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2005年06月30日

第11回講義レビュー(その2)

【戦後の「奇妙な」防衛論争の由来】

徹底した平和主義に基づく日本国憲法を背景に戦後を出発した日本では、しばらく「防衛政策」という概念は根付きませんでした。ようやく、日本に治安維持・防衛力保持への誘因が生まれるのは1950年の朝鮮戦争が勃発してからのことになります。その後日本は、国内治安維持を目途とした警察予備隊、そして1951年後の独立回復後には保安隊、そして1954年に自衛隊を発足させ、防衛力の基礎を建設することに着手しました。

日本の非武装化方針は、国際情勢の変化に伴い、憲法制定からわずか5年で転換することになります。本来ならば、1951年当時に憲法を改正し、保安隊→自衛隊の設置を憲法上明確に位置づければよかったと思うのですが、日本国内の平和主義の伸長、および憲法そのものが改正しにくい硬性憲法であることから、当時の政治判断として第9条を柔軟に解釈することにより、日本の防衛力整備を進めていく方針が採択されました。

ここから、日本の戦後の奇妙な防衛論議が始まることになります。そもそも、1946年当時の想定では無理があったんですね。にもかかわらず、日本の戦後政治は第9条の構文の曖昧性に付け込み、解釈によってその態様を変化させていくことになりました。Q.「憲法で戦力の保持は禁じられているのではないか」⇒A.「日本が保持しているのは戦力ではなく自衛力である」とか、Q.「国の交戦権は認められないのではないか」⇒A.「交戦と個別的自衛権の行使は別個のものである」・・・とかいった議論が延々と展開されていくのです。その議論を追ってみると、勘弁して欲しいほどの哀れさの漂う展開でした。戦後の防衛論議の具体的な内容、特にいかに日本が防衛政策を自発的に制約してきたかについては、配布資料等を確認してください。

こうしてなんとか「憲法と自衛権」「憲法と交戦権」の概念を有権解釈として整理し、「個別的自衛権の行使のための、必要最小限度の自衛力を整備できる」という体制を整えることができました。ただし、この解釈を成り立たせるためには、専ら自衛のための低姿勢の防衛体制をつくることを宣言することが求められたわけです。それが「専守防衛」「自衛権行使の3要件」「集団的自衛権の行使の否定」「非核三原則」「武器輸出三原則」などの、防衛政策の自発的制約だったわけですね。

【戦後防衛論争の「絶対性」と「相対性」】

ところが、よくよく戦後の日本国内における防衛論議を分析してみると、そこには「防衛政策の自発的制約」に関する「絶対性の概念」(脅威の態様にかかわらず変動しない固定概念)と「相対性の概念」(脅威の態様によって自らを変化させる概念)が並存してきたことを読み取ることができます。

たとえば「専守防衛」における「必要最小限度」がいかなる内容であるかについて、その解釈は「絶対性」と「相対性」の概念によって峻別されてきました。前者の解釈では「専守防衛」の地理的範囲を「専ら我が国土およびその周辺」に限定し(1972年10月衆院本会議での田中首相答弁)、また防衛力行使の条件も「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使する」(1981年3月参院予算委員会での大村防衛庁長官答弁)という形で限定されていました。また自衛隊の装備における限界についても「他国に侵略的な脅威を与えるようなもの、例えば、B-52のような長距離爆撃機、ICBM(大陸間弾道弾)等を保有することはできない」としてきたわけです。歴代の『防衛白書』も武力攻撃の損害受忍以降の防衛力行使という原則を掲げた定義を採用しています。

ところがその一方で、後者の解釈は「専守防衛」をより広義にとらえ、「自衛権発動の三条件」の下で「必要最小限の実力行使にとどまる」ならば、その地理的範囲は「必ずしも我が国の領土、領海、領空に限られない」(防衛白書)とした柔軟な概念もとなえているわけです。さらに、1969年4月8日の政府答弁書は、「海外における武力行動で、自衛権発動の三要件に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではない」と述べ、自衛権発動の条件に合致すれば、武力行動を含む海外派遣が容認されるとの立場をとっています。

このように、戦後の防衛論議は、「絶対性による限定」と「相対性による柔軟性」を並存させてきました。それは低姿勢・自己抑制型の防衛構想と、脅威に応じた自己変革をめざす構想とが、不思議な形で共存してきたんですね。なぜこのような共存が可能だったのか、その説明はさまざまです。1946年憲法をそのまま残して、しかし国際情勢はその後ダイナミックに変化していった。変わらないものと変わっていくものを共存させなければならなかった。そのために、構文のあいまい性を最大限利用して、憲法を拡大解釈していった。戦後から現在にいたる、こうした流れをどのように価値判断するか、は皆さんもよく考えてみてください。

【冷戦後の三つの空間における安全保障政策の展開】

さて、冷戦が終結すると、日本の防衛・安全保障政策が置かれた立場も劇的に変化することになりました。冷戦後の北東アジアの安全保障環境がもたらしたものは、ソ連からの脅威の後退にとどまりませんでした。そこには、湾岸戦争後の掃海艇の派遣やカンボジアPKOへの参加、朝鮮半島や台湾海峡などの日本周辺における安全保障問題などに対する防衛政策の再構築が要請されていました。

冷戦後の日本の安全保障政策には「グローバル」「地域(リージョナル)」「国家(ナショナル)」という三つの空間軸における転機があったと私は考えています(この三つはかなり粗野な分類であるし、さらにそれぞれが連動していて明確に区分できるわけでもない)。

第一の転機は、「グローバルな空間への関与」でした。1991年の湾岸戦争後のペルシャ湾への掃海艇派遣及び93年のカンボジアでの平和維持活動への参加を端緒として、日本は国際平和協力業務へ参画の道を開いた。92年6月に制定された「国際平和協力法」に基づき、日本は戦後初めての自衛隊の海外派遣に踏み切り、その後カンボジア、モザンビーク、ルワンダ、ゴラン高原、東ティモール、アフガニスタンなどにおいて、PKOへの協力、人道的な国際救援活動、国際的な選挙監視活動を三本柱として活動を展開しました。冷戦後の日本の積極的な安全保障政策は「グローバルな国際平和協力」からスタートしたんですね。

第二の転機は、「リージョナルな安全保障問題への対処」でした。1996年4月の「日米安保共同宣言」、97年11月の「日米防衛協力ガイドラインの見直し」、そして99年5月の「周辺事態法」の制定に伴う日米同盟の再構築のプロセスは、朝鮮半島問題をはじめとする周辺事態に際し、日米同盟の機能と任務及び日本の役割を規定するものでした。新ガイドラインが、平時―有事―周辺事態という三つの概念で同盟の役割を規定し、とりわけ周辺事態に力点が置かれたのも、リージョナルな広がりを持つ同盟の意義を示しています。その意味で日米安保共同宣言が「アジア太平洋地域においてより安定した安全保障環境の構築のための協力していく」と謳ったのは、同盟が冷戦型の脅威対抗型から、地域の安定化を目指す枠組みとして転換したことを意味していました。またASEAN地域フォーラム(ARF)をはじめとする協調的安全保障のプロセスにも積極的に参画したことにより、日本は「リージョナルな空間」との関わりを、日米同盟の再構築と多国間安全保障による補完という「二軌道の構造」として確立することを目指したんです(第8回講義参照)。

第三の転機は、「ナショナルな安全保障政策の整備」です。有事法制の研究は1977年以来、有事の際の関係法令との調整や不備について包括的な検討が行われましたが、その後ややもすれば、「研究をすること自体が戦争を招く」という批判もある中で、四半世紀の間立法化に至りませんでした。しかし、2003年6月に武力攻撃事態対処関連三法が成立し、日本にとり緊急事態への対処に関する国内的制度の骨格が確立しました。有事法制の制定は、重要緊急事態における国の責務、地方公共団体の責務、国民の協力について国全体で問題意識を共有する契機となりました。現在の国民保護法制をはじめとする個別法制の整備についても、日本における緊急事態と基本的人権との緊張関係を再定義する意味で、きわめて重要な意味を持っています。こうした「ナショナル」な空間における思考様式の変化が、第三の転機を象徴するものでした。

こうした三つの転機を経て、日本の安全保障政策が第四の転機「空間横断の安全保障」という段階に突入していく、というのが私の分析です。これについては、最終授業で改めて詳しく扱うことにしましょう。

〔リーディング・マテリアル〕
中西寛「日本の安全保障経験」『国際政治』(第117号、1998年)

〔さらなる学習のために(日本語)〕
[1] 神保謙「新しい日本の安全保障:『専守防衛』・『基盤的防衛力』の転換の必要性」神保謙ほか『新しい日本の安全保障を考える』(自由国民社、2004年)
[2] 田村重信・杉之宣生『教科書日本の安全保障』(芙蓉書房出版、2004年)

〔さらなる学習のために(英語)〕
[1] Michael J. Green, Japan's Reluctant Realism: Foreign Policy Challenges in an Era of Uncertain Power (Palgrave, 2002).

投稿者 jimbo : 02:27

第11回講義レビュー(その1)

【日本の地政学(Geo-Politics)】

安全保障論において地政学(Geo-Politics)を学ぶことはとても重要です。地政学は「政治の地理学」ともいわれますが、国際関係をみるうえで国土(領土・領空・了解)とその影響圏を中心とする「空間」を重視する考え方といっていいでしょう。モノ・カネは移動しますが、国土は(人間の有史の時間軸では)移動することがありません。日本にとって朝鮮半島と中国は動かしたくても動かせない永遠の隣人なのですね。こうしたことを「地政学上の与件」といって、全ての国家はこの与件から自由ではありません。

日本を地政学の観点から眺めた場合、①日本が大陸と日本海・太平洋を隔てた島国であること、②モンスーン気候で稲作に適した国土であること、③南北の細長い大地で70%が山地で占められ、限られた平地に人口が密集していること、④欧州・米国よりも、極東ロシア・中国に近接していること・・・等の条件が浮かび上がります。

これらの条件は、日本が歴史的に独立を保つ上で稀に見る好条件を提供してきました。13世紀の鎌倉時代に、二度にわたり元(モンゴル)が襲来し(元寇)、日本への上陸作戦を試みましたが、日本海の荒波や暴風に祟られ、日本の征服に失敗しました。1904年の日露戦争に際しても、ソ連のバルチック艦隊は大西洋から喜望峰を超え、インド洋を経由して日本海に至る間に疲弊し、結果的に日本海軍が勝利を収める結果となりました。こうした事例は、いかに日本が国土の安全を守る上で、歴史的に以下に恵まれた地政学の下にあったかを示しています。

もちろん兵器の近代化が進み、輸送能力の向上した20世紀以降の戦略概念の下で、「地政学」における「空間」は大きく変化しました。兵力の遠方投入能力(パワープロジェクション能力)が増大し、またミサイル技術も発達しました。とはいっても、仮に日本を侵略し、占領しようとすれば、それは陸続きの欧州とは異なり、兵力移動に大規模な艦隊を組織し、揚陸させ、戦闘を行う「着上陸侵攻」を行わねばなりません。一般的に、着上陸侵攻を成功させるには、相手の6倍もの兵力が必要といわれています。第二次大戦中にナチスドイツがイギリスに侵攻することも、建国後の中国が台湾に侵攻することも、いかに困難であるかを物語っています。その意味で、日本は四面を海に囲まれていることによって、周辺国からの天然の要塞を築いているともいえるのですね。

【戦後の出発点としての日本国憲法】

さて、日本は日清・日露戦争に勝利したのち、大陸政策を積極化して次第に中国大陸へと進出し、日本の「生命線」として満州を制圧し、「帝国主義の後発国」としてその権益を拡大させていきました。国際的には孤立し、国内的には翼賛体制が成立していく過程で、太平洋戦争に突入し、結果として日本は歴史的な敗戦を帰し、無条件降伏を受け入れ第二次大戦の幕を閉じました。この20世紀前半の歴史が、戦後の日本の防衛政策を決定的に規定することになりました。

日本はポツダム宣言に沿って武装解除、非軍国主義化を実施し、1946年に交付された日本国憲法によって徹底した平和主義が志向されました。その日本の平和主義を今日まで象徴してきたのが、下記の第9条による規定です。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2)前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

皆さんが何度も目にしたであろうこの条文は、立法当初のGHQ起案者の意図としては、徹底した非武装政策を志向したものでした。敗戦国としての日本の再建を武装解除によってすすめ、仮に国家安全保障上の危機が生じた場合、国際連合の集団安全保障機能によってそれを担保するという構想がその背景にあったといわれています。1946年当時のヤルタ体制の下での大国間の協調、そして国連の安全保障機能に対する期待が、日本国憲法の理想主義を支えていたわけです。

第二次大戦の同じ敗戦国であるドイツにはどのような規定があるのでしょうか。戦後分断された西ドイツの「ドイツ基本法」第26条には下記のような規定がありました。

第26条 (1) 諸国民の平和的共存を阻害するおそれがあり、かつこのような意図でなされた行為、とくに侵略戦争の遂行を準備する行為は、違憲である。これらの行為は処罰される。
(2) 戦争遂行のための武器は、連邦政府の許可があるときにのみ、製造し、運搬し、および取引することができる。詳細は、連邦法で定める。

ずいぶん日本国憲法第9条とはトーンが違いますね。日本と西ドイツは共に侵略戦争を憲法で禁止していますが、日本が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない」と言っているのに比べ、西ドイツは武器の製造・運搬・取引を認める規定となっています。

