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November 30, 2004
マクルーハン
「雑誌や漫画ばかり読んで、たまには古典や名著も読みなさい」という愚痴を未だに聞きます。今日読んだ本にその解決法が書いてありました。
学校教育で教わったことはたいてい詰まらなく、化石化したものと映ってしまいます。いくら教科書会社が人気者を教科書で扱っても、授業で「この夜空ノ向コウの歌詞の1連目はこういう意味で」と教師に語られた途端に何の面白みも無い教科書のただの文字列になってしまいます。
だから雑誌に載っているような「この秋流行のアジアン!」「本当に役立つスタイリング」を授業にしてしまえば、みんなの興味をそぐことが出来るのではないでしょうか。この秋人気のアイテム120個の名称暗記や、アジアン雑貨の店の所在地を求めるテスト問題。日本におけるカルチャーの細分化とからめながら、いかに今の時代にブームと語られるものは成立しうるかを800文字以内で書きなさい。
逆にカントや紫式部を、さも楽しそうにメディアが演出。全部が相対性理論に関わるクイズ番組。今年のブームは一般相対性理論!いまどき、ニュートン力学なんて恥ずかしくて語れないような時代に。
ってマクルーハン読んだのに、このレベルの低い帰結......。いや、本当はもっと難しそうなことが書いてあったんだけど、このレベルでしか理解できませんでした。それに、上のような状況はむしろ実現できない(共通価値規範の崩壊)ことによって、実現しちゃっている(全ての差異化)ような気も。
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November 28, 2004
可視光線、偏光、波長
束の間の空白にさえ
色を塗り重ねようとする
可視光線、偏光、波長
空の色ひとつ
自由には見られない時代で
歩いてゆく 息をする 信じる 守る
何もかもに理由や意味は見出されてしまう
だけどなお
歩いてみる 息をしてみる 信じてみる 守ってみる
伸びてゆく影から逃げたはずが
繋がってゆく人と街の隙間
通り過ぎるふりも出来ずに
迫り来る明日に怯えて
ただ震えるばかりで
憧れた夢の上でこんな様
この場所がはじけたら
どこまで飛ばされてしまうんだろう
終わってゆく景色の中
逃げ惑う世界になれば
全て意味は砕けてしまうはずなのに
そんな空想にさえ
人は意味を与えてしまうから
側にいて 離れないで わかりあえないで
夢を見て 望みをつないで 自分を誤魔化して
西口の隙間 鉄橋の裏側 スパイ衛星の裏側
どこにいたとして、
世界中でたった一人にはなれないのに
こんなにも寂しいのはなぜだろう?
風がまた伸びてゆく
星はまた並んでゆく
そして空を見上げる
酸素や窒素や二酸化炭素をどうにかこらえて
息をする
距離や時間や時空をどうにかおさえて
信じてみる
たった一人、
信じてみる
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November 27, 2004
http://www
http://www.mainichi-msn.co.jp/geinou/tv/news/20041127k0000e040065000c.html
血液型で性格判定をする番組の急増に対する記事。それをもとにいじめなども起こっているようで、なんでも訴訟も検討されているそうです。
でも、社会を見まわしてみれば、人を血液型のような生得的なものでジャッジする言説は溢れかえっています。
「女は男のどこを見ているか」、人種主義、「虫の鳴き声を愉しむのは日本人だけ」、DNA決定論、「男らしさを持ちなさい」、「日本人なら武士道を見習って」
問題は、それにへんな客観的で科学的と見せるようなデータがともなってくるところだよね。血液型も血液型占いなら問題ないわけで、レイシズムも日本人占い、性別も男性占いとかなら笑ってすませられるのに。「おまえは極悪人顔だからな、未来の組長!」なら笑ってすませられるけど、「科学的にDNA判定の結果、あなたは犯罪者になる特性があります」なんて笑えたものじゃない。特に、笑ってすませたいのがテレビなら、データなどという権威的なものを持ってくるなよ、と。
それにデータなんてなくても「そうかも」と思ってしまうのが占い。動物占いに言い当てられた気になってしまうことは別に珍しいことではない。朝の占いはそれなりに人の肩を押す。
だからむしろ血液型占いは歴史も深く、子供の頃から「O型は楽天的」という言説を刷り込まされ内面化している人もいるだろうから、その意味で血液型占いも基本的なものに関しては多少信憑性を帯びてきてしまうのかな。
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November 25, 2004
さっき思ったこと
○幹事長代理○
「安倍幹事長代理」って「幹事長代理の安倍」ではなくて、「安倍幹事長」の「代理」に聞こえてしまって仕方がない。安倍幹事長の代理である「阿部幹事長」とか「安陪幹事長」とかね。ん?安陪?安部?阿部?誰が代理でどれが本物だ?
