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August 31, 2006
8月31日
最近の東京じゃエアコンが教室に完備された関係で
もう夏休みは終わっているらしいのだけど、
8月31日といえば思い出すのはいつも夏休みの終わり。
去年の夏からずっとノルウェーに行っていたので、
感覚的には一年以上の長い夏休みを過ごしている気分なのだけど、
それでもちょっと感傷的な気持ちになってしまう。
そんな想いをお洒落に彩ろうと、
友達とわざわざ千葉県まで深海魚展に行ってきた。
かつては図鑑でも絵ですませていたボウエンギョやフクロウウナギの複製が展示
されているという画期的な特別展。
内容が内容なので展示数も多いとはいえないし、
展示方法もちゃちな感じがぬぐえないし、
ミュージアムショップも関連商品はたいしたものがないし、
と色々な不満があったのだけど、
あのボウエンギョが生で(剥製だけど)見られただけで満足。
こんな魚たちに見つめられる中で
笑っちゃうくらい純粋な気分になれた。
*
旅に出よう
空を抜けて
闇を終えて
朝に向けて
離れる空 遠ざかる街は
失ってきた全てを見渡せる
波打ち際を飛ぶ鳥たち
飾りもなく見つめた
「ここは違う」
君が言った
僕も思う
だから明日
旅に出よう
船に乗って
闇を終えて
朝に向けて
旅に出よう
旅に出よう
August 30, 2006
川口市の図書館
駅前に図書館が出来てとても快適。
今まではちょっとした本を探したいときは、
書泉という駅から徒歩7分もかかり、
かつては6階まであったのに、いつの間にか3階に縮小して、
中途半端に大きいのに本を検索するシステムもないし、
レジの数が少なくていつも並ばされる上に、
さしてサービスもよくない本屋に行かないといけなかった。
それが今では、駅から通路で繋がった徒歩2分の図書館へ行けばよくなった。
一応50万都市の中央図書館なのでそれなりに蔵書もある。
バス専門誌BUS MAGAZINEもCDでーたもananもおいてある。
web上で予約も貸出延長も出来るし、
登録しておいたアドレスには本が届けばメールが来る。
毎日営業で、平日は夜の9時まで開いている。
*
書泉にはあまり恩がないから別にいいのだけど、
これってまわりの本屋さんにしてみればすごい脅威だよね。
無料で、しかも規模やサービスがまわりの本屋さんよりもいいんだから。
普通の本が売れなくて、売れても年何本かの大ベストセラーだけで、
他にはマンガだけが辛うじて売れているっていう状況は、
やっぱり図書館の存在と明確な関係があるのかな。
人気の本はなかなか借りられないから買うしかなくて、
マンガは扱っていないから買うしかないという。
となると、本屋さんには何が出来るか。出版社には何が出来るか。
答えは本の中に。
(これはきれいにまとまっていると言えるのだろうか)
August 28, 2006
この三日間
○
中学時代の友達と会う。
みんな変わってないね、と思えるのは、同じメンバーで会うからだよね。
年をとるってことは、活動する場が増えることで、それは顔を増やすということだから、
○○
国立博物館へいく。
美術館という場所の問題について考える。
ショーケースに掛け軸が10こくらい並んでいるという状況。
本来は、床の間に置かれていたものだから、これはcontextが剥奪された状態。
だけど、保存の問題なんかを考えると個人で所蔵し続けるのは難しい。
多くの人に見てもらうには、美術館に飾ったほうがいい。
