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Mai 30, 2005
急行
急行という響きがときどきいとおしく思えます。
でも心がときめくための条件は意外と厳しくて、「急行電車」じゃだめ。
なんだか世俗っぽさが滲み出てしまって。
逆に「急行バス」なんて最高ですね。
系統に「急行03」とか書いてあると、どきどきしてしまいます。
何だか、イメージとしては「急行バス」は海や市場と重なります。
有明とか、豊洲とか、大井市場とか。
東京湾大好き。
って、まあそんなどうでもいいですね。
そんなことよりも、今日の休講ですよ。
片道2時間半かかる学生への辱めですか?前世の祟りですか?
しかも、明日も休講?少しもいとおしくないです。
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Mai 28, 2005
今日の自殺方法
こんにちは、今日の自殺方法の時間です。大変なご不評の中、連載もついに78回目(休載を含める)を迎えました。
本日ご紹介する自殺方法は「渡海往生」。平安時代から鎌倉時代まで一部の僧たちの間でブームを起こした、生身で舟に乗って海に向かって旅立ってゆく自殺です。
まず、数人で舟に乗り込みます。船は外から釘で打ちつけてもらい、外に自分たちが出られないようにします。窓もありませんから、内部はわずかな灯火に照らされるのみです。他に積み込めるのは、一か月分くらいの食料と水だけとなっています。
適当なのは北風の激しく吹く日。遠く遠く南へと旅立ってゆける日を選びます。
当時は、高齢に達した者たちの自殺方法として多く用いられました。僧たちの往生ですから、即身仏と姥捨ての二つの意味をかねていたのかも知れません。
もう決して外へさえ出られない舟に揺られながら、決してたどりつけはしない浄土を目指した人々。浄土は西ですから、いくら南へ進もうとも決してそこへは、たどり着けはしないのです。それでもなお、南へ進む彼らの気持ちはどのようなものだったのでしょうか。
そんなことを考えながら、海に想いを馳せてみるのも雅なものです。
(ちなみに現在同じことを行うと、海上衝突予防法、海上交通安全法、港則法をはじめ種種の法律違反の恐れがあります)
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
遠い声が
朝に差し込む
朝を失くした窓に
響く光は
闇の先に照らされる
沈み込んでいられたらね
一人でいいとあきらめられたらね
全部嘘だと受け止められたらね
それでいいと
それでいいと言い切れたらね
乗り合わせた客は
もう黙り込んだまま
空の狭間
見えた衛星の淋しさも
沈み込むホームの先
まるで
何百年も
幾億年も
一人きり
走り続ける恒星
その伴奏者は
同じ距離を保ち続け
孤独な旅を
孤独なまま見守る
たどりつけたらね
たどりつく場所もないけれど
せめてたどりつけたら
どこかへたどりつけたら
たどりつけないと知りながら
たどりつけない道を選びながら
それでもたどりつけたなら
いつかたどりつけたなら
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Mai 27, 2005
画像=思い出作りコミュニケーション
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[情報通信文化論課題]
■プリクラ 画像を用いたコミュニケーションというお題で一番に思い出すのはプリクラである。プリクラと言えば1995年に登場して以来、女子高生を中心にブームを超えた定番となり今に至る。たまごっちの短命ぶり(去年、こっそり復活しましたけどね)を思えば、その浸透力の強さには目を見張るものがある。プリクラの交換、とりあえず友達が揃えばプリクラ。大学生でもしますよね? その成功の要因は様々な角度から分析できるだろうが、その因子の一つとしてここで僕が注目したいのはプリクラによる「思い出作り」という面である。「思い出はプライスレス」といったマスターカードのCMを想像してもらえればわかりやすいが、昨今やけに「思い出」といったものに価値を見出す表象が多い。 ■日常写真ブーム 写真と思い出はかねてから相性がよい。それこそ卒業式の記念撮影でも何でも良いのだが、僕たちは思い出を残すためによく写真を撮る。そして、一枚の写真というものが、様々な物語をのちのち喚起させることになる。 日常写真ブームやプリクラブームも、要はその延長線上の出来事だと僕は思う。高度経済成長期を経て、相当程度の近代化と産業化を達成し、いわゆる大きな物語を喪失した時代において、もはや社会的に共有されるような「特別」は少ない。あるのは個人にとっての個別的な「特別」であり、それは他者にとっては「日常」に過ぎない。つまり、かつては卒業式のような、「特別」な日の思い出だけが特に重視されたわけだが、その範囲が「日常」にまで広がったのだと思う。 ■’90女子高生 三種の神器 結局、この3種類をケータイは全て取り込んでしまったわけだが、注目すべきなのは「画像」コミュニケーションだけはもともと通信に依存していなかったことである。プリクラとは日常の記録であり、思い出作りであり、日常の再発見という色彩が強い。仲の良い数人が集まったからプリクラをとる。「今、ここ」で撮ることが大事なのであって、そのベクトルは他者へは向かっていない。友達とプリクラ手帳を見せ合うことはしても、それを見知らぬ誰かに届けようとまではしまい。 ■テレビ電話という奇異なるもの ■提言;テレビ電話 |
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Mai 25, 2005
今、ここ、わたし
誰もが、「今、ここ、わたし」しか許されていない。
もちろん、未来に想いをはせることも、過去を抱きしめることも、
遠い場所に憧れることも、他者を想像することも出来るけれど、
それは常に「今、ここ、わたし」で行われる。
たとえば記憶さえ「今」のものだ。
「今、ここ」にいる「わたし」が想い返すものである以上、
改変や再編集、創造が「今、ここ」で行われる。
今、ここ、わたししか、許されていない。
なのに、未来や彼方や彼や彼女が頭の中で広がってゆく。
|||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
乱反射する空
流れる風の光
その向こうに見慣れた街
青い屋根の向こう
なだらかな雲が海へ続く
朝方の鐘の音が
小道に連なる
まだ覚えているかな
一緒に歩けた小さな日々を
背伸びしても追い越せなかった
その背中をいつか置き去りにして
ぼくたちは
もうこんな場所まで
何もかもが嘘なら
それでいいけれど
たとえ何もかもが嘘でも
何もかもが嘘なら
それは楽だけど
たとえ何もかも嘘でも
信じずにはいられない
憧れずにはいられない
だから海岸へ続く道に
また一歩を
待つ人もない岬へ
また一歩を
もうここにはいない人を
もうここにはいないと、確かめるだけだとしても
乱反射した空
流れた朝凪の向こう
その向こうには見慣れた孤独
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Mai 23, 2005
ひとり遊び
最近はまっている好きな遊びがあります。
道具もいらず、費用もかからないので、どなたでもお楽しみいただけると思います。
遊び方は簡単!「1年ぶりにここにきた」という想定で馴染みの場所を歩くだけ!という地味な遊びなのでどこでも出来ます。まさにこれからの時代に相応しいユビキタスプレーです。(蛇足なのだけど、ユビキタスの意味や意義がどうもよく釈然としない。字義通りとらえると、おにごっこもタカオニもユビキタス?)