○紅白の出場者発表。○
微妙。うらぶれきってはいないのに、すごくもない。
紅白、いっそ10年に1度くらいにすれば、みんな有り難がって出るかも知れない。ああ、でも10年じゃ忘れられて終わりか。なら、ここはもう放送法を改正して12月31日の午後8時以降は全てのチャンネルが紅白にする義務を設けてしまうとか。ボイコットでも起こって、ますます出場者が減りそう。
12月の1ヶ月間をまるまる紅白にしちゃえばいいのに。ニュースも連続ドラマも「紅白の途中」扱い。ということは、冬のソナタの再放送や大河ドラマを流すだけで自動的に「ペヨンジュン紅白出演」「今年のSMAPはドラマで紅白を応援」って言い張ったり。前代未聞の720時間番組。歌手もいつ出てくるかわからなくて視聴率も散漫で。だめじゃん。
投稿者 POE : 03:10 EM | コメント (2) | トラックバック
November 24, 2004
年賀メール
さすが21世紀、年賀状はメールで、という人も多いらしい。「あけましておめでとう。今年こそよろしくね」というメッセージをアドレスを追加するだけで簡単に迅速に一括送信できるのは確かに現代的で合理的で素敵だ。
でもそういったメールを受け取った瞬間、もしくはアドレスを入力している最中から、人は気が付いてしまう。「味気ねえ」。
でも、大人がそうするように紙の年賀状もそれは味気ないことに変わりがない。パソコンで、もしくは印刷屋によって、同じ文面が印刷されて送る社交辞令に違いない。だから、どうせ社交辞令ならばかえってメールのほうが、経済的にも機能的にも良いじゃないかと考えることも容易い。かかる時間や手間は紙の年賀状のほうが多いのに、格段に年賀状が味気のあるものではない。
考えてみれば、結局年賀状なんてほとんどは自己満足にすぎない。印刷された年賀状において、誰か特定の人を待ち焦がれるなんて状況は考えにくい。送ったか送らないかということにしか多くの場合、人は関心を払わない。
というわけで、今年おすすめしたいのは、年賀メールをコピーアンドペーストを使わずに、一括送信やBCCも使わずに、いちいち「あけましておめでとう」と書いてみたらどうでしょう。「実はこれいちいちコピペではなく書いてるんだよ」とか書いてはいけません。あくまでも、社交辞令的な内容だけを書きながら、実はいちいち打っているというなんてとても粋じゃないですか。報われなくたっていいじゃないですか。
僕は嫌です。時間かけましたオーラを発する年賀状でも出します。
投稿者 POE : 11:14 EM | コメント (2) | トラックバック
November 22, 2004
トップページ
トップページだけ変えました。
痛いですねえ。
でもこんな痛いことしても「らしいよ」と言われるような人にいつかなりたいです。
無理ですね。
はい、痛いです。
投稿者 POE : 11:15 EM | コメント (0) | トラックバック
声優5人降板
伝統を守ろうとかいう人たちをずっと軽蔑してきたのですが、自分が慣れ親しんできたものが壊れてゆくもの瞬間に立ち会うと、その気分も少しわかってしまいます。最近、2時間映画を4回にわけて再放送したり、おかしいなと思っていたんです。来年も映画を中止するのもこれで理由がいきます。今出ている雑誌は、本当に今までのメモリアル的なものだったんですね。
http://www.sankei.co.jp/news/041121/bun091.htm
ドラえもんの声優5人降板。サザエさんのように、少しずつ確実に変わってゆくのが良いとも一概には言えないけれども、一気に主要キャラクター全員の声が変わってしまうということは、存在の根幹を揺るがす、というか変化路線にトドメを打つようなものだと思います。
