、そのような大きな価値を前提に置くことができないのが、いまの時代なのです。とすると、頑張るだけが空転しているのではないか、と心配になります。すでに頑張るための価値が見えないのに、ただ頑張ることだけが価値を背負わされているのではないか、つまり手段の目的化ではないか、と思えてきます。「なんでもいいから頑張っていればいいんだ、そうすれば頑張ることが快感になる」という倒錯化された世界が生まれるのではないかと心配です。
一面では頑張ることが快感になるメカニズムは必要なことです。そうでないかぎり、誰も頑張ろうとはしません。いつ実現するか分らないような価値のために、貴重な現在の喜びを放棄するわけにはいかないのは当然のことでしょう。だから、頑張ることの快感性は、重要なことです。たとえば頑張っている自分の姿に感動する、といったナルシズム的な快感の確保は重要なノウハウです。
問題は、どこまで頑張ることで今の快感の充足を延期させることができるか、です。法則的には、価値が大きいほど、またその価値実現までのチャネルが見えているほど、頑張ることを引き延ばすことは可能です。しかしそのような大きな価値が消滅し、小さな価値しかなく、しかもその価値実現のチャネルが見えないのが現在の価値混迷の状況なのです。とすると、頑張ることは、いま試練です。
にもかかわらず、60%の人が頑張ることが好きだ、と言います。その頑張りはどのような些細な価値によって支えられているのだろうか。その価値はどのくらい頑張る姿勢を維持させることができるのだろうか。5分間の頑張りか、5年間の頑張りなのか。
2.真面目の真面目
B) いつも、いつも、いつも、真面目に生きる
「いつも」を3度もしつこく繰り返すと、真面目な生き方への共感が揺らいでしまっています。真面目さは、ジェンダーに関係なく、25%前後の人にしか支持されません。真面目に生きることが本当に好きです、と自信をもって発言できる人は、もう過去の人のようです。
真面目にしか生きられないことは、いまでは冗談的な存在です。真面目だけということは、《遊びがない、ゆとりがない、おもしろみがない、ギスギスしていてふくらみがない》といった一連の負の価値しか表現しません。かつてのように、『実直で、しっかりしていて、信頼ができて、仕事ができて』といった正の価値を失っています。それだけ真面目な人にとって、今は生き辛い社会です。
しかし、真面目さが嫌われているのではないはずです。《真面目さしか表現できないことが嫌われているのです》。つまり真面目だけでも、また遊びだけでも、一面的な表現しかできないことが嫌われる原因です。真面目だけの人はつまらないし、遊びだけの人は馬鹿だ、ということです。どれだけ《両義的な役割》を表現できるか、が重要なのです。真面目であって、同時に遊びが感じられる、という人が好かれるのです。
ここには、役割や機能を一義的に規定することへの反発があります。矛盾することを同時に充足させるトリッキーな能力がいま求められています。専門性は、もう時代遅れです。なぜならば、専門性とは『これしかできない!』を意味する無能の証明にかぎりなく近い表現だからです。あれもこれも何でも熟せるセンスが期待されています。スペシャリストからジェネラリストヘの変貌が求められています。ジェネラリストヘの道には、真面目だけでも、遊びだけでも駄目で、両義的な存在への自己改革が必要なのでしょう。
3.目的と計画の執念
C) 目的を明確にし、計画的に物事を処理する
目的と計画性には、頑張ると同じように、ジェンダーに関係なく、60%程度の支持がある。目的を設定し、それを達成するために計画的なスケジュール管理をする、という合理的で効率的な方法はまだ健在である。
目的は何か。これが明確にできれば苦労はない。過去にあって、目的は自明であった。それは所与の実在であった。「生きること(死にたくない!)」とか「豊かになること(貧乏は嫌だ!)」がすべての人の共有の目的となっていたとき、目的それ自体を疑う必要はなく、ただ素直に手段としての計画を練ることに専念さえすればよかった。それ以上のことを考える必要もなかったし、またそのような余裕もなかった。(手段的)合理主義は、このような前提のもとで開花した思想である。