美術品はいったい、誰のためにあるのか。
たとえば「未来の誰か」のために、つまり後世に残すことが最重要なら、
誰にも見せずに保存したほうが傷んだりもしない。
だけど、誰にも見られず、ただただ保存だけのために存在する美術品、
というのもひどくいびつなcontextを奪われた状態に見える。
○○○
実はまだこっそりシューカツを続けているんだけど、
スーツじゃないだけで、全然気が楽。
電車の中でアイスもシュークリームも食べられるし、
街もどこまでも歩いていけそうな気がするし。
August 27, 2006
線路の外の草原
テレビをつけると、世界遺産という番組でアウシュビッツ強制収容所が紹介されていた。
20世紀に、白人(定義は知らないけど)による白人に対する残虐行為だから
こんなにも大事件のように扱われるのだと思う。
近世までは白人が黒人奴隷を使うことは珍しいことではなかったし、
モロッコなんかでは多くの白人奴隷もひどい扱いを受けていた。
(今、テレビでFOXテレビの記者がパレスチナで捕まって、
強制的にイスラム教に改宗されたというニュース。
なんか人ってやっていることは何世紀も変わらないね)
6月に行ってみたときは、あまりにも暑すぎて
バッグに入れておいたチョコが溶けてしまって、
バッグの中がチョコまみれになってしまったことが一番の思い出。
あとは、きれいな草原という印象しかない。
家族揃ってのピクニックなんかにもいいと思った。
遠いのか近いのかわからなくて、
眉間にしわを寄せることは出来なかったなー。
ホロコースト論争は今でも活発に行われていて、
たった一つの真実なんかにたどり着ける日は来ないのだけど、
とりあえず、草原はきれいで、観光客は楽しそうだった。
August 25, 2006
色々とまではいかないんだけど
それなりの幸せなんてそこら中に溢れている。
でも、それだけじゃやっぱり嫌。
*
偶然の意味はなんだろう。
*
クレヨンしんちゃんは、アニメ化15年。
いつの間にか、10年じゃなくて15年前が思い出せる年になってた。
August 24, 2006
冥王星
ひとつの時代が終わるときは、こんな気持ちになるのかな。
一番好きだった惑星が、惑星じゃなくなるなんて。
あの、明かに仲間はずれなのに、仲間として扱われてきた姿に、
色々なことを重ねてみてきた冥王星。
唯一アメリカ人が見つけた惑星だったから、
大丈夫だと思っていた。
しかも今年のはじめ、アメリカがNew Horizonsという
はじめての冥王星探査衛星を打ち上げたばかりだった。
到着は2015年。
そのとき、かつて惑星だったその星を、
世界はどんな顔で向き合うんだろう。
そして、惑星じゃなくなることさえ占えなかった
冥王星人とかを使う占い師は、これからどんな顔をして歩いていくんだろう。
August 23, 2006
形容詞が気になるこのごろ。
「実は優しい?サルコジ内相」(読売新聞)
フランスのサルコジ内相が新著でマイノリティーの優遇策について
具体的に述べた、という記事のタイトルなんだけど、意味不明。
もともとサルコジってのは、アファマティヴアクション推進者なんだから。
しかも、「優しさ」と「少数民族優遇政策」がどう結びつくかもわかんない。
最近、みんな、主観的な形容詞を簡単に使いすぎだと思う。
別に、個人の日記やJ-POPの歌詞や居酒屋談義なら全然かまわない。
だけど、政治の場や新聞で、それはどうなのだろう。
「美しい国」「明るく元気な地方作り」...
