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2005年05月31日

第6回パワーポイント

第6回パワーポイントは
こちらです。

投稿者 saeki : 07:55 | コメント (0)

2005年05月29日

中間レポートについてのお知らせ

1.中間レポートについてのお知らせ(重要)

(1) 中間レポートの提出期限は6月6日(月)23:55までの設定となっておりますので、遅れないように提出してください。

(2) レポートのファイル名には提出者本人の名前をフルネームで記入してください⇒(例:Ken Jimbo.doc)

* 以前の案内では漢字表記を例示しましたが、レポートシステムで使用できるファイル名は半角英数字のみだそうです。したがって、アルファベット表記でおねがいいたします。

2.次回のオフィスアワーお休みのお知らせ

すみません、次回の火曜日のオフィス・アワー(9:00-11:00)の時間帯に、今度は民主党の外交部会での講演(米軍トランスフォーメーションについて)が入ってしまいました。申し訳ないですが、お休みとさせてください。授業は通常通り開始いたします。また、受講者のメールによる質問・相談は、もちろん歓迎します。

投稿者 jimbo : 02:41 | コメント (0)

第5回講義レビュー(その2)

軍備管理・軍縮・不拡散・拡散対抗 (Contd.)

それでは、第5回授業レビュー(その2)をお送りします。

【核拡散防止条約(NPT)体制の難しい舵取り】

ニュースなどで気付かれた方も多いと思いますが、5月2日以来ニューヨークで開催されていた核拡散防止条約(NPT)運用検討会議(再検討会議)が、27日に事実上の決裂という事態を迎え、閉幕しました。日本の外交団ががっかりする姿がテレビに映し出されていましたが、外務省がこれまでNPTの強化に並々ならぬ努力をしてきたことを考えれば、無理もありません。

NPT(本文へのリンク)は1970年に発行した条約で、核兵器を保有できる国を米国、ソ連(現在:ロシア)、英国、フランス、中国の5ヶ国に限定し、それ以外を非核保有国として核兵器の保有と製造とを禁止する条約です。なぜこの5ヶ国かといえば、1967年以前に核爆発実験をした国(中国:1964年)をもって核保有国として「打ち止め」にし、それ以上の国への核拡散を防ぐことを目的としているものです。

でも、「核拡散を防ぐことはいいけど、核保有国を5ヶ国に制限して、その地位が固定化されるのもどうだろうか?」という疑問が沸いてきますね。そうなんですね。国際政治学の中で、国家の地位が必ずしも平等ではないということは、このNPT体制に如実に表れているといっていいと思います。次回扱う国連安全保障理事会の常任理事国が拒否権を持ち、期せずして同じ5カ国が核保有国なんですよね。

NPTは発足当初からこのような不平等性の下で、核の拡散を防止させようとする枠組みです。だから、どのような枠組みを導入したかというと・・・

  第1条:核保有国は他の非核保有国に核兵器を移転しない
  第2条:非核保有国は核兵器の製造をしない
  第3条:非核保有国は保障措置を受け入れる(IAEAの査察を受け入れる)

ことによって、まず核拡散を防止する条項を導入した上で・・・

  第4条:締約国による原子力平和利用の権利を担保する
  第6条:核保有国は軍縮交渉を推進することを約束する

というバランスをとろうとしているのが、NPTの論理です。すなわち、核保有国は5ヶ国に限定されるけど、その代わり非核保有国は①原子力平和利用(原子力発電所の開発など)、②核保有国が軍縮交渉を約束する・・・という二つの対価を受け取るということですね。

【NPT体制の発展と挑戦】

発足当初より、核保有国と非核保有国の「持つもの」「持たざるもの」という関係が、上記の難しいバランスを舵取りすることに追われていました。それでも、NPTは徐々に締約国を増やし現在は189カ国が加盟をする国際条約になりました。その間、1991年に南アフリカが核兵器を放棄してNPT加盟し、また旧ソ連崩壊後のベラルーシ、ウクライナ、カザフスタンが核兵器をロシアに移転し、非核保有国としてNPTに加盟したことも、冷戦後のNPT体制にとっては朗報でした。

その一方で、①NPT体制内の国が、条約上の義務を履行せずに核開発に着手するケース(イラク、北朝鮮)、そして②NPTに加盟しない国が核開発を行うケース(インド、パキスタン、イスラエル)など、NPTの内と外で核拡散防止の限界性も浮き彫りになってきたのが実情です。

こうした中で、NPTの運用を強化するべきだという動きが強まってきました。それが1995年から5年おきに開催されている「運用検討会議」です。これまで、1995年、2000年、そして今年と3回開催されてきました。

1995年の運用検討会議では、①NPTの無期限延長が決定され、②不拡散・核軍縮の検証の強化が確認されています。また2000年の運用検討会議では、核軍縮は核保有国による「明確な約束」(unequivocal undertaking)であることを宣言し、包括的核実験禁止条約(CTBT)の早期発効、一方的な核削減や透明性の確保などが謳われました。こうした中で、近年のNPT会議の中で非核保有国が核保有国に対して、一層の核軍縮を要求してきたのが特徴的でした。

ところが、今年の会議はこうした流れがぱたりと止まってしまった感があります。その最大の理由は、この5年間で核保有国と非核保有国の間の「溝」がますます深まってしまったことにあります。それぞれの主張は以下のようにまとめられるのでは、と思います。

〔核保有国(主に米国)〕
  ・新しい脅威に対して、小型核・バンカーバスターの開発を推進したい
  ・北朝鮮・イランの核開発問題をNPTの主要議題としたい
  ・包括的核実験禁止条約(CTBT)に反対
〔非核保有国(立場は分かれる)〕
  ・安全の保証(核攻撃をされない保証)を強固に担保したい
  ・核保有国の軍縮義務を一層推進したい
  ・核持ち込み(例えば同盟国への戦術核の配備)を禁止したい
  ・イスラエルに核を完全廃棄させたい(エジプト)
  ・イランの新規議題化に反対(イラン)

このそれぞれの立場が深刻に対立し、結局1ヶ月の議論を通じて、今回NPTは何の文章をまとめることもできませんでした。2000年以降、9.11テロと大量破壊兵器の結びつき、北朝鮮・イランの核開発、パキスタンの闇市場など、多くの問題が発生しているにもかかわらず、NPTは有効な答えを出すことができませんでした。これは、核不拡散体制に大きな亀裂が入っていることを意味しています。

今後、核の拡散防止体制はどうなってしまうのでしょうか?ひとつの醒めた見方は、「国際条約の有効性にはそもそも限界がある」というものです。米国などは、NPTへの期待はそもそも限定的に捉えているようです。NPTをいくら強化したところで、米国自身が新しい核兵器を開発したい状況は変わりないし、またイランや北朝鮮のように体制内でいわば「裏技」ともいうべき核開発に進んでしまっている。であるならば、NPTを強化する以上(プラスα)の措置を導入しなければ、核拡散には対処できない・・・ということになりますね。

こうした観点から、1990年代に浮上したのが「拡散対抗(Counter-Proliferation)」という概念です。「拡散防止(Non-Proliferation)」が、国際条約等によってレジームの下での不拡散を目指すのに比べ、「拡散対抗」は仮に拡散が起こりそうな場合、また起きてしまった場合の、緩和・抑止・攻撃・防御などを政策体系として組み立てることを意味します。

具体的には、大量破壊兵器の開発や製造をできるだけ早期に探知し、それらの動きを食い止めたり、場合によっては威嚇・攻撃を加えることによって、大量破壊兵器の保持を阻止しようとする概念を含みます。例えば、海上・陸上・航空路で、大量破壊兵器や関連物資が輸送されるようであれば、各国が協力してこれを阻止する活動⇒「拡散安全保障イニシアティブ」(Proliferation Security Initiative: PSI)は、「拡散対抗」の一部として捉えることができます。

こうした概念が、後の授業で扱うブッシュ政権の「先制行動論」(先制攻撃)につながってくるわけですね。ブッシュ・ドクトリンについては、後ほどの授業(テロリズムとカウンターテロリズム)でじっくりと扱うことにしましょう。

このように、現代の大量破壊兵器不拡散は、深刻な問題に直面しているといえます。国際条約・国際協調による不拡散努力が、今回のNPTを通してみられるような挫折を経験し、多国間による問題の解決が深刻な困難性に直面しています。

他方で、「拡散対抗」の手段が模索され続け、一定の成果も挙げているものの、他方でイラク戦争やインテリジェンスの不備に基づく主権侵害など、多くの問題を起こしていることも事実です。このように、大量破壊兵器の拡散を以下に防ぐか、というのは現代におけるきわめて難しい政策課題ということになるでしょう。こうした問題点の構造、そして今後国際社会がどう対応すべきなのか、皆さんもぜひ思考を深めてみてくださいね。

さて、第5回授業に関する参考文献・論文は以下のとおりです。

〔リーディング・マテリアル〕
佐瀬昌盛「軍備管理・軍縮」防衛大学校安全保障学研究会『安全保障学入門(最新版)』(有斐閣、2005年)

〔さらなる学習のために(和文)〕
[1] 秋山信将「核拡散を押し返せ:NPT会議に向けて」『論座』(2005年6月号)
[2] 黒沢満編『大量破壊兵器の軍縮論』(信山社出版、2004年)
[3] 納家政嗣・梅本哲也編『大量破壊兵器不拡散の国際政治学』(有信堂、2000年)
[3] 黒沢満『軍縮問題入門』(東信堂、1999年)
[4] 黒沢満『核軍縮と国際平和』(有斐閣、1999年)
[5] 小川伸一『「核」軍備管理・軍縮のゆくえ』(芦書房、1996年)
[6] 梅本哲也『核兵器と国際政治:1945~1995』(日本国際問題研究所、1996年)

