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Juni 30, 2005
J-POP
今NHKでやっていた「日本語なるほど塾」という番組。J-POPに見られる日本語と言うテーマだったので、ついついノートをとってしまった。キーボードでとるノートなんて久しぶりだよ。文字ばっかりだ。
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J-POPという言葉はJ-リーグと同じ頃に定着。歌謡曲と比べた時その定義とは、タイトルや歌詞に英語が多いこと、生き方を歌う曲が多いこと。
さきがけになったのは1986年の「My revolution」。「求めていたい My revolution自分だけの生き方、誰にも決められない」。雇用機会均等法の施行された年。恋愛だけの歌じゃない、自分の価値観をうたう。そして「My revolution」というように、J-POPの英語はそもそもネイティブの英語なんて志向していないハイブリッド英語とでも言えるようなもの。
キーワードは「時代」「季節」「永遠」。歌における出現率がそれぞれ20パーセントを越えている。たとえば「季節」という言葉は戦前ではほとんど使われていない。「太陽の季節」のヒットの頃から徐々に出現率が増えていった。価値観が多様化する現代において、「時代」に押し流されずに生きてゆくために、「時代」を意識せざるをえない。
そしてその中で変わらないものが欲しいという欲求が「永遠」という言葉に表出しているのではないか。
不変性の志向には二種類がある。ひとつは「がんばっていこう系」。たとえばウルフルズの「ガッツだぜ」。もうひとつは「あの輝きを忘れない系」。GLAYのグロリアス。過去のひたむきになっていた自分を思い出しながら、過去において永遠を志向している。また応用として「こんな時代だから愛していよう」という曲もある。
以上のように、J-POPでは時代と向き合う、社会へのメッセージという二点が大切。というわけで番組では21世紀におけるJ-POPを番組で作ってみました。ソニンさんに歌っていただきます。
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で、番組が作った曲。
タイトル「GAME」
歌 ソニン
「人生はイス取りGAMEだね」
「毎日がイス取りGAMEだね」
「マスコミや大人たちはいつだって私たちを悪いように言う」
「WAIT!何が悪いの どんな綺麗な花だって土の中で冬を越すわ」
「WAIT! NEET or FREETER そんなNAMEばっかりで気安く呼ばないで」
「授業じゃ学べないことがある」
「WAIT! んな批判するなら どんな学校の授業よりも勝ち組の方程式を教えて」
......さすがNHKですね。「近年の社会の二極化、若者問題に焦点をあてて作ってみました」というのが監修者の弁。リアリズムを志向したらしいです。何だか久しぶりにすごいものを見てしまった気がします。
投稿者 POE : 10:42 EM | コメント (3) | トラックバック
Juni 29, 2005
夏
梅雨明けをしないのは誰かの謀略なんでしょうか。
夏が来てしまえば暑い日なんて当たり前。
一方で、今が梅雨だとしたら、「梅雨なのに快晴」と好意的に表現できる。ずるいね。
そもそも、夏日が増えている。嬉々としてアナウンサーが夏日連続記録の更新を告げる。もうそのうち春とか消えてしまうんじゃないかの勢いで、夏がつよくながくなってゆく。
まあそれを地球温暖化どうこうと結びつけるのは短絡的だろうけど。そもそも地球温暖化防止っていうキャンペーンが胡散臭いけどね。本当に切実に今解消しなくちゃいけない問題として、それは貧富の格差や差別の再生産と比べた時に重要度が上かといったら恐らくNO。
地球が温暖化して誰が困るかといったら数世代あとの人々。地球のリズムで考えたらどうせ数万年後には温度が下がってゆくわけなんだから、遠い未来のためのキャンペーンではありえない。
この数世代あとのため、っていう距離感が個人的には興味がある。百年後におなじ場所に住む人と、同じ時代に数千キロ離れて住む人。そのどちらを大切に思えるのか。優先すべきなのか。
とかね、エアコンのきいた部屋で、パソコン打ちながら、こんなどうでもいいこと書いている状況がシニカルだけどね。地球にも優しくないし、いわゆるグローバリズムにも与しているわけで。