こんなのは、J-POPの歌詞にさえならない。
せいぜい小学校3年生(それも1学期)の学級目標くらいだよね。
そんなことを恥ずかしげもなく総裁選の公約で言えてしまう
そんな人たちは、美しくないし、かっこ悪いと思う。
(と、確かに主観の形容詞は便利だから使いたい気持ちはわかるんだけどね)
August 21, 2006
パーティー。
ひとが集まる。
笑い声がゆきかう。
そんなことなのかも知れない。
それでもいいのかも知れない。
それがいいのかも知れない。
だから、もう少し行こうと思った。
*
夏風通り過ぎる横断歩道
少し古びた信号機
勇者なんていないこの世界で
何を待っていたのだろう
エンディングさえこのゲームの先にはない
それでも君は日常のささやかな幸せを集めるのが好きだった
この頃よく明け方に思い出す感触
今日の夢なのか あの日の結末なのか それとも未来なのか
信号が青に変わる
わからないままいつもの様に朝に飛び込む like a soldier
紫陽花咲き誇る渚小径
君の残した引っ掻き跡
勝者だけが見えるその世界に
今も憧れることがある
白熱のない街を行く僕はすぐに
ヒーローだとか実体のないものに過剰な期待をして踊らされてる
あの頃よく読んでいたマンガにもあったね
平和になった街 幸せすぎて人がまた 悪魔を探す話
終わりない日々じゃきっと
その場だけの救いしか見つけられず彷徨う like a soldier
今でもよく駅前で探し出す風景
君が通り過ぎる あの子が空を見て笑う 僕らは歩き続ける
思い出の色が抜ける
わからないままだけども今日も朝を越えてく like a soldier
August 19, 2006
朝起きる。
最近、一日に水を2リットル飲むせいか、
朝の7時ごろに目覚める習慣が出来た。
これはチャンスとばかりに、朝ごはんを食べて(昼に起きると物理的に食べられない)、
きょう一日のプランをたてるんだけど、
ついついベッドに横たわってしまい、まだ明るいしと思い、
結局ふたたび眠りの世界に戻ってしまう。
そんなのが、最近の日課。
一応、午後は活動している。
六本木ヒルズのプラネタリウム行ったり、
美術館に行ったり、
もらったゴーストレーダーで遊んだり。
でも、ぐだぐだなことには変わらない。
2週間も放り出したままの予定や、
1ヶ月もあきらめたままの計画や、
2ヶ月も返信していないメールや、
3ヶ月も途中のままの本がある。
どうしようかなあ。
August 16, 2006
メモメモメモ。
○なるほどなあ。
音楽CDは、いまやバックアップCDになっている。
今はみんなケータイやipodに音楽を入れて聞いているから、
モノとしての音楽CDはいつの間にか、バックアップCDになっちゃった、という話。
ただ、CD買って、mp3にして、プレーヤーに入れるって言う作業が煩雑で、
なかなかプレーヤーに最近買った音楽を移せずにいます。
○見た映画。
○SUMMER TIMEMACHINE BLUES
water boys的なノリで、タイムマシーンをネタに使った話。
青春コメディとタイムマシーンという微妙な取り合わせはいいとして、
ヒネリが何もなくて、最後までふーんて感じだった。
○ZOO
乙一原作の短編を集めた映画。
別に映画にしなくてもよかったんじゃないかなあ。
August 15, 2006
終戦記念日らしい
といっても、今日が日本で記念日に定められたのは1960年代になってからだし、
アメリカでも、ミズーリ艦上の降伏調印の9月2日をVJデイ(対日勝利記念日)としていた。
まあ、でもすっかりみんなが今日を終戦記念日だと思うようになったので、
今日は終戦記念日です。2006年です。
*
少しだけ遠ざかる声
呆気なく消えてゆく意味
小さく丸まったまま
うまく言い切れないまま
ねえ、
その先の言葉は知らない
あの人に届く言葉は知らない
風上で遊んでた僕
向こう側の色は知らない
世界を見切ったように
つよく目を閉じたままいる
ねえ、
その先の言葉は知らない
あの場所へ届く言葉は知らない
August 14, 2006
フィナーレ
昨日は同窓会に行ってきた。
思ったよりも色んな人が来ていて、思ったよりも楽しかった。
(相対評価は気が楽でいいよね)
記憶だとか、しぐさだとか、振る舞いだとかは、
他人や場所の中にあるのかなって改めて実感。
他人の中っていうか、自分と他人の中間領域に辛うじて
表出しうるのかなあ。
*
今日はいわゆる「聖断」によってポツダム宣言の受諾が日本で決まった日。
じゃあ何で今日が終戦記念日じゃないかといえば、
一番大きな理由はアメリカの「フィナーレ」のためだと思う。
ワシントンへポツダム宣言受諾の電報が届いた後、