*比較的この分野は、日本の研究が盛んなんですね(^-^)。中でも[2]、[3]はお勧め。

〔さらなる学習のために(英文)〕
[1] Michael A. Levi and Michael O’Hanlon, The Future of Arms Control (Brooking Institution Press: Washington DC, 2004)
[2] Graham Allison, Nuclear Terrorism: The Ultimate Preventable Catastrophe (Owl Books, 2004)
[3] Ashton Carter, “How to Counter WMD” Foreign Affairs (September/October 2004)
[4] Andrew Winner, “Proliferation Security Initiative: The New Face of Interdiction” Washington Quarterly (Spring 2005)

投稿者 jimbo : 02:37

2005年05月25日

第5回講義レビュー(その1)

軍備管理・軍縮・不拡散・拡散対抗

さて、第5回講義のレビュー(その1)をお送りします。実は講師にも得意・不得意な分野があるわけですが、「軍備管理・軍縮・不拡散・拡散対抗」というテーマはなかなかの難題です。というのも、軍備管理・軍縮分野には独特の専門家コミュニティが形成されていて、その専門性の高さがハンパないんですね。

たとえば、核軍縮ひとつをとってみても、軍縮コミュニティのなかには、①核兵器・核戦略、②核関連物質、③原子力の平和利用、④国際法、⑤保障措置、⑥結果管理、それぞれの専門家がいるんです。しかも、それぞれの専門家が難解な化学式や数式を用いて軍縮効果などを議論しているものですから、分野によっては近寄り難い雰囲気があります(^-^;)。さらに、生物兵器、化学兵器、小型武器、地雷、ミサイル・・・など分野など、ひとくちに軍備管理・軍縮といっても、その射程は実に広い兵器体系に広がっているわけです。その意味では、一度入り込むとかなり専門分化する領域なんですね。

さて、この授業ではそこまで細かく軍備管理の各論には入り込みませんし、各領域の議論をすべて覚えることが目的でもありません。まず軍備管理・軍縮の入門編として取り組んで欲しいのは、「軍備管理・軍縮はなぜ必要なのか?」として「どのような場合に軍備管理・軍縮は成功するのか?」という課題です。

【軍備管理と軍縮の違い】

授業の冒頭では「軍備管理」と「軍縮」の概念の違いを紹介しました。「軍備管理」が、「安定的均衡の下での軍拡の抑制」とするならば、「軍縮」は「軍事力の削減を通した緊張緩和」といえるかと思います。「軍備管理」を重視する論者からみれば、「安定均衡」こそが最大の目標であり、そのためには、ときとして「軍拡」さえも容認するという考えです(実際後に述べるSALT-I は軍備の上限設定だった)。そして、「軍縮」は「軍備管理」の手段として位置づけられているわけですね。

でも世界にはたくさんの「軍縮」重視論者がいます。まだ把握できていませんが、受講者の皆さんもかなり「軍縮」重視論者が多いのではと推測しています。軍縮論者によれば、軍事力そのものは絶対悪であり、軍事力の量を減らすことが、何よりも大切な原則だということになります。哲学者のカントは『永遠平和のために』で、軍備を撤廃して国際平和を実現することを描き、また大戦間期(第1次大戦と第2次大戦の間)にも、ノーマン・エンジェル卿をはじめとする多くの欧州の学者たちが、包括的な軍縮を提起してきました。

その一方で、ベルサイユ条約後のドイツ、ロンドン海軍軍縮条約後の日本などにもみられるように、「力の均衡を無視したまま軍縮を進めると、対立を深めたり、新たな対立を生み出す結果を招く」(佐瀬昌盛「軍備管理・軍縮」リーディング・マテリアルp.119)のが、これまでの軍縮の歴史だったという評価もなされています。皆さんは、この評価をどのように考えるでしょうか。果たして、私たちはどのような「軍備管理・軍縮」の哲学をもって、国際関係における「軍事力」の意味を考えるべきなのでしょうか。

以下では「軍備管理・軍縮」を学ぶにあたり、冷戦期から現代までの「米ソ核軍縮交渉」と、「核拡散防止条約(NPT)体制」の二つの事例をとりあげ、考えてみたいと思います。

【ケース1:米ソ核軍縮交渉】

第4回の授業で取り上げたように、冷戦期に米国とソ連は互いの核戦力の強化を通じて、激しい軍備競争を展開してきました。アイゼンハワー政権の「大量報復戦略」からケネディ政権以降の「相互確証破壊」に至る過程で、世界には合わせて最大6万発前後の核兵器が存在していました。第3回から第4回の授業を通して、「抑止に係る安定性」を求めるためには、「抑止失敗のコスト」を著しく高めることが、むしろ抑止関係を安定させるという理屈を学んできました。だから、こちらが手を出せば壊滅的な報復がもたらされるという恐怖こそが、安定を担保していたというのが、冷戦期の核抑止の究極の形態でした。

でも、結果として1960年代終わりごろには、おびただしい数の核兵器と人類は共存することになってしまった。このまま「安全保障のジレンマ」にしたがって、互いの軍備競争を続けていけば、際限ない核兵器の増強による安定均衡の確保という愚かなデス・スパイラルを永遠に続けることになる。ここに、英知をもって楔を打ち込もうとする政治的動きがでてくるわけです。

そのきっかけをつくったのが、前回学んだ「ABM制限条約」成立までの道程でした。ケネディ/ジョンソン政権の国防長官を務めたマクナマラは、自国の戦略防衛能力(ABMの配備)を自己抑制することにより、双方の攻撃兵器のレベルを下げる合意にソ連を導けるのではないか・・・と考えました。そこで、米側の交渉戦略を練ったポール・ニッツェ国防副長官は、「攻撃兵器の量、投射重量(ペイロード)を制限し、米国やその同盟国に対するソ連の攻撃の成功の可能性を減少させる」という「攻撃兵器の制限」と、もうひとつはABMの配備を禁止する「防御兵器の制限」の双方によって、軍備管理を成立させることを立案しました。

ここでマクナマラがソ連に与えたメッセージは、「『相互』確証破壊」であり、一方的なソ連に対する優位の確保ではなかったわけです。米国の右派からしてみれば、「共産主義国との核の共存」であり「米国が優位を失ったことを認める敗北主義」であるように映りました。ところが、こうした米国の「優位性の維持」を掲げて大統領選挙を戦ったニクソンも、大統領就任以降はソ連の核戦力が「パリティ」の状況に至ったことを認めざるを得ませんでした。ここに、「交渉の季節」が到来したわけです。共和党の右派にとってみれば、これは米国の敗北とうつり、軍備管理論者にとってみれば「均衡の下での制限・削減」が現実化したというのが1970年の状況だったわけです。

こうした紆余曲折をへて、ニクソン・キッシンジャーは1972年に第1次戦略兵器制限交渉(SALT-I)によってICBM、SLBMの戦力増強に一定の上限を設ける合意設定に成功しました。それと同時に、「ABM制限条約」を締結し、「相互確証破壊」を安定的に保つと同時に、攻撃兵器の増強にもシーリングを設けようとする考えが、米ソ両国によって交わされたわけです。まさに「安定均衡下での軍備制限」が成立した瞬間だったのですね。

この流れは、フォード政権を経てカーター政権の1979年にSALT-IIとして引き継がれていきました。しかし、このころから、「米ソ・デタント」と呼ばれた雪解けの季節に変化が訪れます。その最大の契機は79年にソ連がアフガニスタンに侵攻し、その後欧州及びアジアにおける軍拡路線を打ち出したことにありました。

とりわけ問題とされたのは、ソ連が欧州正面に中距離核戦力SS-20を配備したことでした。SS-20は高精度の中距離核で、ただでさえ欧州では通常戦力で優位にたっていた東側陣営を、決定的に優位に置くものでした。そこで、NATOは欧州諸国の要請に応え、SS-20に対抗するために、新しい中距離核であるパーシングIIの配備に踏み切ります。ここで中距離核戦力を均衡させなければ、欧州正面における抑止は保てないという懸念が生じたためでした。そして(ここが重要なのですが)同時に米国はソ連に対し、「SS-20を全廃させれば、パーシングIIも全廃する」という軍縮提案、いわゆる「ゼロ・オプション」を提示します。これを「NATO二重決定」と呼びます。

1981年に提案されてから6年を経て(この間、SALT-IIプロセスの崩壊、SDI論争の浮上などがあった)、1987年に米ソはINF全廃に合意し、ソ連は欧州正面ではなくアジアを含めたすべてのSS-20の撤廃に合意します。ここに「グローバル・ダブル・ゼロ」と呼ばれるINF条約が締結されることになりました。

INF条約がなぜ成立可能だったのか。これについては、数多くの論文が発表されています。ただ重要なことは、SALT-I の成立と同様、米ソ間の核戦力の均衡をもってはじめて、交渉による解決の素地が作られたことにあります。つまりお互いの条件がほぼ同等になり、お互いがにらみ合う状況の下で、その緊張の度合いを下げていく・・・まさに荒野のガンマンがにらみ合ってホールドの状況で、後ずさりをしながら距離をとっていく関係に良く似ています。そして、戦力の「制限」「削減」「撤廃」をする過程において、米ソ両国が「軍事的に不利にならず、平和的発展の可能性がある」と考える条件をつくったことが重要だったわけです。これが、軍備管理における「安定均衡下での軍拡の抑制」の真髄があるのでしょう。