こうした差がどうして生じたのでしょうか。先述のとおり、日本ではGHQによる占領行政の下で、大国間協調を前提とした強い理想主義に基づく憲法が草案されました。ところが、戦後ドイツは四カ国分割統治によって東西に分断され、基本法の策定が日本よりも大幅に遅れました。その間に、チャーチルの「鉄のカーテン演説」、米国の「トルーマン・ドクトリン」など冷戦構造が明確化し、西ドイツは欧州における東西分断のフロントラインに立たされることになりました。そして、東ドイツ・ポーランドを通じてソ連と陸続きであることは、西ドイツが欧州防衛の最重要拠点になることを意味しました。この状況では、日本流の平和憲法を策定する状況にはなかったのです。つまり、ここでは①憲法が制定された時期の国際関係、そして②日本と西ドイツの地政学の差異が、両国の憲法・基本法のあり方に大きな変化をもたらしたといえるでしょう。

*日本の地政学的状況が、戦後政治に与えた影響を考える際に、イタリアの例が参考になることを授業で紹介しました。イタリアもまた、中欧諸国を緩衝地帯(バッファー・ゾーン)とする国家で、冷戦の最前線には位置していませんでした。これが、イタリア国内の政党構造を、日本の55年体制に近似した体制にしたと分析することができると考えられます。

【つづく】

投稿者 jimbo : 02:24

2005年06月28日

第11回パワーポイント

第11回パワーポイントはこちらです

投稿者 saeki : 09:54 | コメント (0)

2005年06月24日

第10回講義レビュー(その2)

【テロリズムは抑止可能なのか?】

「テロリズムは果たして抑止可能なのか?」―この問いは9.11事件以降、世界中の政策決定者を悩ませてきた課題でした。「抑止」(deterrence)というのは「思いとどまらせる」概念です。第二次大戦後の安全保障論の中核的な概念はこの「抑止論」との対話であったといっても過言ではないと思います。しかし、この論理がテロリズムの台頭によって、根本から崩されているのではないか、というのが過去4年あまりの学者たちの問題提起でした。

米ブッシュ政権から提示されたひとつの答えは、「テロリズムを抑止することには限界があり、彼らに第一撃を打たせてはならない・・・。必要に応じて我々は先制行動(Preemption)を発動する必要がある」という「先制行動論」(いわゆるブッシュ・ドクトリン)の提示でした

It has taken almost a decade for us to comprehend the true nature of this new threat. Given the goals of rogue states and terrorists, the United States can no longer solely rely on a reactive posture as we have in the past. The inability to deter a potential attacker, the immediacy of today’s threats, and the magnitude of potential harm that could be caused by our adversaries’ choice of weapons, do not permit that option. We cannot let our enemies strike first. (米ホワイトハウス『国家安全保障戦略』<2002年9月>より)

私はこの文書が提出された当時、この『国家安全保障戦略』報告に対する、あまりに多くの批判が世界(と日本)で沸きあがったことを嫌気して、「米国の先制行動論の採択は当然」という主旨の論文を『中央公論』(2003年4月号)に掲載しました。ただし「先制行動論」は「国際的な判断基準の不断の策定を必要とする」という条件つきの議論でした。論文を書いた当時も今も、テロリズムのような非対称(アクターとしての性格が異なる)の脅威に対しては、従来の抑止理論は成立せず、広義の「先制行動」の採択は、安全保障政策の立案として当然であると考えています。

ただし「先制行動」には、①従来の「自衛権」の根拠を適用できるか(放っておくと1年後にはWMDの脅威に自国がさらされるといって、原子力発電所を爆撃することは自衛権だろうか<自衛権の範囲>? またその脅威の性質は実証できるものなのか<インテリジェンスの検証>?eg.1982年のイスラエルの「オシラク爆撃」)、②多くの国がテロリズムを理由に「先制行動」論を適用すれば、戦争の敷居が低くなるのではないか?(ロシア・インドの安全保障政策における先制行動論の援用)、③実際は抑止可能性があったにも関わらず、「先制行動論」を論拠とした、攻撃がまかり通るようになりはしないか?(イラク攻撃?)・・・という多くの問題が残されたままになってしまいました。

そして米国はイラク戦争に勝利したものの、その介入の論拠とされたフセイン政権の①大量破壊兵器の保有、②テロリストとの結びつき、がそれぞれ現在に至っても立証できないという破綻(!)をきたし、そして戦後復興の混乱が「果たしてイラク戦争、さらにはそれを誘因した『先制行動』は正しかったのか?」という議論が浮上したのは無理ないことです。このような倫理の「引け目」もあり、「先制行動論」は現在浮遊した状態にあるのかもしれません。しかし、私は今でも「先制行動」はポスト9.11のとても重要な安全保障政策だと考えています。ただ、上記段落の①から③までの「先制行動」に潜む危険性を、わずかドクトリンの提示から1年余りで示してしまった。国際政治学を学ぶ私たちは、この事態に対して真摯な解釈を加えなければならないと思います。

そこで、「であるならば・・・」と考えた私は、友人らと共に「テロリズムがどこまで抑止可能なのか、ギリギリ詰めようじゃないか」という研究プロジェクトを昨年発足させました。「テロリズムは抑止できない」→「だから先制行動だ」という短絡的な論理で納得するのではなく、「テロリズムがどこまで抑止できるのか」を最後まで詰めた上で「先制行動」の採択に至らなければならない、というのが私に浮上した強い思いでした。そのレポートは、本年3月に発表され、東京財団のHPで閲覧することが可能です(http://www.tkfd.or.jp/publication/reserch/2005-2.pdf)。

【対テロ抑止戦略レポート】

「抑止論」を成立させるためには、①能力、②意思、③相互理解の三つが重要だということを以前勉強しましたね。この3条件を成り立たせるために重要なのが、相手の「合理性」だということも勉強したとおりです。そこで、我々の研究グループが注目したのは、テロリストにはいかなる「合理性」を見出すことができるか、という視点です。

我々がたどり着いた結論は、テロリズムに内在する「目的達成の合理性」でした。テロリストは確かに殉教的な攻撃手段をとり「自己保存の合理性」に乏しいが、その一方で「テロを成功させたい」という「目的達成の合理性」を見出すことができるからです。我々はこの「合理性」を抑止の論理にかけることを提唱しました。つまり、テロリズムを成功に導くあらゆる可能性を遮断する措置を強化することが、テロ抑止の総合戦略になるべきだと論じたわけです。

そのためには、「抑止」と「抑止失敗」という概念をより広義に捉えなおす必要がありました。これまでの合理的抑止理論の中でも、すでに紹介した「懲罰的抑止」とともに「拒否的抑止」(deterrence by denial)という考え方に大別することができますね。前者は報復の意志と能力を示すことによって相手の行動を思いとどまらせることですが、後者の「拒否的抑止」は自国の防御能力を高め、相手の攻撃の有効性を減じること(拒否能力)によって相手の行動を思いとどまらせることです。

結論としていえば、「懲罰的抑止」が領土的背景を持つテロリスト以外に効果を持たせるのはきわめて難しいといえます。「領土的・分離主義的テロリスト」はバスクやアチェなどの運動にも見られるとおり、その守るべき領土、組織、財産がある程度明確であり、それらへの報復可能性を明示することによって、相手を「思いとどまらせる」ことができるかもしれません。しかし、「宗教的」「社会革命」「単一争点」のテロリストは領土・組織・財産がそれぞれ明確ではなく、報復手段が効果的に抑止機能を高めるとは言いがたいわけです(<その1>で述べたように、オサマ・ビン・ラディンを拘束したとしても、アル・カイダのテロ活動は低下しないかもしれない)。ただし、それらが特定の国家・組織からの庇護を受けている場合、それらのテロ支援国家・組織(ホストアクター)への報復を示唆することによって、テロ活動(特に単発攻撃ではなく連続攻撃を行う場合)を抑止できる可能性はあります(例:タリバンとアル・カイダとの関係)。

こうしてみてみると、テロに対して抑止戦略を採る上で最も有効なのは拒否的抑止の可能性を追求することだという結論にたどりつくわけです。テロリストは目的合理性を持って行動すると前提をおいた場合、目的達成の可能性がきわめて少なく、またそのためのコストがきわめて高いことがわかれば、新たに脆弱で効果の大きいターゲットを探すことはあっても、あえて困難な目標にテロ攻撃を仕掛けることはしないという意味です。また、仮に彼らがあえて危険を冒してテロ攻撃を仕掛けてきたとしても、高い拒否能力を整備してあれば彼らの攻撃を失敗させることが見込むことができます。すなわち、テロリストに対してテロの「成功率が低い」ことへの認知度を高めることこそが、対テロ抑止の基本である。そして対テロ抑止戦略を立てる場合、どのテロリストに対しても等しく効果を発揮し、かつ実際の被害を局限できる可能性のある拒否抑止に資源を投入することが、最もコストパフォーマンスが高い方策であると考えられます。

【総合的な対テロ抑止戦略を目指して】

以上に述べたように、「対テロ抑止戦略」の力点は「拒否的抑止」をいかに高めるかが重要であると我々は考えました。その場合、①テロリストに対し「テロ攻撃はあまり効果ない」と思わせるだけの防御態勢・損害限定能力、そして②テロリストの能力を未然に削ぐ攻勢的防衛手段を高め、グローバル・リージョナル・ナショナル・ローカルという各領域において横断的でけん欠の無い体制を構築しなければならないということですね。

前者の「防御態勢・損害限定能力」の強化については、例えばバイオテロへの対策として、国内の医療体制の整備、ワクチンの確保、初動体制の整備と訓練という態勢整備が拒否的抑止力を高めることになる。また、国内の重要施設(主要国家機関、原子力発電所等)や密集施設(例えば東京ドームやディズニーランド等)などにおける対テロ機能の向上を図り、それを明示的に内外に示すことはきわめて重要であると考えられます。

また後者の「攻勢的防衛」についていえば、①PSIのような大量破壊兵器その他の移転を未然に防ぐ国際協力体制の確保、②マネーロンダリングの防止やテロリストの資産凍結措置の徹底により、テロ組織の資金を攻撃する、③入管、防疫体制を徹底し、ヒト・モノの流れを規制する等の措置を、国際機関、関係諸国・機関と連動して対応することが重要なわけですね。

このような「拒否的抑止」体制をグローバル・レベル、地域レベル・日米レベルと連動してつくることによって、テロリストに「攻撃の隙間」を与えないことが、対テロ政策の国際連携の要点である。テロ活動の「上流」と「下流」をそれぞれ押さえるシームレスな協力体制が決定的に重要となると考えられます。

ところが、日本の安全保障政策にも、未だそのような「隙間」が存在することは否定しえません。例えば、日本の防衛法制の下での①「平時」と「有事」の隙間、②「日本有事」と「周辺事態」の隙間、③ 外務省・自衛隊・海上保安庁・警察機関・法務機関の隙間・・・等々が、テロリストが忍び込む格好のターゲットとなりかねません。日本の法制度が「有事」「周辺事態」「その他グローバル」という枠組みそれぞれに法律が立てられているが、テロリストはこの地理的概念を超えて迫ってくる「空間横断的な脅威」です。したがって、日本の安全保障政策もこれを迎え撃つ「空間横断的」なものでなければならないのでしょう。

日本のテロリズム研究は、まだまだ本格的な参入の余地がたくさんあります。関心のある方は、この分野で研究を深めていくのも面白いと思います。

〔リーディング・マテリアル〕
神保謙「『先制行動』を正当化する米国の論理」『中央公論』(2003年4月号)

〔さらなる学習のために(日本語)〕
宮坂直史『国際テロリズム論』(芦書房、2002年)
宮坂直史『日本はテロを防げるか』(ちくま新書、2004年)

*宮坂直史先生(防衛大学)は、日本国内におけるもっとも優れたテロリズム研究者。その分析は精緻で、政策志向的です。まずは読んで欲しい2冊です。

〔さらなる学習のために(英語)〕
US White House, "National Strategy for Combating Terrorism" (February 2003, GPO)
Paul K. Davis, Brian Michael Jenkins, "Deterrence and Influence in Counterterrorism: A Component in the War on al Qaeda " (RAND, 2002)
Bruce Hoffman, "Al Qaeda, Trends in Terrorism and Future Potentialities: An Assessment" (RAND Publications, 2003)
Bonnie Cordes, Brian M. Jenkins etc., "A Conceptual Framework for Analyzing Terrorist Groups" (RAND Publications, 2004)
Graham Allison, Nuclear Terrorism: The Ultimate Preventable Catastrophe (Times Books: New York, 2004)

*2001年以降の米国におけるテロリズム研究はヤバいほど高密度化している。テロ組織、テロ資金、テロ思想、バイオテロ、核テロ、対テロ対策・・・等々、相当の細分化がなされている。狙いを定めて読み進めていかないと、専門分化の迷宮に入る。しかし、このテロ研究の厚みを感じ取らなければならない。

投稿者 jimbo : 15:35

第10回講義レビュー(その1)

すでに安全保障論も第10回を向かえ、あと数回を残すのみとなりました。第11~13回は日本の防衛・安全保障政策に関する講義内容となりますので、安全保障論の総論としては、今回が最終回ということになります。最後までがんばっていきましょう(^-^)。

「テロリズムとカウンターテロリズム」を総論の最終回に位置づけたのは理由があります。それは、現代の安全保障において非国家主体(Non State Actors)がもたらしうる脅威は著しく高まり、その象徴が9.11事件に代表される国際テロリズムであるからです。現代の安全保障論の新しい地平線を理解するためには、テロリズムを中心とした非対称的脅威の本質に迫ることが必要となります。それでは、内容に入りましょう。

【米国と対テロ戦略の形成】

米国は、1970年代頃よりテロリズムを国家安全保障の重大な脅威と位置づけていましたが、その脅威の烈度は比較的限定されたものとして捉えてきました。テロリズムの歴史を振り返ってみても、世界を動揺させた1988年のリビアのテロリストによるパンナム機爆破事件の死者が270人、その10年後の1998年にケニア・タンザニアで同時に米大使館がアル・カイダによって爆破された事件の死者が223人と、比較的その規模は限定されていました。ところが、9.11事件では世界貿易センター(NY)と国防総省(DC)で合わせて3000人以上の犠牲者がでる、大規模なテロ攻撃であったばかりでなく、先進国の戦略中枢を破壊できることが実証されたのです。

