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8.”HANAKO”と『ぱなな』
(A)10の顔をもつ女
歌人俵万智は、ヒット作『サラダ記念日』のなかで、恋愛の”ゲーム”と『ごっこ』のなかでみせる女らしさを、さまざまな角度からみせてくれます。古風な女、強い女、尽くす女、頼りない女、やさしい女、恐い女、しっかりした女、ためらう女など、どこにでもいるような女たちがここでは登場します。彼女らは、男にたいしてじつに多面的な顔をみせます。どの顔が本物なのかどうか、本人も知らないまま、顔は変幻自在にトランスフォームし、ゲームとごっこの間をうつろいながら、恋愛を楽しみます。
泣き顔のなかにしたたかな笑い顔をみせ、渋い顔を装いなから陽気な顔をチラッとのぞかせ、陰影な願をおしゃれに決める縁に誘うような顔を暗示し、男の心を見透かしたように意味深な顔を浮かべるそばから急に黙りこくった顔をつくって、どきりとさせる。
男はいつも恋愛事件では翻弄されるだけです。《僕は、明美を愛している》と告白しても、明るい『ばなな』と美しい”HANAKO”が同居している彼女たちは、ある時はやさしいポーズでうなずき、ある時は聞こえないふりをして無視し、いいように僕たちを悩ます。恋愛では、彼女たちは一流の戦略家兼演出家で、男たちは惨めな道化です。女たちは、ジェンダーの悲劇を、恋愛ですべてチャラにしようとでもいうのか、恋愛ゲームではクールになり、恋愛ごっこではホットになります。
恋愛では、ジェンダーが主役です。仕事ではいかにジェンダーを消去するかが時代のテーマなのに、永遠の歴史を飾る恋愛ではジェンダーを消去したのでは、ゲームもごっこも台無しです。女と男というジェンダーをのぞいたら、生きる楽しみはなくなります。仕事の世界ではジェンダーを拒否し、恋愛の世界ではいままで以上にジェンダーにこだわりを求める、そんなジレンマのなかで、女は仕事にも恋愛にも夢中になります。
そんな女たちの生き方に、どのような評価をするのか、聞いてみました。
1.“あっ”と言う間に、彼女は売れました。その俵万智が「サラダ記念日」で、いろいろな女の生き方をみせてくれます。あなたは、その短歌にある女に、共感しますか、拒否する気持ですか。
(「共感」「拒否」のどちらかをチェック)
1.君の好める花模様
A: 気がつけば君の好める花模様ばかり手にしている試着室
いくら彼が花模様が好きだからといって(花柄が好きな男というのも何か気持悪い話ですが)、そればかり手にとって試着室に入る女なんて、もっとアホではなかろうか、と思うのですが、共感を示す人が半分もいます。しかも男も女も共に同じ反応をしています。惚れることは、不気味なことです。相手の趣味にすべてをぴったり合せないと、気がすまないという心境にさせるのですから、恋は罪です。
女が惚れると、なんでこんな弱い女に変貌するのでしょうか。しかし弱いふりは、たぶん女の戦略なのです。男を操るには、まずは敵の心をつかめ。そのためには、花柄で男心をくすぐれ、なのです。とすると、これはゲームである。自分をわざと弱い地位に位置づけ、あたかも強い相手の言いなりになっているふりをしながら、結局は自分の思い通りに事態を進行させている、という高度なテクニックと戦術がここで展開されています。もしもそうだとしたら、花模様には要注意です。花模様という、いかにも弱々しく頼りなさそうでしかも「わたしは、嘘はつけない」的な記号には、戦略という嘘の香りがぷんぷんします。
恋愛ごっこだとしたら、花模様の服を着てデートにでかける彼女はどのようなポーズをかれの前でとるのだろうか。とっておきの可憐で清楚で愛くるしいポーズを決めるつもりではあっても、なぜか品をつくってしまった、というジレンマがみえるような気がします。小柄ではあっても26歳にはちょっと似合わないのではないか、というズレが花模様には感じられます。とすると、恋愛ごっことしては、あまりできの良いシナリオにはなっていない、となります。
花模様の恋愛は、ゲームなのか、ごっこなのか。どの視点でみるのかによって、そこで展開される恋愛は異なった評価をえます。戦略論であれば、かなり高度なテクニックを駆使した上級者向け恋愛マニュアルで、HANAKOにはちょうど良いレベルのものでしよう。しかし演劇論としてはかなり臭い芝居ですので、”ばなな”には似合わないと思います。