INF条約は、その後戦略兵器削減交渉(START-I / -II)に引き継がれ、中距離核だけでなく戦略核についてもその弾頭数を削減していく方向性が打ち出され、その後「マルタ会議」において米ソ冷戦の終結が高らかに宣言されることとなります。この「相互削減」にたどりつく過程に、数十年間にわたる凄まじいドラマがあったわけですね。

軍備管理のひとつのドラマを感じ取ってもらえたでしょうか?引き続き(その2)では、授業の後半で扱った核不拡散体制としてのNPTを取り上げましょう。

〔米ソ核軍縮交渉に関するオススメ文献〕

ストローブ・タルボット『米ソ核軍縮交渉:成功への歩み』(サイマル出版会、1988年)
関場誓子『超大国の回転木馬(メリーゴーラウンド):米ソ核軍縮交渉の6000日』(サイマル出版会、1988年)

【つづく】

投稿者 jimbo : 21:31

2005年05月24日

第5回パワーポイント

第5回パワーポイントは
こちらです。

投稿者 saeki : 10:33 | コメント (0)

2005年05月21日

日本の「ミドルパワー」外交について

添谷芳秀『日本の「ミドル・パワー」外交:戦後日本の選択と構想』(ちくま新書、2005年)を読みました。私は『日本外交と中国:1945-1972』(慶應義塾大学出版会、1992年)以来、添谷先生の著作のファンで、日米安保論、多国間安全保障論、東アジア外交論など、長年にわたり多くのことを学んできました。特に、添谷先生の「国際秩序構想と対外政策」、さらには「対外政策と国内政策」のリンケージを考える思考様式はとてもクールかつ上品で、しばしば泥臭さの伴う人間同士の葛藤としての政策決定さえも、シャープに区分けされた概念の下で演技するアクターに変えてしまう。そんな知的な爽快感を味わうことができました。

さて、この「ミドル・パワー外交論」を書店で見つけたとき、「添谷先生はそろそろ勝負に出たのかな」と思いました。本書で取り上げられる「ミドル・パワー」とは、日本が「ミドル・パワー」であるかどうかには「重きをおかない」ことをことわりつつ、むしろ「外交資源をつぎこむ領域」としての外交論であるという前提にたっています。とはいっても、読者にとってみれば、果たしてそれを「ミドル・パワー外交」と規定することが正しいのか、という「入り口」から説得を始めなければならない。だって、語感からして「ミドル・パワー外交」論は、日本が経済大国だと自負している方々にとっては、なんともすわり心地の悪く、かつロングホールのティーショットをアイアンで打つような感覚を覚えるわけですね。

そして、読者の最大の関心はその「入り口」にあります。来週あたりから、さまざまな書評がでると思いますが、おそらく産経、読売、日経あたりは以下のような論調となるのでは・・・: ①日本は経済規模からいえば、80年代以降はれっきとした大国となった、②80年代以降、国際金融、通商政策、開発政策、技術開発において果たした役割は「大国」の姿そのものである、③したがって日本の(経済)外交をミドル・パワー外交とみなすことは、概念として誤っているばかりでなく、縮小均衡論として国際社会の期待をも裏切る・・・

著者はそんなことは100も承知なわけですね。それでも「敢えて」、「ミドル・パワー」と呼称した真意は、著者のいう「ミドル・パワー外交」の領域こそが、もっとも日本が国際秩序に主体的に参画できる領域であり、そこに知的資源を集中すべきことを提言したかったからだと私は解釈しています。それは、①大国外交意識、②平和国家外交意識の「二重アイデンティティ」の対立が、「日米安保を手放せない日本外交の身の丈にあった役割の模索にほとんど寄与せず、むしろ足枷になってきた」という手厳しい戦後論争の評価を基本に、そこから脱却した「主体的な国際秩序像」を模索する外交ということになります。

わたくし、この論点に深く共感しているんです。というのも、私の日本政治に関する問題意識も、大学生のころ自社連立政権ができ、村山内閣があっさり自衛隊と日米安保関係の合憲性を認めたことにショックを受けたことにありました。そのショックを当時の恩師である佐藤誠三郎先生に伝えたところ、「サルトーリの政党論にも書いてあるでしょう。政党というのは、そういう生き物なのです」といわれて、愕然としました。だって、非武装中立論とか自衛隊の合憲性を論点に、38年間も命がけの議論をしてきたんじゃないのか・・・その理想を実現するために社会党は戦っていたのではないのか・・・という思いがあったからです。

でも、実際は違った。社会党は「いかにその主張が非現実的であるかが、彼らの得票につながった」(佐藤先生)というように、ヴァーチャルな理想論に固執することを、有権者へのパフォーマンスとして票を稼いできた。だとすると、戦後の「二重アイデンティティ」とそれに代表された自社対立のアホな構造に真面目に付き合うのは、徒労以外の何ものでもないじゃないか!という思いに駆られたわけです。だから、日本のパワーを見据え、国際社会への働きかけ(秩序構築への参画)をすることこそが必要なんだ、と思い至るわけです。その意味で、添谷先生の志向には、(私の誤解・誤読がなければ)とても共感する部分が多いんです。

でも、それがイコール「ミドル・パワー外交」ということになるだろうか?たしかに政治は「限られた資源の分配」であるから、分配されたパワーの身の丈に応じた外交を志向することはリアリズムの基本です。ただ、添谷先生が「大国外交」と規定する定義は「歴史と伝統および価値に支えられたユニラテラリズムを特徴とし、軍事力を外交の最後の拠り所とし、大国間政治や安全保障の領域を中心とした国際システムの基本構造を左右する」としています。これって、定義としてやや狭すぎないでしょうか?

たとえば、ウイーン体制のころの欧州列強だってそれぞれ「大国」と定義しますよね。でも列強すべてが上記の定義を満たすとは思えない。さらに、「軍事力を最後の拠り所にし・・・」というのが大国の定義だった時代から、1970年代に相互依存が進んだ国際関係の中では、経済力や技術力が「大国」のステータスとして浮上してきたから、『アフターヘゲモニー』の議論が意味をもったわけですし。

ただ確かに、「大国が規定する国際システムを所与とし、かつ大国との全面的対立を外交上の選択肢として放棄し」てきたことは事実です。日本の1970年代の「自主外交」と呼ばれた一連の政策(例えばインドシナ外交、中東へのODA政策、東南アジア開発モデル、福田ドクトリン)にしたって、よくよく突き詰めれば米国の掌の中の外交であり、(秩序に離反する意味での)自主外交ではなかったとも評価できるでしょう。

でも、そうだとすると「ミドル・パワー外交」がむしろ「米国の掌の中」にいることを助長するという点において、むしろ外交思考を卑屈にし、その枠組みを拘束することにはならないでしょうか。「イコール・パートナー論」・「パワー・シェアリング論」・「米英同盟のような日米同盟」がたしかに空疎に聞こえても、それを目標とし・自負する同盟外交が力強い安全保障秩序を生むと私は考えています。それは「日米同盟さえあれば大丈夫」とかの類の議論ではなくて、日本が米国とともに世界秩序構想を考え、米国の安全保障政策決定に影響力を行使するようでなければ、結局同盟関係の間の「主体性」など発揮できないのではないでしょうか。そのためには、米国と同様に世界情勢にくまなく目を配らせ、そこにおける秩序のあり方に「コミット」する。それが経済的手段であったとしても。これは「大国外交」そのものではないでしょうか。これが私の見解です。

最後に、本書の主張のもう一方の核心(そして著者に本書を上梓する契機となった現象)は、日本国内における自覚的・無自覚的ナショナリズムの台頭への懸念だと思います。そして、実は保革対立が解消し、日本がかつてのような「足枷」としての神学論争から解放されようとしている現在でも、日本のナショナリズムの焦点は、まさに国内論争としての「憲法」であり「戦後」である。そこに、自縄自縛的な「逆噴射」をかけようとするばかりで、国際秩序に働きかけようとするものではない・・・ということでしょう。年配の保守層の世代の方々が、「憲法との対話」に絶え間ないエネルギーをつぎ込み、その呪縛から脱却することが正義だと信じて言説をはっているのに、呪縛からとかれたと思っていたら、実はその闘争こそが本人のアイデンティティであった・・・。こうした陥穽こそが、著者の懸念する外交論の偏狭性であるし、その偏狭性こそは55年体制の繰り返しであったのでしょう。

「ミドル・パワー外交論」はそれを打破する突破口となるのか。。。私は「ネーミングさえ変えれば・・・」と思ってしまうのですが(^-^;)。。。

投稿者 jimbo : 01:34 | コメント (0)

2005年05月20日

5月24日オフィス・アワー休み(お知らせ)

〔お知らせ1〕
先週に引き続き5月24日(火)のオフィス・アワー(9:00-11:00)も、自民党外交調査会の仕事があり、お休みさせていただきます。

〔お知らせ2〕
6月2日(木)の第1限に予定されている「総合講座A」で、講義をすることになりました。講義タイトルは、「東アジア共同体論」です。Θ館で開催されますので、ご関心のある方は聴講に来てください(^-^)。安全保障論とはテイストの違う講義をする予定です。