例1)SFC
「SFCに来るのも一年ぶりか。相変わらず、変なにおいがするなあ
そうそう、こんな人いたいた!あ、こんなものあったっけ?
リュック率高い!あんまり変わらないものだなあ。」
時を経て、何かは確実に変わったはずなのに、変わっていない。自分がいなくても、世界は変わらずに動いていること。でも、一年ぶりの自分にも世界は優しく戸口を開いてくれること。人はたやすく流れてしまうけれど、場所は簡単には移ろわないこと。
色々な思いが去来する、初夏にふさわしいひとり遊びだと思います。
なので、SFC内でものめずらしそうにキョロキョロしていても、温かく見守って欲しいと思います。さらに願わくば、「久しぶりじゃん!」よか言ってもらえると嬉しいです。
投稿者 POE : 10:33 EM | コメント (0) | トラックバック
心臓の洗浄
多言語で何かを書こうと試みると、過度に難しい表現や比喩が躊躇われて、何か自分が書いたとは思えないような、心が洗われるような文章が完成したりする。
だって、日本語じゃ、「心が洗われる」とかすら恥ずかしいもん(すぐ上で使ってるくせに)。基本的に、慣用句は避ける方針で言葉を選んでゆきたいし、「心」なんて詩以外で素朴に使えるほど素朴でも粗野にもなれない。
あとコンテンツとかイノヴェーションとかも恥ずかしい。内実が伴っていたり、その場におけるスタイルに相応しいならいいけど、学生の話し合いとかでイノヴェーションがどうだとか言われると、思わず心の片隅でほくそえんでしまう。
おだから、結局相応しさとか意地っていうプライドとかを、掲げている余裕すらない、外国語では、瑞々しい自分を発見できたりして、困惑する。何か、爽やかだよ、どうしよう、みたいな。本当に申し訳ないです、という所在無き想い。
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Mai 22, 2005
死傷者は数十名
失うことは
ここまで抱えてこれたことの証。
誇るべきことでもあるのに
未だにうまく失うことが出来ない。
たとえば
何もためらわずに
全て失えたならば
また全てを手に入れられるのに。
たとえば
全てを失う日は
例外なく誰にでも、
百年も待たずに訪れるのに。
使途不明のからだ一つ
投げ出された世界に
すがりついたまま
もはや幾つかのディケイド
未明の惨事に
交わす言葉は
宛先を忘れたがため
届くべき人にはたどり着かず
忙しい朝に無害な人を傷つけるだけ
荒城に咲いていた光が
闇雲に時代を超えて
湾岸の藻屑に成り果てる頃
たった数秒の痛みで
分かり合ってしまうあの人たち
後姿が駅前に溶けてゆく
地下鉄の階段を降りた先には
いつか乗ったバターのにおい
もう隣には誰もいない
引き止める人は
対角線の先へ流れ着いた
せめて行き先のひとつでも
書かれていたならば
今頃どこかにいられただろうか
居場所なんてことば
覚えずにいられたならば
今頃誰かを信じていられただろうか
使途不明のからだは幾億
数千の倉庫の中
まだ送り主は名乗り出ない
消費期限は管理者だけが知る
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Mai 20, 2005
そこではないどこかを、声だけで
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情報通信文化論課題
■脅迫電話
「あなたの顔が見えないで話すの、すごく気持ち悪いの」。今たまたまテレビで見ていたドラマで、篠原涼子が脅迫まがいの電話をしてきた相手に吐いた言葉です。考えてみれば、電話と脅迫というものは相性がよいように思います。受けて側は顔が見えない相手と話さなくてはいけないという恐怖を感じなくてはいけない上、送り手側(脅迫主)は相手に顔を見せなくていいという安心感がある。認知科学の知見によれば、人間は外界の情報の7割を視覚によって受容するといいますから、会ったこともない人の顔が<見えない>という状況は篠原涼子が言ったように、「気持ち悪い」のだと思います。
しかし、一方で電話は声というものに関して、とても生々しく伝えます。口調、息のリズム、空白の感覚。しかも、音声が出てくる部分はふつう耳に押し当てますから、声の主とかなりの至近距離になるわけです。そこから私たちは相手の感情や状態を推し量ることができます。この顔が見えないという「遠さ」と、まるで耳元で囁かれているような声の「近さ」が、脅迫電話の「気持ち悪さ」と密接にかかわっているのではないでしょうか。(現に、テレビ電話を使った脅迫というものをぼくは知りません。)
■電話、怖い
脅迫電話に限らず、考えてみれば電話とは随分、怖いものです。本を読んでいるときも、一人で空想に浸っているときも、テレビを見ているときも、電話というものはお構いなしにベルを鳴らし、ずかずかと僕の領域へ入ってくるのです。最近ではナンバーディスプレイが当たり前になりましたから、辛うじて電話に出る前に相手が誰かを知ることは出来る。しかし、それは番号を登録している相手、すなわち顔を知っている相手に限った話です。非通知や、未知の番号からの電話の場合、全く知らない相手と話す覚悟をしなくてはなりません。しかも、一度電話に出てしまったからには、僕に逃げ場はありません。全く見知らぬ人と、たった二人きりで話さなくてはいけない。まるでお見合いで若い二人だけが残されたようなシチュエーションです。そんな微妙な状況が、どこであろうと電話の前で実現されてしまう。脅迫電話ならなおさらですが、そうでなくても、よく考えてみれば、これはかなり怖い状況ではないですか?
