女のくせに
 
序論
1. 前提という制約
2. 欲望としての仕事か、仕事の制度化か
3. 男らしい仕事、なにが
4. 女たちの”じりつ”神話
5. 組織、という罠
6. 子供たちの、におい
7. ”おんな”のレッテルの常識 
8. ”HANAKO”と『ぱなな』
9. 近代の超克:冗談っぽく、真面目に
10. 女のくせが交響させる、さまざまな顔

10.女のくせが交響させる、さまざまな顔

≪おんな≫ という言葉に誘われて、ここまできました。新しいコードがあるとしたら、それは何なのか、【女のくせに】というウィンドウを開きながら迷走する探索を繰り返してきました。そろそろ寄り道にも決着をつけないといけません。
はやく結論を提示しろ、と言われても困ります。寄り道にはそれなりのルールがあります。迷走の価値をいかに表現するか、に苦悩している姿を共有してもらわないと、解法の鍵は獲得できません。

女は、どのような顔をもつのか。
《女が働く》という条件のもとで、
女たちはどのような顔を見せるのだろうか。

いままで発見してきた13のスケールをもとに、対象者を『女性に限定』 して、スケールがどのように共鳴するか、を分析する。13のスケールはつぎの通りである。

1.『仕事の制度化』

女の仕事は、すべての女性が従事すべき「制度としての仕事」であるべきなのか、それとも仕事が好きな人が従事すればよい「欲望としての仕事」であってかまわないのか。女の仕事には、制度化と欲望の次元の相違をテーマにしなければならない。

「制度化された仕事 ( AA ; 制度派 )」
「欲望としての仕事 ( BB ; 欲望派 )」

2.『男の妥協』

これは、「仕事は生活のための手段だ」という男の仕事にかんする第一の評価で、仕事は「給料さえ高ければ、それでもよかろう」という「妥協派(CC)」と、「生き甲斐のある仕事を見つけるべきだ」という「精神派(DD)」の対照性がテーマである。

「給料が高ければ、よい ( CC ; 妥協派 )」
「生き甲斐のある仕事を ( DD ; 精神派 )」

3.『駄目男』

これは生活のためにする男の仕事の第二の評価で、このような仕事をする男を「駄目な男と評価(男のずるさ、男の戯言、言い訳、卑怯)するかどうか」がテーマである。

「駄目男ではない ( EE ; 駄目男− )」
「どちらでもある/ない ( FF ; 駄目男± )」
「駄目男だ ( GG ; 駄目男+ )」

4.『男の辛さ』

これは生活のためにする男の仕事の第三の評価で、このような仕事をする男を「男は辛くて大変だと評価(弱い男に共感、家族の為に頑張る)するかどうか」がテーマである。

「男の辛さを認めない ( HH ; 男の辛さ− )」
「どちらでもある/ない ( I I ; 男の辛さ± )」
「男の辛さを認める ( JJ ; 男の辛さ+ )」

5.『女の自立』

これは、フリーで仕事を楽しんでいる「いわゆる自立する女」の仕事にかんする評価であり、つぎの3つのパターンがある。

「女の自立を否定する ( KK ; 女の自立− )」
「どちらでもある/ない ( LL ; 女の自立± )」
「女の自立を支持する ( MM ; 女の自立+ )」

6.『頑張る組織化』

これは、既存の組織にたいする価値コミットメント(地位がほしい、昇進にあこがれる、同僚はライバル、転勤辞令には従う、徹夜は平気、真ん中の席にいたい)が高いかどうか、を評価するスケールである。

「組織コミットメントが低い ( NN ; 組織化− )」
「どちらでもある/ない ( OO ; 組織化± )」
「組織コミットメントが高い ( PP ; 組織化+ )」

 以上6つのスケールは、仕事に直接関連するスケールである。

7.『手段性』

これは、近代社会を支えるモダンマンのエートスである手段的価値(目的、計画、我慢、頑張る、厳しい自我、地道な努力、真面目)にかんする評価である。

「手段的価値を拒否する反モダンマン ( 01 ; 手段性− )」
「どちらでもある/ない ( 02 ; 手段性± )」
「手段的価値に強く共感するモダンマン ( 03 ; 手段性+ )」

8.『ゲーム』

これは、目的達成それ自体の価値を重視するエートス(ビッグの夢/ゲームに勝つ)であり、本来的には手段的価値に支えられてはじめて近代の価値に変貌する価値意識である。

「ゲーム嫌い ( 04 ; ゲーム− )」
「どちらでもある/ない ( 05 ; ゲーム± )」
「ゲーム好き ( 06 ; ゲーム+ )」

9.『俵万智』

これは、俵万智の短歌のなかの「男と女の古臭い関係」(試着室、八百屋、命令形、決めつけ男、花いちもんめ、カンチューハイ、帰り道、ブラシ)にかんする共感度のスケールである。

「そんな男女の世界を拒否する ( 07 ; 俵万智− )」
「どちらでもある/ない ( 08 ; 俵万智± )」
「そんな男女の世界に共感する ( 09 ; 俵万智+ )」

10.『わがまま』

これは、俵万智の短歌のなかの「男女関係に示す女のわがまま」(ハンバーガーショップ、食べたいでも痩せたい)にかんする共感のスケールである。

「わがままな女を拒否する ( 10 ; わがまま− )」
「どちらでもある/ない ( 11 ; わがまま± )」
「わがままな女に共感する ( 12 ; わがまま+ )」

11.『格印の女』

これは、女たちが<男の決めた女の常識>から逸脱した(不貞腐れたお茶くみ娘、朝食づくりを逃げる働く妻、夜遊びDINKS(妻)、外食グルメのシングル・ギャル、など)とき、「それは、女として許されないことだ」とレッテルを貼り、逸脱する女に烙印を押すことにかんするスケールである。

「そんな烙印の女を許す ( 13 ; 烙印の女− )」
「どちらでもある/ない ( 14 ; 烙印の女± )」
「烙印の女のレッテルを貼って許さない ( 15 ; 烙印の女+ )」

12.『リアリズム』

結婚して子供ができて、それでも女は仕事が続けられるのか、という現実的な問題に直面したとき、どのような評価になるのか。ここでは現実約な選択(結婚を契機に仕事を止めるべきだ、夫や子供のために犠牲になることの大切さを知るべき、アグネスには不愉快、子供は仕事の邪魔)を前にして、つぎの4つのパターンを想定した。

「現実的な選択を強く拒否する ( 16 ; リアリズム−− )」
「現実的な選択を一応拒否する ( 17 ; リアリズム − )」
「現実的な選択を一応支持する ( 18 ; リアリズム + )」
「現実的な選択を強く支持する ( 19 ; リアリズム++ )」

13.『ラディカリズム』

 ラディカリズムとは、生活・子供・仕事のジレンマを、仕事を続ける前提で現実を変革させることで解決しようとする生き方(仕事を止めてはいけない、離婚を覚悟、子供には子供の世界がある、子供を断念)である。このラディカリズムにかんして、3つのパターンを想定した。

「ラディカリズムを拒否する ( 20 ; ラディカリズム− )」
「どちらでもある/ない ( 21 ; ラディカリズム± )」
「ラディカリズムに共感する ( 22 ; ラディカリズム+ )」

