よもやま話: 2008年8月アーカイブ

全米社会学会はいろいろ用事があってフルに参加できなかったけど、視点の違いが見られておもしろかった。政治社会学者(political sociologist)と政治学者(political scientist)は協力できるのかというパネル・ディスカッションでは、「やってられない」という人と「できるよ」という人がフロアを交えて議論していて、聞いていると苦笑してしまう。

社会学者から見ると政治学者は価値や制度にコミットしすぎているそうだ。例えば、民主主義は良いものだということを前提として議論している。社会学者は良いかどうかの判断はさておいて、人々がどうやってインタラクションしているかに関心があるので、民主主義がどうなっても構わない!

まあ、そうかもしれない。社会学の議論を聞いていると、とっかかりがないという気がする。「それで?」と聞いてみると、「それだけ。それがおもしろい」という答え。

政治学は社会のデザインとか批判ということを重視しているから、自分が依拠する立場に自覚的でありながらも、特定の価値を持つことを躊躇しない。リアリストでもリベラリストでも構わない。立場の違いに過ぎない。

社会学は何でも相対化してみて、自分たちに埋め込まれた価値からできるだけ中立的であろうとするみたいだから、何でもぶった切ろうとするマクロな一般論と、一般化を拒否するミクロな個別論に分かれていて、両者をつなぐ議論がなかなか出てこない。

政治学はアリストテレスまでさかのぼる伝統があるくせに節操が無くて、いろいろな分野から知見や手法を借りてきてしまって恥じるところが全然無い。社会学者は新興勢力だからか、社会学らしさにこだわりつつ、まだそれが誰にもよく分からない。

いずれにせよ、事前登録参加者だけで4900人を超えるという大きな全米社会学会である。優勢な学問分野であることには変わりない。

越境

| | コメント(0) | トラックバック(0)

自分で決めてしまった、あるいは誰かに決められてしまった境界を越えて探検するのは、しんどいものでもあるが、楽しいものでもある。SFCにいると、「自分は○○学者です」と名乗るのはけっこう恥ずかしくなってくる。聞かれると私は「国際政治学者です」と答えているが、他人から見るとそうは見えないかもしれない(総務省関連の仕事が多いし)。最近は大学院のインターリアリティ・プロジェクトで社会学をかじってみたりした(ウェブは全然更新されていないけどね)。

今週末、ボストンで全米社会学会(ASA)が開かれている。二度と全米社会学会に参加する機会なんてなさそうだからと思って参加している。おもしろいことに、「私は社会学者ではありません」と自己申告すると参加料が割引になる。全米政治学会(APSA)並に大きな学会だ(こちらも今月末にボストンで開かれる)。

昨日は、社会学の成果が軍事政策にどうやって応用されているかというテーマのワークショップに参加した。「ミリタリー・ソシオロジー(軍事社会学?)」という言葉は初めて聞いた。国防総省はいろいろな形で社会学者を雇っているようで、軍隊という一つの社会で起きる問題についてアドバイスをしているらしい。しかし、そうした研究成果は敵を利することになる可能性があるということで公開されない。そうした社会学者たちの研究成果は軍の中だけで消化されている。

このワークショップで一番驚いたのは「social network analysis(社会ネットワーク分析)がサダム・フセインを捕まえるのに使われた」という話。なるほど、彼がどこに隠れているかを探すために彼の持っていた社会的ネットワークを分析すれば、誰がかくまっているのかが推測できたのかもしれない。政治学より社会学は役に立っているではないか。

現在のアフガニスタンとイラクでの作戦では、1976年と2006年に発表された社会学の研究が応用されているという。越境するとおもしろい風景を見ることができる。

(考えてみると、SFCでも自衛隊の社会学的研究がけっこう行われている。防衛研究や政治学の研究として自衛隊を取り上げるのもおもしろいが、社会学から見るのもおもしろいだろう。SFCでの先駆的なものとしては、今は一橋大学にいらっしゃる佐藤文香先生の研究だろう。)