投稿者 jimbo : 22:02 | コメント (0)

2005年05月19日

授業で配布された資料について

みなさん、初めまして。TAの雨宮です。

授業で配布された資料(パワーポイントのプリントアウト&リーディングマテリアル)は、神保先生の研究室(イオタ409)の前の棚に置いてあります。

過去3回分の資料を保存してありますので、授業に来られなかった方は、取りに来てください。

投稿者 amemiya : 17:34 | コメント (0)

2005年05月18日

第4回授業レビュー(その2)

核戦略(Nuclear Strategy)とミサイル防衛(Missile Defense) 
-その2-

さて、「核戦略とミサイル防衛」の続編をお送りします。

【核態勢見直し(NPR)と能力ベースアプローチ/新トライアッド】

冷戦終結後、米国は2回にわたる核態勢見直し(Nuclear Posture Review: NPR)を行いました。第1回目の見直しは、1994年にレス・アスピン国防長官の下で策定されました。この見直しでは、①核弾頭数の削減を一層進めること、②ロシアに残存する核兵器の安定的な管理を行うこと、が重要課題となりました。

エリツィン時代初期のロシア政権は、急進的な改革を進めた結果、国内の経済が混乱し、ロシア軍の兵士の給料さえ払えないという事態にもなりました。当然兵士のモラール(志気)は低下し、核関連の科学者・技師も国を離れて別の国で稼いだほうがいいと考えて当然です。

こうした中で、米ソ核軍縮のプロセスにおいて、ロシアにおける核兵器を安定的に廃棄していくために、米政府は「核解体・廃棄イニシアティブ(ナン・ルーガー法)」を立ち上げ、各関連物質の廃棄コストの負担、買い上げなどの措置をとり、第三国に核物質や知識が移転しないように腐心します。90年代中頃の核兵器に関する議論でもっとも深刻だったのは、冷戦終結の後始末だったのですね。

第1次NPRでは、「相互確証破壊」ではなく「相互確証安全(Mutual Assured Security)」を達成しようと謳われたものの、核抑止力の保持については過去の考え方を踏襲し、目新しい概念の提示がありませんでした。

そんな中で、1990年代を通じて核戦略に挑戦する新しい動きがでてきます。第一は、1990年代初めから中国が急速な勢いで経済発展し、核兵器・ミサイルの開発をスピードアップさせたことです。核実験回数の各国別の表をみるとわかるとおり、1990年以降ほとんどの国が核実験を止めているのに(もちろんCTBT署名前の駆け込み実験はあったが・・・)、中国だけはコンスタントに実験をしていることがわかります。第二は、1998年にインド・パキスタンが相次いで核実験を行い、事実上の核保有国になります。両国ともNPT加盟国ではないために、条約上の縛りがなく、世界的な核軍縮体制に大きな衝撃がはしりました。第三は、北朝鮮・イラン・イラク・リビアなどの一連の中小国が核開発を進めている(らしい)ことが懸念されたことです。米国やその他の自由主義諸国に敵対的な中小国が核武装した際の危険性が大いに懸念されたのもこのころです。第四は、9.11事件によってテロリストという非対称的アクターの存在が浮上し、「テロリストと大量破壊兵器の結びつき」が国際社会を震撼させる脅威として認識されるようになりました。

2002年の第2次NPRは、こうした一連の新しい展開を踏まえて作成されることになりました。第2次NPRは、①脅威ベース(threat-based)ではなく、能力ベース(capability-based)のアプローチを取ること、そして②冷戦期の核の三本柱(戦略爆撃機、ICBM、SLBM)から、「新しい核の三本柱(トライアッド)」に移行することが謳われました。

「能力ベースのアプローチ」というのは、従来のようにソ連やイラクといった特定の脅威に基づいて自らの兵力構成を考えるのではなく、世界中に発生しうる脅威の「能力」に着目して、ドクトリン・兵力構成・技術開発を行っていくという考え方です。将来予見しうる「能力」が不確実なために、可能な限り自らの「能力」リソースを高めていく必要があるということですね。例えば、兵器調達をするときに10年後のソ連の軍事能力を想定し、それに応じた調達を行っていくのが「脅威ベース」の考え方です。でも現在の「能力ベース」では、2年ごとに脅威のアセスメントを行い(ブロック・アプローチ)、研究・開発・量産・配備を柔軟に組み替えていくという「スパイラル・モデル」を導入しています。

「新しい核のトライアッド」は、①通常戦略・核戦略による攻撃能力(旧トライアッド+α)、②防御能力、③対応可能なインフラストラクチャーの3つによって形成されると主張されています。現代の脅威の「能力」は、「攻撃-防御-技術インフラ」を組み合わせなければ、柔軟に対応することができない、という危機感がそこから読み取れます。

たとえば、米国が向き合っている核保有国を以下の5つのレベルに分けてみるとします

 レベル1: ロシア
 レベル2: 中国
 レベル3: インド・パキスタン
 レベル4: イラン・北朝鮮…etc
 レベル5: テロリスト…etc

ここから読み取れるのは、各レベルとも全く異なる核兵器との関係性を持っているわけです。ロシアは核抑止の安定性を維持しながら、核軍縮を進めていく方向。中国は台頭する核開発国。インド・パキスタンは、現在のところ直接的な脅威とは認識されていない。イラン・北朝鮮は開発・保有自体をカードに現状変更を迫っている。テロリストはまったく未確定の相手・・・と様相はさまざまです。

重要なことは、核戦略を考える際に「その1」で振り返ったような、核抑止論の体系がずいぶん変わってきたということですね。授業では述べる時間がなかったのですが、「なぜ米国は未だに臨界前実験を続け、小型核やバンカーバスターなどを開発しているのか?」といえば、こうした新しいアクターに対する攻撃能力・報復能力をいかに効果的に発揮するかを模索しているからに他なりません。ここからは、私の意見となりますが、レベル2~5の相手に対し「基本抑止」を模索するならば、彼らに通用する核攻撃の運用計画を持つ必要があるわけです。

例えばこういう問いかけに皆さんはどう思うでしょうか?「日本政府が北朝鮮への『拡大抑止』を担保するためには、米国の小型核・バンカーバスターの開発を支持すべきである」・・・これはYESでしょうか、それともNOでしょうか。日本の新聞論調は今回のNPT会議の報道の中で、米国が核兵器開発を続けることに対する批判一色です。でも、もしこうした開発が北朝鮮を抑止するために効果的であるとすれば、日本はそれを批判するべきなのでしょうか?このあたりで、皆さんの抑止論への考え方や価値観が問われてきます。もし、このテーマでレポートを書く方がいれば、こうした問いかけも頭の片隅に置いてもらえればと思っています。

いずれにせよ、新しい脅威(レベル4~5)に関しては「懲罰的抑止」だけでは物足りないことは強く認識されています。それが、「防御」と「防衛インフラ」の拡充によってカバーされるべきということですね。「防御」の中身として挙げられているのが、ミサイル防衛や、対テロ戦略などによって「拒否的抑止力」を強化すること。「防衛インフラ」については、米国の国防産業の基盤強化と他国を圧倒する優位性を維持することが強調されています。

【ミサイル防衛について】

ちょっと時間切れになってきました。実は、皆さんへの解説をサボるために、とてもいいサイトを紹介したいと思います。防衛庁が昨年5月に制作したビデオ「弾道ミサイル防衛とは」です。防衛庁の動画サイト(http://www.jda.go.jp/j/douga/douga.htm)の、下から2番目にありますので、Real PlayerかWindows Media Playerのいずれかを選択して、見てみてください。これは、どうやらTBSが制作に全面協力している、おどろきの力作です。政府の公式見解に力点が置かれてはいますが、現在のミサイル拡散の現状、ミサイル防衛の基礎知識、現在の開発の動向などについて、わずか15分で学ぶことができます。私の文章より、100倍理解が進むことでしょう(^-^;)。

ミサイル防衛についての解説は、また日本の防衛問題を扱うことに詳しく書きたいと思います。以前の衆議院安全保障委員会での参考人招致での金田先生の発言http://www.shugiintv.go.jp/jp/video_lib3.cfm?deli_id=26655&media_type=rbを聞くのもいいと思います。金田先生が全体を振り返り、私がマニアックな将来想定をしているという役割分担です・・・。

さて、それでは参考文献・論文を紹介します

〔リーディング・マテリアル〕
[1] Josiane Gabel, “The Role of US Nuclear Weapons after September 11” The Washington Quarterly (Winter 2004-2005)
[2] 神保謙「ミサイル防衛と東アジア:米中戦略関係の展望」『アメリカと東アジア』久保文明・赤木莞爾編(慶應義塾大学出版会、2004年)

*[1]は冷戦後から9.11後の新課題を振り返るのにもっともハンディなテキスト。[2]はレベル2の脅威にミサイル防衛がどう関わっていくかを論じたもの。

〔さらなる学習のために(和文)〕
*冷戦期の核戦略に関して
[1] 梅本哲也『核兵器と国際政治1945-1995』(日本国際問題研究所、1996年)第1章~第4章
[2] 山田浩『核抑止戦略の歴史と理論』(法律文化者、1979年)
[3] ジョセフ・ナイ『核戦略と倫理』(土山實男訳、1988年)
[4] 土山實男『安全保障の国際政治学』(有斐閣、2004年)第7章「核戦略と現代の苦悩」
[5] 防衛大学校安全保障学研究会編『安全保障学入門:最新版』(亜紀書房、2005年)第5章「核兵器と安全保障」