■anywhere, but there
しかし、僕たちは普段その「怖さ」を意識することはあまりありません。自宅に見知らぬ人をいれる人はあまりいないと思うのですが、見知らぬ相手からの電話をとってしまう人は少なくはないのではないでしょうか。もちろん、電話は手軽に「切る」という行為ができる以上、他人を家にいれるということと単純に比べてしまうには留保が必要ですが、電話によって他者の一部(声)が「ぼく」の領域に侵入してくることは事実なはずです。いつでも取り外せるからといって、見知らぬ人の写真を部屋に飾る人はいません。ならば、なぜ一時的とはいえ、電話による他者の介入にはみな寛容ともいえる態度をとれるのでしょうか。
それは電話とは「そこではないどこか」を作り出すメディアだからだと思います。たとえば、埼玉とオスロで電話をしているAとBという人がいたとします。その2人は、電話をしている最中、一体「どこ」にいるのでしょうか。もちろん、物理的な意味ではAは埼玉、Bはオスロということになるでしょう。しかし、AとBは互いの声を聞きながら、確かに話をしているわけです。話とは2人以上ではじめて成立するものですが、2人は「どこで」話をしているのでしょうか。やはりそこは、埼玉でもオスロでもない「どこか」ではないでしょうか。
■ただ、声だけ
しかし「そこではないどこか」を作り出すメディアは電話だけではありません。オンラインゲームでも、インターネットでもいいのですが、ぼくたちが誰かと何かを媒介に関わろうとするとき、そこには「そこではないどこか」がたちあらわれてきます。そうなると、電話だけの特徴といえば、やはり「声だけ」を伝えるということになると思います。電話は、顔つきも、表情も、臭いも、手つきも届けずに、ただ生々しい「声だけ」を伝えるのです。
■電話の本質
「そこではないどこか」を創ること、「声だけ」を伝えること。この2点が、電話の本質だと僕は考えます。そもそも「電話」とは何かと考え、歴史をさかのぼってみたときに、この2点だけが「電話」がうまれたときから、受け継がれているものだからです。もちろん、電話とは何かという問いには、「いつでも人を呼び出すため悪魔の発明」や「私たちの絆そのもの」という答え方もありうるわけですが、それは電話のいち受容の仕方に過ぎません。
■電話の歴史
実際、発明当初の電話は今日とはかなり違った使われ方をされていました。たとえば、19世紀後半まで、電話といえばオペラの公演の実況中継やニュースなどを伝える、今で言う有線放送という色彩が強かったようです。また一方でおしゃべりを複数の人と楽しむパーティーライン的な使われ方にも人気があったといいます。今ぼくたちが「電話」と聞いたときに思い浮かべる1対1としての電話は、1920年代以降に成立したものにすぎないのです。それには、電話を車のように、商品として売り出してゆこうという電話会社の戦略があったようですが(吉見、2004)、これは個人化とパラレルで進んでゆく近代化という現象にからめて見たときに面白いとい思います。
■固定電話と携帯電話
携帯電話の発生も、この1920年代以降広まった個人を前提にした「電話」という流れの延長であると思います。前回の課題で書いたのですが、携帯電話とは個人化=近代化の極みのようなメディアです。電話を使うのは「個人」と「個人」であるという前提ができた1920年代にはもう携帯電話誕生の準備はできていたということになります。
正しく言えば、「固定」から「携帯」へ向かう途中にはいくつかの準備段階がありました。たとえば数十年前の、コードレス電話や子機の登場です。かつて地域でひとつだった電話が、家庭にひとつとなり、それが部屋にひとつとなる。この共同体から個人へというプロセスは近代の志向と重なるものです。そして個人と結びついた電話に残っていた制限、つまり部屋でしか使えない、ということを取り去ったのが携帯電話です。
先述したように、電話は「そこではないどこか」を作り出し、通話者たちを包み込みます。そう考えてみたとき、「そこではないどこか」は携帯電話の登場によって「どこにでも」出現するようになりました。
■プライベート・声
ここからは、「そこではないどこか」の性質、つまり「声」によって作られる場所について考えてみます。パブリックとプライベートという区分で考えてみた時、声というメディアはプライベートな領域と親和性が高いと言えると思います。国民国家成立の要請から、国語というものが作られる前、書き言葉と話し言葉は分裂していました。日本の場合、公の文章は漢文で書かれ、一方で人々の話し言葉は地方でまるで違っていたという状況です。1880年代から起こった言文一致運動や20世紀初頭の文部省による「標準語」の制定により国語が完成し、さらにラジオや有線放送という声のメディアが全国にいきわたる前まで、「声」は地域内に限定された私的な利用が主だったのです。電話もこの「私的=声」という流れをくんでいると言えると思います。もちろん、これは家や部屋という私的な空間から飛び出してきた以上、電話というものは私的であるという指摘も可能ですが、声から考えてみたとき「そこでもないどこか」は「私的」な場だということになります。
■私的を外で
つまり、携帯電話は私的な場所をどこにでも出現させるメディアということになります。この私的ということが、たとえば以前授業で話題になった電車内における携帯電話という問題と関わってくるのではないでしょうか。実は、携帯電話登場以前にもこれと同じような現象が起きていたのです。かつて、電話が一家に一台だった時代、長電話は家族に疎まれたことが多いでそうです(吉見、前掲書)。もちろん、経済的な理由もあるでしょうが、家の中にいるのにもかかわらず、「家族」という共同体をすっぽり通り越して、きわめて「私的」な「そこではないどこか」へ飛んでいってしまう話者が、家族にとって不快に感じられたのではないでしょうか。
(おまけ)
■日本と声
姿は隠すけど、音は漏らす。伝統的と言われる日本の建築にはそういった特徴があると思います。日本の家には襖や障子、やけに曲がり角の多い廊下など、視覚を遮断するものがあふれています。しかし、襖や障子は姿こそ隠しますが、壁と違い声はほぼ筒抜けです。つまり、言ってしまえば襖一枚の視覚的な遮断で満足してしまい、音が漏れるのにはあまり関心を払っていないということでもあります。そういった文化的な土壌をもつ日本で、なぜここまで電車内での携帯電話が忌避されるようになってしまったのでしょうか。
