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Juni 30, 2004
どきどき
一応の復旧をみた、このラップトップなのですが、依然突然電源が切れるという危機をはらんでおります。よって、今この文章も気分としては、崖の側をメールをケータイで打ってるという、緊張感はあるのだろうけれど、やっている行為は少しもかっこいいものではないという状況です。
でも、やっぱりこのキーボード打ちやすい。なんだか、好きだよ。でも突然切れるのはやはり怖いので、何をするかといえば、すぐに必要であろう課題メールなどはプリントアウト。おかげであたりは紙がたくさん。そして、ぼちぼちと学校のディレクトリにファイルを送りながら、容量を気にしながら。
ハードディスクの音が少しするだけで、はらはらして心臓に悪いので、おやすみなさい。
最近、どきどきしてばっかりだなあ。今日の午前中もどきがむねむねして痛かった。
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Juni 29, 2004
夏と梅雨
今年の梅雨は雨が少ない。
梅雨なのに晴れ、というのが気分的によろしい。
夏なら晴れで当たり前。どんなに快晴だったとも、それは真夏日などという「そこまで暑くならなくても。。。」という否定的な文脈で描かれることも少なくない。
ところが梅雨ならどうだろう。たとえば30度を越える、痛いほどの暑さでも「梅雨の中の快晴、真夏日」という、雨上がりの西の空みたいな、歓びのイメージがそこにはある。
だから、思うのだけど、もう梅雨明け宣言をいっそ10月くらいにしてみたらどうだろう。「確かに、晴れの真夏日は続くのだけど、ほら、次の台風がそこまで来ていて梅雨明けと言いきってしまうのは、なにか不安なんですよ」と、巧妙に梅雨を伸ばしつつ「さあ、今日は梅雨なのに真夏日です」と、ネガティヴの中のポジティヴを演出。
「今年はついに夏が来ないまま、秋になってしまいましたね」というセリフも、何か心動かされる。何かが始まって、胸踊って、傷付いて、ぼろぼろになってしまうのは大抵夏だとTUBEも歌っているように、夏は疲れるのだ。夏の疲れを秋に残さないために、夏をたまにはなくしてみたらいかがでしょうか。
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Juni 28, 2004
映画とテレビ
映画を見たい。でも見ない。
レンタルビデオは返却期限が憂鬱になるからほとんど借りない.借りても、ほとんど見ないか、返す直前に早送りで見るくらい。
DVDを買っても一度見て終わり。二度目を見たいという気持ちはとてもとても強いのだけど、結局最後まで見られない、ということがわかっているから手にも取らない。
だから映画を見るチャンスは、ほとんどない。映画館くらい。あんまり行かないんだけど、強制的に映画を見ざるを得ない、映画を見る以外の全てを絶つ装置に身を埋めれば、さすがにやっと映画を見ることが出来る。
そもそも、テレビと言う個室のメディアに映画は相応しいのかな。
バラエティーやドラマと違って、日常性を越えた作品が多いじゃん?そしてテレビほど個人を相手にしてない。それは映画館っていう大衆劇場みたいな場所と結びつくことを前提に成立している。
それを、部屋で見ることはどうなのさ。早送りも巻き戻しも、さらには入力切替で普通のテレビにチャンネルを変えることも出来る。
そんな選び放題の場所じゃ、映画の壮大さも権威も相対化される。ならせめて徹底的に相対化して、CMまでつけてくれ(だからかろうじて、テレビで放送する映画は見られることがある)。
というわけで、今日は映画専用テレビデオのご案内です。早送り、巻き戻しは当然不可能。一度はじめたら最後まで見ることは出来ません。さらに、一度見た作品は二度と鑑賞不可能になるために、集中して作品に向き合うことが可能です。今なら、体を固定する椅子(ポップコーン置き場完備)つき!トイレなどをすましてからご鑑賞ください。
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Juni 26, 2004
パソコンが起動できない
「モニター壊れたの?この時期に大変だね」と、友達にこころのない励ましをかけていた先週のことが懐かしく思い出されます。
「またパソコン壊したの?」と、パソコンを壊すことは半ばネタだと思っていました。でも、同じ状況を共有して、はじめてその痛さに気がつくみたいです。そう考えると戦争も難民も発展も在日も何もかもが、想像以上に難しい問題に思えてきます。
ラップトップがうまく起動しなくなりました。
多分、物理的な問題っぽいので、CNSコンサルタントなどに泣きつけば、治るかもという淡い期待も捨てていないのだけど、それでも痛いです。