藤子F不二雄の死去後、確実にドラえもんの変化のスピードは速まったと思います。SPEED、東京プリンやダブルユーが主題歌を担当するのはまだ序の口でした。ストーリーもあきらかにその質を、あえて言ってしまえば低下してきたと思います。というか、わかりやすく幼児・小学生層だけに迎合するようになったと思います。勿論、子供用アニメでそれは構わないのだけど、「大人でも愉しめる」という点がドラえもんが国民漫画とまで言われた所以だったはずです。
そして最後の砦だった5人の声優の交代。どんなに絵や物語が変わってしまっても、アニメにおけるとても重要な要素をしめる声だけは、ずっとあの5人でした。もう、5人のいないドラえもんなんて。。。。。可能性としては、あんな青ロボット、どんな声でも有りうるわけで、そして人はその声にいつかなれてしまうわけで。。。。。。
でも25年分の膨大な過去のビデオ・DVDがあります。それだけでもう十分です。これからさっそく、古く良き時代の映画「パラレル西遊記」でも見ます。
さようなら、ドラえもんってこんな気持ちかな。http://kitadai.air-nifty.com/fd/doraend.swf
。。。。。なんか慰撫史観のオヤジみたいで嫌だなあ。「あの戦前の素晴らしい時代をもう一度。そこには美学があった。この戦後や現代の腐敗は何だ」と言いながら、昭和全集みたいなのを見ているようなオヤジみたいな。ていうかオタク?
投稿者 POE : 02:13 FM | コメント (2) | トラックバック
November 21, 2004
「カネで買えないものはない」
ホリエモン(この呼び方はどうかと思うけど)が「カネで買えないものなんてあるわけないじゃないですか」と言っていた。
カネでモノを手に入れる行為を「買う」というのだから、そんなことはレトリックとしては当たり前なんだけど、そんなくだらない突っ込みは置いといて、文脈から考えて「カネで手に入らないものなんてない」と言い換えてもいいような感じだった。
カネで手に入らないものはない、と信じきってしまってその世界を生きることが出来たならば、その人にとってその世界は成立する。福音主義者じゃないけど、ある価値観にどっぷりつかってしまってそれを体現してしまえることは、きっと幸せで居心地が良くて、素敵なんだろう。(ただこの場合、その幻想が続いてゆくだけの大量のカネという後ろ盾などが必要だけど)
人間は魔術から解放されなかったほうが良かったのかなとか思ってもしまうけど、一度タネがわかってしまった魔術にもう一度かかるのもどうかな。まあ、これも進化とか近代っていう魔術にかかってる人の発言には違わないけど。
投稿者 POE : 05:56 EM | コメント (0) | トラックバック
そしてだからまた。
灯火の消された街で
足音だけが孤独を告げる
誰にも届かない声で
泣いていたとして
誰が救ってくれるというの?
世界中でたった一人と
何一つ変わらない
誰も互いに微笑まず
誰も互いに心を隠して
優しい空に君はいつか消えて
眩しい明日に夢もいつか溶けた
いつのまにか
また誰もいない世界
行き先の消された道を
想い出だけを頼りに歩く
そこには未来などないと
知っていたけれど
物語を亡くした時代じゃ
それも仕方ないのかもね
あざとい夢に誰が街を去って
忙しい街に誰が夢を運んで
それをまた
キャタピラが踏み潰し
チョークで描きなおす
タイムマシンひとつない世界で
取り戻せないものは
一見、あまりにも多いけれど
いつか
「もう取り戻せなくてもいいさ」と
笑える自分に出会える日くらい
信じてみてもたいな
+++++++過去は救える。+++++++++++
よく、過去は変わらないなんて言う。
確かに、現象として起こってしまったことは、きっと変えられない。どんなに願ってみても、きっと取り戻せないものや帰れない場所はある。
でも、自分にとって、その出来事や過去は何だろうか、と考えてみたとき、それは現象として起こってしまったことではなく、むしろ「悲しい」や「嬉しい」という気持ちだったりする。