■公共の場ということ
さらに、西欧的な意味においても、近代の公共圏というのは不特定多数の異質な人々が集まる場所だったはずです。公共空間とは、少しも綺麗な場所でもなく、整頓された場所でもなく、色々な人やものが、異質な存在として共生してゆく場所です。たやすく語られがちな共生という言葉ですが、概念としては少しも生易しいものでありません。だから議論は大いにされて然りです。携帯電話を迷惑だと感じる人、どこであろうと大いに利用すべきだと考える人。様々な人がせめぎあう、ぎりぎりの地帯に公共というものは成り立つのだと思います。そんな中で「マナーだから」という一言で、「携帯電話は公共の場では禁止」というロジック(ロジックでさえありませんね)はあまりにも乱暴だといわざるを得ません。
参考図書
○メディア文化論(2004) 吉見俊哉
(電話の歴史についての知識はこの本に多くをおっています)
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そこじゃないどこかへ声だけで。
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情報通信文化論課題
■脅迫電話
「あなたの顔が見えないで話すの、すごく気持ち悪いの」。今たまたまテレビで見ていたドラマで、篠原涼子が脅迫まがいの電話をしてきた相手に吐いた言葉です。考えてみれば、電話と脅迫というものは相性がよいように思います。受けて側は顔が見えない相手と話さなくてはいけないという恐怖を感じなくてはいけない上、送り手側(脅迫主)は相手に顔を見せなくていいという安心感がある。認知科学の知見によれば、人間は外界の情報の7割を視覚によって受容するといいますから、会ったこともない人の顔が<見えない>という状況は篠原涼子が言ったように、「気持ち悪い」のだと思います。
しかし、一方で電話は声というものに関して、とても生々しく伝えます。口調、息のリズム、空白の感覚。しかも、音声が出てくる部分はふつう耳に押し当てますから、声の主とかなりの至近距離になるわけです。そこから私たちは相手の感情や状態を推し量ることができます。この顔が見えないという「遠さ」と、まるで耳元で囁かれているような声の「近さ」が、脅迫電話の「気持ち悪さ」と密接にかかわっているのではないでしょうか。(現に、テレビ電話を使った脅迫というものをぼくは知りません。)
■電話、怖い
脅迫電話に限らず、考えてみれば電話とは随分、怖いものです。本を読んでいるときも、一人で空想に浸っているときも、テレビを見ているときも、電話というものはお構いなしにベルを鳴らし、ずかずかと僕の領域へ入ってくるのです。最近ではナンバーディスプレイが当たり前になりましたから、辛うじて電話に出る前に相手が誰かを知ることは出来る。しかし、それは番号を登録している相手、すなわち顔を知っている相手に限った話です。非通知や、未知の番号からの電話の場合、全く知らない相手と話す覚悟をしなくてはなりません。しかも、一度電話に出てしまったからには、僕に逃げ場はありません。全く見知らぬ人と、たった二人きりで話さなくてはいけない。まるでお見合いで若い二人だけが残されたようなシチュエーションです。そんな微妙な状況が、どこであろうと電話の前で実現されてしまう。脅迫電話ならなおさらですが、そうでなくても、よく考えてみれば、これはかなり怖い状況ではないですか?
■anywhere, but there
しかし、僕たちは普段その「怖さ」を意識することはあまりありません。自宅に見知らぬ人をいれる人はあまりいないと思うのですが、見知らぬ相手からの電話をとってしまう人は少なくはないのではないでしょうか。もちろん、電話は手軽に「切る」という行為ができる以上、他人を家にいれるということと単純に比べてしまうには留保が必要ですが、電話によって他者の一部(声)が「ぼく」の領域に侵入してくることは事実なはずです。いつでも取り外せるからといって、見知らぬ人の写真を部屋に飾る人はいません。ならば、なぜ一時的とはいえ、電話による他者の介入にはみな寛容ともいえる態度をとれるのでしょうか。
それは電話とは「そこではないどこか」を作り出すメディアだからだと思います。たとえば、埼玉とオスロで電話をしているAとBという人がいたとします。その2人は、電話をしている最中、一体「どこ」にいるのでしょうか。もちろん、物理的な意味ではAは埼玉、Bはオスロということになるでしょう。しかし、AとBは互いの声を聞きながら、確かに話をしているわけです。話とは2人以上ではじめて成立するものですが、2人は「どこで」話をしているのでしょうか。やはりそこは、埼玉でもオスロでもない「どこか」ではないでしょうか。
■ただ、声だけ
しかし「そこではないどこか」を作り出すメディアは電話だけではありません。オンラインゲームでも、インターネットでもいいのですが、ぼくたちが誰かと何かを媒介に関わろうとするとき、そこには「そこではないどこか」がたちあらわれてきます。そうなると、電話だけの特徴といえば、やはり「声だけ」を伝えるということになると思います。電話は、顔つきも、表情も、臭いも、手つきも届けずに、ただ生々しい「声だけ」を伝えるのです。
■電話の本質
「そこではないどこか」を創ること、「声だけ」を伝えること。この2点が、電話の本質だと僕は考えます。そもそも「電話」とは何かと考え、歴史をさかのぼってみたときに、この2点だけが「電話」がうまれたときから、受け継がれているものだからです。もちろん、電話とは何かという問いには、「いつでも人を呼び出すため悪魔の発明」や「私たちの絆そのもの」という答え方もありうるわけですが、それは電話のいち受容の仕方に過ぎません。
■電話の歴史
実際、発明当初の電話は今日とはかなり違った使われ方をされていました。たとえば、19世紀後半まで、電話といえばオペラの公演の実況中継やニュースなどを伝える、今で言う有線放送という色彩が強かったようです。また一方でおしゃべりを複数の人と楽しむパーティーライン的な使われ方にも人気があったといいます。今ぼくたちが「電話」と聞いたときに思い浮かべる1対1としての電話は、1920年代以降に成立したものにすぎないのです。それには、電話を車のように、商品として売り出してゆこうという電話会社の戦略があったようですが(吉見、2004)、これは個人化とパラレルで進んでゆく近代化という現象にからめて見たときに面白いとい思います。