以上7つのスケールは、仕事に直接的には関係しないが、女性の仕事の背景にあって、仕事のあり方に影響力をもつ生活上の要因である。

以上13のスケールの他に、つぎの2つの属性上の要因を設定する。それは、女性の生き方を基底的なレベルで拘束する社会文化的な要因である。

14.『年齢』

第一の属性要因は「年齢」である。いつに生まれ、いま何歳であるか、はその人の生き方をもっとも基礎的なレベルで規定する要因である。ここではつぎの3つの年齢構成を設定する。

「20歳以下 ( 23 ; 20歳以下 )」
「21歳から24歳 ( 24 ; 21−24歳 )」
「25歳以上 ( 25 ; 25歳以上 )」

15.『ベイシックロール』

最後に、社会向けのアイデンティティ(自己の存在証明)の源泉である基底的な社会役割として、つぎの3つのタイプを設定する。

「現役の女子大生 ( 26 ; 女子大生 )」
「外で仕事する女性 ( 27 ; 有職者 )」
「内を守る専業主婦 ( 28 ; 専業主婦 )」

このような15の要因の関係性の中で、女性はどのような顔をみせるのだろうか。双対尺度法によって分析すると、つぎのような結果になる。


(a)”はげしさ” と ”やさしさ”

第一軸は、女性が男性に贈る関係性であり、それは『激しさと優しさ』である。女性は、男たちとの緊張感に溢れた力のゲーム空間を生成するために、激しくぶつかる存在、つまり《ゲームの敵=奪う対象としてのプレイヤー》として男性を想定するのか、それとも男たちとの親密であたたかな関係(しかしそれゆえに拘束された関係でもある)を生成するために、優しさに包まれた存在、つまり《ごっこのパートナー=尽くす対象としてのアクター》として男性を想定するのか。前者は『HANAKO的なプレイヤー』であり、後者は『ぱなな的なアクトレス』である。

(b)”夢を見る目” と ”地を見る目”

第二軸は、女性が男性(そして仕事と生活)を見つめる”まなざし”であり、それは『夢を見る目と地を見る目』の相違である。女性は、男性との関係をはじめ仕事にも生活にも、いつもドリーマーのまなざしを忘れず、軽やかなステップを踏むのか、それとも何につけても厳しい現実の前に屈し、その錘の重さの中にしか自分の位置をみいだせないのか。夢想家と地這家には、鳥瞰図と虫瞰図の視点のずれがあるし、夢想家は地這家を「あまりにも現実にこだわりすぎないか、それが大人というものなのか」と呆れ、地這家は夢想家を「現実は甘くないぞ、ほら失敗した。”そら、みたことか”(空、見た子とか)」と皮肉る。

(c)解釈コード1: ”たたかう顔” と ”かわいい顔”

女性たちの仕事にかんして、その将来展望を考えるとき、『仕事の制度化か、それとも欲望としてか』のテーマは基底的な問題である。そこでこのテーマに関連する項目を探ると、つぎのようになる。


女性たちの『仕事の制度化(制度派;AA)』を期待する項目には、つぎの項目が共鳴している。

『制度派;AA』    
『組織化 + ; PP 』
『男の辛さ − ; HH 』
『ラディカリズム + ; 22 』 ⇔

たたかう顔

「女性は、誰でも仕事をもつべきだ」と『仕事の制度化(AA)』を期待する女性は、男と対等の条件での組織化を求め(『組織化+;PP』)、「男の仕事は生活の手段だ」という男の仕事観にかんして、「それは辛い男の生き方ですね」と同情することに強く反発し(『男の辛さ−;HH』)、そして組織と生活のジレンマの解決にはラディカルな方法の選択を推薦する(『ラディカリズム+;22』)。
彼女たちは、男たちとの間に意識的な緊張関係を持ち込み、ファイティング・ポーズをとることで、自分らしさを表現しようとしている。強くて生意気な虚勢を意図的なポーズとしてみせることで、男たちとの間に新しい関係(古臭い関係!)を生成しようとしている。しかしこれはかつてのウーマンリブたちの残像でしかないのではないか、という印象が色濃く残る。もはやこのような対立・緊張という闘争的な関係で男の仕事に挑戦することは、時代の気分からすれば、限りなく遠くなってしまったような気がしてならない。すでに女の仕事の制度化は過去の一瞬の夢としてそのまま化石となってしまったコードなのであろうか。少なくとも、女たちの今の気分では「制度化にはのれない」のである。女たちが『たたかう顔』をみせるほと、男たちはやや冷やかな顔をみせ、また多くの女たちもただ首をすくめて、「まだそんなこといってるの」と怪訝な顔をする。

メインストリームは『欲望としての仕事(欲望派;BB)』にある。これは、つぎのような項目と共鳴している。

『欲望派;BB』
『男の辛さ ± ; I I 』
『男の辛さ + ; JJ 』
『俵万智 ± ; 08 』
『俵万智 + ; 09 』
『手段性 + ; 01 』
『わがまま ± ; 11 』 ⇔
 
かわいい顔
 
「仕事なんて、やりたい人がやればいいのよ!」と、欲望としての仕事を考えている女性は、「毎日働き続けなければならない男の仕事は辛い」ことに強く共感し(『男の辛さ+;JJ』と『男の辛さ±;II』)、「お父さんたちも大変ですね」と優しさをふりまき、自分たちの仕事が制度化されていないことにホッとする。彼女たちは、仕事は好きな時にすることが幸福、と確信している。そんな彼女たちは、俵万智の世界に強く共鳴する。表面的には新しそうでその実しっかりと古臭い男と女の恋愛関係に憧れ、弱くて優しい女を演じることに満足する(『俵万智+;09』と『俵方智±;08』)。しかも単純に弱くて優しい女だけではなく、それなりに我が儘なポーズをとることも忘れていない(『わがまま±;11』)。この優しさと我が儘の同居が、男性にたいする新しいポーズなのだろう。さらに、彼女は、とても真面目で清潔好きで、我慢強くそして頑張り屋である(『手段性+;01』)。もちろんこれもポーズとしてであるが、彼女たちは<男の論理>(手段的な価値)に素直で従順である。
男性は、こんな女性をみて、『かわいい』を連発するはずである.『たたかう顔』と対照的に、『かわいい顔』は、男のハートをくすぐる。この顔は、男たちが思っている以上にしたたかである。かわいいポーズには、男を操る毒がある。男は操った気分でいても、本当は彼女たちが男たちを反対に操っているということになりかねない。闘うポーズを決めてきたかつての女性よりも、『かわいい顔』の方が恐いパートナーである。

(d)解釈コード2: ”したたかな顔” と ”むくな顔”