たとえば「穴から落下事件」や「選ばれなかったという事実」、ではなくそれを悔しがっているという気持ちが、過去を変えたいと思ったりさせてしまう。
事実は変えられない。でもその現象それ自体には、悲しみも苦しみもない。それを「悲しい」と思う自分の心があるだけだ。
つまり、過去は結局、自分の心の中で処理する出来事である以上、心に還元できる出来事。僕たちは過去のいくつもの出来事を気持ち越しに見ているに過ぎない。
気持ちならば、いつか変わることもある。
気持ちが変われば、出来事それ自体は変わらなくても、「悲しい」が「嬉しい」になったりすることもある。
だから、悲しいことがあったら、きっと、それはいつの未来でもいいのだけど、それを救える日が来ることを信じてみる。
というか、今悲しいと思っていることを、「ああ、あれで良かったんだ。あのときのあの出来事は間違っていなかった」と思える自分を、信じてみる。そう思えるように、走ってみる。走れないなら、走れる自分を、信じてみる。
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November 20, 2004
助手席
まわりのいろいろな人が車の免許を取っていきます。あなたには無理でしょう?と偏見を持ってしまう人も含めて、どんどん免許をとっていきます。
勿論、街を歩けば、もしくは統計でも見れば明らかなように、そんな偏見は間違いで、誰も彼もが難なく車を乗りこなしています。
ああ、みんなすごいと、ついつい道路をぼーっと眺めてしまえば、尊敬してしまいます。だって、あんな鉄の塊を、アクセルやらハンドルやら様々な操作をして、幾つもの車がよけあって。。。。。。
車多すぎます。みんな、ずるいよ。あんな鉄のイノシシを乗りこなせて。
もっと、「車の免許」という基準をあげてしまえばいいのに。F1を教習所で採用して、それが乗れる人じゃないと、普通免許もあげないとか。アクセルを20個くらいにして、その組み合わせでスピードが変わるようなシステムにして、とにかく複雑にするとか。
もしくは、経済的な基準。電気自動車だけを売るようにするとか。高いでしょ。なら高い車を買える人だけ車に乗ればいいのに。京都議定書の排出基準も守れて一石二鳥。
。。。。。とか言っても免許のない人のヒガミにしか見えないですね。このまま誰かの助手席に乗りつづけていきたいので、口はつぐんだほうがいいですね。。。
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November 18, 2004
Evangelical
Evangelicalのビデオを見た。福音主義派。
原理主義的に聖書を信じる人たち。
「私は3歳で生まれ変わったのです」と笑う女の子。
「私たちの生きているうち、出来るだけはやく降臨があって欲しいわ」と笑うその子の母親。
とても幸せそうでした。
うまく利用されたり、誰かに押し付けたりしなければいいなあ。
みんなに福音主義を広げることがミッションとか言ったり、宗教分離はおかしいとか言ってたけど、きかなかったことにしておこう。
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November 17, 2004
素敵な大学サイト
たまたま通りかかったよく知らない大学のサイトなんだけど、その方向性が微妙な充実ぶりに驚きました。
1、過去問自己採点機能
大学の過去問といえば本屋に売ってるあの赤い本を買うか、オープンキャンパスなどでわざわざ入手しに行くのが当たり前だと思っていました。しかし、この大学のサイトには、自分の答えを入力するとそれを採点してくれるページが!
2、大学スゴロク
キャンパス内の地図を貼りつけて終わり、というサイトが普通の中、ゲーム要素を取り入れた大学スゴロクで、興味のない人もキャンパスについて知ってしまうという素敵なページ。
3 大学バーチャルツアー
大学の一日をシミュレーションゲーム風に再現!