投稿者 POE : 11:21 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 26, 2005
プリンと遠足
プリン作りと遠足を子供たちと一緒に英語でしてきた。
英語教育の授業の実践。担当の先生の塾の生徒と一緒に、二日間にわたってプリンを作ったり(それでテーブルに傷をつけたり)、東京タワーにのぼったり、水上バスに乗ったり、浅草でゲームをしたりした。
+
近代教育が限界にきてるなんて言うのはたやすい。
そんなの新聞か本をちょっと読んだり、もしくは普通の公立学校に行った人なら誰だって気付いている。
じゃあどうしたらいい?と聞かれたときに、教育回路の複線化とかフリースクールの充実とか、文脈に埋め込まれた学習が大切だとか言い放つのもたやすい。そんな結論の本はたくさんあって、とてもスマートで、口にだしたならば問題は解決したような気になる。
でも、じゃあ実際にあなたに何が出来て、いまこの状況であなたは何をするの?という状況に立たされた時。現実にはもちろんあまりにも多くの制約があって、他の分野でもそうであるようにまだ近代を生きている世界の中で、近代の代替案はあくまでも案でしかなくて、たとえば明日からも学校は存在して、来年も同じ地域に同じ年に生まれたというだけで同じ部屋に換金される状況は続いていって、一日は24時間で、それぞれの生活は続いていって。
だから現実は、かっこわるくて、いびつで。理論をほざいている隙間は減っていって。
理論と現実が乖離していることくらい知っているけど、でもその知っているも理論上でのことだったんだよね。遠足とプリン作り。素朴で、何かが変わるわけでもなく、でも意味があるのだと信じて。
+
楽しかったよ。みんな笑えてた。きっと、まずはじめは、とりあえず、それでいい。
通り道はどうでもいい。笑えたならば、それでいい。
投稿者 POE : 10:56 EM | コメント (2) | トラックバック
Juni 25, 2005
笑えない
笑いたいけど、笑ったらいけない場面はこの社会に意外と多い。
最近、笑いたくて噴き出しそうで、でも笑えなくて困っている場所がある。
満員電車の車内。
埼京線を使うことが多いのだけど、朝のラッシュとかはもう笑うしかない。比喩じゃなくて、本当に爆笑したくなる。だって、いい年した大人があんな狭い箱に閉じ込められて、体を寄せ合って、新聞を読むことさえままならない体勢で、何十分も時間を共にするだなんて、シュールレアリスムの世界というしかない。
貧富の差とか、既得権の問題とか、朝食とか、昨日の失敗とか、本当に色々なものを詰め込んで、とりあえずそんなものを考える余裕も与えないくらい圧縮された空間。面白いでしょ?
でも、社会にコミットしてない半端者だから言える発言なんだろうな。
という配慮で笑いはかみ殺しているんだけど、そろそろ夏と言うことでついつい大声で笑い出してしまうかも知れない。まあ、本当に笑ってしまったら、むしろ電車の中でいきなり奇声をあげるこちらの方がおかしいわけで、逆に笑われてしまうのだから、笑ってもいいか。
知らないふりをしたり
おどけてごまかしたり
気付かない顔を使い分けて
何もかもは変わっていってしまうのかな。
立ち向かえない場所が
増えてゆく
争わない夢が
当たり前になる
これでいいよと
うまくいえたはずなのに
横顔の空が哂う
青は遠ざかる
投稿者 POE : 01:20 FM | コメント (2) | トラックバック
Juni 23, 2005
私領域の話ならいいんです。怒りません。
情報通信論課題
出来るだけ色々なエントリーをまわって、それをひろいつつ話を展開していきました。
結論から言ってしまうと、この授業における皆さんのエントリーがブログの現状の一側面をあらわしていると思う。つまり、
■似ているようなことを言っている人が多くて、
■根拠や裏づけのないまさに自分の思っていること、という次元のものが中心で(授業中で紹介された例の中で指摘するならば、少女漫画が今売れていないという事実誤認や、簡単に国民性とかいう概念を持ち出す無神経さなど)、
■授業ブログで何か面白いことが起きているわけではないなどである。
(もちろん自戒をこめて言っています)
この方が言うように、今世の中に存在する、特に日本のブログでも自慰的なものが多いのは事実だろう。その意味で、江戸時代の俳句に似ているのかも知れない。つまり、誰でも出来る。敷居は滅茶苦茶低い。