この歌に共感する50%の女性たちは、高感度なHANAKOなのでしようか、それとも似合わない芝居をする”ぱなな”なのでしようか。
2.八百屋の前の献立
B: 午後四時に八百屋の前で献立を考えているような幸せ
これは非常に高い支持率になっている。男性は70.1%が、女性は63.8%が共感している。小さな幸せを大切にすることが、恋愛には似合っていることが証明されています。結婚して2年もたてば、八百屋の前で献立を考える自分に苛立ちを覚えるはずなのに、いまはそれが幸せの全てになるのですから、安上がりでいい、といえないことはありません。とても日常的な場面でさえ、非日常的な場面に変貌するのですから、恋愛は盲目そのものです。目が見えないことは当然のことで、恋愛は目ではなく、ハートでするものだからです。目は、全てを合理的功利的に眺めることを強要します。それは損得を重視します。これでは恋愛はできません。恋愛は、目を閉じることでスタートします。キスをするとき、目を閉じるのは、目は無用だ、と訴えているのです。その通りです。恋愛は、目というもっとも近代的な視点を放棄したところで展開される関係であり、だから恋愛は社会的に許容されてはいるけれど、基本的には社会的な逸脱行動なのです。
ディテールが気になるにもかかわらず、目を閉じることを要件とする恋愛はおもしろい現象です。そこで、表を作成して考えてみましよう。ディテールが気になる場合と、気にならない場合を想定し、他方目を開けている場合と閉じている場合を想定します。
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開ける |
閉じる |
気になる |
常識A |
恋 愛 |
ならない |
盲 目 |
常識B |
すると、常識が2つあります。常織Aは、ディテールが気になれば、目をしっかりと開けて見なさい、という常識であり、「きれい好きな人」がもつ常識です。これにたいして、ディテールが気にならないならば、目を閉じていればいい、という常識であり、「大雑把な人」が示す傾向です。ですから、一般的には、ディテールが気になれば目を開け、気にならなければ目を閉じる、という関係が成立しています。
恋愛は、ディテールを気にするにもかかわらず、目を閉じることによって成立する関係であり、常識からずれた関係です。「恋は盲目」の命題は、目を閉じるからこそ、ディテールがトータルの理解に通じる、という関係をシンボリックに表現しているのでしょう。ディテールを目で見るうちは、本物の恋にはなりません。本物になるには、目を閉じてディテールが感じられるようにならなければなりません。そのとき、ディテールは単なる細部ではなく、そこには神(トータリティ)が宿るのです。だから、キスのとき、女性が目を閉じるのは、それによって、男の嘘を見破るためです。目で見ていただけでは理解できない男の嘘を、彼女たちは目を閉じることで体全体で感じようとするのです。
3.命令形の愛
C: 「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君
一応、女も男も、命令形の愛を言う君には、反発を感じています。
しかし女性でも、半数近くがこんな男に共感を示している事実はやや問題です。強い男というよりも、単に空威張りをしているだけのような男であっても、なぜか女は惚れるようです。男がこれだけの共感の数字(40.8%)をだすのは、自分ではできないから、憧れ(昔の男は、偉かった!)という意味で頷ける数字ですが、女性がまだこんな幻想に酔っているか、と思うと若干呆れてしまいます。こんなものなのだろうか、ということです。
ただこのような数字も、ゲームとして解読すると、異なった印象になります。
確かに、まだ女性は、弱い女のふりがしたいようです。その方が絶対に得だから、というしたたかな計算もあるのでしょうが、とはいえこのような計算はあまり気持のいいものではありません。女の自立を阻むのが、けっこうこのような点に潜んでいるのかもしれません。