さあ、どうしよう。
セーフモードですら起動しないや。
修理に出すのか、それとも何とかやっていけるのか。
家のパソコンにもイラレいれとけば良かったなあ。
悲しい話になってきたので、最後にひとつ、こころあたたまる今日の絵文字を。
むつ
↑ スヌーピー
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Juni 25, 2004
公衆電話よ再び
(授業中に考えたことなんだけど、とても強引。まあideaだから)
近代化とは個人の自由化だと言い換えられると思います(強引?)。その意味で、日本における近代化は60、70年代に達成されたのではないでしょうか。ミーイズム、ジコチューの台頭です。
個人化とはいやおうなしに、孤独化です。でも、別にそれは自由の代償のような、切実で悲しい孤独ではなくて、部屋が好き!のような、自分からも選んだ孤独でもあるようです。
個人化を見て取れる、一つの結節点。それが携帯電話です。
かつての家に一台の時代から、個室化(子機)、そして街中へプライベート空間の持込としての携帯電話。その流れは、半パブリック(個人と集団のハザマ)→個人化(部屋の中・内部化)→個人化(街へ)という、時代のそれと呼応していることがわかります。正確にはひと世代遅れでその波がめぐってきているようです。
今、携帯は全てのものを取り込もうとしています。電話帳、手紙、ネット、音楽、テレビ。個人化・内部化を極めるその姿は、近代の興隆、つまり個人化の極みを表出しているように見えます。
しかし、現実世界で、近代化は行きずまってしまいました。つまり個人でいたいけど、人とも繋がりたいという微妙なアンバランスの状況での、不安定な停滞です。
携帯電話にも同じようなことがおきているのではないでしょうか。コミュニケーションツールだったはずの携帯電話。しかし、個人化がすすみすぎたそれは、あまりにも孤独なツールです。
復古主義に興味はありませんが、近代を超えないといけないとしたら、それは個人!というパラダイムの転換、もしくはそれに風穴をあけることだと思います。
たとえば、一人ではいられるけど、もっと切実に一人ではなくなる、そんなふうに。
近代化の克服は少し命題が大きすぎるので、携帯電話で考えて見ましょう。ていうかそれが本題です。機能の内部化を突き進めた携帯電話。一見それは便利で、それ一台で何でも叶ってしまうのだろうけれど、逆に言えば、携帯なしでは何も出来ないのです。
そこで、機能の外部化という方向性で考えてみたらどうかと思うのです。つまり、公衆電話です。公衆電話は過去のメディアだと思われがちですが、新たな文脈を付与することによって、それは携帯電話の次の段階のニューメディア(この言い方が古いけど)になるんじゃないでしょうか。
機能の外部化、つまり手ぶらですむ化というのは、ユビキタスの考えとも符合します。
ただ、別に携帯を廃止して公衆電話の時代をもう一度!なんていうラディカルで復古的な話ではありません。携帯電話は持ちながら、でも多様なスタイルの選択肢のひとつとして公衆電話がもっとあっていいと思うのです。
それはどんな方向性でもいいかも知れません。
たとえば、公衆電話的文脈で語るなら「ディズニーランド限定公衆電話(声がミッキーの声になり、TV電話の画面にはオールスターが総出演)」「渋谷限定携帯電話(ギャル語に自動変換)」といったようなことですが。
でも、個人を越えてという意味から、もっと複数の人での連絡手段になっていいのかも知れません。たとえば電報的な電話。連想ゲーム的に伝わっていくというなアナログの価値観の再考。
他には、眠くなってきたので、もう考えるのはやめますが、近代とかっていう言葉を使うと、自分が現代人になったような気がして、少し癒されるので、こころは疲れていません。
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Juni 23, 2004
6キロ
この冬から太った体重の総量ではありません。
昨日のボクのバッグの重さです。
6キロです、6キロ。この21世紀に。
<内訳>
パソコン1キロ
本4キロ
ペットボトル1キロ
まず、本がどうしようもなく重いですね。いつになったらパソコンは本を兼ねられるようになるのでしょうか。そうじゃないと、本+パソコンという、パソコンを持ってない人よりも重い毎日を生きていかないとならないのです。トレーサビリティもいいですけど、持ち物の重さについて誰か真剣に考えてくれないと、そろそろ肩が壊れます。
そしてペットボトル。
とても水分をよく飲むので900mlのペットボトルを持ち歩いているのだけど、それも1時間目には切れます。本当は1.5リットルを持ち歩きたいのですが、それだと電車の中で堂々と飲めません。何か、困っている人みたいになってしまいます。