■固定電話と携帯電話
携帯電話の発生も、この1920年代以降広まった個人を前提にした「電話」という流れの延長であると思います。前回の課題で書いたのですが、携帯電話とは個人化=近代化の極みのようなメディアです。電話を使うのは「個人」と「個人」であるという前提ができた1920年代にはもう携帯電話誕生の準備はできていたということになります。
正しく言えば、「固定」から「携帯」へ向かう途中にはいくつかの準備段階がありました。たとえば数十年前の、コードレス電話や子機の登場です。かつて地域でひとつだった電話が、家庭にひとつとなり、それが部屋にひとつとなる。この共同体から個人へというプロセスは近代の志向と重なるものです。そして個人と結びついた電話に残っていた制限、つまり部屋でしか使えない、ということを取り去ったのが携帯電話です。
先述したように、電話は「そこではないどこか」を作り出し、通話者たちを包み込みます。そう考えてみたとき、「そこではないどこか」は携帯電話の登場によって「どこにでも」出現するようになりました。
■プライベート・声
ここからは、「そこではないどこか」の性質、つまり「声」によって作られる場所について考えてみます。パブリックとプライベートという区分で考えてみた時、声というメディアはプライベートな領域と親和性が高いと言えると思います。国民国家成立の要請から、国語というものが作られる前、書き言葉と話し言葉は分裂していました。日本の場合、公の文章は漢文で書かれ、一方で人々の話し言葉は地方でまるで違っていたという状況です。1880年代から起こった言文一致運動や20世紀初頭の文部省による「標準語」の制定により国語が完成し、さらにラジオや有線放送という声のメディアが全国にいきわたる前まで、「声」は地域内に限定された私的な利用が主だったのです。電話もこの「私的=声」という流れをくんでいると言えると思います。もちろん、これは家や部屋という私的な空間から飛び出してきた以上、電話というものは私的であるという指摘も可能ですが、声から考えてみたとき「そこでもないどこか」は「私的」な場だということになります。
■私的を外で
つまり、携帯電話は私的な場所をどこにでも出現させるメディアということになります。この私的ということが、たとえば以前授業で話題になった電車内における携帯電話という問題と関わってくるのではないでしょうか。実は、携帯電話登場以前にもこれと同じような現象が起きていたのです。かつて、電話が一家に一台だった時代、長電話は家族に疎まれたことが多いでそうです(吉見、前掲書)。もちろん、経済的な理由もあるでしょうが、家の中にいるのにもかかわらず、「家族」という共同体をすっぽり通り越して、きわめて「私的」な「そこではないどこか」へ飛んでいってしまう話者が、家族にとって不快に感じられたのではないでしょうか。
(おまけ)
■日本と声
姿は隠すけど、音は漏らす。伝統的と言われる日本の建築にはそういった特徴があると思います。日本の家には襖や障子、やけに曲がり角の多い廊下など、視覚を遮断するものがあふれています。しかし、襖や障子は姿こそ隠しますが、壁と違い声はほぼ筒抜けです。つまり、言ってしまえば襖一枚の視覚的な遮断で満足してしまい、音が漏れるのにはあまり関心を払っていないということでもあります。そういった文化的な土壌をもつ日本で、なぜここまで電車内での携帯電話が忌避されるようになってしまったのでしょうか。
■公共の場ということ
さらに、西欧的な意味においても、近代の公共圏というのは不特定多数の異質な人々が集まる場所だったはずです。公共空間とは、少しも綺麗な場所でもなく、整頓された場所でもなく、色々な人やものが、異質な存在として共生してゆく場所です。たやすく語られがちな共生という言葉ですが、概念としては少しも生易しいものでありません。だから議論は大いにされて然りです。携帯電話を迷惑だと感じる人、どこであろうと大いに利用すべきだと考える人。様々な人がせめぎあう、ぎりぎりの地帯に公共というものは成り立つのだと思います。そんな中で「マナーだから」という一言で、「携帯電話は公共の場では禁止」というロジック(ロジックでさえありませんね)はあまりにも乱暴だといわざるを得ません。
参考図書
○メディア文化論(2004) 吉見俊哉
(電話の歴史についての知識はこの本に多くをおっています)
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Mai 19, 2005
未来
海外向けの愛知万博の紹介ページ
http://www.mofa.go.jp/j_info/expo2005/video.html
TV SPOTでは、Discover the future in Japanとか、面映いことを小泉首相が言ってました。
日本で見つかる未来って何かな。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++
最後の空を見送ったなら
もう席を立つ季節
たくさんの本だけが
積み上げられた街角の夢を
撫でる風さえ到着地をなくす
伸びる影の隙間
その先に描かれた人
言葉をなくしたまま
誰もせりふを書き足さない台本
行方知れずの指先が
あの日なぞるはずだった意味を
すり減らしたままの辞書
街道にもう
人はいない
消えたはずの声が
反響ただけで振り返っていた
そんなさびしい最後の一人まで
もういない
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Mai 16, 2005
ストーカーと愛国心
最近読んだ本に、ストーカーと愛国心を押し付ける人はは似ていると書いてあった。
君は僕のことが好きなはずだ。なのに、あの男のせいで君はそれに気付いていない。なんということだ。君は僕のことが好きじゃないといけない。自由意志で僕のことを愛していないとおかしい。だから、ここは残念だが、たとえ強制してでも僕のことを好きになってもらおう。
上はストーカーの例だけど、「僕」を「日本」、「あの男」を「戦後民主主義」とでも変えれば、あら不思議!一気に、その手の主張の出来上がり!