しかし目的の自明性がその力を失い、しかも目的が細かなものに分散していったとき、目的自体の価値を論争しなければならなくなった。なぜこの小さな目的は価値をもつのか、その正当性の根拠を求める作業が延々と続けられた。その結果、計画性はどこか隅の方に追いやられてしまった。目的それ自体を考えることが優先され、それを達成する手段を計画することは価値を喪失していった。
これが、いま進行しつつある価値の変換である。
いままでの目的的思考とは、目的が達成されることを目的とし、その達成の手段として計画がある、という発想である。しかし、そうなのだろうか。目的を価値の視点から捉え直す必要があるのではないか。つまり目的は達成された瞬間に、その価値を喪失する。だから、目的には、いつまでたってもなかなか達成されない、しかしもうすぐ達成されるはずだ、という状態が一番魅力的なときである。すぐに達成されてしまう目的も、永遠に達成されない目的も、目的としては失格である。目的的思考とは、目的達成までのプロセスを楽しむゲームである、といえないか。目的が達成された瞬間にすべては終わる。「できた!」という快感は、「もうこのゲームはできない」という虚しさの表現である。
目的には、《達成されることが目的なのか》それとも《達成されないことが価値なのか》という2つの見方がある。大きな目的を信じることができた時、達成されることが目的のオールド目的論にこだわれたが、いま小さな目的しか見当らない状況では、達成されないことが価値という目的論が重視されなければならない。そこにしか目的論の再生の道はないのではないか。
4.我慢する勇気
D) 何をなすにも、まずは、じっと我慢が大切
「我慢が大切」のコンセプトが好きという人は、ジェンダーに関係なく、ややマイナーです。今は、我慢が似合わない時代です。
我慢する必要がない時代に、我慢をアピールするのは時代錯誤です。我慢は、我慢せざるをえない状況(典型は、貧しさの世界)にあって、その状祝からのテイクオフを目的として、そのための有効な手段として採用されたトリックである。我慢の価値は、本来的には負の価値でしかないことが、その手段的価値によって一気に主要な価値に転換されたものである。
我慢があくまでも手段として存在するかぎり、それはモダンな発想であるが、我慢はややもすると自己目的化して、我慢=マゾ的快感になることもある。じっとしているだけで、気持ちいい快感が走るとき、我慢は歪んだ価値を発見する。おしん的な快感には、我慢さえしていれば何とかなる、という伝統的な我慢観がみられる。こうなると、我慢が止められなくなります。かつての日本のお父さんたちはみんな我慢が好きでした。いまでも我慢命でいる人がいます。かれらはもう完全におしんの世界です。
我慢は何のためにするのか、という目的論とセットになっている場合から、我慢する勇気それ自体が価値ある行為だ、という価値論に変貌する時、我慢はプレモダンと共鳴し、一気におしん的な様相を呈します。これがいわゆる日本的な近代化論につながるメンタリティです。
ここでは、そのような傾向には険悪感が表明され、我慢は醜い、という意見が大勢になっている。ポスト団塊の世代には、我慢はもう似合わない、という正常な反応がでていることは、素直に喜ぶべきなのであろう。我慢のカードを捨てたところから、新しい価値の創出に向けて歩き出す勇気が、いま期待されているのである。
5.自我へのこだわり
E) 他人に甘えることのない厳しい自我の形成
ジェンダーの影響力が明確である。男性は62.7%が自我に強いこだわりを示し、女性は49、3%が「自我なんて、まあいいか」程度でさらっとしています。
男はアイデンティティを求め、女たちはネットワーキングが新しいとでも主張しているようです。確かに、自我は男らしさには重要なのでしよう。あいつはいつも他人に頼る奴だ、というレッテルが貼られたら、それは男らしくない奴ということなのでしよう。男は、強いアイデンティティをみせることで、男らしさの証明を迫られているのです。
これにたいして、女たちは、そもそも強い自我なんて女らしさに似合わない、とでも言うかのように、アイデンティティという自分の殻を強固にすることよりも、その殻を柔らかにして外部とのネットワーキングを強力にすることを重視します。