この9.11事件は、先進諸国の安全保障政策を支える論理自体に、大きな転換をもたらしました。従来の国家対国家の比較的合理的な対応が可能であるという前提で組み立てられた安全保障政策が、非合理で(テロリストの合理性については<その2>で述べます)かつ大規模な被害をもたらしうる(大量破壊兵器さえも使用しかねない)対象を、脅威の中核の一つとして再構成されることになったからです。

米国は9.11事件後に、国内セキュリティを担当する本土安全保障省(Department of Homeland Security)の設置、北米の防衛を担当する北方軍(North Command)の設置、対テロ対策のための重点的な予算配分、そのための軍事ドクトリン・兵力構成・兵器調達の見直しなどを矢継ぎ早に実行し、対テロ戦略が米国の安全保障政策の中軸となって浮上したのです。

【国際テロリズムの「空間」】

第1回目の授業でも紹介したように、「新しい脅威」は従来の安全保障政策の「空間軸」と「時間軸」に変容をもたらしました。「空間軸」という点でいえば、従来のような国家対国家のプリズムで支えられてきた勢力均衡(Balance of Power)という概念が、「新しい脅威」の下では意味を成さなくなっています。

例えば9.11事件を起こした首謀者であるオサマ・ビン・ラディン(OBL)と、彼が主宰する組織である「アル・カイダ」はどのような組織なのか、以下でおさらいしましょう。授業中の概念図でも説明したとおり、「アル・カイダ」は通常の近代型組織にみられるようなヒエラルキー型の組織ではありません。OBLを中心とする幹部と、各地域に点在する準幹部、そして異なる組織間との連携といった、ネットワーク型指導体制をとるとともに、その指導体制をとりまく「セル」(集団活動単位)がグローバルに張り巡らされています。ひとつの「セル」と別の「セル」との関係も明確ではありません。場合によっては各地域間の「セル」は密接に連携していることもあれば、ほとんど無関係に活動している独立型「セル」も存在します。さらに「セル」同士を仲介させる人物や「ハブ・セル」とも呼ばれる単位も確認されています。さらに、組織とは関係のない特定の人物や集団をアルバイトとして雇い、テロ活動に従事させるなど、特定困難な活動形態をとることも往々にしてあります。こうした「セル」とそこに集う人々が、例えば各地のイスラム教寺院であるモスクなどを通じて、情報の共有や指揮・命令を行っているケースがみられます。

こうした「アル・カイダ」の組織はいわば「アメーバー型」または「プラナリア型」組織と呼んでもいいかもしれません。仮にアル・カイダのテロ活動を防止する場合、OBLや他の幹部を捕獲する、有力な資金源を絶つ、アル・カイダを支援する国家や組織を破壊する・・・等々のどれが決定打になるのか、明確な答えが出しにくいのです。まったく想定されない「セル」が実はアル・カイダへのシンパシーを持ち、新たなテロ活動を行うことも考えられるわけです。また、一見普通の生活を送っている人が、実はディープなテロリストな場合も多々あります。日本でアル・カイダ系テロリストのリオネル・デュモンが潜伏していたというニュースは日本国内を震撼させましたが、日本は短期間に事業(例えば中古車輸出業や部品製造業等)で資金を集められる点においては、格好の資金調達地です。このように、現代のテロリズムはグローバル化した環境の下で、縦横無尽にネットワークを張り巡らせ、責任の所在も明確ではない形でネットワーク型の組織を形成し、情報・資金・兵器を調達していると捉えられます。

【アメリカの対テロ対策】

米国では9.11事件以降、国民のテロリズムに関する関心が著しく高まり、米政府もテロリズムに関する情報を米国市民に浸透させる努力を行っています。例えば、2004年に作成された国土安全保障省におけるホームページ「READY.GOV」はT.V.コマーシャルを通して広く米国市民にテロリズムに関する知識を浸透させ、テロ時の対応方法を詳細に記しています。本土安全保障省のHPでは、現在の米国のテロ脅威について5段階で表示し、米国民にテロの脅威の度合いについてリアルタイムで情報を提供しています。また、米国国務省では、テロリズムに関する年次報告を行っており、世界中のテロ活動を統計化・分析したPatterns of Global Terrorismをはじめ、テロ組織の名称やテロ活動のクロノロジー等を記したFact Sheetを刊行しています。その中でも、米国ホワイトハウスが2003年2月に打ち出した「テロリズムに対抗するための国家戦略」(National Strategy for Combating Terrorism) は、現在の米国の対テロリズム戦略を知る上で必読の資料です。

National Strategy for Combating Terrorismは、まず、「テロリズムの構造」を、①指導者、②組織、③国家、④国際環境、⑤テロ発生条件、の5つのヒエラルキー的な階層から成り立たせています。テロリズム発生の根源的原因として、貧困、汚職、宗教紛争や民族紛争などを挙げ、テロリストはこれらを活用・解決するための手段としてテロ行為を正当化し、支持を取り付けていると分析されます。

このようなシステム化されたテロ組織はその活動枠を3つの空間軸、すなわち①グローバル・レベル、②地域レベル、③国家レベルの3つのレベルにおいて、情報、要員、技術、資源などの面で直接的に相互協力を行い、間接的に共通のイデオロギーを共有し、テロ活動の「正当性」を訴える国際的なイメージの創出に協力し合っている、というのが米国の考えるテロ組織・活動に関する概念です。このテロ組織の「連結性」という特質をから、地理的領域を横断してテロリストを追尾し、組織間の連結を断絶させていくことに主眼を置いているわけですね。

このような分析に基づいて、米国の対テロに対する戦略的目標は以下の4つに集約されていきます。まず、第一に、地球規模のテロ組織の安全区域、指導部、指揮命令系統、通信、物質的及び財政的支援体制に対する攻撃を行い、その打倒を図ることが企図されます。その結果、組織は地域レベルに分散化、縮小化すると想定されているわけです。そこで地域的パートナーと協力して脅威を局地化させ、その後は個々の国家に対する軍事、法執行、政治的及び財政的支援を供給することが掲げられています。

第二に、国際テロ組織に対する対処法を主権領域内で定めるよう各国に促し、テロリストに対する支援や安全区域の提供を阻止することが挙げられています。そして第三に、国際社会の支持を取り付け、テロリストが活用するような根源的状況の改善を図り、最後の第四に、脅威を早期発見し無力化させるために本土防衛、防衛力の展開を積極的に行い、国内外の米国市民と国益を保護するというのが、その全体構想です。

そして、これら4つの戦略目標を達成するために、米国は「4D戦略」(Defeat, Deny, Diminish, Defend:打倒、拒絶、削減、防衛)を打ち出しており、その中で下記のような説明を加えています。
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 国家戦略は、国力の全ての要素(外交、経済、情報、金融、法執行、諜報、軍事)の継続的かつ組織的な適用によってのみ成功が得られるとの現実認識を反映している。我々は、執拗な行動によって地球規模のテロ組織を「打倒」し、彼らが生存するために必要な支援や安全区域の供給を「拒絶」し、人々の絶望と破壊的な政治変革への思想を助長するような根源的状況を「削減」し、米国及び米国市民と国益に対するテロ攻撃を「防衛」するためにあらゆる可能な手段をとる。
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 すなわち、長期的に継続して国家の持てる権限を行使し、テロ組織の活動に必要と考えられる要素へ包括的に圧力を加えながら、国際テロ組織に対する防衛戦略を打ち出しているといえるでしょう。

【つづく】

投稿者 jimbo : 15:06

2005年06月21日

第10回パワーポイント

第10回パワーポイントはこちらです

投稿者 saeki : 11:04 | コメント (0)

第9回講義レビュー(その2)

軍事技術・国防産業・インテリジェンス(Contd.)

前回の授業の後半では「米軍の変革」(US Force Transformation)および「在外米軍の再配置」(Global Posture Review: GPR)について話しました。「米軍の変革」は、2001年1月にブッシュ政権が成立した後、ラムズフェルド国防長官に託された国防総省の最大の課題のひとつでした。この「変革」は21世紀の米軍の①国防政策・ドクトリンの変革(Concept)、②兵器体系・運用能力の変革(Capability)、③国防組織・人事の変革(Organization)に渡る、大変広範な改革が視野に置かれていました。

しかし、大きな改革には常に困難が伴います。米軍変革も単純な道のりではなく、ブッシュ政権発足当初から現在までいくつかの紆余曲折を経てきました。とくにラムズフェルドが中心となって進められた「変革パネル」(変革を推進する15の委員会)が、①国内外の基地閉鎖をともなう米軍の規模削減、②(戦略)機動力の向上をめざした米軍の再編、③21世紀型の新たな脅威に備えるための兵器調達計画の抜本的見直しなどを検討し、その内容が新聞にリークされたとき、米国内の反対派は一気にヒートアップしました。

基地の閉鎖や兵器調達計画のあまりの急進的な改革案に対して、上下両院の国防関係議員や軍首脳を中心とする国防関係者の一部が大きく反発し、2001年夏頃までにその調整は難航に難航を重ねることになったのです。このころ「ラムズフェルド型の変革はあまりにハイテク志向で、戦争の基本を踏まえていない」という軍関係者の声や、「地元産業を長年支えてきた基地・兵器生産拠点を閉鎖することはまかりならん」という政治家の声により、ラムズフェルドの統率力自体が大きく問われ「ラムズフェルドも2年で終わりだな」と囁かれたのも、このころの話です。

【9.11テロ事件と「能力ベース・アプローチ」の採用】
その後、9.11テロ事件がこの状況を一変させてしまいます。9.11テロ事件の直後の2001年9月30日に提出された「4年毎の国防計画の見直し」(Quadrennial Defense Review: QDR)は、「テロの衝撃」とすでに述べた「国内の調整不足」を二重の混乱として抱える最中で提示された文章となりました。

しかし、結果として「新しい脅威」の出現はラムズフェルドが進めようとしていた「能力ベース」のアプローチを証明することになりました。米国は従来の国家間紛争のみならず、新しいアクターの脅威に本格的に対応する時代に入ったのです。「やはりラムズフェルドは正しかったのか」――これが、米軍の「変革」を促進する効果を持つこととなりました。

QDR2001ではこれまでの「脅威(シナリオ)ベース・アプローチ」(Threat-based approach、特定の脅威をもたらす予測可能なシナリオに基づく対処)から、将来の新しい脅威に備える「能力ベース・アプローチ」(Capability-based approach、特定のシナリオについての予測は不可能なので脅威主体が保有する能力に着目して対処)の兵力整備を行うことが掲げられました。

「能力ベース・アプローチ」については、授業の中で何度か触れてきましたが、ここでは①米国とその同盟・友好国に対して、損害を与えうるアクターの保有する能力(通常兵器・大量破壊兵器・兵器生産開発能力・兵器及び物質の移転・サイバー攻撃力)に応じて、②自らの能力(兵器体系・兵力構成・運用ドクトリン・在外米軍の配置・調達・技術開発)を常に対応可能にしていくという考え方です。将来現れる敵がどのような「能力」を携えて攻撃してきても対応できるように、自らの「能力」を不断に磨いていこうとする考え方です。

それにより、ブッシュ政権の軍事費は増大を続け、2004年度の会計年度では4013億ドル(約45兆円)という未曾有の巨額予算になっています。世界の軍事支出総額は8000億ドルですから、米国は一国で世界の軍事支出の半分を占めていることになります。新規の研究開発(R&D)への投資額も重視され、世界最高の軍事技術を誇る米国の軍事産業には、常に新しいテクノロジーの発掘が求められています。こうしたブッシュ政権の姿勢は、旧約聖書の「バベルの塔」に近い発想なのかもしれません。ただ、これが9.11後の安全保障環境に対する、米国の覚悟だということでしょう。

【QDRとGPR】
さて、米軍変革の重要な要素として、現在世界中における在外米軍の見直しが進められています。これを「米軍のグローバルな配置の見直し」(Global Posture Review: GPR)といいます。QDR2001では、北東アジアと欧州の主要な米軍基地は維持・変革するが、欧州からの大規模な兵力移転を検討する方向性を打ち出しました。同時に、世界中に拡散する脅威を抑止し、必要な場合の攻撃能力を確保する重要性が強調されました。

ここでQDRが言いたかったことは、①在外米軍の兵力数・施設数は減らしていく、②でも米軍は危機・有事の際には世界中に迅速に展開できるようにする・・・ことを両立させることでした。一見矛盾するこの二つの要素をどうすれば解決できるか。それは、航続距離の長い戦闘機や即応展開能力を持つ特殊部隊の活用、偵察、情報収集の強化などを重視し、柔軟な米軍配備を目指すことだったわけです。

とくに、東アジア、日本海から南西アジア・ベンガル湾にいたるアジア大陸沿岸の「不安定の弧」(Arc of Instebility)を「今後、最も紛争と軍事的競争の起きやすい地域」と規定し、とくに、日本からインド洋にかけては、米軍基地が少ないため、空母戦闘群のプレゼンスを増強するだけでなく、水上艦3~4隻と対地攻撃できる巡航ミサイル搭載潜水艦の「母港」を模索するとともに、域内友好国との間に基地などの施設利用を容易にする協定などを締結する必要性を示唆しました。また、海兵隊や空軍も、太平洋、インド洋、アラビア湾における展開機動力を強化する計画を立てるとし、東南アジア地域に空軍のアクセス・ポイントを増強することが提案されているわけですね。

これらの基本構想を要約すれば、QDRが目指しているのは、①欧州からアジアへの戦略重心のシフト、②西太平洋の南方への関心のシフト(海洋、統合運用、柔軟展開を重視)、③任務役割の一部を同盟国へシフト(有事ガイドライン、広範なアクセス確保、多国間演習の活性化)という三つのシフトと定義づけられるでしょう。