マラソンの水分補給所みたいに、街中に水分の補給を促してくれる人を置いて欲しいです。そしてもらったカップはその場に捨てても、ディズニーランドのようにすぐに回収みたいな、夢の町に住みたいです。
三田にも帰りに寄ったのだけど、あのケイオーの包むバッグ率が多くて羨ましかったです。ほぼ手ぶら(推定重量300グラム)なんて。リュック率の多いSFCとは大違いです。32度を越えた都心の照りつけるアスファルト、その中で重いを馳せながらとぼとぼ歩く人間と、感じないほどの荷を携えて歩く彼らとの間に、湘南と三田以上の距離を感じたのでした。
投稿者 POE : 01:59 EM | コメント (3) | トラックバック
Juni 21, 2004
乙女
昨日の夜、薬を吸ってから(喘息の)、心臓がおかしい。推定200回毎分の割合で心臓が打つ。手が震える。何かに寄りかかると震えてしまう。
寝ておきて覚めたら出来上がってると信じていつも生きているんだけど、今度は今朝おきてからも、心臓のどきどきはとまらなかった。
でも、もう世界はふらついていなかったんで、学校に行ったけど。台風好きだし。
恋する乙女は大変だね。いつもこんな風にドキドキ胸打ってるんでしょ?そりゃ、狂言とか妄想とかも起こしたくなるよ。
投稿者 POE : 08:38 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 20, 2004
CONNECT THE PRIVACY
一年前の情報処理の課題につくって、みんなにひかれたページ。
リアリティは微塵も無いけど、少しだけ面白いと思うのだけど、どうですか?もしかしたら、一年前の自分の方が、色々と面白いことが出来たのではないかと心配してしまうボクはだめでしょうか。どうしても、自分には甘いんです。
http://web.sfc.keio.ac.jp/~t03881nf/diary.html
投稿者 POE : 10:21 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 19, 2004
メモ
「永遠の自分探し症候群」だったり、「電車の中で化粧」だったり、「他人を気にしない若者」だったり、実はそれは日本人の本来的なものじゃないのかなあ。
何十年か前の高度経済成長期、十年前のバブルには、日本全体に大きな物語というか、すがるべき文脈があったわけじゃない。
いい会社、いい大学、みたいな。その価値観にのっとけば間違いないみたいな文脈があった。で、それを検証するときも、その文脈を見ればまあ大概はつかめる。
で、そういうのが崩れて、今まで見えなかったそういう本来の日本人の特性が顕在化してきたり、語られるようになったんじゃないか、と。
斉一的に物事を語るのは好きじゃないけど、日本人って「世間」とか「ヒトの目」とか気にするものだよね。少なくとも、大人たちも。で、その自分の属している集団以外には、あまり気をつかわないで生きてきたと思うんだ。
で、大きな物語のない毎日で、結局、そういう排他的な面やなんかが出てきたんじゃないかなあ。自分の属している集団の矮小化と言い換えてもいいけどね。
って、今日も冴えないネタで。ネタにすらなってないじゃんね。でも好きなんだもん、「若者」が。
投稿者 POE : 07:25 EM | コメント (1) | トラックバック
Juni 10, 2004
悲しい
なんだか、偏見を通して見ているかも知れないけれど、東京都の教育がらみの問題が最近、なんだか悲しくなる。日の丸掲揚とはあきらかに別次元の問題とはわかりつつ。
70年代の千葉県のどうしようもない管理高校を見ているみたいだなあ。ガムを噛んでいるだけの生徒の顔を殴り重症を負わせたり、校門の前にスクールルールを守っていない生徒を正座させたり、卒業アルバムにそうした生徒の写真欄に花を載せたり(これは静岡だけど)。
別に70年代じゃなくても、体罰って今もあるか。たくさん見てきた。どうしようもない教師がまだいると思うと、鬱になる。
法律すら守れない彼らが守りたいものは何だろうとか、思考は淀んで落ち込んで。
でも本当に怖いのは、それを「仕方ない」と思ってあきらめてしまう人がいた場合のことかなあ。
ってだめだ、真面目に論理的にまだ日記なんかにかけないや。生々しすぎて。
投稿者 POE : 01:55 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 09, 2004
脳内テトリス
なんだか、物事が最悪なわけじゃないのだけれど、どこかなぜかうまくいかない。
きっと疲れてるせいかな。体力が欲しい。
ところで、脳内テトリスって出来る?