*ただし、冷戦期の核戦略も冷戦史の広いコンテクストから理解されなければならない。そうした観点からの良いテキストは・・・
[1] ジョセフ・ナイ『国際紛争:理論と歴史』(第5版、有斐閣、2005年)
[2] ジョン・L・ギャディス『ロング・ピース:冷戦史の証言「核・緊張・平和」』(芦書房、2003年)
[3] ジョン・L・ギャディス『歴史としての冷戦』(慶應義塾大学出版会、2004年)
[4] ルイス・ハレー『歴史としての冷戦』(サイマル出版会、1978年)

*冷戦後の核戦略
和文献・論文に該当なし(残念なことですね・・・)

*ミサイル防衛
[1] 森本敏編『ミサイル防衛:新しい国際安全保障の構図』(日本国際問題研究所、2002年)
[2] 金田秀昭『ミサイル防衛入門:新たな核抑止戦略とわが国のBMD』(かや書房、2003年)

〔さらなる学習のために(英文)〕
*後ほど掲載します。あまりに多すぎ。

投稿者 jimbo : 23:36

第4回授業レビュー(その1)

核戦略(Nuclear Strategy)とミサイル防衛(Missile Defense) 
―その1―

核戦略と聞くと、なんだかおどろおどろしくて、敬遠したくなる人もいるかもしれません。ましてや、日本は唯一の被爆国であり、日本の戦後の歴史も核に対する強い拒否感と嫌悪感とともに歩んできたといえます。こうした環境のもとで、日本国内ではややもすれば核戦略を学ぶよりも、核軍縮や非核運動に目が向けられがちでした。

第二次大戦後の安全保障論を俯瞰すれば、核戦略は「生存か破滅か」というぎりぎりの緊張感の下で形成され、前回学んだ「抑止論」をその屋台骨として発展してきました。実は、冷戦期はそれまでの国際関係史と比較しても、稀に見る『長い平和』(J・ギャディス)であったという見方があります。たしかに、「大国間の戦争が起こらなかった」という意味では、冷戦期は過去の歴史と比較しても特別な時代でした。ただしその「長い平和」は、共に相手を破壊しつくせる能力を誇示することによって、究極的な相互抑止を担保した「恐怖の均衡」(Balance of Terror)によって成り立っていました。そのために、冷戦期の多くの政策決定者や専門家が、「核戦略との対話」に命がけの半生を費やしたのですね。

なぜ第4回で核戦略を取り上げるのか。それは、過去数十年の安全保障論を支配してきた核戦略を冷戦期の安全保障の思考枠組みを理解し、それが冷戦後・9.11後の戦略環境の中でどのように変化したのかを明らかにするためです。「新しい戦略環境」を知るには、「古い戦略環境」をよく理解する必要があります。まずは、それらを振り返ってみましょう。

【核兵器とは何か?】

「核兵器」とは何か?という問題に立ち返ってみましょう。戦争史の中で、「火力の発達」は戦争の姿をがらりと変えてきました。14世紀ごろ戦争において火薬の発明が火砲及び爆薬と結びつき、戦闘における攻撃能力を著しく高めたように、エネルギー源としての火力の利用およびその確保は、戦争におけるきわめて重要な要素となりました。もちろん、古来より戦争における火の利用は、相手の陣地、土地、資源等に被害を与える重要な手段だったのですが、戦争において火を効果的に管理するには火薬の登場が決定的でした。火薬を利用した大砲が移動式になり、機動力を備えた結果、戦争における「火力による圧倒」こそが歩兵兵力とともに戦闘における決定的要因となったわけですね(*)。そして第一次・第二次世界大戦を通して、戦車などの重火器とともに、爆撃機の開発等により、戦争の激化が進んだわけです。

(*)その例を象徴的に示したのが、ナポレオン戦争における大砲の大量配備と、アメリカ南北戦争における機関銃の使用が、戦闘における勝敗を決定的に決めたことでしょう。日本でも、長篠の戦いで織田信長が三段横列の射撃戦術で、武田勝頼の騎馬軍団を破ったことは、火力革命をみるうえで重要です。こうした大砲・機関銃を自国の軍隊に組込むためには、火力エネルギーを中心した技術革新と、原材料を計画的に大量調達し、仕様と規格を標準化して量産体制を整備する国家体制の確立に取り組む必要があったわけです。

ところが、第二次大戦後期にマンハッタン計画によって生み出された原子爆弾は、過去の歴史で発展してきた「火力の概念」を革命的に変えるものでした。広島型の原爆は、TNT火薬の1万5000倍以上、さらに現代の通常の核兵器は広島型の100倍以上、60年代にソ連が開発した水素爆弾(最大60メガトン)1発は、第2次大戦で使用された全火薬量の20倍に相当する規模に達しました。まさに恐怖の兵器です。核兵器の登場と水爆の発展は、事実上戦争が勃発した後に、国家と人間を完全に消滅させることができるという最終兵器(「風の谷のナウシカ」における巨神兵のようなもの)を手にしたわけです。この巨神兵との共存こそが、冷戦の歴史だったわけです。

【冷戦期の米核戦略の変遷】

さて、米国がどのように核戦略を形成してきたのかを振り返ってみましょう。ここからは、基礎知識として「大量報復戦略」(1954年)→「柔軟反応戦略」(1961年)→「相互確証破壊戦略」(1965年)の系譜を覚えてください。

「大量報復戦略」(Massive Retaliation)は、ソ連大都市に対する即時かつ大量報復能力を持つことによって、あらゆる規模の侵略を抑止しようとする戦略です。50年代は米国の核戦力はソ連のそれを大きく上回っていました。このような核兵器の優越性を背景に、ソ連からのあらゆるレベルの威嚇に「大量・即時に核報復」をすることによって、ソ連の行動を抑止しようとしたわけです。

ところが、その間にソ連は戦略爆撃機を整備し、大陸間弾道ミサイルの配備に成功するなど、核戦略の体系を整えてきます。そのなかで、小規模な武力衝突・局地紛争などを、どのように管理するのかという問題が浮上したわけです。「大量報復戦略」は、あらゆるレベルの紛争に大量の核報復をするわけですから、とても柔軟性に欠けていたわけですね。したがって、本来であれば「局地的に限定」されうる紛争が、大戦争に自動的に発展してしまうドクトリンとなってしまったわけです。ソ連や東側陣営が欧州戦域において通常戦力を強化し、「局地紛争」への自信を強めたことも、「大量報復戦略」の「荒っぽさ」を目立たせることになりました。1から10までの紛争レベルがあるとすれば、すべてを10にエスカレートさせることによって、紛争を抑止することは非現実的というわけですね。もっと、1対1・5対5・7対7の対応をしなければ、抑止の安定性は保てないという論理に発展したのです。これを「エスカレーション・コントロール」(Escalation Control)と呼びます。

ここで登場したのがケネディ政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラでした。マクナマラは1961年に「柔軟反応戦略」(Flexible Response)を体系化し、小規模な武力衝突・局地戦争から全面核戦争に至るすべての段階に対応できる能力を整備することを提言しました。「柔軟反応戦略」で重要なのは、エスカレーション・コントロールが可能なように、小規模・中規模・大規模な報復体制を整え、戦域の規模に応じて柔軟に対応させようとしたことです。これによって、①1対1・3対3・・・の規模の戦域に対応した相互抑止関係を構築すること、②仮に3対3での戦争が生じた場合、これを全面戦争(例えば10対10の規模)に拡大させないよう管理すること、が可能になると考えられたのです。

軍事目標(核ミサイルサイロ、指揮・管制系統、爆撃機基地、潜水艦基地など)を正確に攻撃する能力が、「柔軟反応戦略」を成立させる重要な要素となりました。これを「対兵器」(Counter-Force)戦略といいます。そのためには、大陸間弾道ミサイル(ICBM)にもきわめて高い命中精度が必要とされるわけです。このころから、米ソ両国は命中精度を上げるための技術競争に邁進します。このときに使われる指標を「半数必中界(CEP)」(弾頭の半数が着弾する半径距離)と呼びますが、1万2000㌔離れた場所にCEP・200㍍という高精度まで発展したわけです。「対兵器」戦略は、このように精緻なターゲッティングの下で、レベル別の攻撃が行えるように整備されていったわけです。

こうした米ソの相互抑止の体系を究極的な形で確立したのが「相互確証破壊」(Mutual Assured Destruction: MAD)戦略です。この戦略は、仮に相手から第1撃を受けても、残存した核兵器による第2撃によって相手に耐え難い損害を与える能力を互いが確実に保持することを企図しました。この戦略は、米ソ両国が第2撃能力(Second Strike Capability)の残存性(Survivability)を確実に担保することによって成立します。「どんなに攻撃しても、相手は報復のための核戦力を温存できる」体制を作ることが大事だったんです。

MAD戦略を決定的に定式化させたのは、1972年の「ABM制限条約」でした。そもそもの発端は、1960年代に、米ソ両国がミサイル防衛システム(Anti Ballistic Missile:ABM)の開発を進め、核ミサイルを迎撃する能力の競争に突入したことでした。これまで「相互抑止」は、相手に報復する①能力、②意図を保持し、それを③相互理解することによって成り立つと学んできました。ところが、米ソ両国がABMを配備してしまうと、「核ミサイルが飛んできても相当数は迎撃できる」ことになり、②相手への報復能力が削がれてしまうことになります。そのため、より高度なABMを配備した国は、「相手を攻撃できる・・・」という先制攻撃の誘因が働く(少なくとも可能性として)ことになります。これが、「相互抑止を著しく不安定化させる」と考えられたわけです。