【イラク戦争後の米軍「変革」】

2001年のアフガニスタンにおける「不朽の自由作戦」、及び2003年の「イラクの自由作戦」(OIF: Operation Iraqi Freedom)と、その後の作戦評価(とりわけ攻撃・占領プロセスの評価)も、米軍の「変革」と前方展開兵力の「再編」を促進する効果を持ちました。イラク攻撃の総括としては、ウルフォウィッツ国防副長官が2003年6月13日の米下院軍事委員会の公聴会にて、①圧倒的な戦力、②効率的な軍事力行使、③バトル・フィールドからバトル・スペースの重視、④そのために「変革」された軍隊が必要性の4点を強調し、そのための「前方展開兵力の再編」を推進するべきであることを証言しました。

米軍の前方展開兵力の再編は、①米軍を展開している地域の特異性に応じて軍事能力を調整し、②世界中あらゆる場所でリアルタイムに前方展開兵力を補足し、グローバルな軍事行動を即座にとれる能力を強化するという2つの方法で行うことがますます重要である、と認識が深まっていきました。

【米4軍の「変革」】

それでは、米4軍(陸軍・海軍・空軍・海兵隊)は、それぞれどのような「変革」を遂げようとしているのでしょうか。まず「米陸軍」では、2002年のアフガニスタンおよび2003年のイラク攻撃の実績と教訓を経て高度な機動力や高い即応性がますます重要となるとの認識の下に、兵器システムも冷戦型の重厚長大なものから軽量で運搬可能な小型化されたものがますます重視されるようになってきています。そして、世界各地へ96時間以内に緊急展開可能な中型装甲旅団の創設に取り組んでいるんですが、展開能力と兵站支援を長期的に支えるための「装備の事前集積」の重要性が指摘されることになりました。その意味で、各在外米軍基地における小規模な支援機能(アクセス・ポイント)が重要な要素となってきます。

「米海軍」は、機動性と統合運用を支えるために、①海から陸上への戦力投入、②海洋管制と海上優勢、③戦略的抑止、④海上輸送、⑤前方プレゼンスを重視し、沿岸から200キロ程度の内陸部まで、火力支援を行いながら、敵の妨害を排除して陸軍及び海兵隊を揚陸投入する機能が求められることとなりました。将来は現在12隻体制の空母機動艦隊を10隻体制ほどに減らしても、各機動艦隊の責任範囲を拡大し、調整機能を強化することによって、世界中の紛争に対応できる機動力を整備することが目標にされています。

「米空軍」は『地球規模での関与:21世紀の空軍ビジョン』(Global Engagement: A Vision for the 21st Century)での戦略を基本とした前方プレゼンスを維持する予定ですが、従来のような海外の基地に恒久的に空軍部隊を駐留させておくのではなく、必要とされる場所に期間を限定して、その部隊だけで独立的に任務を遂行できるようにするもの方向へと向かっています。これを遠征軍(Expeditionary Force)といいます。その理由には、空軍戦力の長距離戦力投射能力が向上し、潜在的戦場近郊に空軍戦力を常駐させる必要性が低下する一方、対地攻撃ミサイル等の射程・精度が向上したため戦場近傍の航空基地が益々脆弱になっているという認識もあるんですね。

最後に「海兵隊」は『海上からの機動作戦行動』(1996年)にて、海兵隊は上陸作戦だけではなく、戦争のあらゆる局面において沿海域における機動作戦を行い、従来の上陸作戦により橋頭堡を築くだけでなく、遠征・機動力を高め、広範囲に作戦を展開し、海上から陸地の奥地にまで機動的に一気に展開することを明確にしました。今後「海兵隊」は、従来のような戦争の初期局面において、橋頭堡を築くためのワイルドな部隊という印象から、戦争の全局面において、持ち前の機動力を生かした特殊作戦を行う部隊へと、変質する方向性が打ち出されています。

いろいろ覚えることが多くて大変ですが(^-^;)、①機動力、②軽量化、③遠方展開能力、④非常駐化といったキーワードが、米4軍の「変革」の共通のテーマであるというイメージを持つことが重要ですね。

【アジアにおける前方展開兵力の「再編」】

さてGPRに伴い、アジアにおける米軍の再編はどうなるのでしょうか?ブッシュ大統領は2004年8月16日に「海外駐留米軍再編の基本方針」に関する政策演説を行い、今後10年間にわたる前方展開兵力の再編に関する方向性を示唆しました。その基本的考え方としては、アジアと欧州に駐留する米軍約20万人の3分の1に当たる、6~7万人を今後10年で撤退させることが謳われています。このうちアジアでは、既に削減を公表している在韓米陸軍12500人を含め、2万人規模の再編が検討されるとのこと。

在日米軍に関しては、現在まで新聞報道で挙がっているだけでも、①米陸軍第一軍団が米本土から神奈川県の座間キャンプに司令部を移設、②米第7艦隊の空母艦載機の基地である厚木基地を返還し岩国基地と統合、③沖縄の第3海兵師団(海兵隊)の訓練施設の富士・北海道移転、④海兵隊の基地及び訓練基地を、グアム・フィリピン・オーストラリアと共有・ローテーション化、⑤普天間基地の返還後の代替地を名護市とせず、嘉手納基地に統合、⑥嘉手納基地とともに、下地島に空軍基地を建設し、沖縄・奄美・グアムのプレゼンスを強化する、⑦横田基地については、自衛隊との共用を進める、⑧神奈川県の瀬谷通信基地及び逗子住宅地について返還する等、多くの各論が提示されています。しかし、これらの再編にあたっては、ローカル・ポリティクスとの調整を経た上で、どのような結論が出るかはまだ不明確なんです。日本側の対応はきわめて鈍く、政治家の誰もリスクをとる覚悟をしていない感じがあります。大事な時期なのだから、しっかりして欲しいですよね。

在韓米軍の見直しについては、「米韓同盟政策構想協議」(Future Alliance Initiative)に基づき、①在韓米軍の役割を朝鮮半島に限定せず北東アジア全域の安全保障に役立つように変革する、②非武装地帯に近接配置されている第2歩兵師団及びソウル市内龍山にある在韓米軍司令部を2006年までに南方移転する、③従来米軍が受け持ってきた前線での防衛責務を韓国軍が肩代わりする・・・等が話し合われています。しかし、イラクにおける米軍の駐留が長期化し、陸軍のローテーションの必要性が高まるに従い、第2歩兵師団在韓米軍をイラクに一部移転するとともに、在韓米軍12500人の削減を2008年末までに完了することを目標としています。

オーストラリアについては、2004年7月にオーストラリア北部にある豪州軍の既存の基地に米軍の訓練施設を設置することで合意に達しています。クイーンズランド州ショールウオーター湾訓練施設(SWBTA)をはじめ、北部準州にあるデラミラー訓練空域、ブラッドショー演習場の計3カ所の共同使用を念頭に、3年後をめどに施設整備を図る考えとされています。同施設については、すでにシンガポール軍も利用しており、沖縄駐留の米海兵隊の訓練にも利用されるとともに、多国間の共同訓練にも利用する方向みたいですね。

グアムは、RAND報告書(2001年)の提言の線に沿ってインテリジェンス、偵察、哨戒、そして、航空打撃力(ISR & Strike)の中核基地(hub)として再構築される可能性が強いです。また、空輸航空団の再編についても、朝鮮半島だけを対象とする冷戦型の「シナリオベース・アプローチ」からの脱却を図り、「不安定の弧」全体に対する緊急展開を視野に入れれば、その東端に位置(して、しかも中国大陸に近接)する横田よりも、グアムへ下げてより広角に戦力投射できるようにする方がよいとの考えも高まっているようです。

〔リーディング・マテリアル〕
江畑謙介『米軍再編』(ビジネス社、2005年)第1章「米軍トランスフォーメーション」

〔さらなる学習のために(日本語)〕
[1] ジョン・キーガン『戦略の歴史:抹殺・征服技術の変遷、石器時代からサダム・フセインまで』(心交社、1997年)
[2] 江畑謙介『軍事力とは何か』(光文社、1994年)
[3] 石津朋之編『戦争の本質と軍事力の諸相』(彩流社、2004年)
[4] マクレガー・ノックス他編『軍事革命とRMAの戦略史:軍事革命の史的変遷1300~2050』(芙蓉書房出版、2004年)
[5] 江畑謙介『21世紀の特殊部隊(上)(下)』(並木書房、2004年)

*日本でも軍事技術の研究は、軍事ジャーナリストを中心に活発に進んでいます。まず入門編として軍事力を学ぶためには[2]をお薦めします。私が学部2年のときに読んで、軍事に開眼した本です。さらに詳しく軍事力の諸相と歴史を学びたい方には、[1][3]をお薦めします。最近のRMAや米軍再編については[4][5]およびリーディング・マテリアルで紹介した『米軍再編』ですね。やはり、この分野における江畑先生の存在感は圧倒的ということです(^-^;)。

投稿者 jimbo : 00:55

2005年06月18日

第9回講義レビュー(その1)

軍事技術・国防産業・インテリジェンス

軍事力・軍事技術の基礎を学ぶことは、安全保障論を学ぶ上で必須となります。第1回の授業で、近年の安全保障の概念が「軍事力で」国家を守るという国防の概念から、「軍事以外も含む手段によって」守るという多元化・多様化した概念に変化したことを紹介しました。しかし、現代でも軍事力の役割は依然として安全保障のコアな部分に位置しています。

湾岸戦争・ユーゴスラビア紛争・アフガニスタン戦争・イラク戦争など、最近の武力紛争において、どのような軍事力が用いられたのか。各国がいかなる兵器体系を整備することによって周辺諸国との軍事バランスを保とうとしているのか。さらには紛争が交渉によって回避されたときに、その背景にどのような軍事力が控えていたのか。こうした安全保障の諸相を理解するとき、軍事力・軍事技術の基礎知識が重要になってきます。

そして重要なことは、軍事力・軍事技術を単なるミリタリー知識として蓄えるだけではなく、安全保障の「政策学」として学ぶことです。例えばEUが中国に武器禁輸を解除しようとするとき、また米国が台湾にイージス艦を売却しようとするとき、どのような政策的意図を持ってこれらの事象を理解するか。また、韓国に駐留する米軍を大規模に削減するといった場合、それが地域情勢にいかなる影響を持つか・・・等々がミリタリーそのものの知識よりはるかに重要なわけです。というわけで、ミリタリー好きの人はその知識に溺れず、そして軍事はちょっとパス・・・という人も食わず嫌いにならず、その基礎を学んでいきましょう(^-^)/。

【軍事力の基礎】
さて軍事力を簡単に定義すると、それは軍事的な攻撃能力と防御能力の総体ということになります。その構成要素も、兵力(現役・予備役の数)、兵器・装備の数量と質、国防予算などの国防関係のハードウェア(比較的定量化しやすい)に加え、人口・動員体制・訓練・兵の士気・経済力・技術水準・資源と食料の自給率などの、ソフトウェア(定量化しにくい)も重要な要素になります。さらに第2回講義で学んだように、国家防衛を単独ではなく同盟関係によって複数国で行う場合、一国の軍事力は同盟関係を持つ国の軍事力(とそのコミットメントのレベル)との総体として捉える必要があります。

次に「兵器体系」を学びましょう。近代戦以降の兵器体系(特に第二次大戦後)の基礎的な単位は、陸軍・海軍・空軍(と海兵隊)の三軍の構成になっています。国によってはそれぞれの機能が融合していたり、国内の治安機能を持つ警察と海上警備隊(コースト・ガード)と一体になっている国もあります。通常兵器体系としては、陸軍:歩兵・戦車・野砲・ヘリコプター/海軍:駆逐艦(護衛艦)・フリゲート艦・揚陸艦・対潜哨戒機・潜水艦/空軍:戦闘機(防空・制空)・爆撃機・偵察機・早期警戒管制機・空中給油機・輸送機などが、主要な兵器体系となります。これに装備として、弾道ミサイル・クルーズミサイル・爆弾・重火器・小火器という攻撃/防御のための装備があり、それを支える指揮・統制・命令・コンピュータ(Command, Control, Communication and Computer: C4)が重要な要素となります。

【決定的な軍事技術の「世代」差】
軍事力を判断するときには、こうしたハードウェアへの基礎的理解が必要です。その際に重要なのは、兵器体系には技術水準によって「世代」が分かれ、そしてその「世代の分岐は決定的」だということです。授業でも紹介したいくつか事例を挙げましょう。

事例1:1991年の湾岸戦争のときに、米軍とイラク軍は同じ「暗視装置」(ナイト・スコープ)を持っていました。ところが米軍・イラク軍ともに同種の兵器を持ちながら、その世代が異なるために、勝敗に決定的な差が生じてしまいました。イラク軍が装備していた暗視装置は「光増式」といって、月の光や星の光といった微量の光(可視光線)を何千倍に増幅して明るくみる装置でした。これに対して、米軍側の暗視装置はパッシブ方式の「熱線映像装置(サーマル・イメージャー)」で物体が放出する赤外線(非可視光線)を高感度のセンサで映像化する装置でした。これがイラク軍と米軍に決定的な差を生むことになります。米軍側の暗視装置は昼(例えば黒煙の向こうにある物体の把握)夜兼用で、夜の性能も圧倒的にすぐれていたために、イラク軍は全く見えないところから攻撃を受けるということになりました。これが兵器における「世代」の差を象徴しています。(以上の説明は江畑謙介『兵器と戦略』(朝日選書、1994年)3~7頁に詳しい)
事例2:イスラエルのレバノン侵攻に端を発した1981年のレバノン紛争では、イスラエルとシリアとの間で激しい航空戦が展開されました。この航空戦において、イスラエルの主力は第4世代のF-15(Eagle)、F-16(Fighting Falcon)であり、シリア側だは第3世代のMig-23(Flogger)、Mig-21(Fishbed)でした。この航空戦においても勝負は一方的で、シリア側の航空機の損失は85機、イスラエル側は0機でした。まさに85対0という決定的な差を生んでいるのです。