でも、それなりのレベルを持った人、つまりプロと素人がいる。たとえば評論で言うならば、出版(流通)されているかいないかがわかりやすいその境界だった。
しかしそのプロと素人の境目が流動化しているのかも知れない。たとえばここで報告されているように、ブログ日記など素人的なものの出版が相次いでいる。
この人はブログは今までのメディアが扱ってきたコンテンツと違ってブログは「ひとりごと」が中心でだから面白いという。私小説という伝統や、「内輪受け」を笑いにしてしまう近年のお笑いタレントなどに無自覚な指摘ではあるが、誰にも評価されずとも他者に公開できるという点でインターネットは新しい。
インターネットは「一部の権力をもったSENDERと無力なRECEIVERとしてな大衆」という図式に風穴をあけたというような描かれ方をすることが多い。特に昨今のブログブームはそれに拍車をかけるものだろう。つまり、数年前までは「誰でも情報発信が出来る」といってもある程度の知識と労力と手間が情報発信のために必要だった。しかし、今はレンタルでいいならば、簡単な登録作業だけでものの数分で自分だけのページが誕生してしまう。テンプレートも豊富に用意されていて、下手したら(知識がない人は)自分で設置するよりも色々なことが出来る。
たとえばこんなエントリーを見ると時代の流れを感じてしまう。この方の高校ではブログをつけている人が多くいて、それを束ねるリンク集がうまく機能していて、コミュニティまで形成されているらしい。そういえば、中学生の知り合いもクラス専用のサイトを作っていた。情報発信の大衆化、ここまで来たれり。
別に大衆化が悪いわけではない。バカな少数のマスコミみたいな状況の方が最悪だ。数が多ければいいものの確率も増える。
しかしどうもジャーナリスティックなブログは少数派で「友達が出来た、うれしい」のような使い方や意識が多いようだから、ブログは主に私領域に回収され、マスメディアは強い力を持ち続けていくのだろう。冒頭に掲げた特徴も、ブログを論文か何かだと思うとネガティブに見てしまうが、私領域の話だとなると別に構わなくなってくる。
またインターネットというのはもともと商業と親和性が高いので(普段見ているサイトの何割が広告で、さらに何クリックで実際にモノが買えてしまうかを考えてみればいい)ビジネスブログ?というような方向性も当然あるだろう。成功者は当然一部で、さらにA→BのAがブログである必然はないわけだが。
.....ここまでで、エントリー80までについては目を通した。疲れた。この疲れた、という点が大事である。数が多いと探すのが大変なのだ。たとえいいものがあったとしても探せないかも知れない。livedoorのように愚衆という概念を恐れない単純多数決のランキングでも何でもいいが、何らかの良いものを見つけるための担保や、TB以外のつながり方が必要なのかなとも思った。
だが先に指摘したように、私領域の延長が多いブログ界においてそれは必要ないのかもしれない。わたしたちは人と偶然性によって結ばれている。わたしが今ここにいて、この授業をとっている必然性はない。たまたまぼくがエントリー80までを見て、81まで見ないのも、現実で出会わない人がいるのと似たような話だ。
Noritoshi Furuichi
70348817
http://cafe.sfc.keio.ac.jp/MT31/mt-tb.cgi/97
投稿者 POE : 06:13 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 21, 2005
ユビキタス
[情報通信文化論課題]
「ユビキタスとは?」
70348817
t03881nf
ユビキタスとは、こうやってパソコンの前に座って課題をエントリーしたり、TBが反映されないことに気をもんだり、不測の事態でBLOGが機能ダウンしたりせずに、たとえば街を歩くように、もしくは空を見上げるように、<誰もが当たり前にできること>の総称だと思います。
なので、別にコンピューター以前のさまざまなものは、もとからユビキタス、じゃないのでしょうか。バナナとか。おにぎりとか。持ち運べるし、痛みにくい、ユビキタスフード。
他にもタカオニや鬼ごっこ、かくれんぼなども、準備もなくどこでも誰でもできるユビキタスプレーですよね。ユビキタスを生かした製品やサービスなどのアイディア、これじゃだめですか?