強がるポーズを決めようとする命令男と、そんな男にしたたかに優しく従うポーズをとる女性とでは、結末が予感されるゲームが行なわれています。両方とも、相手の弱味をついて、自分の利益を確保するために、男は命令をし女がどこで支配力を発揮するのか、男は内心ではいつもビクビクしています。愚かなのは、偉そうなポーズしかとれない男です。女の涙はくせものです。ゲームでいくかぎり、命令する男に明るい未来はありません。涙を浮かべる女には、多様な戦略計画が練られているからです。
4.ハンバーガー屋の戦慄
D:ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
やっと女の本音がでてきました。ジェンダーの影響力は明確です(1%水準で有意な相関)。女性は、35.2%がこの歌に共感します。
男たちは強く拒否感を解明にしています(77.0%)。「電話をしろ」と威張っていても、その後はこんな事態になるのでしよう。男は、絶対にハンバーガーショップに彼女と一緒に行くのは止めましょう。怖いことになります。
食べたらすぐに店をでるのが、ハンバーガーショップです。高級レストランでの食事のように、食べた後の余韻を楽しむような暇はなく、忙しなくサッサと店をでます。ということは、男には言い訳をする時間もなく、一方的に”さよなら”を通告されるだけです。男には、未練を残す暇さえ与えられていません。美しいHANAKOには、薔薇の棘が一杯で、弱い男はただ翻弄され、捨てられるだけです。HANAKOに接近するには、余程の覚悟が必要であることを心に明記しましょう。
救いは一応、64.8%の女性がこの歌を拒否するポーズをとってくれていることです。しかし彼女らにしても、”ばなな”というのではなく、単に美しくないからHANAKOになれないというだけの”HANAKOもどきブス”なのかもしれません。だとしたら、もっと悲惨なことが起こるかもしれません。
5.決めつけ男の悲劇
E: 「おまえオレに言いたいことがあるだろう」決めつけられてそんな気もする
これは、男女ともきれいに意見が二分されています。「電話しろ」の場合と同じような傾向になっている。とすると、「そんな気がする」と弱々しいポーズをとる女の子も意外としっかりしているのではないか、と思われます。ゲームとしてみれば、「そんな気がする」の駒をだすことは、自軍の有利な展開のために、まずは男に従うことが腎明な策だ、という戦略と解読できます。
勢力的なゲームとして恋愛を考えるとき、しかも強者が男である場合、男は性的な関係をもった瞬間から、女から逃げるつまり捨てることを考えるはずです。勢力関係のゲームでは、征服した瞬間にゲームは終わるからです。目的が達成されたとき、その関係は存在理由を失います。男はつぎのゲームを始めるためにリセットボタンを押し、「さあ、次のターゲットの女は誰かな!」と、にやけた顔をするはずです。だから本当に弱い女は、「そんな気もする」なんて呑気なことをいってる場合ではありません。
しかしここの女性は単に弱い女のポーズをとっているだけでしょう。つまり恋愛ゲームにはかなり強力なカードをもち、余裕をもってゲームを楽しんでいるのではないか、と思われます。あくまでもポーズとして「そんな気になる」ふりをするだけで、肝心なところはしっかりと押えているのでしょう。情けないことに、男には偉そうな顔のカードしかなく、いつもその一枚のカードで勝負しなければならないので、最近は彼女に適当にあしらわれているのが実情です。「男をたてる」みせかけの勢力関係の裏では、弱いはずの彼女がしっかりと糸を手繰っています。かれは、もうマリオネットの気分です。
6.心だけの花いちもんめ
F: 万智ちゃんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ
ここではジェンダーの影響力が明確にでている。女性は62.5%が「その通りよ!」と共感し、男性は52.1%が「なに馬鹿いってんだよ!」と拒否の姿勢を示す。