こうした事例から何が読み取れるのか。それは、軍事力をみるときにその「質」に着目することがいかに大事かということです。例えば事例2において、なぜこれほど決定的な差が生まれるのか。仮に皆さんがシリア側のパイロットだとしましょう。皆さんのコクピットには、コンソールパネルに円形のレーダがあり、そこに映る情報をもとに敵機の襲来、ミサイルの飛翔経路などを把握するわけです。ところが、世代の新しい戦闘機に遭遇したとき、このレーダの探知範囲からはるかに離れた場所から、想定を超えたスピードで突然空対空ミサイル(AAM)が飛来してくるわけです。何も把握できないうちに、やられてしまいます。これが「世代」の差なんです。

【軍事バランスを評価してみよう】

こうした知識をもとに、各国の軍事力を比較してみると、興味深い発見ができると思います。例えば、北朝鮮と韓国の軍事バランスを見た場合、兵力数、戦車数、作戦機数など、明らかに北朝鮮のほうが多いわけです。ところが、具体的に戦車の世代、戦闘機の世代を比較してみると、韓国のほうが圧倒的に優れています。その結果、実際に航空戦を行った場合、いくら北朝鮮が機数において上回っていたとしても、韓国の制空能力は圧倒的なことは確実です。

中国の軍事力はどうでしょうか。兵士の数は世界最大、兵器の数も陸・海・空合わせて世界最大級です。すると、軍事力も世界最強かというと、そうはいかないわけですね。例えば、中国の大陸間弾道弾(ICBM)は液体燃料式で、発射までに時間を要して、整備維持も大変で、使い勝手が良くありません。空軍の2400機(昨年現在)ともいう圧倒的な数の作戦機も、その主力が旧ソ連製の第1世代、第2世代の戦闘機です。おそらく、第4世代の戦闘機が対峙すれば、まったく相手にならないでしょう。

ところが、かつてピーク時は4000機あった中国空軍の作戦機数が減ったからといって、中国空軍の能力が低下したわけではありません。むしろ中国は、国産のJ-10およびロシアからライセンス生産をしているSu-27戦闘機、対地・対艦能力を有するSu-30といった第4世代の作戦機の開発を急速に進めており、急ピッチで近代化をはかり能力を高めているのです。

兵員数、戦車数、艦船数、作戦機数の単なる数量による比較ではなく、軍事力の質に関する分析がいかに重要かということですね。例えば、皆さんは以下のようなニュースに触れたときに、どう判断しますか?「米国、台湾にF-16を150機売却」/「中国、新型DF-31型ミサイルの発射成功」/「北朝鮮のMig-29が米軍機に対してスクランブル」・・・こうしたニュースに対して、軍事力の質に関する分析を加えていくことが大事なわけです。そのためにも、軍事力と兵器に関する基礎知識が必要なんですね。

【軍事における革命(RMA)】

こうした軍事技術の「世代」論を通り越して、新しく台頭してきたのが「軍事における革命」(Revolution in Military Affairs: RMA)です。新たに台頭した精密誘導兵器、高度化したセンサ技術、衛星・レーダによる24時間の警戒態勢、コンピュータによる高度な情報処理・・・などが、戦争・戦闘の概念に革命を起こしている、という考え方です。

それを象徴したのは、1991年の湾岸戦争でした。湾岸戦争は「ハイテク兵器」の威力をまざまざと示した戦いであったと同時に、高度にネットワーク化された情報が、戦いを決定付けるNetwork Centric Warfareであったといえます。F-117というステルス爆撃機は、そのステルス性能によってイラク軍の早期警戒レーダ網を潜り抜け、一気に敵司令部への攻撃をかけることができました。衛星・偵察機・艦船等による24時間体制の情報収集と、そこから3軍への伝達、コンピュータによる情報処理は、戦場における指揮官の判断を革命的に変化させました。

Network Centric Warfareは、1999年のNATO軍が実施したユーゴ空爆、2001年のアフガニスタン戦争、2003年のイラク戦争などにおいて、さらに発展していきました。湾岸戦争で使用された精密誘導兵器は全投入量の8%であったのに比べ、コソボ紛争では35%、イラク戦争では66%を占めるに至りました。イラク戦争をテレビで見ていた方は、米軍がバクダッドを爆撃しているさなかに、市内の高速道路を(一見悠然と)一般車両が通行しているのを不思議に思ったかもしれません。イラク側でさえも、米軍の精密誘導兵器が正確に対象施設を攻撃していることを認識していたのです(もちろん多くの誤爆があり、民間人が犠牲になりました)。

また、イラク戦争においては無人偵察機(Unmanned Aerial Vehicle: UAV)が、実際の偵察活動や攻撃に参加し、特殊部隊等の長距離広域センサを用いた情報収集が行われ、それらの情報が司令部、前線基地、そして個々の部隊、兵士に共有されるわけです。まさに、宇宙から地上に至るマクロ・ミクロの空間を軍事情報として把握し、これを旅団から兵士レベルまで戦闘命令と状況認識を提供するシステムとして成り立っているんですね。現在では、イラク戦争を指揮した米中央軍が、その司令部のあるフロリダ州のタンパから、イラクの各戦場における詳細な情報を把握し、遠隔地からでも指揮・統制・命令が可能になりました。これがRMAによる現代戦です。

引き続き、その2では「米軍変革」(Transformation)と「米軍再配置」(Repositioning)についてお送りします。

【つづく】

投稿者 jimbo : 02:33

2005年06月14日

第9回パワーポイント

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投稿者 saeki : 10:56 | コメント (0)

2005年06月08日

第8回講義レビュー

アジアの安全保障:「ハブ・スポークス」から「コンバージェンス」へ?

【なぜアジアの安全保障か?】

ちょっと身の上話をしましょう。実は私自身は、はるか昔にSFCの学部卒業論文のテーマに「ASEAN地域フォーラム(ARF)の成立過程」を選びました。以来、アジア太平洋地域の安全保障にはかれこれ10年近く付き合っていることになります。今回のテーマである「コンバージェンス」という概念を思い至ることができたのも、「何か面白いことはないか」と探し続けてきた結果なのかもしれません。

私は学部1年生のときに、草野厚先生の「政治学A」(当時はこういう名称だったのです)のグループワークでディベート大会を行い、そのときの統一テーマが「日米安保は廃棄すべきか否か?」だったんですね。当時私はかなりリベラル派でしたから、日米安保は廃棄して多国間安全保障がそれに代わる安全保障システムになるべきだ・・・という議論を展開したんですが、なかなかディベートで勝てない(^-^;)。そのときに引用した学者たちの「これからはアジアにおける多国間安保の時代」といった論文が、どうも論拠が薄い・・・。こうした疑問が積み重なった結果、「多国間安全保障の有効性を徹底的につめてみよう。そうすれば、同盟の役割も見えてくるのではないか」というのが、学部時代の私の問題意識だったわけです。

勉強を進めていくと、いろんなことが理解できるようになってきたんですね。たとえば、ソ連の脅威が減退したとしても、北東アジアには北朝鮮の脅威が継続していたし、将来の中国の台頭とともに台湾海峡情勢も不安定になるかもしれない。こうした不安定性・不確実性を持ったアジア太平洋の安全保障において、いわば抑止・対処の枠組みを保険(insurance)としながら、地域安全保障協力の基盤を提供しているのが、同盟(米国のハブ・スポークスシステム)なのではないか・・・と思い至ったわけです。

アジアにおける同盟というのは、ソ連の軍事侵攻に対抗するといった冷戦型の機能だけではなくて、「地域紛争の抑止・対処の機能を提供する」→「それによって、各国は不安定要因に対する米国の関与を想定できる」→「ある程度の軍事ドクトリン・軍事力に対する透明性が増す」→「その前提の下で、地域的安全保障対話を強化させる」という流れが、徐々に形成されてきたのが1990年代の流れだったのではと思います。1996年の日米安全保障共同宣言が「アジア太平洋の安定に資する同盟」という表現を用いたのは、こうした広義の安定化機能に着目したからだといえるでしょう。

【二軌道戦略の成立】

さて、こうした背景の下で1990年代のアジア太平洋地域には、いわゆる「二軌道戦略(Double-Track Strategy)」(これは私の造語です・・・あまり定着しない・・・)が形成されます。米国を中心とする同盟関係が抑止・対処の機能を提供しながら、ASEAN地域フォーラム(ARF)のような多国間安全保障協力関係が予防・信頼醸成といった役割を果たすという構造です。この二つの軌道が相互に補完しあうことによって、アジア太平洋の安全保障が成り立っている、というのが私なりの捉え方でした。

けっこうこの「二軌道戦略」は使える枠組みでした。この枠組みによると同盟の重要性を重視し、同盟関係を基盤に据えながら多国間安全保障による信頼醸成をはかっていくという捉え方で、かつての同盟不要論や多国間安保期待論の双方を牽制することもできました。1995年の『東アジア戦略報告』(EASR, 「ナイ・レポート」ともいわれる)は、アジアにおいて10万人に兵力を駐留させ同盟のコミットメントが継続することを強く打ち出しつつ、多国間枠組みも重視する方向性を打ち出したことによって、日本もこの方向性を歓迎し、「二軌道の構造」が定着していきました。

【4つの新しい展開】

ところが、アジア太平洋の安全保障には「4つの新しい展開」が起きているというのが、ここ3年来の私の主張です。そしてこの新しい展開によって、従来の「ハブ・スポークス」(hub-spokes)システムが、「コンバージェンス」(convergence)「ウェブ」(web)「ネットワーク」(network)といった概念に進化しているんですね。

第一の新しい展開は、「同盟の機能進化」です。従来の同盟関係は、抑止と対処を機能として提供することを本務としてきました。現在でももっとも重要な機能ですね。しかしアジア太平洋地域における「不安定性・不確実性」という、必ずしも顕在化された脅威への対処とは言いきれない、グレーな相手に対峙する際に、同盟の機能というのもかなりグレーに(^-^;)ならざるを得ません。別の言葉でいえば、常に敵が明確でアラート体制にいる同盟ではなくて、平時から危機時において、幅広い機能が提供できるような「安定化」を中心に機能を組み替えることが重要になってきたわけですね。

こうした中で、米軍のプレゼンスこそが地域の安定化を促すという概念⇒「プレゼンス・プラス」という考えが浮上し、軍事演習などを通じて小規模紛争にも対応しうる協力関係をつくったり、平和維持機能等の「戦争以外の軍事オペレーション」(Military Operations Other Than War: MOOTW)に注目したりと、同盟協力の裾野がとても広がってきたというのが、ひとつの変化であるといえると思います。

第二の新しい展開は、アジア太平洋の多国間安全保障(協調的安全保障)の枠組みが、かつてのような「トークショップ」(話すだけ)と揶揄された状況から、徐々に制度化された予防外交・紛争解決にむけたメカニズムとして進化しつつあるということです。たとえば、ASEAN地域フォーラムは、信頼醸成(第1段階)⇒予防外交(第2段階)⇒紛争解決へのメカニズムづくり(第3段階)という発展構想を持っているわけですが、現在は信頼醸成の段階から予防外交へと進化したと捉えられています。その具体的な中身としては、ARF議長の役割強化、専門家の登録などを通じて、ARFとしての顕在的・潜在的紛争の仲介・調停・斡旋機能を強化することが目指されています。

第三の新しい展開は、米国と東アジア諸国との安全保障協力関係が「ハブ・スポークス型」から「ウェブ型」へと進化しつつあることです。「ハブ・スポーク型」の下では、二国間での安全保障協議、二国間での演習が主体でした(例えば「コブラ・ゴールド」(米タイ)/「バリタカン」(米比)/「タンデムスラスト」(米豪))。2001年5月の「チーム・チャレンジ」は、この二国間の軍事演習を繋げて、新たなネットワーク型の多国間軍事演習としたものです。この新しい多国間軍事演習では、国連の平和維持・執行活動、捜索救助、人道支援、災害対処、非戦闘員退避などの共同行動を訓練するもので、紛争予防や危機管理をその活動の重点においています。これは、ネットワーク化された同盟関係が、より低強度の紛争にも対応させることによって、地域の安定化機能に寄与しようとする動きですね。その意味では「第一の新しい展開」とも呼応した動きと捉えることができるでしょう。

第四の新しい展開は、特に9.11事件以降、アジアにも地域概念にとらわれない、意思と能力に基づく連携関係が浮上していることです。これをCoalition of the Willing(有志連合・意思ある主体同士の連携)と呼びます。従来の安全保障協力は、「地理の概念」に拘束されがちでした。安全保障協力をアジア太平洋地域で、東アジアで、北東アジアで行いましょう・・・というのが地理的概念に基づく安全保障協力の考え方でした。これは、当然ながら近接した地域においては、安全保障の問題意識を共有できる(お隣さんも同じ問題を抱えている)という前提があったわけですね。

ところが、9.11後の脅威は以前の授業でも解説したように、地理的空間を飛び越えて迫ってくるわけです。すると、実は同じような脅威認識、課題を抱えた国は、近隣諸国とは限らないわけですね。例えば、拡散安全保障イニシアティブ(PSI)に参加する国は、米国、日本、オーストラリア、スペイン、フランス・・・など、世界各地に散らばっているわけですが、大量破壊兵器(WMD)の拡散の阻止という意思と能力に基づいて、協力を深化させているわけです。特に9.11後に、こうした従来の同盟関係と多国間協力枠組みを超えた、コアリションのあり方が注目されているんです。