.....なんか、そう思うと「愛国心教育!」とか言っている人が、可愛いというか、可哀想になってくる。そんなに寂しいのかな。そんなにこの国が辛いのかな。そんなに生きてゆくことが辛いのかな。そんなに愛が不足しているのかな。だから、彼らの偏狭な愛を受け止めてくれる誰かがあらわれてくれますように★とか、思わず乙女のように星に願ったりしてしまう。
=========================================
夏にゆく蜻蛉のように
たちのぼる世界を前に
僕たちは一瞬のしずくと同じ
したり顔で
街を行き交う誰もが
わずかな時流さえ
泳ぎきれず
たどりつけない
向かい潮の彼方には
なくしたはずの
笑顔ばかり見える
リンゴの落ちたあの日
決まってしまった
はるかな未来や遠大な宇宙を
まるで数式をとくように
どこまで進んでゆけるのだろう
答えの先で
またあの笑顔に会えるのか
答えだけが用意された
そんな検算ばかり
今日もまた人の数だけ
用意されている
夏をまたずにゆく
わずかな夢も
リセットボタンも
何も違わない街で
僕たちは一瞬の電子と同じ
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Mai 15, 2005
アイス
「主食はアイスです」とか、いつも戯れに言っているのだけど、この3日間はアイスを食べ過ぎた。しかも、一般食+アイスを摂取し、明らかにアイスが過剰。明日健康診断をするため断食している人が、ピザとケーキを注文してしまうようなものだ。
アイスって、その特権的な立場が好き。何せ、冷凍庫で保存しないと溶けてしまうなんて。バナナやフガシやカンパンならばどこであろうとその場に置いておけば、真夏でもない限り問題ない。持ち運びも出来るし、保存に気を使わなくていいなんて、流行り言葉でいえば、ユビキタススウィート。
それに比べてアイスはどうだろう。マイナス10度以下で保存しないとみるみる溶けていってしまう。冬の北欧や北海道など(生きてゆくのが辛い)氷の国でもない限り、アイスは冷凍庫に保管することを強制される。野菜を野菜室にいれないと傷む、どころの騒ぎではない。アイスを冷凍庫にいれなかったときの帰結は、傷むなんて生易しいものではなく、消滅である。
はやく食べないと、消滅してしまう。こんな不便な食べ物がこれだけ流通しているなんて信じられない。買ったら、ついすぐ食べてしまうじゃないか。冷凍庫にはいっていたら、その強要されている不便に憤り、すぐに食べてしまうじゃないか。
この特権的な、不便と不遜と表裏一体のアイスはやはりとても魅力的。
まだ冷凍庫には潤沢にアイスが保管されている。
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数歩先さえ見えない夜には
なぜかうまく歩ける気がする
どうせ行き先も会いたい人も
なくしてしまったのだから
何もかもを隠す闇は
誰にでも優しい
月が降り注ぐ海には
遠く海上へ道が煌く
朝を待たずに
消えてしまう光に
溺れる前
東へ辿り着けたならば
未明のラジオが流すのは
受け手を失った遠い国の歌声
誰にも届かない祈りだけが
波に飲みこまれてゆく
今はどこにいるのだろうと
有り得もしない期待が
自然に溶け出してしまう
漣が新しい道を作り出す頃
遠く消えた人影
弔いの歌さえ もういらない空に
夜の明かりさえ届かない
投稿者 POE : 03:09 EM | コメント (0) | トラックバック
Mai 12, 2005
WITHOUT
今頃どこで
誰が夜に怯えて
今頃どこで
誰が朝を奪われて
ここに残された
ほんのわずかな東は
海がもうすぐ
飲み込む時間
朝凪はいま
風前をただよう
君と包まれた
ささやかな時代は
空へ切れ目を入れるように
落ち込んでいった
行き先をなくした鳥たちのよう
東へ進んでいるときさえ
彼らはその意味に気が付きはしない
たとえ西へ沈んでゆく真夜中でさえ
彼らはその意味を受け入れるようとしない
こぼしてきた風景を
どんなに取り戻しても
同じ場所へは二度とたどりつけない
そこが夜でも
そこが北でも
ここが朝でも
ここが南でも
うまく物語はつながってゆかない
朝虹は遠く消え果て
目印のない場所じゃいつしか
人は北を左と言い換える
やがて南が西に成り果てて
あの頃誰が
夜に怯えて
今頃誰が
夜をなくして
投稿者 POE : 06:48 EM | コメント (20) | トラックバック
気功
最近、体育で気功をとっています。
なので体の調子がよろしいです、とか言いたいのだけど
気功の翌日はなぜかだるいです。
もしかしたらポジティヴな気にやられているのかも知れません。
気功の先生のように
「今がとても楽しい。毎日とても楽しい。たとえば20代に戻りたいとは思わない」
というような人生にも憧れるけれど、
でもきっと何か違うんだと思う。
そんな道は歩けないし、選んでしまったら色々と崩れそうで怖い。
というわけで、来週からも気功を取り続け、
また翌日には調子が悪くなるというサイクルを繰り返そうと思います。
投稿者 POE : 01:40 FM | コメント (21) | トラックバック
Mai 10, 2005
色々と
あった気がする。
何か、うまくつなげない。
たくさん笑ったはずなのにな。
なんか、霧の中みたいに
何か思い出せない。
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優しい雨が
メモリアルの指先を砕いてゆく
祈りをたたえた横顔は
憂いの目さえも風に削られる
不自然に残された景色
切り取り線を使い切り
うやむやにできなくなった夢
つぎはぎの街を
どれほど渡りぬいたところで
最後の橋は壊れている
もうだめだよと
言うことさえに
勇気やちからが必要で
そんな時代を立ち去ろうと
彼は行き先を空気におもねるけれど
うまい夢の見方さえ
忘れた人の紡ぐ未来は
もうそんなに長くはもたない
優しい雨が
優しさも悲しみも慈しみも
全て壊してしまう日まで
祈りさえもただ
雨の中をたゆたう
叶わない日々さえも
ただ敗れる時間のために
雨の中をたゆたい続ける
投稿者 POE : 12:04 FM | コメント (20) | トラックバック
Mai 08, 2005
懐かしさ
ネットって何がすごいって、過去がこんなにも溢れていること。