時代は《アイデンティティからネットワークヘのシフト》を応援しています。近代を支えた個人主義への異様なまでの執着は、そろそろ終焉を迎えようとしています。もう強い自我にこだわっても、誰も偉いと褒めてはくれません。いまごろ変わった奴がいるものだ、で終りでしょう。にもかかわらず、男はその<らしさ>を証明するには、アイデンティティを示さないといけないので、ジレンマに陥ります。いっそのこと、既成の男らしさを放棄してみると、新しい男らしさへの道が開かれるかもしれません。
ピアスをする男、さりげない身だしなみに美しさを潜ませる男、やさしすぎる男、他人の世話をやくのが似合う男、昔ならば「男の屑」とレッテルを貼られたアンチ男らしさにこそ何かがあるのかもしれません。気がつくと、男の方が狭い生き方に凝り固まっています。
6.ビッグの夢
F) 成り上がりで結構、ビッグになることが夢
みんな、まだビッグが好きなようです。意外にも女性もビッグに憧れています。まだ上昇志向を止めるような気にはなっていません。いつまでたっても自分は貧乏だ、と自虐的なまでに思い込むことで、いままでの路線を安易に維持しようとする発想の貧困がみえます。成り上がりで結構、とまで居直っているのですから、ビッグヘの希望は止められないのでしょう。
これ以上ビッグになろうとする精神が諸外国とのすべての摩擦の原因であることを自覚していません。もう充分にビッグになったのですから、その現状をどのように豊かに消費するか、を考えるべきです。にもかかわらず、まだ上を向いて走ろう、と主張するのですから、貧乏根性にはどうしようもない怨念を感じます。貧乏根性は、確かに上昇志向を維持し活性化させるエネルギー源です。だから、怖いのです。どんな難関もこの根性で乗り越えてしまうから、そのような根性を喪失してしまった先進諸外国は怒り狂うのです。
これは業なのでしようか。貧乏物語には、人を感動させる何かが潜んでいます。その貧しい感動に価値を認めているかぎり、経済大国になっても、文化的な豊かさには永遠に無縁な民族としての道を歩むことでしよう。そろそろ貧乏物語に負の価値を貼る時機が到来していると思うのですが、まだ若者でさえ、ビッグに憧れています。
ビッグ志向と貧乏物語はセットメニューです。このセットメニューが蔓延っているかぎり、近代の超克といったテーマは冗談として一蹴されます。勝手に近代ゲームに戯れていろ、と揶揄・嘲笑されてもじっと我慢するしかありません。この我慢がまた好きだときたら、どうしようもありません。そろそろ”一杯のかけ蕎麦”なとの貧乏物語からは卒業しなければ、いけません。
7.仕事が生甲斐
G) 仕事が私の生甲斐、と胸を張っていえます
これは非常に少ない支持しか獲得していません。ジェンダーに関係なく、ほば30%の人が好きと回答しているだけです。「これしかない!」の生き方の典型が「仕事が生き甲斐」というパターンです。「専業/専門/専念/専心」といった言葉には、「これしかない」の生き方を必死で守ろうとする熱い思いが感じられます。
しかし「これしかできない」は、かつてのように「これができるぞ!」という自信に溢れた宣言ではなく、「これしかできない」という情けないぼやきに変貌しつつあります。「おまえ、仕事しかできないの? とんな生き方をしているの」と馬鹿にされるのが、いまの仕事観です。
仕事だけで人生を過してきた年寄りにとって、仕事はアイデンティティの源泉です。仕事があるから、自分が誰であるか、が確認できます。会社における地位が彼の存在を社会的に認知する唯一の証明書なのです。だから退職後は、その唯一ですべての地位を剥奪されるのですから、「濡れ落ち葉」としてしか生きる術を知りません。妻にも子供にも疎まれることで、新しくて惨めな自分を自覚させられるしかありません。それが仕事に命を賭ける男らしさの終焉の姿なのです。