アメリカは残った爆弾を処分するために、
B-29、766機を総動員して、14日夜から15日未明にかけて
秋田や小田原など五都市で大規模空襲をした。
死者400人近く、負傷者3000人以上。
だから、今日のニュースを見ていれば、
被害にあった都市での慰霊祭が結構行われている。
原爆は、日本の戦争を止めるために仕方なかったっていう
屁理屈がまあ広く受け入れられているけど、
このフィナーレにアメリカはどんな言い訳をしているのかな。
まあ、というわけで、たくさん人が死んでいるので、
今日を敗戦とも終戦記念日とも呼べないというささやかなトリビアでした。
August 13, 2006
ないものねだり
世界に一つだけのオリジナリティを目指すっていうのは近代主義の発想だよね。
だから、たった一つの固有なものなんてないっていう割り切りの感じられる
ポップアートだとか、大衆向けの音楽だとかには好感が持てる。
でも、そのさじ加減が難しくて、「たった一つの目指すゴールなんてないや」って、
簡単にあきらめてしまったモノたちもあんまり好きじゃない。
そんな当たり前のことをさも何かを看破したように振舞うんじゃなくて、
やっぱりどこかにあるかも知れないたった一つのものを仮定して、
そこに向かってゆく態度だったりするものは欲しいな。
何でもありの場所でも、何かの基準は必要で、
その基準は結局過去にしかあり得ないわけだから、
その態度は前衛でも保守でも関係はなく、過去に拘束はされる。
そんな中で、一瞬でもキラってするものを。。。
っていうのは、ないものねだりなのかな。
投稿者 POE : 12:33 EM | コメント (2) | トラックバック
August 09, 2006
一年。
あの日からちょうど一年。
やけに西日がまぶしかったこととか、
通りがかったキッチンの匂いとか、
真っ赤な地下鉄の色だとか、
それは皮膚科に行った昨日よりも鮮明な像たち。
青春を思い出すオトナってこんな感じなのかな。
ぼくにも、青春と呼べるものが出来たのかと思うと、甘酸っぱいです(誤用かな)。
August 07, 2006
自分用メモ
書いておかないと忘れちゃう。
さっきも「封印作品の謎」という昔読んだ面白い本を探すのに
20分にわたりgoogleさんと共闘した。
というわけで書いておく。
○always 三丁目の夕日
昭和30年代を舞台にした人情劇。
周りの評判が良いんで見てみる。
評判が良い理由はわかったけど、それくらい。
やっぱり、ネタよりもベタが流行っているのかな。
50代以降が「懐かしい」って見るわけじゃなくて、
若者が好んでみているみたい。この5年、昭和30年代はずっと流行っているよね。
平成10年代を、いつかの未来っ子は「カッコいい」って振り返ってくれるのかな。
まあ、そんなことはどうでも良くて、
『クレヨンしんちゃん~嵐を呼ぶモーレツ!大人帝国の逆襲』のほうが名作だと思う。
○ピカ★★ンチ
第一作目は面白かったんだけど、今度はテーマを活かしきれてない気が。
主題歌はよかったのに。
IZAMの「君は百万画素」だけは素敵。
August 06, 2006
文化的充足
今日は文化的に充実した一日(本人比)。
まずは、写真美術館に行く。
いつも、フロアごとにチケットをばら売りは腑に落ちない(ま、あの東京都だし仕方ないか)。
一つ目は、報道写真で見る戦後の世界。
世界中の60年を、いくら報道写真っていう切り取り方をしても、
狭いひとフロアで展示するのはどういう神経かわかんないんだけど、
まあ写真集を読むときにおける「選ぶ」と「めくる」っていう動作を
誰かに代行してもらったと思えばいいのかな。
その代償として「歩く」と「払う」をさせられた訳だけど。
二つ目は、中村征夫という人の水中写真展。
展覧会名が「海中2万7000時間の旅」という大層なものなのだけど、
やっぱりワンフロアだけの展示なので無理があると思った。
でも、こっちは、好きな写真を見つけられたからそれでいい。
照明にも気を使ってあって、だんだん水族館みたいになっていく雰囲気は好感が持てた。
でも行くなら普通の水族館のほうがいいかな。
*
そして!こち亀の舞台に行ってきた。
本当なら一万円するペアチケットが、オークションで千円で手に入ったから。
そこまで期待してなかったんだけど、よかった。
なんかね、顔がほころんでしまうかんじ。
こち亀のファン層ってまったく予想がつかないんで、
今日もどんな人がいるのか不安だったんだけど、
老若男女がいた。イマドキの若い子から、禿げ上がった老人まで。
そのみんながすごく楽しんでいる感じが伝わってきて、こっちも楽しくなる。
一緒に行った子と、舞台が終わったとき、
少しテンションが高くなってたもん!