この恋愛がゲームだとしたら、この回答の相違は当然のことです。女性は性的な関係をどこまでも延期させることを戦略目標にします。それが女の価値を高めるからです。デートの回数を少なくし、つぎのデートまでのインターバルを長くとれるとき、女性はゲームの勝者になります。美人はいつもその戦略を実践しています。だから美人は冷たいのです。他方男性は、早く寝る体制を整えることが肝心です。それが男の価値の証明だからです。それができない男は駄目な男であり、弱い男なのです。「心だけね」なんて馬鹿なことを言う女ならば、一気に捨てる力をもたなければなりません。それが男らしい勝負の仕方なのです。ゲームは、いつもシビアなものです。このような話は、田中康夫に聴けば、最高のマニュアルを提供してくれるでしょう。さもなくばHANAKOに直接話を聞いて勉強すれば、女性への対抗戦略は理解できるのではないでしょうか。
このようなHANAKO的ゲーム論の解釈は絶対におかしい、とクレームをつける人(とくに女性)がいるはずです。「心だけついていきたい」のは性的な関係を延期させる戦略だといった下劣なことではなく、もっと愛の本質を求めるからだ、という反論が待っています。
愛と性は本来まったく異質なものであり、それをリンクさせたのは近代の幻想(制度)にすぎない、という意見がある。近代の恋愛の制度には、愛のゴールとしてセックスが位置づけられているが、その制度という幻想を無視すれば、愛と性のリンクには新しい形式が生成されるはずだ、という意見もでてきています。ここでは、愛していることは素直に心が通じている状態であり、なにもセックスに走らなければならない道理はないとされている。心がキュッーとなっている心的状態が恋愛であり、それが<セックスする行動>として表現される必要はない。恋愛はあくまでも情報であり、行動ではないし、いわんやセックスをすることでしか愛の確認はできないというのは囚われの幻想にすぎない、という考え方である。
男は、行動主義の近代社会を主役として生きているから、性的行動によってアイデンティティの確認を求めざるをえないが、近代に無視され裏切られた女性からすれば、なんで男につきあってセックスは恋愛に不可欠でしかも素晴らしいものだ、と過剰な同調をしなければならないのだ、という発言がでてきてもおかしくない。
情報としての恋愛と、行動としての恋愛。この相違は大きい。後者では愛はセックスとリンクしないかぎり、成就しないものであり、そしてその結果は往々にしてゲーム化した恋愛つまり「愛は奪うものだ」という発想で行なわれる。これにたいして、情報としての恋愛は、セックスにしいて繋がる必要性をもたず、愛としての自己完結性を求めるので、「愛はおしみなく尽くすものだ」という発想が重視され、「ごっこ」としての恋愛になり、いかに心を通じ合わせるか、そのための演技はどうすればよいのか、が重視される。ここではセックスはある意味で恋愛の残滓である。少なくとも、セックスがゴールになることはない。恋愛にあってセックスが目的化したとき、恋愛ゲームは成立し、そうではなくて、セックスはひとつの表現形態にすぎず、愛の情報のコミュニケーションが優先されたとき、恋愛ごっこは進行する。前者が”HANAKOの恋愛論”であり、後者は『ばななの恋愛論』である。
7.食べたいでも痩せたい
G: 食べたいでも痩せたいというコピーあり 愛されたいでも愛したくない
因果論的観点からすれば、「食べれば太り、食べなければ痩せる」であり、目的論的観点からすれば、「痩せたければ食べるな、太りたければ食べろ」です。どちらでみても、「食べたいと痩せたい」は矛盾するニーズです。しかしこのコピー(たぶん食品メーカーのもの)は、矛盾は解消されると宣伝しています。つまり食べれば痩せる奇跡が起る、というのです。「寒天」は奇跡を呼ぶ商品です。
寒天のような愛し方があるのか。それが「愛されたい愛したくない」という贅沢な悩みです。しかしこれは、美人ならば、みんなやっていることです。だから彼女たちにとっては奇跡でもなんでもなく、当然のことです。力の差は奇跡など簡単に呼び起こします。しかし美人でない99%の女性にとっては、これは確かに奇跡です。つまり美人は寒天であり、それ以外は寒天ではないのです。
ブスには、「愛してる愛されない」という無情がつきまといます。つまり「食べなくても太る」のがブスです。宿命とはいえ、無情なものです。
このような考えると、いままで当然と思っていた「愛してる愛されている」という関係の方が<奇跡>ではないか、と思うようになります。
TO A
FROM A |
痩せる
(愛さない) |
太 る
(愛してる) |
食べる
(愛される) |