「給料さえ高ければ仕事に生き甲斐はあえて求めない」という『妥協派;CC』は、つぎの項目と共鳴する。
『妥協派;CC』    
 
『俵万智 − ; 07 』
『有職者   ; 27 』 ⇔
 
したたかな顔
 
『妥協派』に強く共鳴するのはワーキングウーマン(『有職者;27』)である。そして彼女たちは、俵万智の世界に強烈に反発する(『俵万智−;07』)。万智ワールドに夢を見ることができなくなると、仕事に生き甲斐を求めるかわりに、「仕事は金だ」と計算する方が優先され、日常生活もかなり現実的になってくる。それが実際に働いている女性たちの現実の姿である。ここでは男たちに混じって仕事をしている女性たちのシビアな現実が浮んでくる。フリーアルバイターなどの新しいイメージが先行しても、リアルなワーキングウーマンは、一方では既存の男らしさの強さの前にへつらい迎合し、他方では専業主婦に通じるやや疲れたリアリティに染まりつつ、にもかかわらず自分たちの取り分だけは確保しようと、必死に働いている。働くことが生易しいことではない事実だけは伝わってくる。彼女たちには『したたかな顔』が似合っている。男の世界で競って生きていくには、この程度のしっかりした戦略が必要なのだろう。

これにたいして、『仕事には生き甲斐がなければ困る』と主張する『精神派;DD』には、つぎの項目が共鳴している。

『精神派;DD』

『男の辛さ ± ; I I 』
『わがまま − ; 10 』
『俵万智 + ; 09 』
『俵万智 ± ; 08 』
『20歳以下 ; 23 』
『女子大生 ; 26 』 ⇔
 
むくな顔
 
「仕事には生き甲斐がないといけない」という仕事にかんしてピュアな精神派は、他の仕事に関連する項目にはあまり共鳴しない。これに辛うじて共鳴しているのは『男の辛さ±;II』程度である。
精神派が共鳴するのは、仕事よりも《女らしい生き方そのものへの共感》である。それが万智ワールドへの共感(『俵方智+;09/±;08』)であり、また俵万智のわがままな世界への強い嫌悪感(『わがまま−;10』)である。男と女の関係にかんしては、どこまでも弱い女らしさにこだわり、それが女らしい生き方だ、と素直に信じるポーズをとっている。ここには、『サラダ記念日』がなぜベストセラーになったか、が充分に推測できる共感の構造がみえる。もっとも「わがまま」も俵万智の作品の一部であるから、歌人俵万智がもつ両義牲(”弱さ”と”我が儘”)が彼女の読者にはあまり理解されていないのではないか、という疑問は残るが。このような万智ワールドヘの一義的な共感は、精神派の気分を非常によく表現している。
彼女たちは、《無垢なる気分屋》である。仕事にかんしては「生き甲斐のある仕事」を無条件で支持し、だからこそ組織に働く不幸な男たちの仕事の辛さにはそれなりの共感を示し、そして男と女の恋愛関係では昔ながらの古臭い女らしさの芝居に共鳴するという《かわいくて、ピュアで、しかもイノセント》な気分を大切にしている。これが、『20歳以下;23』の『女子大生;26』が示すいまの時代の気分である。仕事には生き申斐が大切と素直に感応する精神派の気分は、仕事の苦労や貧しさのリアルな体験を言葉の遊びとしてしか理解できず、リアリティとして理解できるのは恋愛のような虚構的な世界でしかない。だから、いつも彼女たちは平気で可愛い素振りと純粋で無垢な顔を誇れる。そのような顔を、ここでは『むくな顔』と呼ぶ。

(e)解釈コード3: ”きつい顔” と ”かわいい顔” と ”やさしい顔”


『駄目男+;GG』
  『ゲーム + ; 06 』 ⇔

きつい顔

「仕事は生活の手段だ」と逃げる男を、捕まえて「駄目な男だ!」と弾劾するきつい女性(『駄目男+;GG』)は、たった一つ『ゲーム+;06』に共感する。彼女は、男たちに対抗するポーズを忘れず、男とのゲームや駆け引きを楽しむ。仕事というリアルな場では《きつい》競争ゲームを展開し、意識の上では《ゲームに勝ってビッグにならなければ駄目だ》と信じている。
 男たちは、自分の仕事に能力が発揮できなければ、「仕事は、家族のみんなを養うためにしなければならない、生活のための手段だ」を言い逃れをしながら、にもかかわらず見栄をはりたいものである。そんな弱い男の心情を理解する素振りすらみせず、一気に潰しにかかるきつい女性は、どんな状祝にあっても、男を信じるようなことはなく、「奪えば勝ちだ」という信条をもとに、男を操るゲームに情熱を傾ける。
たぶん《彼女の顔は、きつい》。

「やっぱり駄目な男とレッテルを貼られても、ある程度は仕様がないんじゃないか」と評価する『駄目男±;FF』は、つぎの7項目と共鳴する。

『駄目男±;FF』    
 
『組織化 ± ; OO 』
『女の自立 ± ; LL 』
『ゲーム ± ; 05 』
『俵万智 ± ; 08 』
『烙印の女 ± ; 14 』
『ラディカリズム ± ; 21 』
『21−24歳 ; 24 』 ⇔

まどわす顔

これは、(大人の男からすれば)何を考えているのかさっぱり分からない顔であり、それを彼女たちはみずから『まどわす顔』と呼ぶ。
彼女たちは、仕事にかんするスケール(駄目男/女の自立/組織化)にかんして、積極的に支持するわけでもなく、同時に主体的に拒否する立場を鮮明にするわけでもない。彼女たちは、「どちらでも”ない”し、おなじように、どちらでも”ある”(±)」と平気で嘘をつく。もっとも嘘と決めつけるのは大人の男の論理であり、彼女たちにはそのような意識はない。彼女たちはいつものように「男の人の仕事は大変だと思うし、組織に生きることでしか仕事はできないのではないかとも思うし、でも女の自立にもそれなりに共感するの!!」と、両義的な(お父さんからすると”こうもり”のような)発言を繰り返す。
彼女たちには意思決定という言葉はない。論理をつめて、ある目的に到達するまでの筋道をたて、最後には目的を達成するために《選択という決断》をする、という発想はない。すべてのことを一面にパッとちりばめ、モザイク状にすべての位置をきめ、「美しい画面ができた」と満足する《編集の発想》があるだけである。だから、彼女たちには、<論理的な矛盾>はあまり説得的な言葉ではない。
彼女たちは、仕事ばかりか生活すべてにわたって、《両義的なトリックスター》であろうとする。烙印の女のイメージや万智ワールドにそれなりに(±)コミットしてみせ、男の言い分をよく聞く「(男にとって)都合のよい女」かなと思わせておいて、すぐにラディカリズムやゲーム感覚をほどほどに(±)ちらつかせて男たちを震い上がらせる「怖い女」の芝居もする。キュートで、悪魔のようで、男をくすぐることを本能的に知っている女性が、大人の世界に足を踏み入れたばかりの『21から24歳』という年齢なのだから、本物の大人たちは”かなわない”。
彼女たちの《まどわす顔》は、エイリアンの香いが滞った不思議な顔である。彼女たちは、ミステリーが好きで、謎めいていることが美しい。
これにたいして、「駄目男とレッテルを貼ることなんて、できない」と発言する『駄目男−;EE』は、つぎの2つの項目と共鳴する。
『駄目男−;EE』    