そこで米ソ両国は互いにABMを「首都とICBM基地の計2ヶ所(後に首都1ヶ所に限定)に、100基のみ配備できる」とした「ABM制限条約」を締結しました。そのこころは、「互いを脆弱にすることが、相互抑止の強化につながる」という共通認識をつくったことにあります。つまり、「核戦争が起これば、互いに耐え難い損害を与えられるように、互いの防御をしないことにしよう」という理屈です。そして米ソ両国民が「恐怖を共有」することによって、安定が保たれる・・・これが「恐怖の均衡」の姿です。まさに狂っている。だから皮肉を込めてMADと呼ばれたんですね。

冷戦期、私たちはこんな段階にまで「抑止論」を発展させてしまったわけです。仮に第1撃を受けたとしても「カウンター・フォース」戦略を確実に担保し、相手の国民や産業施設を徹底的に破壊する・・・そのために米ソ両国は併せて5万発にも及ぶ核弾頭を保有していたわけです。これが、わずか20年ほど前までの世界の姿だったのです。

その後、レーガン大統領はこのような「相互確証破壊戦略」を「非倫理的だ!」と憤慨し、再び米国民を守るためにミサイル防衛の開発に着手します。これがSDI構想だったわけですね。冷戦の終結のきっかけは、1980年代にソ連がSDIに対抗した宇宙開発に踏み込むことができなかった、という説をとる人もいます。このあたりは、まだまだ研究の余地のある分野です。いずれにせよ、ソ連はゴルバチョフ時代に米国に大いに歩み寄り、1989年の「マルタ合意」によって冷戦の終結が宣言され、80年代以降、核兵器の数も大幅に減っていくことになります。

ただ、現代においても米国は7000発、ソ連が8000発近い核弾頭を保有しています。また1998年にはインド・パキスタンが相次いで核実験を実施し、事実上の核保有国になりました。さらに、イラン・北朝鮮などの核開発が現代の安全保障の大きな問題となっています。冷戦の終結によって、私たちは「恐怖の均衡」からは解放された(米ソは相互に戦争をする意志がなくなった)ものの、核兵器の恐怖から解放されたわけではありません。そして、米ソの対立下での核戦略と、新しいアクターに対する核戦略も、また新たな展開を見せていくことになります。次回―その2―では、授業の後半をレビューすることにします。

投稿者 jimbo : 17:49

2005年05月17日

第4回パワーポイント

第4回パワーポイントは
こちらです。

投稿者 saeki : 11:17 | コメント (0)

2005年05月16日

5月17日オフィス・アワー休み(お知らせ)

毎週火曜日の9:00~11:00に予定しているオフィスアワーですが、
17日は都内にて自民党の外交調査会(8:00~9:30)に出席するために
お休みといたします。「安全保障論」は定刻どおり開催いたします。

ご迷惑をおかけいたしますが、ご理解をいただければ幸いです。

投稿者 jimbo : 03:26 | コメント (0)

2005年05月12日

第3回講義レビュー

【第3回講義レビュー】
抑止論(Deterrence Theory)と拡大抑止(Extended Deterrence)

【抑止論の基本的考え方】

授業の冒頭で紹介したように、抑止論の基本的な定義は「相手がこちらに害を与えるような行動にでるならば、相手に重大な打撃を与える意思と能力を持っていることを、予め相手に明示し、相手が有害な行動にでることを思いとどまらせること」にあります。これを「第1の定義」として考えてみます。これは、難しいことではありませんね。互いの力(offensive power)が拮抗しているなかで、「自分が手を出せばやられてしまう」という関係をつくることが抑止の基本構造です(人間関係における対立・競争にもよく見られる論理です)。

ところが、抑止関係を成立させるためには、以下の3つの条件が必要だと言われています
 ① 十分な報復力     (能力)
 ② 報復する意思の明示 (意思)
 ③ 相手側の理性     (相互理解)

①の報復する能力を持たなければ相手にやられてしまうし、②で報復する意思が無ければ①があってもやっぱり相手にやられてしまいます。①をもち②を示し、それを③相手にしっかりと理解させる・・・これが成り立つと「相手が有害な行動にでることを思いとどまらせる」ことができると考えられています。(もっとも、歴代の冷戦期の国際政治学者はおびただしい数の「抑止」に関する定義をしていますが、この授業ではそこまで入り込みません。関心のある人は、参考文献を読み進めてください)

【基本抑止・相互抑止・拡大抑止】

この「抑止論」を主体同士の関係で捉えた場合、「基本抑止」「相互抑止」「拡大抑止」という考え方に分類できます(それぞれの概念の下には、さらに細かい分類があるのですが、また省略です)。

「基本抑止」が上記①~③を一方的に満たすことによって成立する(A→Bへの抑止)のに対し、「相互抑止」はこれが相互に成立する(A⇔B)関係を示します。たとえば、米国とソ連が冷戦期に核兵器によって対峙し、互いに手詰まりとなった状況を指すわけですね。これに対して、「拡大抑止」はAと密接な関係にあるCが、Aに代わりBとの抑止関係を成り立たせることを意味します((A+)C→B)。たとえば、冷戦期の「日本に対する攻撃は米国に対する攻撃と同等とみなす」「西ドイツに対する攻撃を、他のNATO諸国に対する攻撃と同等とみなす」ことのよって、ソ連の侵略を抑止した構造を「拡大抑止」と呼ぶわけです。つまり、上記の例では日本や西ドイツを守るために①~③の構造を第3者である米国が支えることにより、安全保障の傘を提供することを意味するわけです。よく「核の傘」といわれますが、これは「核拡大抑止」と同じ意味で使われます。

【抑止に係る安定性と抑止論のジレンマ】

「抑止論」で重要なのは、「どこまで抑止が安定的に保たれているか」という議論です。これを「抑止に係る安定性」(さらには「戦略的安定性」)と呼びます。第15図で示したのは、AとBの「均衡」がどのような抑止のレベルによって成り立つのかという議論です。そのもっとも究極的な均衡に「相互確証破壊」(Mutual Assured Destruction: MAD)があります。これは、1970年代に「米ソが互いを完全に破壊できる能力を保持し、それを互いに認め合う」ことにより生じた究極の抑止構造です。これは次回の授業でゆっくり説明しましょう。こうした高い次元での抑止構造(核兵器による対峙)と、もっと低い次元での抑止構造(通常戦力による対峙)と、抑止といってもその形態はさまざまです。「抑止失敗のコスト」を考えれば、「高い次元の抑止」のほうが安定的といえるかもしれませんし、いやいや「抑止は失敗しやすい」という論者からは、「高い次元の抑止」ほど世界を危険に貶めるものはない、ということになります。

安全保障は、このようにとても根本的な矛盾をはらむものなんです。安定的に相手を抑止しようと思えば、自国の軍備を整備しなければならない。だけど、互いが安定的に抑止関係を維持しようとすれば、「抑止失敗のコスト」を大きくしようとする誘引がはたらき、「高い次元の抑止」に向かう。さらには、情報が不完全な中では、安全保障の政策担当者は最悪のケースを考えて、相手の能力を高く見積もりがちです。こうした認識の下では、相手より大きな能力を保持する誘引が働きやすい・・・すると相手もこれに対抗して軍備を強化する・・・というスパイラルの構造によって、互いの軍拡がはじまるわけです。これを「安全保障のジレンマ」と呼ぶわけです。

ここに「抑止論」を安全保障政策の基礎におくことの正当性と危険性の双方を捕らえることができます。「抑止論」は顕在的・潜在的に敵対する相手を「思いとどまらせる」もっとも信頼性の高い理論と考えることもできますが、他方で「抑止論」を「安定させることの難しい危険な概念」ととらえることも可能です。とくに①安全保障のジレンマを生む危険性、②相手の合理性を過信することの危険性、③「抑止への不安」から先制攻撃を生み出す危険性・・・という「抑止の安定」を脅かす危険性は、それぞれ歴代の学者たちを悩ませてきました。この授業では「抑止論」を安全保障論の基礎として位置づけていますが、「抑止論」を基礎におくことの難しさも同時に学ぶ必要があるわけですね。

【抑止論の派生系】

さて、これまでは「抑止論」の基礎として、冒頭に紹介した「第1の定義」を中心に述べてきました。「意思と能力をもち相互理解する」というのは、互いの牽制に基づく「懲罰的抑止」と呼ばれます。抑止論の大部分はこの「懲罰的抑止」(deterrence by punishment)とその派生系としてとらえることができます。ところが、「相手が有害な行動をとることを思いとどまらせる」手段は、何も「懲罰的抑止」ばかりではないわけですね。以下では、そうした抑止論のサブ類型について紹介していきます。