《奇跡》
寒天=美人 |
法則性1
恋愛成就 |
食べない
(愛されない) |
法則性2
恋愛不成立 |
ブスの無情 |
食べるから太る、という関係は「愛されるから愛してる」というかたちで恋愛を成就させます。これが普通の人の恋愛です。自分にこれといった資源がないとき、愛されたならば、自分も愛するということしかできません。それが尽くすということです。尽くすことに目覚めたならば、まずは自分が愛さなければと思うはずです。そうすれば、相手も愛することに目覚めるはずです。
美人は不幸です。なぜならば、美人であるがゆえに、恋愛がいつもゲームになってしまうからです。奇跡を呼び起こせる人に、尽くすことの意味は分りません。いつも勝つことが自明である強い人に、「恋愛はゲームではなく、自分から尽くすことで始まるドラマ(ごっこ)だ」と教えることは、それこそ奇跡的なことでしょう。
この質問にも、ジェンダーの影響力が明確にあります。女性は47.1%がこのコピーに共感し、男性の65.3%は”NO”と回答しています。この数字は、女は美人に憧れ、男は美人相手では勝てないから嫌だ、と解読できます。だとしたら、みんなゲームが好きだ、ということになります。
8.カンチューハイの”たたり”
H:「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
ここでもジェンダーは力を発揮します。男性は、56.5%が反発と拒否を鮮明にし、女性は61.3%が強く共感し、カンチューハイに文句をつけます。
プロポーズとカンチューハイを秤にかけて、カンチューハイでは軽過ぎると不満を表明するのが女性です。女性はプロポーズに幻想を抱いています。女性たちは、プロポーズはもっと重たいものであるべきだ、と信じています。厳粛な気持でプロポーズを拝聴したいのでしょうか。いつもは軽い女性も、神妙な顔をつくってプロポーズを待っています。
男たちは、カンチューハイのどこが悪いんだ、といいたいようです。カンチューハイの力を借りないと、プロポーズもできない男のナイーブさをもっと理解してもらいたいのです。なのに、秤にかけるとバランスがとれない、と糾弾されたのでは男の立場がなくなる、と言いたくなります。このかぎりでは、男の方がロマンを大切にしています。でもロマンならば、もっとロマンティックなところでプロポーズをしてほしい、と女性ならば反論することでしょう。
女性からすれば、これは「似合うかどうか」という問題です。プロポーズにカンチューハイは似合わないから、不満だという問題提起です。秤にかけて損得を計算するのではなく、プロポーズには汚い飲み屋でのカンチューハイではなく、もっとふさわしい場所があるだろう、という抗議なのです。その通り、ともいえます。でも男には、どこであろうと、プロポーズすることしか眼中にありません。プロポーズをする(しなければならない)方にとっては、愛の告白は、場所などに係わってはいられないほど、真剣なことなのです。なのに、女性はプロポーズを男にさせるゆとりからか、場所とか雰囲気に注文をつけます。これではプロポーズをしなければならない男の心情の理解が希薄だ、といえないでしようか。男だって、できれば決った(似合った)場所や雰囲気でプロポーズをしたいのですが、そのようなスケジュールはいつも失敗におわり、結局はドジなところで焦りながらプロポーズをする、というのが現実なのです。それが、プロポーズをする方と受ける方の落差です。一度女性からプロポーズしてみたらいいでしょう。うまくはいかないものです。
9.帰り道、ミッドナイト
I: 愛ひとつ受けとめかねて帰る道 長針短針重なる時刻
これは男女に関係なく、70%近い共感がみられます。夜中の12時に、また今日もイメージ通りのデートにならなかった、と反省しながら帰る人がたくさんいます。男も女も、これにかんしては同じ思いなのでしょう。失敗した、というわけではなくても、うまくはいかなかったと、考えれば考えるほど後悔の思いばかりがつのりながら、最終に近い電車にのって帰宅することは、よくあることです。「チャンスだったのに、あそこでなぜ!」と自分に言い聞かせながら、溜息ばかりがでてくることがあります。ミッドナイトは、こんな自分を愛しく思う時刻です。12時の帰宅には溜息が似合います。