好きな作家が「電車内でアプリをやっている人が多いけど、テトリスくらい頭の中で出来ないのかと思うと悲しい」というようなことを言っていた。
ためしに今やってみたんだけど、数ターン目で消えないはずのテトリスまで消えていき、さらに数ターンで、色の概念が消え、さらに数ターンで何も落ちてこない中でいきなり全てのテトリスが消えてゲーム終了。
難しいよ。これ。
むしろ、ぼーっとしてると、無数の声が、頭の中に響いてくる。それは過去にどこかで聞いたものかどうかはわからないんだけど、その声は本当にずっと聞こえてきて、しゃべり続けている。
どこに行けばいいんだろう。
でも、ママはもう少しまってねって言ってたよね。
それでも少しくらい歩いてもいいだろう。
どこに行くって言うの?別にここでいいじゃん。
だって、なんだか同じこのパン屋の前にいても、楽しくないだろ?
そんなことないよ、においとか、人とか、空とか、運命とか。
でも、だったら、もっと違う場所のにおいとか、人ととか、
ねえ、煙突が見えるよ。ほら。
煙突?
って、書くスピードが追いつかないからやーめた。もう二人は煙突の中だよ。
投稿者 POE : 11:55 EM | コメント (1) | トラックバック
浸透
爪痕が見せ付ける日々のこと
陰りゆく悲しみの中で
少しずつ染み込む季節
忘れてた影をつなぎとめる
待つことの意味が今なら
この広い世界でわかるけど
新しい夢のはじまり
終わってしまう場所の痛み
さよならはいえないで
海はもう重くなって。
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Juni 08, 2004
それでも、だけれども。
モノを知っていくことは、歴史を知ることは、思想に触れることは、自分を相対化してゆくこと。 本当に、一人の人間が存在しているっていうプロセスは、信じられないくらいの可能性を潜り抜けてきた上で成り立っていて、しかもそれはほんの一瞬のきらめきに違いないこと。 考えをイメージ化してしまうと、時にそれは怖くなってしまう。そして、安心できる。 本当に、本当に、すべてはなんでもないこと。 全てとも思える、この世界の今日一日や20世紀や文字の発明も、全てからみたら何でもないこと。 なんか、宇宙飛行士が宗教に目覚めるのって、こんなかんじなのかなあ。 って最近、なんだかなあ。疲れてるのかなあ。 http://www011.upp.so-net.ne.jp/o-ninno-run/nes.html投稿者 POE : 11:56 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 07, 2004
抜けて返す空
重い花曇の空が去って、頭上に広がっていた空が、鮮やか過ぎて、急に現実感を持ってこころに迫ってきた。
今日の夕方は、台風一過のように蒼く抜けていた空や、吹き抜けてゆく東からの風や、それが揺らす緑や、影や、粒や、水や、世界が、きれいだった。
トトロさえ最後まで見ることの出来ない「自然が嫌い」といってはばからないボクですが、空と風が好きです。変わってゆく空の色、蒼く続いていく空の予感、世界の終わりのような重い空、頬に当たる何気ない風。
それは空や風が、それ単独で存続しないものだから。ビルの向こう側、木々の後ろ、街のハズレから。空や風はいつだって世界と共に存在している。空や風は自分をかすめるけれど、自分を侵すことはない。いつだって、ただそこにある。頭上には、世界には、空や風がある。
だけど今日の、空がこころに迫ってくるという体験は、少し違う。確かに、空や風は自分を侵さないけれど、なんか、一体化する感じ
とか書いてて、もうやめたくなってきた。なんかおかしな東洋主義みたいになってきたぞ。
禅とヴァーチャルリアリティーを同時に語った本を読んだせいかな。
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Juni 06, 2004
キーボードを越えて(命令形)!
キーボードよりも、もっと素敵なインターフェースがはやく発明されないものか。
だって、遅いんだもん。だって図や絵が書けないんだもん。
いや、自分のせいなんだけど。
もっと考えとその発現を同期させたい!
というわけで、最近はずっとノートも手書きです。
うちの頭の中はほとんどがイメージと、あとは具体的な文字で成り立っていそうなんだけど、その意味で、真っ白いノートに手書きという構図が一番、 させやすい。
書くっていう言葉の語源が掻く(かきつける)であったり、英語のsubscribe,writeも爪でひっかきつけるっていう意味から派生しているように、かつて書くって言う行為は身体性を伴ったものだった。
その歴史的文脈から言っても、メモや考えの外部化に、手書きって言う手段を使うことは、ある程度の意義があるし、ツカエル行為だと思う。
ただ、それだと見た目が美しくないし、編集が容易じゃないし、という色んなデメリットがあるのも事実。バインダー使え?だって、なんか面倒で。
だから、今はこうやって、日記なんかは、編集も容易で見やすいテキストなんだけど、本当はこの横に図なんかを書きたいし、もっと早く打ちたい。でも、図なんていれるのは想像も絶する面倒くささだし、タイピングなんかをこれ以上練習したくもない。
だから、キーボードじゃない道具を求めるわけで。手書きの認識がすごい高い、指での軌跡がそのまま文字になるように道具が、せめてもっと一般化してくれたらなあ。って、クリエじゃん。クリエ使え?