などと、概念を広げていても仕方ないので、いわゆる一般的な文脈に戻ります。
個人的には、<体にコンピューターを埋め込む>という未来な発想にどきどきしてしまうので、腕に埋め込み感情を画像で表現するモニター、などと言いたいのですけど、もう少し現実的に。(いや、実装は無理だけど)
「興味を持ったものを見ると色が変わるコンタクトレンズ」
エルゴノミクスの知見によれば、焦点をあわせているものにたいする興味と、黒目の開きは相関関係にあるそうですから、黒目が大きくなると色が変わるコンタクトレンズでいかがでしょう。他人に、自分の嗜好がばればれ。うそがつけない。いやですね、そんなの。
投稿者 POE : 04:12 EM | コメント (0) | トラックバック
あまり変わらない。
[情報通信文化論課題]
「未来の教室」
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まず、学校や教室は、インターネットなどの技術によって大きく変わることはないと思います。
技術が世界に影響を与え、その変容因子になることは否定しませんが、電話での例がそうであったように、さまざまな社会的機運や既存制度の疲労など複合的な要素の結節点として、たとえば学校や教室は変わるものです。
今の日本のように同じ年に生まれたというだけで、狭い箱に数十人が一日中監禁される、というようないわゆる近代教育が限界にきているという指摘を最近多く聞きます。
これからは、文部科学省がおかしくないならば、教育制度は複線化・多様化してゆくでしょう。その中のひとつの選択肢として、インターネットや無線技術を使った「未来の教室」は実現するかも知れません。(具体例は、他の楽観的な方のエントリー参照。)
でも、それが主流にはならないし、そうした教室のインパクトは少ないと思います。
ネットを通じて人が「会える」ようになる技術の開発(もしくは「会える」という概念の変化)がおこらない限り無理です。つまり、今の「教室」が担保しているさまざまなものを引き受けるだけの環境がネット上に実現できるか。
遊び、さまざまなつながり、コミュニティ......
確かに今の学校は、教室は、あまりにも多くのものを引き受けています。それの開放は必要でしょう。しかしそれはインターネットを使った教室などととは同義ではなく、先述したように教育の複線化といった意味でです。
ですから、一部の人にとって、たとえば家から出たくない人、もしくはSFCにおけるGCのような補助的な教材として、インターネットと教育は相乗してゆけるのかも知れません。それだけの話です。
いや、100年たって、みんなが引きこもりのような社会が実現していたら、話は別ですけどね。
投稿者 POE : 03:42 EM | コメント (1) | トラックバック
メディアセンター1階
[情報通信文化論課題]
「あなたは今どこにいますか?」
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t03881nf
いま僕は、メディアセンターの一階にいます。黒いパソコンが並んでいる部屋です。
まず、ラップトップパソコンなんていう平均1KGもする立派なものは、持ち歩いていないので、今日の授業に参加する場所は狭められてきます。 パソコンが設置して場所であること、前の時間も授業だったこと、涼しい場所がいいこと、以上の三点をかんがみてこの場所を選びました。普通で、別に何も面白くないですけど、かまいません。あえて教室にでも行ってやろうかと思いましたが、間違えたかと思われるうえにパソコンは重いし、外は暑いので断念します。 まわりは、みんな課題をしているようです。まだ6月なのに気持ち悪いですね・この部屋には12人の人物がいるのですが、うち映画を見たりしているのは2人のみで、ほかはどうやら課題の人が多そうです。 なんか、写真の音がちょっと恥ずかしい雰囲気なので、文字だけで失礼します。 Noritoshi Furuichi 70348817 t03881nf |
投稿者 POE : 03:00 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 20, 2005
最後のネアンデルタール人