10.ブラシは、香り
J: 君の髪梳かしたブラシ使うとき香る男のにおい楽しも
これは共感と拒否がほぼ半々になっています。男には、やや征服感があるのでしょうか、共感がやや多くなります(55.4%)。
性的な関係をもった男と女には、微妙に融合した感情が見られます。このとき、男は征服感(やったぞ!)に満足し、女は優しさ(あげた!)に満足します。そのお互いの擦れ違いの満足感が奇妙にブレンドされて、一体感(”わたしたち”という感情)を生成するとき、今までの恋愛ゲームは恋愛ごっこに転換するきっかけをみつけるのです。
普通、他人の体臭は、匂い(気持悪い)であって、香い(心地好い)にはなりません。自分と異質な匂いは、どこまでいっても排除の対象であって、簡単には融合しません。他人の体臭は、自分とは違うという意識を鮮明にさせる意味で、他者を異化する機能をもち、自分と同化することはありません。しかし二人の間で一体感が生成されてしまうと、匂いが香いになって楽しいものに変換されます。二人の香いの響き合いが新しい体臭を生成します。そこでは、二人は自分たちの香いを創ります。それがそれ以外の人にとっては匂いでしかないなんて気づく余裕はありません。愛に夢中なんです。幸せに!合掌。
(B)万智ちゃんの万華鏡
(a)HANAKO:ぱなな=おんな:おとこ
上記10項目の「共感」を、ジェンダーの視点でまとめると、つぎのようになる。
1 |
君の好める花模様 |
6 |
心だけの花いちもんめ |
2 |
八百屋の前の献立 |
7 |
食べたいでも痩せたい |
3 |
命令形の愛 |
8 |
カンチューハイのたたり |
4 |
ハンバーガー屋の戦慄 |
9 |
帰り道、ミッドナイト |
5 |
決めつけ男の悲劇 |
10 |
ブラシは、香り |
俵万智の短歌にかんして、男性が女性よりも強く共感している項目は2項目である。
2 八百屋の前の献立
10 ブラシは、香り
この2つはいかにも男が喜びそうな短歌である。男性の立場からすれば、「こんなに自分たち男が愛しくかつ大切な人と思われるなんて、信じられない。夢ではないか(本当は、やはり夢です!)」という驚きが共感として表現されているのだろう。男性は、《愛はどこまでも尽くすことだ》という『ぱなな』的な恋愛に憧れ、尽くされる自分を夢見て、このような短歌に強く共感するのだろう。
他方、女性が男性よりも強い共感(1%水準で有為な相関)を示している短歌は、つぎの4つである。
4 ハンバーガー屋の戦慄
6 心だけの花いちもんめ
7 食べたいでも痩せたい
8 カンチューハイのたたり
この4つの短歌は「男が好まない恋愛パターン」である。男ならば誰でも、ハンバーガーを食べるように簡単に捨てられてはたまったものではないし、「心だけね!」と言われても「そんな馬鹿な!」と言いたいし、「愛されたいけれど、愛したくないの!」なんて「勝手なことを言うな!」と頭にくるし、「カンチューハイのどこが悪い」とつい声を荒げてしまいそうになるものである。この4つの短歌にかんしては、女性が共感するというよりも、男性がはっきり拒否の姿勢を顕示したいのである。この拒否の背景には、《愛は奪うものだ》というゲーム論的なHANAKO的恋愛観をもつ女性には距離をとりたい、という男性の思いが隠されている。
こうしてみると、ジェンダーの視点で考察するかぎり、男性は《愛は尽くすものだ》という『ぱなな』的恋愛を女性に期待して、「自分は尽くされていい気分でいたい」というニーズを明確にし、女性の方は、そんな男性には見切りをつけたいとでもいいたげに、《愛は、そもそも奪うものなのよ!》とHANAKO的恋愛観に共感している。
これでは、恋愛がうまくいかないのではないか、と不安になる。男性は「自分に尽くせ」と女性に一方的に命令するだけで自分から何かをしようとする意思はなく、女性は「恋愛はゲームだから、男どもをいいようにあしらうパワーをつけないと」と騙しのテクニックに磨きをかける。このズレのなかでは、恋愛は擦れ違いを繰り返すだけである。男は「こんなはずじゃないのに」と、過去の女の幻影を追うだけで何もせず、女性はHANAKOのスタンスにこだわって、恋愛ゲームに熱中するだけである。男は「モダンな恋愛ゲームではなく、やさしい女との古臭い恋愛ごっこが欲しいのだ」と叫んでも、女たちはそんな声には聴こえないふりをするだけである。無視・無視・・・・・