第一のサブ類型は「拒否的抑止」(deterrence by denial)です。「拒否的抑止」は、「もし~しても、(自らの損害限定能力により)相手が有害な行動をとっても効果がない」という状態を示します。たとえば、攻撃を受けたときの防御体制を堅固にする(ミサイル防衛、都市防護、民間防衛)ことにより、相手が攻撃をしてもあまり効果ないな・・・と思わせ「だったら、やめよう」と思いとどまる状況に至らせることを指すわけです。第二のサブ類型は「報償的抑止」(deterrence by compensation)と呼ばれるものです。これは「もし~しなかったら、~をあげよう」と相手の自制に対価を与えることにより、相手の行動を思いとどまらせることにあります。もし相手が核武装をしなければ、経済支援を与えようなどという発想がこれにあたるわけです。双方のサブ類型には、長所と短所が偏在します。長所としては、双方共に「安全保障のジレンマ」は起こりにくい構造にあるわけですが、他方で「抑止の安定性」に欠け、後者に関しては敵に報償を与える融和外交となりかねません。こうした「抑止」の類型、その長短所についてもよく把握する必要があるでしょう。

もうひとつのサブ類型は中小国によくみられる抑止論です。中小国が自らより強い国を抑止する場合には、どうすればよいでしょうか。まともに自分の能力を示したところで、大国に比べればその軍事力はたかがしれています。情報公開をすれば、自らの弱さの証明になってしまう。「第1の定義」による相互抑止なんて望むべくもないわけです。そんなとき「相手に複雑な計算を強いることによって、相手に有害な行動を思いとどまらせる」という「第2の定義」が生まれるわけです。「複雑な計算を強いる」とは、「相手のことがよくわからない」という状態を指します。したがって、ここでは「情報を秘匿する」あるいは「情報を撹乱させる」ことが、実際は抑止力を向上させることに結びつくわけです。ベトナムがベトナム戦争をどのように戦ったのか、それが米国の中小国に対する介入の論理をどう変えたか、に多くのヒントが隠されていると思います。

【「新しい脅威」と抑止論:非対称脅威に抑止論は適用できるか?】

さて、これまで抑止論の基礎とその類型について学んできました。これまでの話は、第1回の講義で話した「第1象限」にみられる国際関係の下での抑止論の話でした。それでは「新しい安全保障の領域」として浮上した第2象限・第3象限における抑止論は、どのような展開をみせるのか、というのが現代における「抑止論」の大問題なわけですね。果たして、北朝鮮・リビアのような米国が「ならず者国家」と呼ぶ国々は、どのように抑止可能なのでしょうか。また、さらに9.11事件後に浮上したテロリストのような新しい非対称アクターは果たして抑止可能なのでしょうか?

抑止論の「第1の定義」は、①~③を成り立たせるための「相互理解」、すなわち相手の「合理性」に信頼を置いた理論です。でも、もし相手に「合理性」を期待できなかったらどうなるか?という新しい課題に直面しているわけです。たとえば、多くのテロリストは明確な領土・組織を持たず、匿名性が高いという特性を持ちます。その場合、仮にテロリストの首謀者(たとえばアル・カイーダの首領とされるオサマ・ビン・ラディン)を殺害または拘束すれば、テロ活動を収束できるかは疑わしいわけです。また、9.11事件でビルに突入したテロリストなどのように自爆テロを手段として用いる殉教的な相手はいわば「守るものを持たない」わけです。「思いとどまる」論理が、「自分がやられてしまう」恐怖感だとすれば、そのような恐怖の全く無い相手に抑止は通用しないのではないか?というのは、至極もっともな問いかけです。

こうした問いかけに対して、授業では米国の『国家安全保障戦略』(2002年9月)を引きながら、米国が対テロ戦略において抑止論の限界性を見定め、「先制行動論」を含むドクトリンを打ち出したことを紹介しました。ここで米国が協調しているのは、「テロリストと共存する意思はない」という強い決意です。「抑止論」が「合理的な相手と共存」を前提とする概念ならば、ブッシュドクトリンは「相手との共存を拒否」する意味において、大きな戦略転換がはかられたことを示すものといえるかもしれません。

もっとも、テロリストなどの非対称的アクターに対し抑止論が全く効かないというのは、間違っていると私は考えています。全く効かないのであれば、相手の能力を先制行動によって殲滅させればよい、との発想に結びつきやすいからです。これは、実際は政策の幅を狭め、テロリストの非対称手段を増幅させる意味さえ持つ可能性があります。

こうしたときに大事なのは、「別の抑止が効くか」という発想ですね。つまり「拒否的抑止力」を強化することによって、「テロ攻撃があまり意味をもたない」ような、国内・国際的な防護体制を整えていくことが、きわめて重要なわけです。こうした「拒否的抑止」を重視することにより、テロリストに攻撃する隙間を与えないことが、抑止論の新しい地平線であると私は考えております。

こんな問題提起が第3回の概要です。すこし集中して考えないと、やや難しい内容だと思います。しかし、今後の「安全保障論」の授業の基盤となる論理ですので、よく復習をしてほしいと思っています(^-^;)。さて、今回の参考文献をお知らせします。

【第3回講義に関する参考文献・論文について】

〔リーディング・マテリアル〕
中西輝政「拡大抑止:歴史的変遷とその本質」佐藤誠三郎編『東西関係の戦略論的分析』(日本国際問題研究所、1992年)

〔さらなる学習のために〕(和文)
[1] 土山實男『安全保障の国際政治学』(有斐閣、2004年)第6章「抑止のディレンマと抑止失敗」
[2] 小川伸一「『核の傘』の理論的検討」『国際政治』(第90号、1989年3月)
[3] 高坂正堯・桃井眞編『多極化時代の戦略』上巻 (日本国際問題研究所、1973年)

*[1] は同盟理論を専門とする学者による「抑止のディレンマ」に関する論考。[2]は「核の傘」を「拡大抑止」の理論に基づき説明している。[3]は米国における抑止理論を紹介した名著。

〔さらなる学習のために〕(英文)
[1] Lawrence Freedman, Deterrence: Themes for 21st Century (Polity Press: London, 2004)
[2] Patric Morgan, Deterrence Now (Cambridge Uniersity Press:London, 2003)
[3] Paul K. Davis and Brian Michael Jenkins, Deterrence and Influence in Counter Terrorism: A Component in the War on Al Qaeda (Rand Corporation: Washington DC, 2002)

*さすが米国学界・・・理論的な検討が素早く、また奥深い。[1] は抑止理論を概観した上で、21世紀の課題を探る入門編として最適。さらに細かい検討は[2]にて学ぶことができる。[3]はテロリズムに対する抑止がいかに適用できるかを検討した意欲作。知的興奮に誘われる。

投稿者 jimbo : 18:04

2005年05月10日

第3回パワーポイント

第3回パワーポイントはこちらです。

投稿者 saeki : 11:29 | コメント (0)

2005年05月07日

韓国における新世代の台頭と「ニュー・ライト」(補論)

前回の韓国政治に関する投稿記事を少しフォローアップします。今月号の『中央公論』所収の小針進「ポスト『386世代』の意外な保守回帰現象」が大変面白かったので、このブログでも紹介したいと思います。(cf. 小針進「ポスト『386世代』の意外な保守回帰現象」『中央公論』(2005年5月号))

小針さんは、昨年9月に同僚らと18歳~60歳のソウル市民を対象とした質問票調査に基づき、韓国人の年齢別の政治態度を分析しています。ここでは従来よく見えてこなかった、「386世代以降」の20代が実は意外な「保守回帰」を起こしていることを指摘しています。

例えば「次の国に対して好感が持てますか?」と言う質問に、18~29歳までの日本に対する好感度はきわめて高い(20~29歳代は63%、18~19歳に関しては他国を抑えてトップの71.2%)んです。韓国の若年層は親日的であるという姿が浮かび上がってきます。ところが、30~39歳になるとこの数字が激減し日本への好感度は44.4%、米国には40%という数字に落ち込みます。これが40~49歳台になると回復(日:51.4%、米:64.2%)、50~60歳代では米国の数字が急増する(日:50.3%、米:84.4%)という興味深い数字が示されています。(⇒標本の有効性について問う必要はあると思いますが)

ここから浮かび上がるのは、30~39歳代の386世代の「特異性」です。

対日好感度は、30代を中心に見事な「逆ベルカーブ」を描き、対北朝鮮好感度は「ベルカーブ」となっています。つまり、「386世代」というのは、韓国の世代全体のなかからみても特殊な世代だということが伺えます。そして、20代と10代後半の意識が、いわば40代以降のサンプルと似た「保守回帰」現象を起こしていることも指摘できます。つまり、「韓国の若年層が反日的」という見方は、この調査からは当てはまらないことになるわけですね。もしかすると、盧武鉉政権の「急進性」も意外に短期間で終了する一過性のものなのかもしれませんね。

ところで、「生まれ変わってもわが国で生まれたいか」「今の生活に満足しているか」という質問にたいしても、18~19歳のYESという回答率は高い数値を示しています。ここでも386世代のYESは他世代に比べて低いんですね。(ちなみに私は別のブログでJ-WAVEのオンエアにおける邦楽の占有率の増加について述べた際に、「東京回帰のナショナリズム」として、日本国内での豊かな生活にプライドを持つ層が増えたことを指摘しました) 実は韓国国内でも同様の傾向があって、経済発展と民主化を謳歌する世代が、「ソウルって楽しいしカッコいい」と感じて満足している層の増加を意味しているのだと思います。(⇒たしかに、中国の反日デモが学生中心だったのに比べ、韓国では日章旗を燃やす等の抗議行動は比較的中年層が多いですよね)

ただ、こうした「保守回帰現象」は比較的無自覚なもののように思えます。というのも小針さんも指摘するように、20代の若者は政治的無関心層が多く、投票率も低く、政治離れが進んでいるからです。そこには、20歳年上の世代への「意識的回帰」や、386世代への「意識的抵抗」があるというよりは、むしろ「豊かな生活をもたらしている相互依存関係への認識が現れている」といったほうが正確ではないか、と思います(もっとも20代の北朝鮮への好感度は高く、これを上手く説明することはできないのですが・・・)。

「386世代」への批判は、むしろ「386世代」の中からでているようです。これが、一昨日紹介した「ニュー・ライト」の台頭です。「ニュー・ライト」運動が、20代以降の新しい世代を巻き込む勢力となっていくのか、これが今後の韓国政治をみるひとつの座標軸と考えるというのは、いかがでしょうか。私はけっこう面白い視点だと思っています。

投稿者 jimbo : 02:05 | コメント (0)

2005年05月04日

中間レポート課題

【安全保障論 中間レポート課題】

以下5つの設問から、1つを任意選択し、下記の要領にしたがってレポートを作成してください。またレポートの末尾にどのような参考文献・論文・資料を使用したのかを列記してください。

【課題】

1.9.11事件は安全保障の概念にどのような変質をもたらしたのか?