仕事への過度の依存から離脱して、ざまざまな自分らしさを表現するとき、アイデンティティではない自分らしさの証明が必要になるはずです。仕事という素顔でだけで勝負してきた自分らしさではなく、何が自分の素顔なのか、自分でも分からなくなり、最後は「素顔なんて、ないの」と思い直すとき、仕事を一つの自分らしさの顔に落ち着ける自分を知るはずです。「もう仕事だけではない、愛もあり、家庭もあり、友人もいて、そして他人に邪魔されない自分だけの時間がある。そのトータリティのなかに、自分というリアリティはある」と信じるようになるでしょう。仕事が生き甲斐という人生設計は、近代社会が巧妙に仕掛けたトリックに違いありません。
8.人生はゲーム
H) 人生はゲームだから、勝つことがすべてだ
これは、ジェンダーの差異が明確です。男性は41.3%が「人生はゲームだ」と信じています。これにたいして、女性は73.8%が「まだ人生はゲームなんかだと思っているの、馬鹿みたい」と断定します。女性は「人が生きていくプロセスは”お芝居だ”」と言いたいのです。
ゲームには、必ず目的が設定され、その目的にどれだけ早く・安く到達できるか、という発想が前提としてあります。貧しい発想がゲームなのです。何でもいいから、寄り道や脇見などせずに、早くゴールについて「やったぞ!勝ったぞ!」と万歳しよう、というのがゲームですから、そこには細部にこだわり、その美しさに一瞬の夢をみるような豊かな発想はありません。ワッセワッセとただ上り詰めることだけを考え、その後の虚しさを夢想するような余裕は男たちにはまったくありません。恋愛ゲームで、男が女を征服したと誤解するときの男たちの快感は、まさに貧相な万歳ゲームです。男がお腹のなかで万歳を叫ぶとき、女は「なに馬鹿やってんのよ!」と心の中でつぶやきます。
ゲームには、目的それ自体が価値をもつ、という自明の前提が必要です。その前提が崩壊しているとき、ゲームはなんら意味を放射しません。「勝ったから、どうしたというのか」でおしまいです。それ以上の発展はありません。男たちは、まだゲームに意味があるという幻想から醒めていません。
女たちは、とっくにそんな幻想から目覚めています。ゲームの価値が崩壊したから、「もうお芝居しかないじゃない!」と明言し、生きるプロセスの一コマごとに新しい意味の創出を求めて、脚本にさまざまな書き込みをしています。生きること自体が大きな芝居であり、その芝居をし続けることで生きることの一コマごとに細やかな意味を発見するしかないではないか、という潔い「近代への決別」がみられます。もうゲームができるような現場ではない、みんながそれぞれの細やかな芝居のシーンを延々と撮り続けるしかない、これが近代の起克であり終幕であり、多少みみっちいが新しい時代のオープニングなのだ、と彼女たちは言います。
「兎と亀」の話があります。亀には、ゲームしか眼中にありませんでした。だから、勝つことに執念を燃やし、そして苦労してやっと勝ち、万歳し、その価値に酔いました。でも兎は、すでに勝つことに価値を求めていません。寄り道をし、昼寝をし、一瞬の安らぎに最高の快感を得ます。兎は、プロセスを楽しみたかっただけなのです。愚直な亀は、近代が産んだ貧しいゲームでのチャンピオンですが、兎には亀の異常な喜びが理解できません。男は亀で、女は兎です。
9.地味な一歩
I) つぎの一歩を考えて行動することが肝心だ
これは、男女ともに高い支持を示します。みんな地道な努力が好きなようです。これは、Bの目的の明確性と計画性のポリシーを行動上の方法として質問した項目なので、Bと同じような傾向(正確には若干高い65%のスコア)になっています。
我慢とか真面目さといったテーマにかんしては、すでに放棄する気分を鮮明にしているのに、地道な努力といったテーマにはまだ固執しています。努力信仰には、疑問が提示されていません。信じる価値がまだパワーをもっています。「なぜ我慢しなければいけないのか」とか「もう真面目には飽きた、遊びは素晴らしい」というふうに、我慢と真面目信仰は過去の遺物となっているのに、努力信仰には根強いものがあります。
地道な努力を続けていけば、いつか奇跡が起こるはずだ、とでもいうのでしょうか。これでは、みんな依然として亀ではないか、ということになります。このかぎりでは、亀の方法論から離脱する勇気をもっていません。野兎の走りのような、颯爽とした軽やかさはここにはなく、鈍臭い生き方への共感が支配的です。努力の二字にはもう飽きた、「だって努力したって、何もないんだもの!」ということに気づくのはいつのことなのでしょうか。