(b)”俵万智スケール”と”わがままスケール”
つぎに10項目の関連性を数量化V類によって分析すると、つぎのようになる。
1 |
君の好める花模様 |
6 |
心だけの花いちもんめ |
2 |
八百屋の前の献立 |
7 |
食べたいでも痩せたい |
3 |
命令形の愛 |
8 |
カンチューハイのたたり |
4 |
ハンバーガー屋の戦慄 |
9 |
帰り道、ミッドナイト |
5 |
決めつけ男の悲劇 |
10 |
ブラシは、香り |
【α】 ”共感”と”拒否”
第一軸は、俵万智の短歌にたいする「共感」と「拒否」であり、俵万智の短歌の世界にたいする支持と反発の問題である。このような恋愛歌に表現された万智ワールドにたいして、「好きだな」と思う人はどのような短歌にも共感し、反対に「どうもこのような世界には生理的に馴染めない」と思う人はどのような短歌にも嫌悪感を表明する。したがってどの短歌に共感するか、という個別的な短歌の問題であるよりも、歌人俵万智の描く世界そのものへの共感と拒否が重要なのである。
[β] ”わがまま”と”優しさ”
第二軸は、「わがまま」と「優しさ」がテーマである。わがままは、「ハンバーガー屋の戦慄」とか「食べたいでも痩せたい」のように、自分の好き勝手で相手を捨てたり拾ったりする方向で恋愛を考える”HANAKO的な恋愛観”に、そして優しさは、「花模様」とか「八百屋の前の献立」のように相手に尽くす尊びを表明した『ぱなな的な恋愛観』に関連するテーマである。
【γ】 クラスター1: 俵万智(⇒俵万智スケール)
第一のクラスターは、つぎの8つの短歌に共感している選択肢の集合である。
1 : 気がつけば者の好める花模様ばかり手にしている試着室
2 : 午後四時に八百屋の前で献立を考えているような幸せ
3 : 「また電話しろよ」「待ってろ」いつもいつも命令形で愛を言う君
5 : 「おまえオレに言いたいことあるだろう」決めつけられてそんな気もする
6 : 万智ちやんがほしいと言われ心だけついていきたい花いちもんめ
8 : 「嫁さんになれよ」だなんてカンチューハイ二本で言ってしまっていいの
9 : 愛ひとつ受けとめかねて帰る道長針短針重なる時刻
10 : 君の髪梳かしたブラシ使うとき香る男のにおい楽しも
このクラスターを『俵万智』と呼ぶ。その特徴は、つぎの3点にある。
1 : 女は弱い、そして男は強い。これは伝統的で古臭い男らしさと女らしさの恋愛パターンである。
2 : 弱い女らしさは、「頼りなさ」「決めかねる(優柔不断)」「受け身」「ためらい」にあり、かつ「いまに従順」である。彼女は、現状をそのまま受け止めることが女らしい表現である、と信じている。
3 : このような表現は、基本的には《愛は尽くすものである》という「ばなな的な恋愛観」につながる。しかしその恋愛観は女性だけに期待されるもので、男性は《愛を尽くされる》存在としてしか期待されていない。すなわち男女相互に《愛は尽くすものだ》という認識にはいたっていない点で、これは「伝統的な恋愛」と断定されざるをえない。
つぎにこのクラスターをもとに、『俵万智スケール』を作成する。上記8つの短歌にいくつ共感しているか、によって、俵万智の一つの世界への共感度を探る。
ここではジェンターによる相違はない。男性も女性も、最頻値はスコア5で、ほどほどに俵万智ワールドに共感している。全体的な傾向としては、男性も女性も、まだ恋愛にかんしては、伝統的で古臭い《男は強くて、女は弱い》という神話にすがっていることが分かる。『サラダ記念日』がヒットした原因も、このような相変わらずの恋愛観を新しい包装紙(短歌という形式と口当たりのよい表現内容)に包んで店頭に出したことによるのだろう。
しかしスコア0から3までの女性が31.1%いる事実も忘れてはならない。彼女たちは、このような万智ワールドには強い反発と嫌悪感を抱いているはずである。「なんでいまさら男なんかに、尽くさなくちゃならないのよ。時代錯誤の短歌なんて、やめてよ!」と無言の抗議をしている。