『ゲーム − ; 04 』
『わがまま − ; 10 』 ⇔

やさしい顔

彼女たちは、どこまでも優しい。ハンバーガーショプの席を立つように男を捨てるようなまねはしないし、「愛されたいでも愛したくない」なんて我が儘はいわない。自分から愛情を示さなければ、愛されることはないと信じている。当然、人生はゲームだなんて思わないし、ビッグになることよりも細やかな幸福を大切にする。だから、お父さんの仕事を駄目だなんて口が裂けても言わない。
彼女たちは、『やさしい顔』を作ってみせる。男たちが懸命に仕事する姿に、それが弱い男が示す精一杯の強がりと分かっているから、彼女たちは《男のずるさ、無能な男の戯言、家族のためという言い訳、仕事から逃げる卑怯な生き方》といったレッテルを貼らない。そんな駄目な男であるからこそ、女は優しいまなざしを贈らなければならない、と信じている。

(f)解釈コード4: ”あまい顔” と ”まじめな顔” と ”あきらめ顔”


女の自立を熱狂的に支持する層(『女の自立+;MM』)は、つぎの1項目に強く共鳴する。
『女の自立+;MM』    

『リアリズム −− ; 16 』 ⇔

あまい顔

女は、仕事で自立しなければならない。仕事ができる女にならなければならない。その有能さは、しかし男が支配権を掌握している古臭いビューロクラティックな組織ではなく、情報社会に相応しいネットワーク型の仕事場で表出されるものである。
自立する女は、地位を獲得するために組織にこだわる定住民ではなく、《やりがいのある仕事を求めてネットワークを生成しながら漂流する浮遊民》である。
自立する女はイメージである。まだ夢を見ることができる少女たちに似合ったイメージである。なぜならば、自立する女に共鳴する項目が『リアリズム−−』ただ一つだからである。自立する女に共感する女性は、仕事と生活の現実的なジレンマをリアルなものと認識する視座をもたない。彼女たちは、「仕事か、家庭か」の選択を無視して二兎を追う勇気をもち、家族のために犠牲になること(仕事を断念)を拒絶し、アグネスの生き方に声援を送り、在宅勤務の形態に新しい仕事場の夢を託す。彼女たちには、現実の重さはみえない。「現実の重さをみてしまったら、何もできないではないか」という思いもどこかに潜んでいるのだろう。
彼女たちは、《夢少女》である。『あまい顔』をしている。女の自立には、夢をみる自由が大切であり、周囲から「甘い!」と批難されても、それを受け流すことができる強さが必要である。あまい顔には、甘いことに徹する夢みる自由と虚構に耐え得る強さが共存しなければならない。

女の自立をある程度期待している場合(『女の自立±;LL』)、それはつぎのような項目と共鳴する。
『女の自立±;LL』    

『組織化 ± ; OO 』
『駄目男 ± ; FF 』
『手段性 ± ; 02 』
『21−24歳 ; 24 』 ⇔

まじめな顔

<ほどほどの女の自立>には、仕事関連では<ほどほどの組織化>と<ほとほどの駄目男のレッテル>が共鳴している。女の仕事の現実を見つめる勇気をもつほど、女の自立の実現にはまだ距離があるという実感は強くもつはずである。そのとき、自立を志向する女性は、妥協として組織化の強さを承認する。ここには甘い顔はもはや消滅し、現実との妥協点を探索しようとする『まじめな顔』が覗く。「そこそこの女の自立」と相互に補完しあう「そこそこの組織化」がバランスをとって選択される。男の組織を許容する現実主義と女のネットワーク実現の夢を語る理想主義との混合形態が模索される。
この模索を支えるのが、『手段性±』である。「手段性+」が現実(男の論理=近代的合理性)への安易な迎合(決まり切った良い子としての振るまい)という意味合いをもち、「手段性−」が現実からの醒めた回避(もう良い子なんてやってらんないわよ!)という意味をもつのにたいして、「手段性±」は真面目に現実変革への意思を縦承しようとする。<まじめに、がまんして、むだなく>という近代派のエートスヘのほどほどのコミットメントは、ビューロクラティックな組織一辺倒からネットワーク型の組織への移行を正当化する重要なエートスである。
彼女たちが、男の世界で現実に仕事をするような年齢(21−24歳)になった時に、手段的価値へのほどほどのコミットメントをもって「女の自立と組織化のジレンマ」を解決しようとすれば、彼女は『まじめな顔』にならざるをえない。女の自立を夢物語で終らせることなく、その実現に向けて一歩を着実に踏みだそうとすれば、誰でもみんな真面目な顔を創らざるをえない。男の世界へのしなやかな抵抗の記号を印すには、女性がみせる『まじめな顔』がもっとも似合っている。

女の自立に反旗を翻す(『女の自立−;KK』)とき、それはつぎの項目と共鳴する。
『女の自立−;KK』    

『リアリズム ++ ; 19 』 ⇔

あきらめ顔

これは、「あまい顔」と対照的である。女の自立を拒否することは、仕事と生活のジレンマの解決を「現実の重さを知れ!」の一言によって、仕事を放棄させることなのである。
ここには、専業の発想が色濃く残っている。「外のことは男に任せればいい。女は家庭をしっかりと守りさえすればいい。女がそれ以上の望みを口に出したら、家庭生活は崩壊するだけである。誰かが我慢しなければならないし、それが大人の女の分別というものだ」ということなのだろう。女の自立の夢を放棄した分別臭い女性には、重た過ぎる生活実感に浸りきることで現状を正当化する癖がみられる、といえるかもしれない。
女の自立と生活のリアリティが抱える矛盾は、女性にとって踏み絵である。家庭のリアリティを大切にする女たちは、女の自立というキーワードには異様なまでの反発を表明し、仕事に夢を見ようとする甘い女たちは家庭生活の香いに浸りきる女性たちに嫌悪感をもつ。夢少女と分別臭いおばさんには、どこまでいっても協調路線はありえない。夢酔い顔には、自立のコードを無邪気に信じる子供じみた素直さがあるのに、おばさんの顔には、現実の重たさに耐えるには諦めしかないという無念さと虚無感が走る。それを、ここでは『あきらめ顔』と呼ぶ。

(g)解釈コード5: ”いきがる顔” と ”はりきる顔” と ”うつむく顔”

組織化は、つぎのような3つの顔を創る。


組織化が積極的に支持されている場合(『組織化+;PP』)、それはつぎのような項目と共鳴する。
『組織化+;PP』    

『制度派   ; AA 』
『わがまま + ; 12 』 ⇔

いきがる顔

ここでの女性は、男性と対等に生きるにはどうすればよいか、そのための戦略は何か、を考える。まず男性と張り合うには、男の組織に充分コミットしていく気持ちが必要であり、仕事も制度化の次元で考えないと、男の仲間には入れないと真剣に悩む。そして仕事以外の場所でも、たとえば恋愛のような状況ならば、いままでの常識のように弱々しい女を演じるのではなく、自分の強味がいかせるならばどこまでも我が儘を通す強さを示さないといけない、そうしないと「男に舐められてしまい、男の都合の良いようにあしらわれてしまう」という危機感をもっている。だから、彼女は『いきがる顔』を意識して見せる。
「あなたに愛されたいけど、わたしは愛したくない」とか「ハンバーガーショップの席を立つように男を捨てる」という新しい強がりのポーズには、新鮮な響きがある。恋愛というある意味では非常に保守的な空間で、俵万智もどきの普通の人がこんな大胆なポーズをとるとしたら、男たちは狼狽しながらもジェンダーを挟んだ対等の感覚を初めて実感をもって味わうことだろう。男性だって「もう戻れない。これから本物の恋愛が始まる」と思うかもしれない。