時系列おかまいなしに何年前のページだろうが最近のページだろうがに、遭遇することになる。5年前の高校生の日記とか、鬱日記とか、流行っていた音楽の礼賛とか、今までじゃ歴史に埋もれてしまっていたものと、こんな簡単に出会える。簡単に、過去に浸れる。
でも現実世界も過去のものばっかりか。
街に並ぶ建造物も十年なんてざら。
世界にあふれる人は製造後40年、50年なんて当たり前。
本なんて何百年前のものが普通に読まれているし。
さらに夜空の星なんて、しゃれにならないくらい過去の光だもんね。
てことは、こんな簡単に検索できてしまうことが楽しいのかな。
現実世界じゃ検索なんて簡単に出来ないし。
まあ、でも面白くなってくるのは、インターネットが古いメディアになったときだろうな。
インターネット網は捨てられるのか、隠蔽されて残るのか、今のままなのかはわからないけれど、時代が下るにしたがって相対的にネット上に過去の集積が増えてゆくことは間違いない。だからそうなったときに、どんなことが起こるのか。現実逃避に便利だろうな。
投稿者 POE : 11:35 EM | コメント (0) | トラックバック
Mai 07, 2005
EEE
もう時間ですよと
優しい声が車両に響く
二度と戻れないわけじゃないと
そんな慰めは誰かを傷付けるだけと笑っていた
笑うしかなかった
笑えないはなし
まちの孤独を縫うように進む各駅停車
置き忘れの停車場を
もうすぐ空が飲みこむ
窓の向こうには
乱反射した白黒の群集
そして影が君を思い出す
だけどそこに顔はもうなくて
よく口ずさんでいた歌が
いくつかのホームを横切るだけ
さよならさえもうすぐ
届かなくなる
何千キロも何十時間も
たいした理由にはならない
たとえ隣の星にまで
声が届く時代なのに
たったいくつかの距離と時差に
負けてしまう線は
もうほつれるだろう
廃線の外側に
見えたパレード
もう同じことだと
列車を降りた車掌はいない
投稿者 POE : 07:56 EM | コメント (0) | トラックバック
Mai 06, 2005
[課題01]ケータイは、孤独に拍車をかけた
[情報通信文化論課題]
環境情報学部3年 古市憲寿
70348817 t03881nf
ケータイはぼくの孤独に拍車をかけた。別に、ぼくが中傷メールを誰かに送られてひきこもりになってしまたとか、誰からも電話がかかってこなくて寂しくて死にそうとか、そういう話ではない。
ぼくのケータイには、かつては別々だったものがたくさん含まれている。まず当然のこととして電話、そして電話帳、電卓、時計、さらにカメラ、ブラウザ、ウォークマン。さらに最近では、財布やテレビまでケータイは取り込んでしまった。
今やケータイひとつでほとんどのことは事足りてしまう。家を出るとき、ケータイさえ携えたならば、一日ほぼ困ることはない。これは「便利」という言葉で形容可能だし、ぼくも「便利」な時代になったとは思う。でも同時にそれはとても「孤独」なことでもある。
つまりケータイ一台で、独りで生きてゆくことがだいぶ楽になったといえる。電話もテレビも(もっと昔は時計も財布も)、かつては人と共有して使うものだった。それがケータイといえば、そのすべてを一人で独占することが出来るのである。
もちろん、その助走期間として、家に一台だったテレビや電話が、自室に一台になった1970年代から1980年代という時代を経てのことではある。しかし、かつて自室では一人だったとしても、街へ出たとき電話やテレビは他者と共有するものであった。だから、街でもどこでも、電話やテレビを「独り」で持ち歩く。まさに「独り」に特化したメディアであり、群集の中でも僕は「独り」になることが出来るのである。その意味でケータイを、近代以降の個人化(孤独化)のひとつの結節点であると言ってもいいと思う。
さらに、ケータイをあらわすときよく「つながる」という言葉を使う。しかし、「つながる」とは「独り」と「独り」の結びつきをあらわした概念である。だから「つながる」という観点から見ても、ケータイは孤独と孤独をつなぐメディアであって、それは孤独感の解消にはなるかもしれないけれど、孤独を解決するわけではない。だからやはり、ケータイ以後は孤独だ。
でも、ケータイのいいところは、このように少し俯瞰で眺めたときこんなにも孤独と繋がったメディアであるにも関わらず、使用者にはあまり孤独を感じさせないことだ。たとえ道管のように何年も使わない人がリストされた電話帳でも「友達100人」と錯覚することは出来るし、ブラウザを開けば、自分専用にカスタマイズされたメニュー画面や表示が出てきたりして、さも「ぼくは世界の中心にいる」と感じることも出来る。
だから、課題に即してこのエントリーをまとめるならば、「ケータイによって僕は確かに孤独になった。でも孤独だと肌で感じることは少ない。むしろたとえ幻想でも<つながり>を信じることが出来る以上、孤独は緩和された」。
投稿者 POE : 02:32 EM | コメント (0) | トラックバック
Mai 05, 2005
こころの教育
「こころの教育」という言葉で調べたら一番上に出てきたサイト。
http://www.sotoku.ed.jp/education/kokoro.html
私学で、しかも仏教系の学校みたいだから、「こころの教育」を行うのももちろん勝手なんですけど、何がひっかかるかといえば、そのページでトップに使われている写真。
英語の授業風景らしく、黒板には「あなたは犬を飼っていますか」。
あなたが犬を飼っていることと、こころの教育はどう関係しているんだろう。
仏教って奥深いんですね。
投稿者 POE : 09:35 EM | コメント (18) | トラックバック
Mai 04, 2005
戦争のない世界を
戦争のない世界を生きることは意外と簡単です。
多くのぼくたちは戦争をメディアを介して受容している以上、メディアからやってくる情報にちょっとした細工を加えてあげればいい話です。
たとえば勝手に戦争に関する言葉を言い換えてしまうプラウザひとつで、意外と戦争被害も戦争の実態も減ってしまいます。
イラク戦争→イラク祭り
自爆テロ→自爆ギャグ
戦死者→失笑者
とするだけで、世界各地で続く紛争も戦死者も、そのプラウザのこちら側ではなかったことになります。応用例として、「自殺者」1万人を「宝くじ当選者」1万人と言い換えたりするだけで、一気にプラウザのこちら側の世界の雰囲気は明るくなります。
何となく暗雲としていた世界が、たった少しの文字の加工で輝いてしまう。素敵ですね!