表舞台では、たとえ”みせかけ”であろうと男女雇用機会均等法の制度が確立されて《女が頑張らなければならない時代》になっているのに、真の舞台では昔ながらの<逞しい男の前に三つ指ついて黙従する弱い女>という男女関係が毎晩演じられ、しかも高い人気を誇っている。この矛盾を含んだ現状に、誰が苛立ち、誰が「そんなものよ」と開き直り、そして誰が「女は弱い方が得なのよ」と舌をだすのか。
[∂] クラスター2:わがまま(→わがままスケール)
第二のクラスターは、つぎの2つの短歌に共感している選択肢から構成されるもので、『わがまま』クラスターと呼ぶ。
4 : ハンバーガーショップの席を立ち上がるように男を捨ててしまおう
7 : 食べたいでも痩せたいというコピーあり 愛されたいでも愛したくない
クラスター『わがまま』では、女性が男性にたいして、男の尊厳など無視して好き勝手に振る舞う恋愛パターンであり、男性にはかなり厳しいものである。ここで展開される男と女の物語は《わがまま女とだらしない男の物語》であり、クラスター1にみるような男天国的世界ではない。わがままを知った女性は一気に強くなる。尽くすことの自虐的な快感よりも、相手を翻弄し愚弄し最後は気に入らないからとポイとゴミ箱に捨てるゲーム的快感を知った女性は、「恋愛なんて、わがままが一番!」と悟るはずである。まさにHANAKO的な恋愛感覚がここでの特徴である。
我が儘な女は、でも、だらしない男が好きなわけではなかろう。彼女たちが惚れるのは「逞しい男」であろう。とすると、つぎのような疑問が提起できる。
《クラスター1の古典的物語》
逞しい男 ⇔ 尽くす女
《クラスター2の今風物語》
だらしない男 ⇔ 我が儘な女
ここから、クラスター1の「俵万智」での古典的な恋愛物語と、クラスター2の「わがまま」での今風の恋愛物語は、ともに『破局の物語』なのではないかという疑問が沸いてくる。逞しい男は、わがままな女を制御することで<自分の男らしさ>の確認をしたがるもので、尽くす女が身の回りにじっとしているだけでは鬱陶しさを感じるだけではないのか。また尽くす女も、尽くす価値のないだらしない男にどこまでも尽くしてこそ、尽くすことが目的ではなく、至上の価値となることを無意識に知って、だらしない男に惚れるのではないか。とすると、成就される恋愛関係は、《だらしない男⇔尽くす女》のパターンと、《逞しい男⇔わがままな女》のパターンであろう。前者は、意外と『ばなな的な恋愛の世界』の真髄なのではなかろうか。そして、後者は完全にゲーム的恋愛であり、HANAKOが頑張る世界である。
|
尽くす女 |
我が儘な女 |
逞しい男 |
古典的物語 |
HANAKO物語 |
だらしない男 |
ばなな物語 |
今風物語 |
このようにみてくると、俵万智の世界は、表面的には明るいトーンに包まれているが、その実像は『破局の物語』に溢れた危険な世界だった、ということになるのかもしれない。
話を戻して、つぎに『わがままスケール』を作成する。上記の2つの短歌に共感したスコアによって、どの程度のわがまま度が支持されているか、を分析する。
ここではジェンダーの影響力は明確である。男性は女性のわがままには消極的である。男性からすれば、「そんな簡単に男を捨てるものではない」といった科白を吐きたい気分であろう。男性の54.4%は、この2つの恐い短歌に真顔で「拒否」を表明している。
女性も、まだ41.0%がスコア0にあり、「ここまで強い女にはなれない」と優しさを装ってはいる。しかし男性との比較では、スコア2が22.1%にも達しており、我が儘な女になる決意がここでは示されている。
我が儘でなければ女に生まれた甲斐がないと信じている女性からすれば、「最近の男はみんな屑みたいで、つまらない。捨てられる運命をじっと待っているような男には、興味はないのに、そんな男に決まって後からくっついて離れないんだから。もっと逞しい男が欲しい!」と叫びたい心境なのだろう。わがままな彼女たちは、もっと派手に恋愛ゲームを楽しみたいのである。
HANAKOたち、そしてばななたち。俵万智の小世界には、いろいろな顔をもった女たちが、恋愛のゲームと舞台の上で、さまざまな駆け引きを楽しみ、あるいは色とりどりの衣裳をまとって芝居を演じている。万智ちゃんの万華鏡は、いつみても美しい。
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