ほどほどの組織化(『組織化±;00』)は、つぎの項目と共鳴している。

『組織化±;OO』
『女の自立 ± ; LL 』
『駄目男 ± ; FF 』
『手段性 ± ; 02 』
『ゲーム ± ; 05 』
『烙印の女 ± ; 14 』
『ラデイカリズム ± ; 21 』
『21−24歳 ; 24 』
『女子大生 ; 26 』 ⇔

はりきる顔

緊張とその解消への努力が繰り返され、「ほどほどの中に勢い」がみられる。
仕事にかんしては、男の組織化と女の自立(ネットワーク)がぶつかり、組織で頑張る男性を駄目男と指弾することにも時と場所が選ばれ、ある時は厳しく、ある時は優しく評価されている。自在に組織とネットワークの間を揺れる気分が大切にされている。
生活にかんしては、ある時はゲーム感覚の発揮とラディカリズムヘの信奉から大胆な行動が喚起され、しかしある時には<烙印の女>にも配慮して全く常識的な女を演じることもある。またある時は真面目で計画的で目的志向のモダンな女性にも変貌する。
彼女たちは、張り切っている。彼女たちは、組織と家庭の間の緊張を溶解するメディアになるように、涼しい顔で両義的な演技をする。彼女たちには、仕事と生活をいかに両立させるかがテーマである。一方ではまだ結婚していない(しかも子供がない!)ことからくる生活の気軽さによって、他方では男の仕事の世界に足を引っ張られるほど深入りしていない気軽さから、彼女たちは仕事と生活の両立を実現可能性をもった理想論としてクエストする。この気軽さと張り切った気分にこそ、「仕事と家庭」のジレンマという(大人にとっての)永遠の課題を一気にクリアするトリック(仕事も!そして家庭も!)が隠されているのかもしれない。たとえいっときの幻想だとしても、そこでの両義的な世界の実現に張り切る姿には、その実現を諦めた大人からすれば魅力的な何かが圧倒的な力で迫ってくる。だから、《ほどほどの世界》には何か賭けたくなる。こんな彼女たちが示す顔を『はりきる顔』と呼ぶ。

組織化が拒否される場合(『組織化一;NN』)、それはつぎの項目と共鳴する。
『組織化−;NN』    

『男の辛さ + ; JJ 』
『烙印の女 + ; 15 』 ⇔

うつむく顔

組織化に反対することが、男の世界への反逆を意味するものではなく、全くその逆で男の世界に迎合することであることが、<男の辛さ>への理解と<烙印の女>への共感から分かる。つまり組織化に反対する意味は、「女は男の世界に立ち入ってはいけない、女には女に相応しい領域があるのだから、そこに留まればいいのだ、分をわきまえよ」ということである。とくに<烙印の女>との間には強い共鳴関係がみられる。ここでは、女が男のような振る舞いをすることはタブーである。組織の中では男と対等に張り合おうとするキャリア・ウーマンからぶつぶつ文句を言うだけのお茶組み娘まで、男の論理を踏み外す女性はすべて「許せない!」と烙印の女のレッテルが貼られる。家庭にあっても、夫をたてない妻、姑に仕えない嫁、主人を無視する主婦は「許せない!」と烙印の女のレッテルが貼られ、「悪い女」と糾弾される。
男の世界と女の世界を分け、その境界を無条件に守り、しかも男の世界が女の世界よりも優先される勢力的な関係を自明とするのが、女らしい生き方なのである。ここでは「男は偉い、そして女は弱い」という《力と甘え》の命題が同居している。
彼女たちはいつも俯いている。俯くことで男を仰ぎ、男の気分をくすぐり高揚させることで、そのそばで静かにたたずむ自分の弱い地位の安全を確保する。これは伝統的な女がみせる高度な保身のテクニックである。烙印の女のレッテルが貼られることを慎重に回避することで、男性に忠誠を尽くすポーズをみせ、その見返りに庇護の約束を取り付け、現状の安寧を絶対なものにする。こんな女性がみせるのは『うつむく顔』である。俯いた顔から、舌をだしているのか、涙を流しているのか、男には分からない。男は、ただ気持ちよさそうに、ふんぞりかえり、後からういてくる女性の従順さに満足するだけである。


『たたかう顔』『かわいい顔』 ・・・ 《制度派−欲望派》
『したたかな顔』『むくな顔』 ・・・ 《妥協派−精神派》
『きつい顔』『まどわす顔』『やさしい顔』 ・・・ 《駄目男+/±/−》
『あまい顔』『まじめな顔』『あきらめ顔』 ・・・ 《女の自立+/±/−》
『いきがる顔』『はりきる顔』『うつむく顔』 ・・・ 《組織化+/±/−》 
それぞれの顔は、対立したり、共鳴したり、融合したりする。どの顔をもつかによって、女ひとりひとりの姿は異なるはずである。たった一つの顔にこだわる人がいて、いくつもの顔をもっていないと不安な人がいる。<地を見る目>を中心に顔創りに励む人がいて、反対に<夢を見る目>を大切にして顔を創る人もいる。また<はげしさ>が戦略的には重要だと判断して強い女の顔を創ろうとする人がいて、対照的に<やさしさ>に憧れ、ポーズとしての顔創りに懸命な人がいる。

(h)解釈コード6: 女の短すぎる一生

女たちは、13の顔をもつ。まず年齢の視点から、どのような顔創りがなされているか、を分析し解読すると、つぎのようになる。


<1>20歳以下の顔

20歳以下の女性が示す顔は、つぎの6つの顛である。

『やさしい顔』
『むくな顔』
『かわいい顔』
『まどわす顔』
『はりきる顔』
『まじめな顔』

この年齢階層の特徴は、つぎの3点である。

1. 『むくな顔』がもっとも大切にされている
2. 『やさしい顔』は、この年齢階層に固有な顔である
3. 6つの顔をもっており、その数は最大である

彼女は、純粋で《無垢な顔》を基本に、《優しい顔》を差別化戦略の最重要戦術と位置づけ、《可愛さ》と《真面目さ》と《張り切り》のポーズをその場の雰囲気に合うように慎重に配置し、さらに若干稚拙ではあってもそれなりの《惑わし》のテクニックをもマスターして、毎日を『気分屋』としてすごしている。
彼女は、イノセントな気分屋である。明確なポリシーがあるわけではない。真ん中は空っぽで、その時の気分に似合った色が塗られるだけである。ある時は可愛さを装い、ある時は真面目なふりをし、ある時は張り切り娘の台本に夢中になる。イノセントな透明色は、さまざまな色を重ねられて輝く。なかでも彼女らしいのは「やさしさ」の演技である。まだ20歳にもなっていない気軽さからか、「やさしさ」をしっかりみせる芝居をしても、嫌味にならない。それが自然体ならば”ばなな”的な優しさであろうし、それが戦略論としての芝居ならば”HANAKO”的な強味である。優しさのカードは彼女のジョーカーである。