そして、この新しいコアリションの形は、国際関係の理論にも大きな影響を与えるかもしれません。例えば、ARFでは「すべての国が受け入れ可能な措置を、コンセンサス方式で積み重ねていく」という緩やかなビルディング・ブロック方式をとってきました。このやり方だと、中国・ベトナム・北朝鮮などのアクターも参加しやすいし、「参加型安全保障」の役割を果たすにはとても上手なやりかたですね。ただし裏を返せば、こうした安全保障協力は「最も協力レベルの低い国のペースを中心に動く」ことになってしまいます。コンセンサス方式ですから、そうなるわけですね。だからARFを動かそうと思ったら、強烈なピアープレッシャー(皆が実施してるよ、なんで貴国はやらないの?系のプレッシャー)をかけて、各国の自主的な努力を導かざるを得ないわけです。

ところが、コアリション方式であれば意思と能力を持った国々が集まるわけですから、まず必要な安全保障協力のレベルを設定し、それにむけた協力を行うことができるわけですね。誰も「それは我が国は同意できない」とブレーキをかけるアクターがいないのですから。そして、高い安全保障協力レベルを設定して、そこに他国の参加を呼びかけていく。こうして、バラバラなコアリションが、参加国の増加によって徐々に「地域性」を帯びてくる。これが「地域への再回帰」です。経済を勉強している人にとっては、WTO/地域レジーム/二国間FTAの関係性を対比させてみても面白いでしょう。

【「ハブ・スポークス」から「コンバージェンス」へ?】

以上の、アジア太平洋地域の安全保障の「4つの新しい展開」によって何が見えてくるか。それは、かつての「二軌道構造」が「ウェブ型」あるいは「ネットワーク型」の構造に収斂(コンバージ)しているのだと私は考えています。同盟がより「安定化」機能を強め、多国間安全保障協力がより制度化された予防外交に踏み出し、ハブ・スポークス型の安全保障がウェブ型として連携し、そしてコアリションが台頭する。こうした複雑な流れを捉えるときに、異なる機能が実はネットワークとして関連しあっていることに注目することが重要です。

アジアには顕在的・潜在的に25以上の紛争があると言われていますが、それぞれの紛争に対応するメニューは十分に整備されているとはいえません。これらの対照的・非対称的(横軸)そして、高烈度・低烈度(縦軸)に点在する様々な紛争の形態に対し、上記のような「新しい展開」がどのように対応していくのか・・・このメニューを整備していくことが、「コンバージェンス」の重要な課題ということになるでしょう。

こうした視点を持ちながら、アジアの安全保障を眺めると、「同盟が大事・多国間はその補完」と繰り返し発言している論者たちの議論を、違った観点から受け止めることができるのでは、と思います。よく外交青書などに、「二国間の同盟を基盤に据えつつ、多国間の対話の枠組み等を重層的に整備することが重要」と書いてあります。たしかに総論としてはそのとおりですが、重要なのはその「重層性」の重なり具合を、しっかりと考えていくことだと思います。

神保 謙より

〔リーディング・マテリアル〕
神保謙「アジア太平洋地域における多国間安全保障:多層メカニズムの『戦略収斂』の可能性」小島朋之編『21世紀の中国と東亜』(一藝社、2004年)

〔さらなる学習のために(和文)〕
[1] 森本敏編『アジア太平洋の多国間安全保障』(日本国際問題研究所、2004年)
[2] 山本吉宣編『アジア太平洋の安全保障とアメリカ』(彩流社、2005年)
[2] 防衛庁防衛研究所編『東アジア戦略概観2005(年刊)』(財務省印刷局、2005年)
[3] 平和安全保障研究所編『アジアの安全保障2004-2005』(朝雲新聞社、2004年)

〔さらなる学習のために(英文)〕
[1] Amitav Acharya, Regionalism and Multilateralism: Essays on Cooperative Security in Asia Pacific (Times Academic Press: Singapore, 2003)
[2] Ellis S. Krauss and T.J. Pempel, Beyond Bilateralism: US-Japan Relations in the New Asia-Pacific (Stanford University Press: Stanford, 2004)
[3] J. J. Sue, Rethinking Security in East Asia: Identity, Power, And Efficiency (Stanford University Press: Stanford, 2004)

投稿者 jimbo : 18:09

2005年06月07日

第8回パワーポイント

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投稿者 saeki : 09:49 | コメント (0)

2005年06月06日

第7回講義レビュー(その2)

欧州における安全保障:NATO・EUを中心に

【EU憲法批准問題】

先週フランス、オランダが相次いでEU憲法の批准を否決した、というニュースがありましたね。EU憲法は2年間の討議を経て、EU首脳会議が2004年6月に採択、10月に調印という段階まできています。その後、各国にて議会または国民投票による批准手続きに入り、これまでドイツ・スペインなどが批准を終えています。ただし、EU憲法の発効には25カ国全ての批准が必要なため、仏・蘭両国の否決は大きな打撃となったわけですね。

EU憲法は448条に及ぶ長大な憲法で、2004年に25カ国に拡大したEUの目的・市民の権利・共通外交安全保障政策等に関する規定があります。欧州安全保障政策(ESDP)に関する条文を見てみると、「相互防衛条項」(I-40-7)を定めて、EU加盟国間の集団防衛を明確化し、また「欧州装備・調査・軍事能力庁」を設置し(I-40-7)、欧州防衛能力を強化してペータースベルク任務(その1参照)を拡大し、さらに欧州域内における国防産業・技術基盤を強化することが謳われています。欧州理事会の議長が対外的には「EU大統領」として欧州委員会の委員長が「EU外相」としての位置づけになり、EUが地域の代表として大きな政治主体になるための、基盤づくりという意味を持っています。

EU憲法の批准手続きが暗礁に乗り上げ、目指されていた来年10月の発効がほぼ絶望的になったことは、EUとしてのリージョナル・アイデンティティと各国のナショナル・アイデンティティの相克という観点から、多くの分析がなされることと思います。こうした論点は、私が秋に担当する「リージョナル・ガバナンス論」で詳しく扱っていこうと思います。他方で、欧州の安全保障という観点からみたとき、これはEUにおけるESDPの整備の遅れを意味することになります。そして、これは後に説明するNATOとの役割分担を考える上でも、ESDP推進派にとっては頭の痛い問題ということになるでしょう。

【NATOと「新戦略概念」】

さて、北大西洋条約機構(NATO)は、1949年に欧州と米国・カナダの10カ国を原加盟国として発足した集団防衛機構です。冷戦後に加盟国が拡大し、現在は26カ国に増えています。NATO本部はベルギー・ブリュッセルの郊外にあり、私は2001年と2003年にNATO本部を訪れ、幹部の方々と意見交換を行ったことがあります。NATOのカフェテリアは、各国の文官・武官がさまざまなユニフォームに身を包み、テーブルを囲むという多国間軍事機構ならではの風景です。さながら、コアリション・キャンプといってよい雰囲気でした。

NATOは冷戦後に、新たに浮上した課題に向けての自己改革を迫られることになります。そのキーワードは、①任務の拡大、②加盟国の拡大、③NATOの機構変革という3つのキーワードで理解することができます。

そのきっかけとなったのは、EUと同様1990年代の旧ユーゴ紛争への対応でした。1993年にはボスニア・ヘルツェゴビナ紛争に空軍力を提供し、1996年は平和履行部隊(IFOR)に部隊を送ります。さらに、1999年にはコソボ紛争において空爆を実施するなど、旧ユーゴ紛争の要所における軍事力の提供を担ってきました。

まず「任務の拡大」について。冷戦後に新たに対応すべき安全保障問題は「NATO域外」にある。これがNATOが1990年代におけるバルカン情勢への対応を通じて出した答えでした。それを明示したのが、1999年4月に採択された「新戦略概念」(New Strategic Concept)です。北大西洋条約の第5条はNATO加盟国同士の集団防衛を規定し、まさにNATO域内における集団的自衛を約束しあう内容となっています。しかし、旧ユーゴ紛争のような周辺地域における紛争も、NATO加盟国にとっての脅威になるとの認識の下、「域外地域を対象とした紛争予防・危機管理」を新たな任務として追加します。これを「非5条任務」といいます。

次に「加盟国の拡大」です。冷戦後のNATOは域外への対処とともに、NATO自体の拡大によって、欧州の安全保障を安定化に導こうとしました。1999年3月の第1次拡大としてポーランド・チェコ・ハンガリーの3カ国が加盟し、さらに2004年6月の第2次拡大ではエストニア、ラトビア、リトアニア、スロバキア、スロベニア、ブルガリア、ルーマニアの7カ国が加盟しました。

こうした国々の名前を見ていると、まさに冷戦期に鋭く対立していた東側諸国が、今やNATOの一員として迎えられたことを意味しています。かつてのように、「脅威を機構の外部におき、それに対処するための軍事同盟」といった同盟関係から、「かつて脅威であったアクターを機構の内部におき、互いに協力し合う」同盟関係への変化をみてとることができます。第2回で学んだ「安全保障機能」のマトリックスに準えて考えれば、NATOは純粋な意味での集団防衛機構から、ある種の集団安全保障機構への変遷のダイナミクスが生じていると捉えることができるでしょう。

【NATO機構改革と「新しい脅威」への対応】

最後は「機構改革」です。ここでは2002年11月のプラハ首脳会合、そして2004年6月のイスタンブール首脳会合に注目してみましょう。プラハ首脳会合では、①対テロ防衛に関するNATO軍事概念の導入、②「プラハ軍事能力コミットメント」(PCC)の採択、③作戦連合軍への統合、④NATO即応部隊(NRF)の創設が決定されます。9.11事件と新しい脅威への対応に向けて、NATOもその自己変革を進めてきた様子を見ることができます。

(その1)でEU域内諸国の軍事能力ギャップを埋めるために「ヘッドライン・ゴール」が設定されたことを紹介しました。NATOも同様に中東欧諸国が新規加盟し、重大な能力ギャップが生じていることは事実です。さらに、旧東側諸国の兵器体系の多くはソ連製のため、これをどのようにNATO基準に標準化していくかという問題が生じました。こうした問題を改革していくために、「防衛能力イニシアティブ」(DCI)そして「プラハ軍事能力コミットメント」(PCC)を策定し、NATO加盟国間における軍事能力の整備を促しました。その中でとりわけ、戦略輸送能力・空中給油能力、そして核・生物・化学(NBC)兵器への対処能力などが強調されています。

授業でも紹介したように、米国とその他のNATO諸国との軍事能力の差は、もはや一朝一夕では埋めようがありません。したがって、仮にNATOが域外展開を行う場合にも、米国軍とShoulder-to-Shoulderで作戦遂行することは、装備・運用・訓練それぞれをとってみても、大変難しい状況にあります。

その際に新たに浮上したのは、「アラカルト同盟」や「ブティック同盟」といった考え方です。これは、各加盟国が同盟協力の際に、その得意分野を生かしていく、という考え方を意味します。例えば、ポーランドは化学戦能力に大変優れています。これは冷戦期に、西側との戦闘において化学兵器の使用を念頭に置いた部隊運用構想の歴史があったためで、これが「新しい脅威」への対処という点から、大変重宝されることになりました。欧州ではありませんが、日本の自衛隊も掃海能力や音声解析能力については、世界に冠たる能力を持っています。これも、例えば日本の戦後処理として日本周辺の膨大な機雷処理を行った経験からきています。こうした、優れた能力を、個別に発揮していくことが、同盟間協力のひとつの形となりつつあります。だからこそ、「アラカルト」であり「ブティック」なわけですね。

こうした観点から、NATOがアフガニスタン戦争の戦後処理として新生アフガニスタン政府の下で国際治安支援部隊(ISAF)の総指揮権を継承したことも、NATOが新たな任務へと踏み出したことを意味しています。NATOは「域外」へのアウトリーチを、中東・中央アジアまで広げていったことを意味しています。また近年では「地中海ダイアローグ」といった北アフリカ諸国との対話を通じて、関係各国との信頼醸成にも努めています。

【EU・NATOの役割分担はどうなるのか?】

さて(その1)(その2)を通読してみると、EUとNATOがそれぞれ冷戦後・9.11後の安全保障環境の中で、自己変革を遂げようとしていることがわかると思います。そして、その方向性も良く似ている。①任務の拡大、②加盟国の拡大、③機構の改革といった、同じような問題を抱えていることもわかります。一見、EUとNATOの安全保障機能には相当の重複(duplication)が生じているようにもみえます。

EU・NATOが今後欧州の安全保障においてどのような役割分担を果たしていくのか。実は、まだこの答えは十分にでていません。おそらくワシントンの国防総省と、フランスの国防省の双方にインタビューすれば、正反対の答えを得て戸惑うかもしれません。ワシントン側からは、EUの安全保障機能が伸長することをあまり歓迎していないようです。なぜNATOでやれることを、米国抜きのEUで実施するのかという反発がしばしば浮上します。また、EU側では欧州の紛争に際して米国の力をできるだけ相対化したい、という思いがある一方で、現在はNATOアセットに頼らざるを得ず、さらに欧州安全保障政策(ESDP)の強化に本腰を入れるだけの余力がない国が多いのも事実です。

こうした動きをみるひとつの興味深い指標は、NATO即応部隊(NATO Responsive Force: NRF)とEU緊急展開部隊(RRF)が、今後どのように発展していくかにあると思います。双方の構想は、欧州域内・域外における非対称的な脅威、そして人道支援等の部隊派遣・部隊支援の構想です。その意味では、そうとうダブっている構想ということになります。一説には、EU-RRF構想に不快感を持ったラムズフェルド国防長官が、NRFを提示することによって、「EU-RRF潰しに他ならない」(フランス国防省幹部)という見方も呈されています。

いずれにせよ、現在のEUの軍事能力はNATOに比べれば、きわめて些少なので、EU-RRFがNRFを相対化し、「NATOが出てこなくても、EUで対応できる」という政策的選択肢を増やすためには、EUの軍事能力の強化が不可欠ということになるでしょう。その意味でも、EU憲法の批准失敗は、ESDP推進論者にとっては、とても大きな衝撃だったということになります。フランスの軍関係の落胆が眼に見えるようです(^-^;)。