北京原人、ジャワ原人、アウストラロピテクス。。。
いくつものヒトが絶滅していったけど、ぼくたちホモサピエンスと進化の過程で最後に分かれたのがネアンデルタール人。
30万年前にホモサピエンスと枝分かれして、そして3万年前に絶滅した。
言語が未発達だったり、抽象能力の不足でホモサピエンスとの進化競争に敗れたというのが主流の学説。
今、残されたヒトはホモサピエンスだけで、しかもその歴史と言ったらわずか30万年にも満たない。文明という文脈で語るならわずか数千年。
なんか、そんなあっけなさに、どきどきしちゃった。
というわけで、そんな本ばっかり読んでる。
他に読むべきものは多くあるのに。
投稿者 POE : 09:16 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 16, 2005
広尾と景観と警官と
ノルウェー大使館まで行って来た。
広尾の路地にこっそり建っている。
さすが。
広尾って、古い寺社と高級住宅が混ざるように屹立していて、
高級感が漂うのに気張らない感じがなんだかいいとか想ったり。
でもやけに警察官が多いのが気になった。
僕の家のまわりには、交番にさえ警察官がいないという有様なので
こんな些細なところからも文化レベルの差がみてとれますね。
ということは、そのうち監視カメラの数が
ステータスになったりする時代が訪れたりするのでしょうか。
「うちの家の周りには監視カメラが30台もあるのざます」
「あらあら、うちなんて家の中にも監視カメラがもう犇いていて」
「これで、家庭内暴力も安心ですわね」
投稿者 POE : 07:44 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 15, 2005
残り。
色々動き出してきた。
知らない場所を想いながら、
見知った場所の残りを数え、
何気なかったはずの場所が愛しくなって。
残り時間が少ないと、全てが大切に思える。
今は未来のための通路じゃない。
それが逆説的に浮き彫りになってくる。
つかめない今というものを生きている以上
常に未来を見つめるしかない。
でも未来の区切りが見えているから
今を、現在進行形で振り返ることができる。
だから、今を今、うまく歩ける。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++
あふれ出してゆく物語を
ふさぐものはもう何もない
君の側で笑っていた日々を
とうに追い越したから
哀しい記憶を数えて
だけどもう何もかもは崩れそうで
だからうまく抱きしめられる
わかりやすく優しくなれる
人は流れ
風がまとう色は
願いに消え果て
ただひとつさえ
守れなかった約束を
急に思い出すのは夜更けのスカンジナビア
氷の国で
ひとり見ていたのは
遠すぎて
一周してしまった夢のはなし
小さな物語を
抱えただけの
小さな言葉が
つむぐだけの
投稿者 POE : 12:49 FM | コメント (0) | トラックバック
Juni 13, 2005
退廃ハウル
現代美術館でやっているハウルのサーカス展にいってきた。
いや、すごい。こんなこと現代美術館でやっていいのか。
学芸員は今頃真剣に後悔しているのではないか。
張りぼてと華奢な木の模型で出来た、極上のチープ感を演出した展示室。
ただの硬い人形が回ったりするだけのメインステージ。
声だけはでかいサーカスの係員。
わずか3分で全体を見渡せるコンテンツの少なさ。
明らかにハウルなんてこじ付けの展示内容。
チケットは時間指定のものをわざわざローソンで買わなくちゃいけない。
さすがジブリ。
誰と何をやっても許されるようです。
期待にときめいていた子供たちが、展示室を進んでゆくにつれて目が死んでいったのが印象的でした。この退廃感。子供には刺激が強かったようです。どうでもいいガラクタを並べて、映像を流して、ハウルの似てない人形を置いて、という刹那い演出は大人じゃないとわからないですよね。
ちなみに、僕も大人にはまだなれそうもないようで、久しぶりに怒って美術館を後にしました。現代美術館好きなのにな。
投稿者 POE : 12:04 FM | コメント (0) | トラックバック
Juni 08, 2005
授業ブログ、うまくいってます?