<2>21−24歳の顔

この年齢階層がみせる顔は、つぎのとおりである。

『むくな顔』
『かわいい顔』
『まどわす顔』
『はりきる顔』
『まじめな顔』

この年齢階層の特徴は、つぎの2点である。

1. もっとも似合った顔は、『はりきる顔』である
2. 『まどわす顔』は、『はりきる顔』と融合して、彼女らしさを創る

21歳から24歳の女性は、もう「優しさ」のカードを放棄している。優しさで解決がつくほど世間は甘くはないと経験したのか、彼女たちはそのカードを記憶のボックスにしまったままで使おうとはしない。「もう子供(少女)ではないのだから、いつまでも優しさのトリックに頼っているわけにはいかない」とでも言うのだろう。彼女たちは成長した。
いま彼女たちは《張り切り》始めた。緊張と妥協の連続の中で、何が実現可能で、何が夢物語なのか、分かるようになったし、組織に生きることの現実を知り、同時にどこまで女の自立を求めて頑張ることができるかをも知った。そして《真面目》に生きることの大切さも分かるようになった。優しさよりも真面目さの方が大切なカードであることを世間に出ることで知った。社会が大人としての振る舞いを求めてくるほど、真面目なポーズは処世のテクニックとしても不可欠なのである。
もちろん《惑わす顔》は、真面目な顔以上に重要な武器である。社会の風が強くなるほど、それに吹き飛ばされないためにも、相手を翻弄する力をもたなければならない。そのことを実感した彼女たちは迷わず《惑わす顔》をマスターする。相手が男性ならば、勝ちにいくゲームをしなければ損であるし、相手を脅すテクニックもちらつかせないと逆に相手の言いなりになってしまうというゲーム的危機感から、彼女たちは惑わしの戦術を大胆に展開する。もっともHANAKO的なゲームが展開されるのが、この顔である。

<3>25歳以上の顔

この年齢階層がみせる顔は、ただ一つである。

『あきらめ顔』

この年齢階層の特徴は、つぎの2点である。
1. 25歳を越えた女性に似合うのは、『あきらめ顔』だけである
2. 年齢が25を越えると、女性の顔は画一化する

25歳を越えると、女性はいままでとは全く異なった顔をみせ始める。張り切っていた顔も、惑わすような魅惑的な顔も失せて、《諦め顔》に一気に変換されてしまう。現実の錘があまりにも重くのしかかるのか、彼女には現実の前に妥協する姿しかみえない。ただ若干の救いは、見栄でもいいから、『きつい顔』と『したたかな顔』をみせようとする意欲が微かにみえることである。しかしこれも嫌味な女のイメージを増長させるだけに終わる危険性もあり、彼女たちとしてはあまり見せたくない顔ではあるようだ。
25歳をすぎると、彼女たちの顔が一つに収斂されてくる。みんな同じような顔をみせるようになる。しかもその顔は、女の自立を疑い、「そんな甘い夢物語には興味も関心もない」と突っ揆ねる諦めの表情にすぎない。つい最近まで豊かな表情をしていたのに、今はもうその面影はどこにもない。女にとって、それほど現実は重たいのか。

つぎにベイシックロールの視点から、分析・解読をすると、つぎのようになる。


<4>女子大生の顔

女子大生は、つぎのような顔をみせる。

『むくな顔』
『かわいい顔』
『まどわす顔』
『はりきる顔』
『まじめな顔』

ここでの特徴は、つぎの2点である。

1. 『むくな顔』と『はりきる顔』の2つの核をもつ顔である
2. 『むくな顔』と『はりきる顔』は共鳴して、女子大生らしい顔を創る

女子大生は、年齢階層の「20歳以下」と「21−24歳」の中間形態としての顔をもつ。(もちろん女子大生は2つの年齢階層の総和的形態としての顔でもある。この意味では、女子大生は上記2つの年齢階層の特性を兼備したものと解釈すればよい)。


中間形態としての女子大生は、一方では<優しさ>のカードを放棄しながら《むくな顔》を大切にし、他方では<惑わす>武器の使用を若干後退させながら《はりきる顔》をみせている。彼女は、むくな顔と張り切る顔を共鳴させながら、楽しそうな毎日をおくっている。20歳以下の女性がまだ少女らしい透明感を残した優しさにこだわり、21から24歳の女性になると、もうそんな夢物語はできないと大人の魅惑的な演戯に磨きをかけ始めるのにたいして、その中間的な移行形態としての女子大生は、少女の夢を捨ててもまだ魅惑的な大人にはなりきれないところで、「さしあたり元気なポーズでもみせておこう」とイノセントな頑張りをみせる。彼女は《元気な気分》が好みである。<X>有職者の顔
働いている女性は、つぎの2つの顔をもつ。
『したたかな顔』
『まどわす顔』

ここでの特徴は、つぎの2点である。

1. 有職者に似合う顔は、『したたかな顔』である
2. 仕事をもつと、顔つきが厳しい方向に変わる

毎日の仕事におわれる女性ともなると、もはや女子大生のような気楽な気分ではいられないのだろう。今までの顔つきががらっと変わり厳しくなる。女子大生の時は、「仕事には生き甲斐がなければ!」と考えていたのに、仕事をするようになると、そんな夢は一気に吹き飛び、「仕事は、やはりお金ね!」と《したたかな顔》をするようになる。彼女にとって《妥協と駆け引き》が重要なテクニックになり、いかに男たちに負けないでいけるか、が重要な生活テーマになる。仕事でも、恋愛でも、いままでのような甘い姿勢ではやってはいけないと悟った彼女は、厳しい目つきで男性を評定するようになる。
そのためにいままで所有していたいくつもの顔を放棄するようになる。《惑わす顔》だけは大切にとっておくが、それ以外の女の子らしい顔、とくに無垢な顔とか優しい顔とは縁を切り、成長した女のイメージを明確にしようとする。しかしそのクリアーなイメージ創りは、ある意味ではいままでの多様でファジーな顔をより整合的な基準によって統合することでもあり、そのかぎりではアイデンティティ(その表現として”強い女”)にこだわることである。このような方向性が女性にとって望ましいことなのか、疑問がないこともない。これではいままでの男性が求めていたことを同じようになぞっているだけではないか、という評価になることは避けられない。新しい働く女性のイメージが生成される可能性をこのような顔に賭けることは無理である。その意味では、常識的な有職者の現実が映し出されているだけである。