10.清潔という無駄のなさ
J) 何事もキチンと整理し、清潔で無駄がない
これも男女の差がなく、ほぼ半数の支持率です。常識的には、女性の方が清潔好きのイメージがありますが、ここでは有意な相関にはなっていません。若干女性のスコアが高いというだけのことです。女性も、清潔好きには反発したくなっているのでしょうか。「女ばかりが、なんできちんと整理整頓をしてなくちゃならないのよ。女だって、清潔嫌いだっているのよ。いままで我慢していただけなの、駄目な女のレッテルが怖くて」とブツブツ文句を言う女性の声が聞こえてきます。
塵ひとつなく清潔感にあふれ、きれいに整理整頓された、無駄なく機能的に空間設計された部屋。その人の部屋を覗けば、一見して分かります、その人の心がどこまで近代に酔っているかが。いつも清潔で、きれいで無駄のない配置をもった部屋には、モダンな秩序感覚がみえます。その秩序が美しさの定義を決定します。容易に秩序が理解できるとき、それが美のスタンダードを構成します。清潔は美しい。機能的であることは美しい。無駄のない配置は美しい。すべてのモダン美は”SIMPLE IS BEST”で決定されます。
無駄がないことは、手段的な合理性を社会的な次元で実現する行動上の方法であり、それ自体は美の基準ではない。にもかかわらず、モダンの世界では、無駄がない機能性が美しいことを判定する基準にまでなっている。この基準の確立は、モダンの価値を一気に高めたはずである。それまでは社会的な次元での価値でしかなかった機能性が、象徴次元における価値の正当性を獲得したとき、モダンをめぐる社会秩序は美しくリンクされ、揺るぎない近代を生成した。
そのリンクに、揺らぎが生じつつある。女性にとって自明であった「清潔で、無駄のないこと」が疑問視されつつある。なぜ、清潔であることは、女らしいことでなければならないのか?
(B)モダンマンとゲームマン
近代社会のエートスとして設定した10項目がどのような関連性を示しているか、数量化V類によって分析すると、つぎのような結果になる。
1 頑張る快感
2 真面目の真面目
3 目的と計画の執念
4 我慢する勇気
5 自我へのこだわり
6 ビッグの夢
7 仕事が生き甲斐
8 人生はゲーム
9 地味な一歩
10 清潔という無駄のなさ
(a)”手段性”と”反手段性”
第一軸は、手段的な価値を支持する立場と拒否する立場の対照性の問題である。「真面目さ」「我慢」といった、それ自体では価値をもちえず、ある目的を達成する手段としてはじめて価値を表現できる手段的(道具的)行為にたいして、それを「好きだ」と支持する立場と、「嫌いだ」と拒否する立場が、ここでのテーマである。
(b)”目的性”と”反目的性”
第二軸は、目的性への関心が強いか弱いか、という対照性の問題である。「人生はゲームだから、勝つことがすべてだ」とか「ビッグになることが夢」のように、目的達成それ自体への意欲が「強いか、それとも弱いか」がここでのテーマである。
(c)クラスター1:モダンマン(→手段性スケール)
第一のクラスターは、つぎの8つの項目から作成される。
1 難関にあったら、歯をくいしばって頑張る
2 いつも、いつも、いつも、真面目に生きる
3 目的を明確にし、計画的に物事を処理する
4 何をするにも、ますは、じっと我慢が大切
5 他人に甘えることのない厳しい自我の形成
7 仕事が私の生甲斐、と胸を張っていえます
9 つぎの一歩を考えて行動することが肝心だ
10 何事もキチンと整理し、清潔で無駄がない
これら8項目は、ある目的を達成するための効率的で合理的な手段としての価値を重視するエートスであり、近代社会には不可欠なエートスである。そこでこのクラスターを『モダンマン』と呼ぶ。
モダンマンは、強い自我への信頼をもとに、仕事を生涯の生甲斐とし、その仕事にかんしては明確な目的意識をもち、その目的実現に向けては実行可能な計画を綿密に練り、その実現過程では「真面目に、我慢して、頑張る!」をモットーに、地道な行動を展開し、何事もキチンと整理して、無駄のない効率的な仕事をする。