【補足:2004年1月に実施したNATO幹部へのインタビュー】

2004年1月にNATO本部において、数名のNATO本部・政治局幹部と意見交換をすることができました。その際に交わした議論をメモにしてありますので、以下に紹介します。

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(NATO域外へのoutreachの優先順位はどのように捉えるべきかとの質問に対し)NATOが欧州中心(euro-centric)なフォーカスを越えるべきだというコンセンサスは存在する。まずは、NATOの東方拡大と地中海ダイアローグの充実であり、「東方拡大」と「南方対話」である。その後triple-non countriesに対するoutreach問題があり、例えばISAFのようなオペレーションが一つのモデルとなるだろう。中東に関しては、PfPを拡大するというアイディアがあり、事実上は地中海ダイアローグのupgrade版として捉えることができる。将来的にはGCCとの協力ということさえ考えられるかもしれない。さらにこのPfP構想を中央アジア・コーカサスに拡大していくという問題意識は存在する(issue is on the table)。

(アジアにおけるテロリズムや大量破壊兵器の拡散問題は、NATOの政策策定にはいかなる影響を与えているかという質問に対し)これまでNATOにおけるアジアにおける安全保障を軽視してきた。しかし、今後はアジアの安全保障への関心自体がNATOを変質させていくきっかけにもなるだろう。北朝鮮の核開発と拡散への懸念はその一つの契機となる。しかし、こうした問題に欧州諸国が対処するにあたり、すべてNATOの枠組で行う必要はない。欧州主要諸国が参加している拡散安全保障イニシアティブ(PSI)は、北朝鮮を意識した有志連合として興味深い試みである。また、ボスニアにおけるIFORも、参加国をnominateしていく方式をとり、一律の対応を促したわけではない。こうした有志連合は、NATOが柔軟にアジェンダを設定するためのpre-conditionとなろうとしている。

(NATO・EU・OSCE関係を今後どのように律していくのかという質問に対し)1999年の「新戦略概念」はバルカン危機を契機としてNATOの域外展開を非5条任務として規定したものであった。9.11後のアフガニスタン戦争とイラク戦争は、「新戦略概念」自体の見直しが迫られ、NATOが十分に対応できなかったことから「NATOの危機」が広く論じられた。ロバートソン事務総長もNATOの危機(ロバートソンが過度に危機を強調しすぎたきらいがあるとコメント)を十分に認識していた。シェファー新事務総長は米国訪問に先駆け1月30日付のヘラルド・トリビューン(IHT)で、”It is time to get back to the business”という表現でNATOの機能復帰と再定義を論じる予定である。そこでは、①アフガニスタンでの民生の安定のためのNATOの役割、②イラクにおけるポーランド軍に対する作戦計画、インテリジェンス、後方支援の提供、③NATOのResponsive Forceの重要性とNATO全体の能力向上を含む「変革」の重要性、④NATOのoutreach問題が論じられる。こうしたオペレーションの際に、NATOがEUやOSCEとの緊密な協力を行うことが謳われる予定である。

(NATOも99年の「新戦略概念」を超えた新しい概念を策定する時期にあるのではないかという質問に対し)概念としてNATOが新しいコンセプトを求められているのは事実だ。しかし実際にNATO関係諸国が一つの抽象論としての「概念」で合意できるとは現時点では思えない。現在は、東方拡大と南方対話などの具体的な措置を積み上げている(building block)過程にあり、理論よりも実践を重んじなければならない。たしかに米国が「国家安全保障戦略」を策定し、EUが「ソラナ・ペーパー」を策定したあとに、NATO版を求める声は高まってはいるのだが、現時点では新しい戦略文書は策定するのは難しいと考えている。
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投稿者 jimbo : 17:04

第7回講義レビュー(その1)

欧州の安全保障:NATO・EUを中心に

【欧州の安全保障を学ぶということ】

さて、ヨーロッパ(ここでは欧州と書きます)の国際政治を学ぶことは、国際政治学の原点を学ぶことに他なりません。古くはアテネとスパルタの「ペロポネソス戦争」から、ギリシア・ローマ時代、宗教戦争、産業革命と近代欧州の成立・国民国家時代の幕開け、ウイーン体制、第一次大戦と戦後の秩序・・・に至るまで、国際政治の歴史は欧州の歴史と共にありました。今でこそ、米国流の国際関係論や安全保障の諸理論が幅を利かせていますが、国際政治学の空間軸と時間軸に厚みを持たせてきたのは、欧州の国際関係史に他ならないわけですね。その欧州の安全保障を90分1回の授業で扱うというのは、罪深いことですらあります。

ただ第一次・第二次大戦は欧州諸国を疲弊させ、その代わりに超大国・米国が台頭しました。覇権交代の巨大なうねりが20世紀の初頭に押し寄せ、その後「パックス・アメリカーナ」と呼ばれる米国による国際秩序が継続することになります。まさに第二次大戦後の国際関係は、米国の国際関係史といってもよいほど、その存在は圧倒的でした。ただ、ここで重要なのは欧州諸国が、過去2世紀にわたる栄光の歴史と国際関係のイメージを、「共通の記憶」(Collective Memory)として培っていることです。まさにそれは、欧州諸国民が持つ身体知といってもいいかもしれません。

こうした米国流・欧州流といった国際関係に対するイメージが、しばしば米欧関係に緊張をもたらします。ごく最近でいえば、イラク戦争の開戦に至る過程で、米国と(いわゆる)「古い欧州」(フランス・ドイツ等)は鋭く対立しました。米国の新保守主義者(ネオ・コン)論客であるロバート・ケーガン(Robert Kagan)は、2002年6月に発表した”Power and Weakness” (日本語訳 good job!)という論文で「ヨーロッパ人とアメリカ人は同じ世界観を共有している、あるいは同じ世界を共有していると取り繕うことを、もう止めるべきである」と主張し、世界的に衝撃を与えました。やや長いですが、その冒頭のパラグラフを以下に紹介します。

ヨーロッパ人とアメリカ人は、同じ世界観を共有している、あるいは同じ世界を共有していると取り繕うことを、もうやめるべきである。パワーに関するきわめて重要な問題である権力の有効性、道義性、妥当性についての見方が、アメリカとヨーロッパとで分かれつつある。ヨーロッパは権力から目をそむけている。あるいは少し言い方を変えると、権力から超然として、法と規則と脱国家的(transnational)な交渉や協力からなる自足的な(self-contained)世界に移行しつつある。ヨーロッパは平和で豊かな、歴史を超越した楽園(post-historical paradise)の段階に入り、カントのいう「永久平和」を実現しつつある。その間、合衆国は歴史のぬかるみにはまったままであり、ホッブスのいうアナーキーな世界でパワーを行使し続けている。このアナーキーな世界では国際法や規則は当てにならず、真の安全保障と自由な秩序の擁護と促進は、いまだに軍事力の保有と行使に依存している。以上が今日の主要な戦略問題、国際問題に関して、アメリカ人は戦いの神の火星から、ヨーロッパ人は美と愛の女神である金星から来ているといわれる所以である。両者のあいだにはほとんど何の合意もないし、相互理解も次第に希薄になってきている。そして、こうした問題状況は一時的なものではない。すなわち、2000年の米大統領選挙の結果でも、9.11テロという大惨事の影響でもない。欧米の分裂の理由には根深いものがあり、過去の複雑な経緯もあって、分裂の要因は今後も当分存続しそうである。国益の優先順位を設定し、何が脅威なのかを峻別し、課題を定義し、対外政策と防衛政策を形成し実施するという段になると、すでに合衆国とヨーロッパは袂を分かっている。

ケーガン論文は、ぜひ全文を読んでみてください。2002年6月といえばアフガニスタン戦争に勝利し、イラク戦争への準備が加速した、米国がもっとも「新しい脅威」への対処への勢いを増していた時期でした。その時期に、ネオコンが欧州を「歴史に凝り固まった弱者」として、吐き捨てるような議論をしていた雰囲気をよく理解できると思います。そしてさらに議論を進めれば、9.11攻撃によって安全保障の脆弱性を感じた米国が、自らのふるう剥き出しの力と、同時に内包する自らの弱さを、パワーによって克服したい焦りと驕りとを読み取ることができるかもしれません。

【欧州安全保障防衛政策(ESDP)の台頭】

冷戦後、こうした米欧の安全保障に対する哲学の対立を認識させた象徴的な事件が、旧ユーゴ紛争(ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争、及びコソボ紛争)でした。冷戦の終結によりユーゴスラビアがセルビア・モンテネグロ、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチアに分離する過程において、内戦に突入し、多くの悲劇が起こりました。米欧関係の中で旧ユーゴ紛争を振り返ると、それは「紛争解決への哲学」の差異が明確化したといっていいと思います。コソボ紛争において、欧州諸国(特にフランス)が、交渉を重視し、多国間主義に基づく解決方式を志向したのに対し、米国は空爆によって事態を改善しなければ、交渉も先に進まないと強硬に主張しました。結果として、NATOとしてユーゴ軍・治安部隊に対する空爆に踏み切り、数ヵ月後にミロシェビッチ大統領の和平案受諾を得ることができました。

欧州諸国がこのとき痛感したのは、欧州が独自の軍事力を強化しなければ、周辺地域で起きるこうした地域紛争で政治力を発揮することすらできない、という危機感でした。紛争において有効な仲裁・調停をするためにも、また交渉能力を発揮するためにも、十分な軍事力(いざというときの介入能力)を背景としなければ、結果として米国に全てを委ねることになりかねない、という問題意識を強くしていったのです。

こうした中で「欧州安全保障防衛政策(European Security and Defense Policy: ESDP)」の方針を強く打ち出したのが、1998年12月の「英仏サン・マロ首脳会議」でした。同会議において、EUが独自の軍事行動を遂行する能力・機構を保持すべきことを確認し、そして将来の緊急展開軍の設置を視野にいれた働きかけを強めることに合意しています。もちろん、イギリスとフランスには対米関係の温度差はあります。イギリスが米国との同盟関係を円滑にするためにも欧州の能力向上が必要だと考えていたのに対し、フランスは米国の戦略との距離を置くために欧州独自の軍事能力が必要だと考えていました。いずれにせよ、欧州を舞台に置いた安全保障の能力向上が合意形成されていきました。

翌年の1999年の「EU・ヘルシンキ首脳会議」では、2003年までのEU緊急展開部隊(Rapid Reaction Force: RRF)を設置することに合意しました。このRRFは、EUとして域内・域外の人道援助・救援、平和維持、危機管理などの機能を備える部隊です。RRFを構成するのは、6万人規模で60日以内に展開可能で、1年間の継戦ができるものとされています。このRRFの整備によって、EUが独自にコソボ型の地域紛争に対応できるように、能力の強化をはかるものとして、大いに注目されました。

その一方で、RRFは当初より「紙の上の合意」と揶揄されるほど、実質が伴っていませんでした。例えば、域外に部隊を展開させるとなれば、要員や物資を輸送するための長距離輸送機(Strategic Air Lift)が不可欠ですが、こうした戦略輸送機を持っている国がほとんどないのが実情でした。さらに、NATOと比べるとEU域内における指揮・統制・命令・コンピュータ・インテリジェンス(C4I)が十分に整備されておらず、EUとしての訓練もまだ錬度が足りているとはいえません。さらにEUの中小国は、なかなか軍事費の増大が追いつかず、EUとして定めた「ヘッドライン・ゴール」(軍事調達目標)に到達することが困難であるという問題に直面しています。

その結果、EUがRRFを運用する際には、当面の間NATOの基地・施設・装備等を有効活用せざるを得ないことになっています。本来EUの軍事能力の強化は、NATOに頼らず政治的・軍事的オプションを保持できるようにするという大目標がありました。ところが、各国ともに軍事費増加に対する制約などがネックとなり、結果としては一時的にNATOアセットへの依存を強めているという皮肉な状況に陥ってしまいました。

【「欧州安全保障戦略」(ソラナ・ペーパー)】

ただ、「サン・マロ首脳会議」以来のESDP強化への道のりは、確実にEUの独自志向性を強めていることは事実です。未だに軍事能力・運用能力は期待通りに進んでいないものの、EU域内におけるESDP強化のコンセンサス、そして政策対話の強化は確実に進展しています。特に冒頭に紹介したイラク問題における欧州結束の危機は、議長国のギリシアによって開催された特別欧州理事会の結論文書の採択によって回避され、これをバネにESDP再強化への方針が打ち出されました。

こうした成果をまとめたのが、共通安全保障政策(CFSP)上級代表のソラナを中心にまとめられた「よりよい世界のための安全な欧州」(A Secure Europe in a Better World) でした。タイトルこそ一見さえないレポートですが、中身は「欧州安全保障戦略」といってよいほど、重要な文章となっています。

この中で、EUが直面する脅威として①テロ、②大量破壊兵器の拡散、③地域紛争、④破綻国家、⑤国際組織犯罪の5分野を特定し、これに対し「軍事力に限らない包括的な手段を用いた予防的関与(preventive engagement)」の重要性を強調しています。そしてEUの戦略目標として、「脅威への取り組み」「近隣諸国の安全保障の確保」「多国間主義」を柱に掲げています。

一見、これらの主張(「軍事力に限らない・・・」や「多国間主義」の強調)は冒頭のケーガンが批判した欧州における「弱腰外交」の象徴であるかにも見えます。確かに、ソラナ・ペーパーは欧州における交渉重視、外交重視の姿勢を明確にしたものともいえます。しかし、それにも増して重要なのは、①EUが「予防的関与」の重要性を認め、いわゆる「ブッシュ・ドクトリン」の「先制行動論」への調和を部分的にはかろうとしていること、②「近隣諸国の安全保障」を柱に据え、EU域外へのコミットメントを明確にしていること、③「脅威への取り組み」を柱に据え、「脅威対処型」の現実主義的な安全保障観を提示していること・・・等において、きわめて欧州が主体的にパワーの担い手であろうという見方ができると思います。