<5>専業主婦の顔

専業主婦には、たった一つの顔しかない。

『あきらめ顔』

この特徴は、つぎの2点である。

1. 専業主婦に似合う顔は、『あきらめ顔』だけである
2. 専業主婦の役割は、現実の重荷を背負い込むことである

結婚して家に入った女性の顔は、《たった一つ》の《あきらめ顔》に収斂していく。諦めた顔は、女の現実的な人生の終着点である。専業主婦には、現実の重さが何よりも大切なことである。そしてそれが自分を正当化する最大の根拠になっている。昔はいろいろな理想を語っていた彼女も、子供を背負った生活の錘の前に、すべてのことがふっ飛ぶさまをじっと見つめるだけである。「現実は、そんなに甘くない」という生活実感からくる自信は、かつて甘いだけだった自分の過去の幻影をふっ切ろうとする、もう一つの幻影なのではないか、と思えるほどである。でも彼女たちは、それが真のリアリティだといって譲ろうとはしない。そこにしか、自分を表現できる支えがないとき、諦め顔に固執せざるをえない彼女たちの現実には、やはり認めざるをえないものがある。しかしその顔には、女の苦労話がいまだに美談になるしかない貧しさが潜んでいるとはいえないのか。もう”おしん神話”は終りにしたいのに、結婚・生活・子供のセットとそれを背負う専業主婦という役割は、そんな神話をまだ大切に擁護している。その方がもっと悲劇だと思うのだが、彼女たちは「どうしようもないじゃない!」と開き直り、核家族の幻想に執着する。
専業主婦の顔には、歳喰った女の苦労の皺が痛ましい傷跡のようにみえる。女の自立には嫌悪感だけを示し、男の組織には立ち入ることが美徳のように無関心を装い、そして女の道から逸脱した女性には烙印の女のレッテルを貼って密かに喜ぶ。彼女は、子供の成長と夫の出世に賭け、家庭という殻に閉じこもり、主婦と妻と母親と嫁の役割に懸命に励む。励むことが祈願でもあるかのように、彼女は核家族の守護神の務めを黙々と果たす。

年齢とペイシックロールを《連続的な視点》で眺めると、つぎのような流れがみえる。それを『女の短すぎる一生』と呼ぶ。
<1>
20歳以下
: 優しい 無垢な 可愛い 惑わす 張り切る 真面目  

<2>
女子大生
:   無垢な 可愛い 惑わす 張り切る 真面目  

<3>
21−24歳
:   無垢な 可愛い 惑わす 張り切る 真面目  

<4>
有職者
:       惑わす     したたか

<5>
25歳以上
: 諦 め            

<6>
専業主婦
: 諦 め            

このような流れは、女性の平均的なライフコース、つまり『構造化された役割過程』である。女性は、《優しくて無垢な顔》をした少女の香いを残す女からスタートし、優しさを放棄しても《無垢なイメージは大切にしながら張り切る顔》をもった気楽で元気な女子大生に変貌し、そして20歳を過ぎるころから、大人の女らしさに目覚め、いままでのように《張り切りながらも、どこかで惑わす顔》を創る自分を意識するようになる。でもここまでは学生という気軽で自由な身ゆえにか、彼女たちはさまざまな顔を創り、その場に似合った演戯をしつづける。ある時は魅惑的に、ある時はイノセントな気分で、ある時は頑張りのポーズをみせつけ、大人はその変貌の多様性と速度にただ唖然とするばかりである。一番美しい時とは、このような振る舞いができる時なのであろう。
有職者の役割をもつようになると、女性は大きなカーブを切り始める。整合的で統合的な自我に目覚め、男性との力の競争を意識するようになるためか、顔つきが厳しくなり、余裕をやや失い始める。それが《顔の数の縮小》であり、《惑わしのテクニックを駆使しながら生きるしたたかな顔》の誕生である。これが「大人になる」ということである。女である以上に、早く大人になって男性と一緒に仕事をしなければ、という焦りから、彼女たちはいままでの多様でファジーな顔を思い切りよく廃棄する。「もう少女ではないんだから」という自己弁明のもとで、現実の大人の世界に妥協し始める。

働き始めて3、4年がたち、彼女たちも25歳をすぎるようになると、《組織命の彫り物をした男の壁》がいかに厚く高いものであるか、が分かってくる。突破したり、乗り越えることが絶望的なまでに無謀な行為であることを実感をもって知らされると、威勢のよかった彼女たちも「もういい歳だから、仕事していて嫌味を言われるよりも、結婚して家庭にはいる方が幸福かな」と思いつめるようになる。すると、女の自立といった主体的な女性のイメージを求めるメッセージが急に馬鹿らしいものに見えだし、ここで一気に転向がなされる。その時の自己正当化の根拠は「現実は重たい」である。この言葉の前では、すべての変革への意思と行為は意味を失う。<おんな25歳>は、お肌の変わり目である以上に、女の生き方の変わり目である。彼女は《諦め顔》になる。
そして女は、落ち着く。結婚。落ち着くべきところに到着して、女は幸福の幻想をまた数え始める。専業主婦の役割は、ゴールだ。あっと言う間の10年であった。さまざまな顔が消えた中で、《諦め顔だけを支えに専業主婦の芝居》を続ける覚悟だ。核家族の幻想が維持されるかぎり、その中で彼女は安心して専業主婦の演技に磨きをかける。外では核家族の危機を叫ぶ嵐が吹き荒れているのに、彼女は家の中を清潔にそして綺麗にすることに懸命である。
こうして、外で頑張って働く夫(主人/父)と家を守る主婦(妻/母)という役割分化と統合の核家族システムは、維持される。ふらふらしていた彼女たちも、結婚という儀式を通過することで近代の機構(<組織と核家族>の分化と統合メカニズム)にしっかりと囚われていく。
『これが幸福だ!』と信じながら、《諦め顔になっている自分》に気づいているのか、それは分からない。

(i)解釈コード7: ズルズルのダイナミズム

常識的な女の道(構造化された役割過程)に乗らない顔がいくつかある。その解釈をしよう。


★《古風な顔》
最初に、『うつむく顔』がある。これは、かつての女の道にあっては重要な通過儀礼の顔であった。女の子が学校を卒業してから、会社務めなど<やくざなこと>はしないで、すぐに家に入って花嫁修業に専念して、そのまま結婚のルートに乗って行った牧歌の時代では、『かわいい顔』から『うつむく顔』への移行は自明のことであった。どんな夫にでも尽くすことが女らしさのすべてだと教えられ、そのことの不思議さに気づくことなく、自然の摂理と信じて嫁にいき、イエの重圧にもめげることなく妻と嫁と母を熟す逞しさを知らずに身につけ、気がついたら自分も息子の嫁を迎えていびる姑になっていた、という女のうつむく顔の長い歴史がある。
その歴史が、ここではすでに放棄されている。一つの顔として残ってはいるが、すでに過去の遺跡にすぎない。いまどき「烙印の女」を「女の恥だ!」と弾劾する人は稀であろうし、男の組織に干渉しないことが女の美徳だという言明も時代錯誤なのだろう。一世代前までは永遠の真理と信じられていた俯く女の顔も、いまはもうかつての栄華をその顔にみることはできない。ただ年老いて淋しそうに俯く顔が鏡面に映るだけである。それは今からすればあまりにも「古風な顔」であり、その顔が圧倒的に支持されていた過去の事実に驚くばかりである。