これが、組織に生きる男らしさの典型である。近代社会の組織は、このような手段的な価値を信奉する男たちによって成立し、発展してきたのである。組織人とは、このようなモダンマンのことであり、つねに組織との関連に中で男らしさの証明を求めた人である。モダンマンは、仕事から離れた自我を想定することはできない。モダンマンのアイデンティティは組織人になりきることであり、組織の中で考え、組織の中で行動することがモダンマンらしい生き方なのである。家庭を振り返るような余裕はもてないし、もつ必要を感じないのである。
このようなモダンマンにかんする共感の度合いを『手段性スケール』として作成する。つまり上記8つの項目の支持(好き)数によって、どの程度のモダンマンであるか、を評定する。
手段性スケールにかんしてはジェンダーの影響力はない。しかも最頻値は男女ともにスコア3とかなり低レベルである。その値は女性で19.7%、男性で18.2%である。モダンマンの生き方が、女性ばかりか、男性(といっても、現役の大学生)にも、かなり否定的な生き方と評価されている。少なくとも積極的に支持し共感する生き方ではないことは確かである。<真面目・我慢・頑張る>には、もはや魅力が感じられないのだろう。当然のような気がする。
スコア8という典型的なモダンマンは、男性で6.8%、女性で3.6%である。しかしスコア0というアンチ・モダンマンにかんしても、男性は6.8%で、女性は3.9%である。男性の方がばらつきが大きい。その理由として、男性のサンプルが少ないということもあるが、男性の方がモダンマンヘのコミットメントが高いために、共感と反発の評価がはっきりするということも考えられよう。共感するにしても、また反発するにしても、それだけ、男性の方が近代社会のエートス(モダンマン)に拘束されているのだろう。女性は、意外に醒めた反応を手段性スケールにたいして示している。
(d)クラスター2:ゲームマン(→ゲームスケール)
第二のクラスターは、つぎの2つの項目から作成される。
6 成り上がりで結構、ビッグになることが夢
8 人生はゲームだから、勝つことがすべてだ
これは、手段性スケールにみられる「手段としての合理主義や効率主義」を直接求めているものではなく、目的達成それ自体の価値を重視するエートスである。そこで、これを『ゲームマン』と呼ぶ。
ゲームマンは、ややマキャベリストである。ゲームに勝てばそれだけでいいし、サクセスすれば、そのためにどのような手段を利用しようが、それは問わない。問題は結果であり、そのための手段が正当であるかどうかは無意味である。じっと我慢して地道に上に登ってこようが、ギャンブルのようにして一気に駆け登ろうが、そんなことはどっちでもよい。必要なのは、ゲームに勝ったか負けたかであり、成功したか失敗したか、である。勝者として、成功者としての価値に強い共感を示すのが、ゲームマンである。
そこでゲームマンヘの共感度を示す『ゲームスケール』を作成する。上記2つの項目を支持(好き)する数によって、どの程度ゲームマンになろうとしているか、を探ることにする。
ゲームスケールにかんしては、ジェンダーの影響力は明確である(1%水準で有意な相関)。男性はゲームマンに憧れ、女性はゲームマンに嫌悪している。
2項目を支持するゲームマンヘの憧れ派は、男性では30.3%にも達し、女性では22.6%である。反対に、アンチ・ゲームマン派は、男性で27.3%で、女性では37.2%にも達している。男女差でみるかぎり、男性はゲームが好きで、「勝つことやビッグの夢」に価値をおき、女性はそんなマキャベリストにはなりたくないと言っている。
男たちは性懲りもなく勝つことに執念を燃やし、サクセスヘの夢を捨てることができないようです。ある意味では、かれらはロマンティストです。そんな子供じみた行動を、女たちはかなり冷ややかな目で見つめています。もしかしたら、彼女たちからすれば『もうサクセスなんて、終わって、何もないのよ!』とでも言いたいのでしょうか。
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