投稿者 POE : 04:03 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 05, 2004
世界の色
世界は簡単に塗り替えられていく。特に、主観に生きる個人の場合は。
自分を構成するほとんどのものが記憶であったり関係であったり、過去の産物で、それを抱えて今を生きていくわけだけど、常にその過去には今が投影され続ける。
楽しかったことも、悲しかったことも、今見ている感じている世界を通して見てしまう。
常に後ろ向きのベクトルが存在している以上、昨日楽しかったことも、今が悲しいなら意味を失っちゃう。
さらに、過去の集積である自分自身も簡単に意味づけが変わる可能性があるということ。
ほんのささいなつまずきや痛みで、世界は一変してしまう。
久しぶりに凹んだ気分になれたので、ネタに使えると思って、何とか色々記述を試みたけど、だめだった。メタ的な視点で考えることで、その物事を無機的にして、どうにか自分を慰めようとしてしまう。
投稿者 POE : 12:46 FM | コメント (1) | トラックバック
Juni 03, 2004
何気ない悲しみ
悲しみはいつだって
足元に転がっている
気がつかなければ良かったと
今更悔やんでも仕方なくて。
たとえば慣れてゆく痛みも
はじめて泣いた日があったはずで
忘れることで強くなってしまったこころを
どうやって慰めることが出来るだろう。
いつものように笑って
そのまま諍いもなく消えてゆく
無色の世界を望んでる訳じゃない
少し遠回りになってでも
行きたい場所があるんだって
いつもは楽にね話してしまえるのに。
何気ない悲しみ
世界に翳して見たら
夜の駅前も空のくぼみもマンガのコマも
全てが悲しく、ただ悲しく縁取られてしまった。
何気ない悲しみ
時代に照らして見たら
全てが悲しく、そう笑顔までも意味を変えてしまった。
投稿者 POE : 10:05 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 02, 2004
私という物語の結末
「だって、私はお菓子が好きで、今日は学校で二項定理を習ったし、太陽は東から昇ってきて、宇宙はビックバンでうまれて、空は青いのよ?」
私はもう必死に声を荒げました。
だけど君は落ち着いたまま、丁寧に言葉をつむぎます。
「それはあなたの見ているあなたの世界だ。じゃあ、これでどう?」
君は、誕生日会のときのように、息をふーっと吹きかけました。
ロウソクのように、君や街や空や鳥が揺らいだのは気のせいでしょうか。
世界がまばたきをしたみたいに、辺りは暗くなり
そして間も無く、全ては消えてしまいました。
この私、だけを残して。
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Juni 01, 2004
繋がっていたい?
別にそんなに自分が人と繋がり続けたいわけじゃない。
だって、繋がることは自分からも何か差し出すこと。
それは片手でも袖の端でもいいんだろうけれど、繋がり続けていくことは、きっと怖い。
会えるけど、会わない人は意外と多い。
あの時あの場所だからこそ、会えた彼や彼女は、今日これから会ってももうそこにはいない。
だから、きっともう会わない人は多いんだろうなと思う。
すれ違ってしまった距離は、もう引き戻せないし、引き戻したら新しい意味が付与されてしまう。もちろん、その新しい意味が、素敵なものだったら、また会うことに意味はあるんだけど。
だから、別に明確な、たとえばメールの数とか、greeの登録人数とか、そんなことはどうでもいい。(正確に言えばどうでもよくない。他人に対するファッションとして、それが白日にされる機会があれば、ある程度は「繋がり続けて」いたい)
止まってしまったままの関係を、引き止めるのは、惜別とか過去に甘える弱さと保険でしかない。
携帯のアドレスには、道管の様な関係が詰まっている。
でも、それも消せない。
繋がってなくてもいいから、離れてしまってもまた繋がれるような関係は確保していたいからかな。
生きている関係、みんなはどれくらい持っているんだろう。
現在進行形の関係。必要な関係。
いつも一人じゃ無理。
でも一人じゃなきゃ無理。
ずっと一緒になんてきっと今は考えられない。
脆弱な境界線はまだ臆病なままだから。
って、また今日も何言ってるんだろう。
素直に、学食を一人で食べるのは寂しいって言えばいいのにね。