★《リプたちの顔》
『たたかう顔』は、男を震撼させたウーマン(ウィメンズ)リブの時代に脚光を浴び、そのために歴史の1ページを堂々と飾ることになったが、いまでは昔話にしか登場しなくなった顔である。いつもいつもファイティング・ホーズをとっているのでは、疲れるだろう。
かつてのリブたちはぎりぎりのところで男の壁に闘いを挑んでいた。だからこそ、彼女たちは闘う顔ひとつにこだわり、他の顔には見向きもしなかったのである。優しい顔も、無垢を装った顔も、可愛い顔も、すべて男に欲される顔であり、それは女が自分から創りたいと願った顔ではなかった。それならば男とすべて対等に生きる顔を創るしかなかろう、と気負った結果、できたのが『たたかう顔』である。彼女たちは、ただファイティング・ポーズをとり続け、疲れて腕が上がらなくなるまで頑張った。それを馬鹿みたいに、と形容したら誤解を受けるが、今からすればそんな言葉がピタリと決まるほど、彼女たちはそのポーズにこだわり、その顔しか見せようとしなかった。だからこそ歴史を創る顔になったのである。しかしこの顔は「女は男である」という顔であり、そのかぎりではラディカルであったが、男にも女にも共感される顔にはなりにくかった。時が流れると、その顔もファッションにすぎなかったことが暴かれ、風化していった。

◆《メディアの顔》
『いきがる顔』には、たたかう顔のような自我への強いこだわりがなく、したがってこの顔一つで勝負するような勇気はない。いきがる顔は、他の顔と共鳴することを好む。『かわいい顔』と『むくな顔』と『いきがる顔』が共鳴すると、俵万智の世界が創出される。ある時は可愛く、ある時はイノセントなふりを好み、ある時はいきがる。ハンバーガーショップの席を立つように男を捨てよう、と大胆な意気がりを誇示しながら、その舌が乾かないうちに、「気がつけば君の好める花模様ばかり手にしている試着室」と詠む。この、可愛さと無垢なポーズと矛盾するように見えても共震しながら共存してしまう意気がりのポーズ、というポーズのダイナミズムが俵万智の世界である。彼女の人気は、このような多数多様な顔を共鳴させるテクニックにあるのではないか。そして多くの女性も、そのような多数多様な顔をもっているのだろう。彼女たちは俵万智である。
 『いきがる顔』はメディアである。いろいろな顔と共鳴するメディアである点で、この顔は新しい。今の女性が時たま魅せるファイティング・ポーズは『いきがる顔』であり、決して『たたかう顔』ではない。彼女たちは一つの顔として我が儘なふりをみせるだけで、その顔だけに固執することはない。この顔に一生を賭けるといった凄みはもはや無用である。意気がるポーズには、それと交響し共鳴する多数の多様な顔が必要である。その時、『いきがる顔』は新しい輝きを周囲の男たちに放射する。

★《真理子の顔》
『きつい顔』は、男性の土俵に乗って、そこで男性と対等のゲームをしようとする迫力ある女性の顔である。『たたかう顔』には男の土俵そのものを拒否する態度が鮮明なのにたいして、『きつい顔』では男の論理(役割分化と統合)を許容し、その前提に立って女性を二分することが支持される。つまり<(仕事の)できる女>は男と対等に仕事をし、<できない女>は家庭に入って専業主婦をすればいい、という発想である。
これは林真理子的な仕事観である。「男の現場で働いていれば、仕事と家庭の両立なんて甘すぎる理想は語れない」と考える『きつい顔』は、女性が働くことを許容する一方で、有能な女性だけが仕事をし、彼女は家庭のことは誰か別の女性に頼めばよい、という現実論を展開する。仕事(組織)と生活(家庭)の分化と統合という効率的で合理的な機構そのものは支持した上で、そこに乗る人のルールを「男性→仕事」と「女性→家庭」ではなく、「(仕事の)できる人→仕事」と「できない人→家庭」に変換すれば、女性の仕事は男性に負けないものになり、女の仕事上の地位は上昇するはずだ、という現実的な方策が提示される。
現実的なのかもしれないが、この顔はあまり支持されない。家庭生活は仕事ができない女がやればいいのだ、という「仕事=上/家庭=下」の関係が、機能的な役割分化論の美名の陰に見え隠れするのが見破られているからである。したがって「あなたのように有能な女性はいいわよ!フン、プスなくせに」という露骨な僻みがこれに重なると、『きつい顔』はいつも男の世界から引きずり下ろされる。普通の女が有能な女の足を引っ張るのである。
だからなのだろう、サクセス・ストーリーは女には似合わない。
女は女の成功を喜ばない。

★《アグネスの顔》
『あまい顔』も、女の平均的なライフコースからはずれた顔である。この顔にたいしては「あまりにも夢少女すぎるので、女の自立がどんなに大切だとしても、ここまで現実離れした顔は創れないわ」というつぶやきが聞える。女の自立が現実感覚を欠落させないかぎり成就しないところに、『あまい顔』とレッテルが貼られ、子供っぽい顔でいいわねと揶揄される理由が潜んでいる。
しかしそんな夢少女の顔をアグネスは現実の顔として見せ始めたから、大変である。しかも彼女は『あまい顔』プラス『やさしい顔』で登場したから、狂騒的論争が爆発したのは当然のことであった。子供をもったいい大人が夢物語を現実のドラマにしてしまったのだから、普通の大人は怒るはずである。夢物語はどこまでも理想的な虚構としてあるべきで、それが実現されることはタブーだったのに、「わたしにも、できます」と可愛らしいスターだった異国のエイリアンがためらうことなく簡単に行動を開始したから、女の反応は微妙であった。さまざまな批難と支持が渦巻いたが、それはこの問題が女にとっていかに根本的なテーマであるか、を明らかにしている。このテーマにかんして女の解決の合意がないところに、アグネスはスタートボタンを勝手に押してゲームを始めたものだから、女性はみんな焦ったのだろう。もしもアグネスが解決の合意を迫る意思をもって意識的にゲームを始動させたとしたら、アグネスの勇気は称賛されるべきなのだろう。林真理子との絶妙のコンビ(多次元的な対抗的相補性)のなかで、この論争はかつての「リブと古風な女」の対立項とクロスする新しい女の対立項を提示している。それだけ、女性の顔が多数で多様になったことは、新しい女性の顔創りにとっては重要なことである。     女の顔には構造化された役割過程があり、学生から仕事をする女に変貌し、そして結婚の儀式とともに主婦の座につき、子供が誕生して子供と夫に尽くす専業の世界に入っていく。そこには、多数で多様な顔をもっていた女が、女の通過儀礼のなかで、一つの顔しかみせない女(専業主婦)に収束しているライフコースが構造化されている。しかしその構造化された過程からはみだすことが女らしさの逸脱であるとレッテルを貼られるような時代ではなくなりつつあるようだ。それが<林真理子⇔アグネス論争>の新しいディメンションである。ここでは女性が働くことにかんしては合意がみられる。女は専業主婦がいい、という視点はすでに放棄されて、働くことを前提として、どのような仕事の形態が望ましいか、が論争されているのである。とすれば、これはいままでの女のライフコースではない次元で、女性の生き方が論じられていることを意味する。

【おんなのくせ】はさまざまで、その解釈は多様である。