このようにして、欧州は独自の安全保障政策に向けた動きを加速させようとしています。これがどこまで進化することができるのか、これもひとえに欧州の統合の度合い、そしてNATO・米国との関係が大きな座標軸となることでしょう。そして、前者についてはつい先ごろ、欧州憲法の批准がフランス・オランダの二カ国で批准失敗という事態を向かえ、ここにきて足踏みがみられるようになりました。こうした論点については、次回(その2)でお送りすることにしましょう。

【つづく】

投稿者 jimbo : 01:38

2005年06月05日

第6回授業レビュー

国連の安全保障:多国間安全保障の可能性と限界

さて「国連」は日本の外交政策のなかで特別な意味を持っています。というのも、1957年に発刊された『外交青書』に描かれている日本外交の3本柱として①国連中心主義、②アジアの一員としての外交、③自由主義世界との提携という方針が示されて以来、「国連中心主義」という言葉は、当時の日本外交のキーワードであったわけですね。ところが、実際に日本外交を支えていたのは日米安保体制なり、自由主義経済体制との関わりこそが大事だったわけで、「国連中心主義」という言葉自体も1957年と58年の『外交青書』に現れただけで、フェードアウトしていきました。ただ、戦後直後の日本が国連にどのような期待を込めていたか、を読み取ることができますね。

【国際連盟とその挫折】

さて、歴史を振り返ると国際連合の前には国際連盟(League of Nation)がありました。国際連盟は1920年に第一次大戦後の国際秩序の中心を担う機構として設立されました。国際連盟は米国のウィルソン大統領の国際主義・理想主義(ウィルソン主義とも呼ばれます)に基づく国際協調構想で、第一次大戦の戦後処理の場であるパリ講和会議(1919年)にて「ベルサイユ体制」の一環として成立したものです。

国際連盟は恒久的な国際平和機関を創設するという意味では、世界史上画期的なものでした。そのもっとも重要な目的は、国家間の紛争を仲裁して戦争防止に努め、仮に連盟規約を破った加盟国には経済制裁が課されることになってました。さらに、各国の独立や領土保全、軍備の制限、国際法規の確率、委任統治方式による植民地の管理なども視野に入れていたわけですね。

ところが、国際連盟はその20年後の第二次世界大戦の勃発を防ぐことができなかった。そこには、国際連盟が抱えている三つの問題点をみることができます。第一は、国際連盟の設立を主導した米国が加盟しなかったということです。アメリカの上院はベルサイユ条約自体に反対する議員が多く、さらに内向きのモンロー主義の波及もあって、条約批准に失敗するわけです(米国内でのウィルソン主義の挫折)。

第二は、国際連盟が秩序破壊者に対する軍事制裁規定を持たなかったことです。国際連盟は経済制裁を発することが出来たわけですが、連盟としての集団安全保障として軍事力を共同展開する準備がなかった。これが、後のエチオピア危機においてイタリアを抑制できない問題となってきます。さらに第三は、国際連盟の意思決定が加盟国の全会一致原則だったことです。これは裏返せば、全ての加盟国が拒否権を持っていることと同様で、重要な問題において全会一致が難しい場合、国際連盟は事実上の機能不全に陥ることが予期されていたわけです。

こうした致命的ともいえる問題点をはらんだ組織には、やはり歴史は厳しく展開します。国際連盟は満州事変(1931年)やイタリアのエチオピア侵略(1935年)に有効に対応できず、さらに日本・ドイツ・イタリアが国際連盟から脱退し、そして1939年にドイツがポーランドに侵攻、ソ連もフィンランドに侵攻して除名されるなど、国際連盟は形骸化しました。わずか20年だったのですね。第一次大戦から第二次大戦までの過程を「戦間期」といいますが、戦間期の理想主義と現実主義の相克を描いた傑作が、E・H・カー『危機の20年』(岩波新書)という作品です。関心のある方は、ぜひ読んでみてください。

【国際連合の成立と冷戦期の機能不全】

国際連盟の失敗を受けて、新しい国際組織を作ろうとする動きは、すでに第二次大戦中の大西洋会談(1941年)に行われていました。その後、ヤルタ会談において連合国間の協調体制が確立し、その後の国際連合(United Nations)の設立へとつながっていきます。国連のもっとも重要な狙いは、国際連盟の失敗を反省し、①国連軍による集団安全保障体制を導入し、②戦勝五大国(米・英・ソ・仏・中)の安全保障理事会における意思決定を重視したことでした。

集団安全保障の規定は、国連憲章の第7章に設定されています。それによると、集団安全保障は「平和に対する脅威」の認定(第39条)⇒事態の悪化防止への暫定措置の要請(第40条)⇒非軍事的強制措置の適用を決定(第41条)⇒軍事的強制措置の適用を決定(第42条)⇒国連軍の組織と制裁行動(第43条)という手続きによって実施されることになっています。

ところが、その国連もその後の米ソ冷戦によって機能不全に陥ります。そもそも戦勝国の協調を前提としていた安全保障理事会が、米ソ対決によって互いの拒否権の乱発という事態に陥ってしまったからです。その後の歴史は、朝鮮戦争という唯一の例外(しかもそれはソ連の安保理ボイコットによって成立した)を除き、国連軍は一度も成立しなかったわけです。第二次大戦後の安全保障秩序から、国連の姿は大きく後退し、それに変わって米ソを盟主とする同盟関係こそが、その秩序構築を主導したわけですね。

【ポスト冷戦期の国連の安全保障機能】

冷戦が終結してから、もう一度国連の安全保障機能を復権させようとする、国連待望論が浮上した時期がありました。それは、第一に米ソ対立が解消されたことによって、安保理が再び機能を回復することへの期待、そして第二に湾岸戦争において、国連安保理が多国籍軍に武力行使を「授権」することによって、指揮権の問題を加盟国の自主性を担保しつつ、国連が権威を与える(authorization)実績をつくったことも、新しい国連の安全保障機能の台頭を髣髴させるものでした。

このポスト冷戦の国連の安全保障機能に野心的に取り組んだのが、事務総長のブトロス・ブトロス・ガリ(Boutros-Boutros Ghali)でした。ガリは自らのイニシアティブによって1992年に『平和への課題』(Agenda for Peace)を提出し、国連が①予防外交(Preventive Diplomacy)、②平和創造(Peace Making)、③平和維持(Peace Keeping)、④紛争後の平和構築(Post-Conflict Peace Building)という4つの機能を強化すべきという画期的な提案を行いました。これは、国連が安全保障秩序を形成するアクターとして力強い役割(拡大平和維持路線)を果たすことへの期待が込められていました。

ところが、この構想のもっとも野心的な②平和創造についてはわずか3年で挫折してしまいます。特に、ソマリアにおけるUNOSOMII、及びユーゴスラビアにおけるUNPROFORの失敗は、『平和への課題』の掲げる国連の安全保障機能の欠陥を浮き彫りにしました。UNOSOM-IIでは、国連の治安維持機能が昂じ、現地武装勢力の一派(アイディード派)への掃討作戦に失敗、パキスタン兵と米兵に多くの死者がでて、さらに米兵が現地ソマリア人によってモガデシオ市内を引きずられるなどの、散々な結果に終わりました。その後、米国はソマリアから撤退を決意することになります。さらにUNPROFORでは、ボスニア・ヘルツェゴビナとセルビアの双方への軍備抑制措置を徹底できず、「中立原則」の限界を露呈し、さらに軽軍備の平和維持軍が武装勢力に殺害されるなど、「悲劇の平和維持部隊」ともいわれています。

このような国連の安全保障機能には、中立化という原則が停戦や紛争の再発防止に必ずしも有効な原則ではなかったこと(eg. UNPROFOR)、重武装による肩入れの失敗(UNOSOM-II)や軽武装による部隊の脆弱化(UNPROFOR)などの介入する部隊規模の難しさ、さらに各国の国益を超えた場所に危険を賭して展開する限界(例えば、なぜソマリアのために米兵が命を賭けなければならないのか・・等)など、さまざまな問題を呈してしまったわけです。

このような困難な経験を経て、ガリ事務総長は1995年に『平和への課題:追補』を提出し、国連が事実上②平和形成の役割から撤退することを明示します(拡大平和維持路線の挫折)。しかし、紛争予防、予防展開、平和維持などの分野において、国連の役割は尚重要との考えを強調し、これが後の『ブラヒミ・レポート』における「平和維持活動におけるリアリズムの導入」につながっていくわけです。すなわち、平和維持活動においてもPKO要員の安全確保のための武装、交戦規定(Rules of Engagement)などを明確化し、PKOの実効性を高めていく方向性を打ち出したのですね。

こうして国連は、国際安全保障において予防外交、武力行使の授権、紛争後の平和構築などに重要な役割を負い、今後もその役割は高まっていくであろうと予想されます。ただ、実際の武力行使、そして平時・危機時の抑止力の提供は、引き続き個別の安全保障関係(同盟関係、多国籍軍)に依存する構図も強まっていくでしょう。

【ポスト9.11を迎えて:新しい課題の浮上】

国連が9.11後の「新しい脅威」に対してどのような役割を果たせるのかも大きな課題です。授業では時間が足りなかったこともあり、アフガニスタン戦争、イラク戦争に際して国連の果たした役割に踏み込むことができませんでした。これらのテーマについては、「テロリズムとカウンター・テロリズム」の回に改めて分析してみたいと思います。

国連憲章を初めとする国際法制は、必ずしも非国家主体などの脅威を想定して策定されたものではありません。これが、「自衛権の範囲」等に対して硬直的な解釈を生み出している・・・と米国は考えています。仮に「新しい脅威」に対する抑止関係が十分に成立しない場合、ある程度時間軸を長期にとり、1ヵ月後、場合によっては1年後に想定される脅威を「自衛権」と定義し、そこに予めさまざまな措置を発動し、場合によっては攻撃を加える・・・。こうした「先制行動論」は、国連の安全保障機能と果たして調和することが可能なのでしょうか?そして、テロリズムの脅威、大量破壊兵器拡散に対する脅威について国連はどこまで役割を果たすことができるのでしょうか?イラク戦争やPSI等によって盛んになった「有志連合」(Coalition of the Willing)と国連はいかなる位置づけにあるのか?・・・など、さまざまな問題が設定できると思います。そしてこれらは、今日でも解答のでていない困難な課題であるといえるでしょう。

【安保理改組の行方?】

「国連ハイレベル委員会」の提言が提出されて以来、国連改革(とりわけ安保理の改革)の議論が活性化しています。日本は外務省の悲願(?)として安保理入りを目指しているわけですが、日本が安保理でどのような役割を果たすべきかという議論は、イマイチしっくりとなされていません。現代の安全保障の特質、同盟関係の変質、多国間安全保障の可能性と限界、冷戦後/9.11後の国連の役割、などの分析を踏まえて、現在国連が抱えている問題、そして将来国連が担うべき安全保障上の役割をしっかりと構想しないといけません。国連を国連のみで捉えると、おそらくどこかで躓いてしまうでしょう。「安全保障論」を政策学として捉え、同盟・多国間安全保障・国連の歴史を総合的に学びつつ、現代の安保理の位置づけを考えることが、とても重要だと感じています。

レポートで課題を選んだ皆さんの健闘を期待しています(^-^)。

〔リーディング・マテリアル〕
神谷万丈「国連と安全保障」防衛大学校安全保障学研究会編『安全保障学入門:最新版』(亜紀書房、2005年)

〔さらなる学習のために(和文)〕
[1] ジョセフ・ナイ『国際政治:理論と歴史(原書第5版)』(有斐閣、2005年)第4章「集団安全保障の挫折と第二次大戦」
[2] 上杉勇司『変わりゆく国連PKOと紛争解決:平和創造と平和構築をつなぐ』(明石書店、2004年)
[3] 日本国連学会編『21世紀の国連における日本の役割:国際シンポジウム』(国際書院、2002年)
[4] 斉藤直樹『国際機構論:21世紀の国連の再生に向けて』(北樹出版、2001年)
[5] 筒井若水『国連体制と自衛権』(東京大学出版会、1992年)

*さらに最近の動向を知るには、『国際問題』、『外交フォーラム』、『国際法外交雑誌』、『海外事情』などの雑誌を調べてみてください。

〔さらなる学習のために(英文)〕
[1] Kofi Annan, “In Larger Freedom: Decision Time for UN” Foreign Affairs (May/June 2005)
[2] Thomas Weiss “The Illusion of UN Security Council Reform” The Washington Quarterly (Autumn 2003)
[3] Simon Chesterman “Bush, the United Nations and Nation-Building” Survival (Vol.46, No.1 March 2004).
[4] Danesh Sarooshi, The United Nations and the development of collective security: The Delegation by the UN Security Council of its Chapter VII Powers (New York: Oxford University Press , 1999)
[5] Walter Clarke and Jeffery Herbst, “Somalia and the Future of Humanitarian Intervention” Foreign Affairs (March/April 1996)
[6] Richard K. Betts, “The Delusion of Impartial Intervention” Foreign Affairs (November/December 1994)

*国連改革の動きを見るために、[1]と[2]の対比は面白い。[3]は米ブッシュ政権と国連の動向についてのもの。和文では中山俊宏「アメリカにおける『国連不要論』の検証」『国際問題』(2003年10月)に詳しい。[6]は傑作、授業で紹介した論理のエッセンスになっている。

投稿者 jimbo : 17:55

2005年06月04日

第7回パワーポイント

第7回パワーポイントはこちらです

投稿者 saeki : 10:59 | コメント (0)

2005年06月03日

安全保障論補講のお知らせ

安全保障論補講

日時 :6月4日(土) 第2限
場所 :Ω21
テーマ:欧州における安全保障

よろしくご確認ください。

投稿者 jimbo : 07:33 | コメント (0)