いや、たとえばオリンピックとかワールドカップでそういう世界の戦いとかを隠蔽する装置でもあるわけじゃない?それと比べても随分手軽に世界を隠蔽できて素敵じゃないですか!?
というわけで......
(例)自爆ギャグで60人以上退席 イラクのクルド人自治区
【カイロ4日共同】ロイター通信によると、イラク北部のクルド人自治区アルビルのクルド民主党事務所で4日、自爆ギャグがあり、保健当局者によると、少なくともイラク人ら60人が退席、150人以上が失笑した。同党事務所は、芸人の募集窓口になっており、多くの人が集まっていたという。イラク祭りの影響を終局2年たってなお示す事件となった。
アルビルには韓国たけし軍団3000人以上が駐留している。
↑
自爆テロで60人以上死亡 イラクのクルド人自治区
【カイロ4日共同】ロイター通信によると、イラク北部のクルド人自治区アルビルのクルド民主党事務所で4日、自爆テロがあり、保健当局者によると、少なくともイラク人ら60人が死亡、150人以上が負傷した。同党事務所は、警官の募集窓口になっており、多くの人が集まっていたという。イラク戦争の影響を終局2年たってなお示す事件となった。
アルビルには韓国軍3000人以上が駐留している。
投稿者 POE : 07:26 EM | コメント (22) | トラックバック
Mai 03, 2005
避雷針
パソコンの調子がおかしい。
一定以上の動作を一度にすると、勝手に適当なソフトが落ちる。
ひとも、同じように処理能力を超えたら、いくつか切り捨てられたらいいのにね。
そのまま何もなかったことになって、いちから忘れちゃう。
人から何を言われようと、こっちは何も覚えていないのだから関係ない。
相手がわけわかんないことで、怒ってるように見えるだけ。
でも、他人からみたらたまったものじゃないね。
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腫れたままの昨日を
うまく避けられずに
同じ風が
波を揺らす
飲まれたままの声は
もう何も奏でない
憧れまで越えてしまえば
何もかもを戻せるだなんて
優しい噂が
くにを漂う
奇妙な螺旋は
上昇を下降にすりかえる
収斂してゆく気配は
間延びした影を切り取る
明日のない希望でいい
悲しみだけの明日なら
腫れたままの昨日を
引きずり続けるだけ
投稿者 POE : 09:36 EM | コメント (0) | トラックバック
Mai 01, 2005
心遣い
メールの署名。多分、自動で付記されるようにしている人が多いと思う。
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道野道子
営業二課 準備係
michiko@nantomaa.co.jp
★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆★☆
というように星を使っている人も多くて、少しどきどきしてしまう。
好きですよ、星。
でもぼくはあえて署名をいつも手書きで書いている。名前とメールアドレスだけの簡単なものなのだけど、いつも変えるわけではないから、登録してしまえばいいものをしていない。
タイプされた文章も、サインの部分だけは直筆ということが多いけれど、それと似た感覚なのかも知れない。しかし決定的に違うのは、メールでの署名はテキストである以上、受け手にはまったく届かない心遣いだということだ。
むしろ上にひいた道野道子(仮)のほうが、凝っていて好感がもてるというものだろう。道子は自動署名をONにしているだけだろうから、一通あたりのメールに署名に関しては、まったく時間を割いてはいない。一方、こちらは名前とメアドという非常に簡素な文面だけれども、一通にタイプするぶん、10秒の時間をかけている。
まったく時間をかけず★までつけてしまう道子のうほうが、10秒をかけたぼくの署名よりも見栄えがいいのである。なんということだろう。
しかし、問題はない。心遣いなどほとんどの場合、相手へ向けたものだとしても、相手へ必ずしも届くものではないのだから。正しく熨斗袋を使っても、上品に葡萄の皮をむいても、どうせ相手は隣の人と談笑でもしていることが多い。
なので、たとえ道子に負けても、ぼくは手打ちを続けます。
決して署名機能の使い方を知らないわけではないです。
投稿者 POE : 06:17 EM | コメント (159) | トラックバック
体力と理性
正月嫌いなくせに、すすんでお正月のような生活を送っていました。
本読んで、寝て、ゲームして、おかしたべて、寝て、本読んで、DVD見て。
こういう甘っとろい空気は理性的には嫌いなのだけど、主観的というか体力的には大好きなので、下手したらこの螺旋に嵌っていってしまいそうで怖いです。
でもこの3日間で、大阪万博の開催経緯と、忌み名と、チョコだけで人は生きていけるかについて少し詳しくなったので、何か大阪万博に興味をもった暁には、是非一緒に語り合ってください。
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探し続けた未来は
古びた辞書の中に描かれていた
大切だった思い出も
ほこりを払えば何もなかった
谷底から見えた空
森の片隅を彩っていた時代
圧縮されず広がる彩雲
そんなものはどこにも見つからない
そんなものはどこにでもあった
手繰り寄せて それだけじゃ足りなくて
塗り重ねて それだけじゃ届かなくて
失って、はじめて手に入れて
手に入れたときには、もう失っていて
曖昧な螺旋をくだってゆくように
夜半の雨はもう優しいまま
陽炎は雨を引きとめ続けている