[情報通信文化論課題]
70348817
t03881nf
ブログは村に出来た建売住宅(立地;狭い舗装道路前)のようなものだと思います。順を追って説明します。
■サイト=村 リンク=どこでもドア たとえば、固定メンバーがほとんど決まっていたり(ムラ社会の閉鎖性)、新しい人は何度かのレスで消えていったり(旅人)、カウンターの数で管理人は一喜一憂したり(村長の気にする人口)、すごくまったりしていて善意の塊のようなサイトや(「古き良き」時代の想起)、一方でその排他的な態度(ムラ社会の閉鎖性)、他のサイトとのリンクのみで認知される存在(村と村を繋ぐあぜ道)、というイメージです。 よくネットワークは「つながる」という言葉・コンセプトで語られます。ただ、そのつながりは所詮どこでもドアに支えられたつながりで、幹線道路や新幹線的なつながりではない。結局、リンクとは1つと1つをつなぐものであって、そのわずかなリンクがつながっていっても、世界はたいして変わらない。 つまり、その夢として語られる共有の力、個人と個人がリンクでつながってものすごいパワーになるっていうような未来は、あまり信用できない。googleで検索をかければ、村人の噂話や、村の賢者の談義(情報サイト)は聞けるけど、それがつながってひとつになる、っていうのはどうも無理な気がします。 *ただ、同時にいくつもの村に住める点は新しいのですけどね。まあひとつのアイデンティティにとどまることを許さないのは、この複雑化した社会の特徴ですから、僕たちにはちっとも新しいとは感じられませんけど。 ■たかがブログ 他者とのつながりが、TB・コメントという制度としてあらかじめ整備されているぶんだけ、今までより容易につながれるようになったという意味です。しかし、それはこれだけ混沌としたネット界での話。TBも普通多くても数十というレベルの話です。それがたとえば世界を変えるとは到底思えない。柳田國男はかつて『世間話の研究』で、近代的メディアの確立のために民主主義や公共性を確立するためには「世間話を正しい歴史にしていく機関が必要」と訴えたわけですが、おなじことが今ネットの世界でも言えるのかも知れません。
70348817 Noritoshi Furuichi |
投稿者 POE : 11:32 EM | コメント (2) | トラックバック
Mein deutsches Lehrbuch war weg
はしゃぐといいことないですね。
こんなことはじめてですよ。
語学のテスト前に教科書をなくすなんて。
教科書なしでどんなテスト勉強をすればいいのか。
見つかったのはテスト終了後。
悲しい話ですね。
投稿者 POE : 09:35 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 06, 2005
66
空は遠くまで続いていて
すれ違う人はみんな優しくて
描かれる未来はいとおしくて
読み始めた本はあたたかくて。
今日はとても素敵な一日だった。
それもこれもあの授業を放棄したせい。
Aじゃなきゃいらない!とか言っていたわりに
実は授業を放棄するなんてはじめてなんだけど、なんだかいいな。
描かれた場所へ行きたいじゃない。
今を生きることは、未来への通過点なんかじゃない。
ここにいることは、ただの手段じゃない。
そんなことを、ドラえもんの日(仮*1)に思う。
だから別に昨夜の無駄な作業(*2)も許してあげる。
*1 「ドラえもん絵描き歌」内に「6月6日」という単語が登場することによる。が、恐らくだからといって今日をドラえもんの日と捉えている人は少数派であり、社会的な根拠は特にない。
*2 テスト前の晩なのについつい作ってしまったスライド。手抜きなので別に日の目を見なかったことはいいのだけど、まあ、いい。
投稿者 POE : 10:07 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 05, 2005
江ノ島
昨日、授業で江ノ島まで行って来ました。授業で、というところが哀しいですけれど、江ノ島も同じくらい哀しい場所でした。
江ノ島には2年位前、夜に来たことがあります。猫と神社と民家が不思議に混在していてあまり悪い印象はなくて、むしろ島全体が神社のような、空間の境目にできる特有な雰囲気には好感をもてました。
で、はじめての昼間の江ノ島。
片瀬江ノ島駅を降りた時から嫌な予感はしていたんです。天候も湘南に相応しい晴天でした。それが一層まずさに拍車をかけました。年齢の高いカップルや、親子ずれ、年配の人たちが島に近づくにつれ、増えていきます。そして島に到着した人々をまず迎えるのは日本の観光地にはどこにでもあるおみやげ物屋の列。
懐かしいバタ臭さ全開です。バタ臭いとは西洋風という意味だけど、たとえば西洋直輸入のはずのスターバックスやマックには使いません。「風」が大事なんです。真似をしようとして、でも無理で、そこに残るのは融合した文化で、もはやそれは日本そのものといっても信じてしまいそうなもので。
湘南はそもそも米軍基地(西洋発)とパラレルに歴史を歩んできた場所です。