2.現代の安全保障における同盟の役割をどのように評価すべきか?

3.現代の安全保障における核兵器の役割とは何か?

4.現代の安全保障における国連の役割とは何か?また安全保障理事会
の改革は、国際安全保障にどのような影響を与えるのか?

5.現代の安全保障において、地域的安全保障枠組みが果たす役割をど
のように評価すべきか?

【要領】

締め切り : 2005年6月6日(月)
言 語   : 日本語または英語
文字数  : 2000字以上無制限(日本語) 
        1000word以上無制限(英語)
使用ソフト : Microsoft Word
注意事項 : 本文冒頭に必ず選択課題、所属、氏名を明記すること
         レポートファイル名は受講者のフルネーム(例:神保謙.doc)
         としてください

【提出方法】

Word添付ファイルにてレポート・システム宛に提出してください。

【その他】

安全保障論はダイナミックな概念です。講義した内容を参照しながらも、自由な発想で議論を展開することを期待しています。尚、レポートはコメントをつけて返却します。

投稿者 jimbo : 16:53

日韓関係/韓国における「ニュー・ライト」の台頭?

5月1~3日に韓国・ソウルを訪問し、昨夜帰国しました。今回は、我がSFCと延世大学との連携プロジェクトの打ち合わせがメインの目的でしたが、この機会に多くの人たちに会うことができました。いろいろな幸運もあって、駆け足ながらハンナラ党・ウリ党議員や、研究者、ジャーナリストなどあわせて11人と懇談することができました。

【日韓関係について】

懸念されている日韓関係について、竹島(韓:独島)問題の喧騒は一段落した模様。盧武鉉大統領が「外交戦争」という刺激的な言葉を用いた3月23日の「国民への手紙」で対日強硬姿勢を示して以降、支持率を約15%も上げて「けっこう対日強硬路線は使える・・・」と思ったに違いないのですが、4月30日に実施された補欠選挙では、23選挙区で与党・ウリ党が全敗(うち国会議員5議席)という衝撃的な結果となりました。

この惨敗はウリ党と青瓦台の双方に相当の衝撃を与えているようで、盧武鉉型の急進的な改革路線(過去の清算や首都機能の移転など)には軌道修正を余儀なくされているようです。

こうなると、「選挙前には日本をたたけば票がとれる」という構図にも、「再考が必要」との認識も徐々に生まれているよう。今回の強硬な対日姿勢については、盧武鉉大統領自身(と青瓦台)主導の「政治化」(politicization)ということは異口同音に言っていました。中道派のハンナラ党の議員や学者・ジャーナリストは盧武鉉大統領の対日姿勢についてはやや呆れていた感がありましたが、彼らも「一度政治化されると、独島問題では引くことが許されない」政治環境だったと、回想していました。

あるジャーナリストは「領土問題について双方が原則的立場から対立するのは当然で、そうした状況の中で目指すべきは『解決』ではなくて『管理』であるべき」といいます。「管理」とは、問題が発生したときにいかに収束させるか、そして問題自体をどのように発生させずにおくか、そしてその構造をどのように保たせるか、ということを意味します。「解決できない以上管理を」という発想が一部のジャーナリストたちに共有されていたことは興味深いですね。

たとえば竹島問題について、「韓国側はどうしてあんなに極端な反発をするのだろう」「きっと国内向けにそうする必要があるのだろう」と日本側が見る向きに対して、「(韓国側だって政治化したくないのに)日本はなぜ問題の発生を未然に防げなかったのか(⇒島根県議会の決議を事前に止められなかったのか)」という思いも強いようです。それでも、一度政治化すればこれに対応せざるを得ず、韓国側としては盧武鉉大統領自身が旗を振って最大限利用するとともに、ヒートアップしたやり取りが国民の感情を刺激するスパイラルを誘発し、「日本側はもっと韓国人の深いトラウマを理解して欲しい」という議論が浮上するわけですね。

他方で、ある日本研究の学者は「日韓がお互いの関係ばかりを見つめず、地域問題やグローバルな問題について、互いの共通の認識を確認しあう場が足りない」と述べていました。1998年の小渕・金大中会談において、日本側が「日韓共同宣言」で「痛切な反省と心からのお詫び」を示したことに対して、韓国側は歴史問題の「脱政治化」という路線を提示しました。その後、日韓関係はハネムーン期ともいえる良好な関係でおおむね推移したわけですが、実は「日韓共同宣言」の下で進めるはずだった「日韓パートナーシップのための行動計画」ついては、その後十分に詰められていなかった。たとえば同行動計画には「国際社会の平和と安定のための協力」「地球規模問題に関する協力強化」が謳われていたわけですが、これらの項目に両国が十分に取り組んできたとはいいがたい。

つまり、日韓関係は互いの関係の良好化に満足して、「二国間関係を超えた共通の問題領域の定義」を怠ってきた。すると、二国間関係がコケると、「その他の問題領域での協調」が無いことに気づく、これではマズいということです。上記教授は、「日米関係が1996年に再定義されたように、日韓関係にも再定義が必要だった」と指摘します。もっとも、日米と日韓を同じ土俵で論じるわけには行きませんね。1998年は日韓関係の大きな再定義だったことは間違いありません。しかし、同教授のいうように「二国間を超えた共通の問題」に取り組む政治宣言をもう一度出したほうがよい、というのはもっともだと思います。日韓関係は、韓流ブームの下での文化交流に隠れて、互いの協力の脆弱性に気付けなかったのかもしれません。

【韓国における「ニュー・ライト」と「ニュー・レフト」】

ところで、韓国内ではいわゆる「ニュー・ライト論」が台頭しているようです。会食を共にした「ニュー・ライト論」の旗手S氏によれば、同論は「リベラル思考の保守」を表すようで、「思想の自由」を前面に掲げる保守思想ということになります。「ニュー・ライト」がどれだけの凝集力を持っているかはまだ未知数ですが、昨年11月に解説されたウェブサイト「シンクネット」や「リバティー・ユニオン」(響き悪ぅー)を中心に、言論活動を展開しているようです(ウェブサイトは残念ながら韓国語のみ)。

大きくまとめれば、「オールド・ライト」への対抗としての「柔軟な保守」あるいは「プラグマティックな保守」ということになるでしょうか。S氏の言葉を借りれば、反共思想ひとつをとっても「独裁・宣誓のための反共」と「自由のための反共」はことなり、「ニュー・ライト」は自由主義をベースに国家の基本的価値を守ることを主軸にするとのことでした。したがって、彼らの対日思想は愛国的でありつつも、安全保障・経済・文化・価値などを判断した現実主義を旨としているようです。もちろん彼らは、いわゆる「親日派」ではなく、保守リアリズムに基づくことに留意すべきでしょう。(ニューライトについては、こちらこちらも参照)

また、韓国の386世代については、ノ・ムヒョン大統領を誕生させた「リベラル社会運動世代」として脚光を浴びてきましたが、どうやらこうした若手リベラル層にも、新たな動向が散見されるようになってきました。いまや2000万回線とも呼ばれるインターネット王国の韓国では、世論の動向をネットが大きく左右するようになっています。たとえば、多くのテレビ局の映像配信や、新聞社の記事配信についても、ネットへの転送率は著しく高く、ホリエモンの登場を待たずして、報道・論説情報の相当部分がネットでやりとりされているといえます。

そんな中、「ネット社会に漬かる若手世代は、リベラル、反米、国家主義的、ウリ党・盧武鉉支持」という構図に、やや変化が現れてきているようです。①「オールド・レフト」(盧武鉉世代)層と386世代にも断裂が生まれ、②386世代も一枚岩ではなくなってきており、③さらに若者層の間では「ニュー・レフト」といった構図も生まれつつあるようです。うまく分類できないのですが、一方の極に専制政治と戦った「オールド・レフト」の闘士たちがいて、もう一方の極に政治的無関心層とスーパーリバタリアンがいる。この組み合わせが、かなり複雑化しているというのが、レフトの新しい動向のように感じました。

ちょっと、このあたり韓国政治・社会に疎い私としては深く切り込めないのですが、今後の韓国の政治動向やナショナリズムの動向についても、ここ2~3年の分析と異なる新しい展開が生まれてくる気配があります。これらの断裂をどう理解し、スーパーリバタリアンを超えた「秩序」が、どういった思想によって形成されてくるか、いままさに韓国は模索しているといった印象を受けました。

投稿者 jimbo : 12:02 | コメント (0)