具体的な内容はおいておいて(文字で書くとたいしたことないから)、
こういう場所を作れる人がいて、そこには人が集まるんだと思うと、
この世界もまだまだ捨てたものじゃないと思う。大げさに言うと。
*
帰ってくると、SFCらしい(というと怒られるかな)事件がニュースでやってた。
たった数行のニュースをソースにいえることはあまりないけれど、
たった数行のニュースをソースに、色々モノいう人の多さと、
その内容はいつものことながら興味深いと思った。
August 04, 2006
ウィルコム。
イマドキの女子高生や大学生はケータイを二台持っているらしい。
一台目はdocomoなどの携帯電話、二台目はPHSのウィルコム。
ウィルコムは昔はエッジをやっていた会社で、
その売りはウィルコム同士の通話定額制。
それに、メールも無料で、一ヶ月2900円。
このサービスが始まったのは去年の春で、
ビジネスマンには初めから注目されていたのだけど、
その人気が若い子たちまで及んできたみたい。
普段の用件は一台目の携帯電話で、
友達や恋人との長電話はウィルコムで、ということらしい。
*
住んでいた寮からデポジットがまだ返ってこないので、ノルウェーに電話。
家の固定電話はIP電話なので、通話料金も1分20円くらいで、
携帯電話の国内の通話料とあんまり変わんない。
ていうか、ノルウェー国内で、携帯電話からかけるより安い。
ちなみにウィルコムでも40円しかかからない。
安くなったなあ。skype使えばもっと安くなるし。
だけど、ケータイで音声定額っていう価格の破壊の仕方は面白い出来事だと思う。
だれでもどこでもずっと繋がっていられるようになるんだもん。
*
電話については、むかしレポートを書いたくらいの思い入れしかないんだけど、
電話の歴史と個人化の歴史はパラレル。
もともとはパーティーラインが一般的だった電話が、
1920年代以降に一対一が話すという今のかたちが普及しはじめて、
1970年まで来ると子機が各部屋に置かれるようになって、
1990年代のケータイの普及。
どこでもドアのない世界を生きるぼくたちだけど、
音や映像でなら四六時中繋がっていられる未来も遠くないみたい。
August 03, 2006
ビデオカメラ
まだノルウェーからの荷物は、部屋の外にあるのだけど、
今日、思いきって、撮っていたビデオを見てみた。
このビデオも、行ってから半年間は面度臭くて一度も使っていなくて、
その後使ったのも10回くらいかな。
1960年代で言う、カラー写真くらいの位置付けでしか使えなかった。
namsos, russ, 17 mai......
とりとめもない映像が、たれ流れてゆくだけなのだけど、
覚えてもいないような、友達との何気ない会話にどきっとする。
そのときの感触までは蘇らないけど、
なんとなく、そのとき、じぶんがそこにいたんだなって思えてくる。
自己の同一性なんていう、確証を自分の中に完結させられないものに、
証拠を付きつけられてしまったかんじ。
ノルウェーにいた自分なんて嘘だったんだと、
てっきり、うすうす思い始めてしめていた矢先だったのに。