たとえばサーフィンも米兵が戦後持ち込んだのを起源として、今の湘南=サーファーのような図式が出来上がったわけだし、1960年代は「湘南を日本のマイアミに」というコンセプトで開発が進められたといいます。
しかし今はもうマイアミの面影を残すものといえば、江ノ島マイアミコンテストとかいうミスコンくらい。おみやげ物屋に飾られていたポスターのやけに寂しそうなミス江ノ島の、褪せた顔立ちが印象的でした。
年配の人が多いのも理由がわかったような気がします。
たぶん、TUBEのようなものなんでしょう。
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残された道がたった一つに
なってしまった今だから
伝えたいこと溢れ出す
傷付いたボクらだけの
優しすぎるストーリー
時つ海を包む夏の地平線
東からの朝の群れが
引き連れる懐かしい感覚
癒された傷跡をたどれば
いつでもあの日の情景
でも後悔は不思議と無くて
知りすぎたボクらだけの
悲しすぎる終わり方
時つ風が訪れる海岸線
西からの夜の気配
もうこれ以上嘘はつけない
描かれた未来だけは
いつまでも残ってる
時つ海を包む夏の地平線
東からの朝の群れを
浴びるのは残された者だけ
投稿者 POE : 02:36 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 03, 2005
ICC
ICCに行ってきた。
メディアアート専門の美術館なんだけど、今回もまた拷問系だった。
暗い部屋でドットが変わるだけの画面を見させられたり、
赤ちゃんが生まれる瞬間の妊婦(の顔)をひやすら映したビデオとか
ひたすら幾何学模様が流れる画面とか。
なんか、よくわかりませんでした。
でも、わからないことがわかりやすく明示されていたので、これでいいのか。
メディアアートって、コンセプトを見ると大層なことが書いてあるんだけど、
実物は技術がおいつかないのか、やる気が無いのか、どうでもいいのか。。。
とりあえず、10年後とかに期待です。
++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
何かを守るため
何をあきらめて、
あきらめすぎて守るものも守れずに
何を守るかもわからなくなって。
それで一人になって
誰かを探して
でも誰もを失った後で
一人で歩けたのは
一人じゃなかったから。
一人きりじゃ
一人で歩けなかった。
投稿者 POE : 10:00 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 02, 2005
環境と
今日は口まわりが重かったです。空気が重いというか、酸素の口当たりがよくなかったというか。全体的な窒素も密度が大きかったのか、動きにくく。まぶたも重く。
まあ、ただの風邪なんだけど、人間は環境的な存在であるとかなんとかいって、全てを環境のせいにすると楽ですね。
でも、風邪ひとつでいつもの通学路も別の風景に見えて、苦しい。
小田急はじとじと、埼京線はどべどべ、空はさらさら。
投稿者 POE : 09:52 EM | コメント (0) | トラックバック
Juni 01, 2005
文字の音声化
[情報通信文化論課題]
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■平成の言文一致運動 若者の間で明治期以来の言文一致運動が進んでいる、と言ったら大げさだろうか。しかし、彼ら(僕も若者ですけど)の行う「文字によるコミュニケーション」を観察してみればその意味はすぐにわかる。 たとえば携帯電話でのメール。そのやりとりには「わかった」や「今、授業中」と言うようなものが多い。それは肉声で喋るべき内容を文字に置き換えたものであって、似たような例にはチャットがある。 そこには文字によるコミュニケーションに期待されてきた思考内容の反芻・推敲は起こり得ない。また文字が本来持つ「理性」「作意性」も置き去りにされる。なぜなら会話の如く凄まじいスピードで「会話」が展開されるからである。人間の意識や感情がまさに声と同じように表現されるのである。 ■ ルソーもびっくり! ■それでも残る「文字」の特性 ■言文一致の行き着く先 気がかりなのは、もはや言葉自体にリアリティがなくなりつつあるのでは、ということである。意味の無い言葉の交わし合いで傷を回避する会話やチャット。記号化した歌詞や応援メッセージ。異口同音に発せられる「感動した」という感想。自衛隊のイラク派兵に憲法前文を引用する首相。情報としてさえも消費されない言葉たちが、あまりにも溢れているのではないだろうか。 文字=論理性、音声=瞬発性といったような役割が崩れ、その中庸として何かが残ってゆくなら構わない。両者の使い分けが出来るなら良い。もちろん、音声言語でも論理は語れる。しかし、今の若者のケータイメールなどに見られる言葉の一方的な音声の文字への歩みよりは、すなわち言葉や論理に対するリアリティの消滅を意味するのではないかと危惧せずにはいられないのである。 ===== でも、やっぱり、今まで文字が担ってきたものの担保は欲しいなあとか、思っちゃう、のです。Noritoshi Furuichi |