まあ、実はそこまではどれもすごくはないんだけど、これを見ると大学にとっていかに学生を集めることが大切で、たとえばスヌーピーをパンフレットに採用して人気を博している大学など、今の時代に必要な企業努力なんだなあとか、大学スゴロクをやりながら色々思いました。
投稿者 POE : 12:05 FM | コメント (0) | トラックバック
November 15, 2004
なぜ微笑む
今日は、雨風に寒さまで加わった、素敵な日でした。雨は濡れるので、嬉しくはないのだけれども、風と寒さというのは11月らしく、とてもワクワクしてしまいます。
建物から屋外に出るときに、全身に吹きつける冷たい風。まさに冬がはじまってゆく感覚が、否応無しに顔をほころばせます。
つい、にやけてしまう。いくら寒さが嬉しいからといって人前でニヤニヤしているのも何だなあと思ってマフラーを口元まであげる。この動作さえも冬らしくて、さらに口元はゆるみます。
でも、あたりを見まわせば、にやにやしているのはボクだけではありませんでした。「おいおい、恥ずかしいじゃないかあ」と公衆で恥ずかしながらもいちゃつくときと同じような表情が、いたるところで目撃できました。「なんだよ、寒いじゃないかー」と外の寒さに驚きながら、そこに身を委ね、冬が近付く街を歩き出す。そこには、また何ヶ月か一緒に過ごしてゆくものへの戸惑いやがありました。
。。。。意味がわかんなくなってきたけど、要するに「きょうは寒くてうれしかったです。なぜなら、ぼくは冬が好きだからです」。
+++++++++++++
街を分かつ
11月の冷たさは届かない
社会面のモノクロ写真
歪んだ軌跡を残す振り子を
止める指はもう崩れそうでも
むかし描いた言葉をつなげれば
新しい季節はあっけなく
生まれてしまうから
風が切り裂いた蒼さを束ね
振り解く意味を携え
そしてまた
はじまりを止められない痛みの中で。
+++++++++++++
投稿者 POE : 07:44 EM | コメント (2) | トラックバック
SFが読みたい。
今じゃかなり広まりすぎて口に出すのも少し面映いかも知れないパラレルワールド、という言葉。でも、少し考えるととても不思議な気がしてきた。
自分が何をするかで世界が分かれていくというのは、何となくわかる。ドイツ語の授業を取るか、アラビア語の授業を取るかで、きっと生活は微妙に変化して、未来も変わってゆくのかも知れない。
でも、不思議なのは、世界を選択しているのは自分だけじゃなくて、世界中のあらゆる人も日々さまざまなことを選択しているということ。そしていま、自分の知覚できる世界が、そのあらゆる人のある選択を全て抱えて廻ってるということ。
今日思いきって会社をやめた丸山さんや、思わず愛人に殺されそうになったもののなぜか復縁してしまった丸林さんや、世界一周の旅に出るはずが電車を一本逃してキャンセルせざるをえなくなった丸本さんしか、もうこの世界にはいないと少なくとも自分からは感じられないこと。
もう、この世界に、会社をやめながったがために昇進できた丸山さんや、愛人に殺されてしまった丸林さんは(丸林さんはまあ死んでしまったのだから次元が違うかもだけど)いないということ。彼らはどこに行ってしまったのだろう?なぜ子の世界は、世界一周の旅に出られた丸本さんが選ばれなかったのだろう?
というわけで、きっとこんなことには答えが出ていそうなので、簡単な哲学書やSFを読みたくなりました。
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November 13, 2004
通学時間
ドイツ語の時間に「お互いの住んでいる場所と、そこから学校までかかる時間を聞いてみよう!」という悲しい企画がありました
。
2時間強と見栄を張ってみたものの、本当は2時間30分くらいかかる気がします。でも先生もさいたま市から2時間30分ということで、嬉しかったです。ドイツ語で聞かないで日本語で聞いてしまうくらい、嬉しかったです。
でもいくら嬉しくても、埼玉と藤沢の距離はちっと縮まりません。もう21世紀だというのに、通学に2時間以上なんてばかげています。(ばかげているのは、社会じゃなくてボクかも知れないという仮説は考えません。毎日、頑張っているのでせめて責任転嫁や言い訳くらい欲しいです)
ただ2時間半もあると、1日に1冊は本を読めるので、と無理やり自分を慰めています。
2時間半とはいえ、大半が電車の中。電車の中では歌を歌うことも、ダンスも、映画を見ることも、走ることも難しく、出来ることといえば、星に祈ることや人間を観察することや、眠ることくらいしかないので、本を読んでいます。
せめて、もう少し、パソコンが片手サイズになったらパソコンを開いてみたい。もしも、携帯で映画が見れるなら映画もみたい。かりに、ノバが電車内留学を開始してくるならその講座を受けてみたい。
でも、残念ながら今はまだ2004年で、電車内には窓と椅子と人しかないので、きっとまた来週も時間つぶしに本を読んで学校に行きます。でも考えたら学校に行っても本を読んだりなので、結局、学校も時間つぶしで、今のこの文字書きも時間つぶしで、人生も時間つぶしなのでいいかもと言う気もしてきました。でもやっぱり、時間つぶしなら、電車の硬い椅子よりも、快適な空間で生きていきたいとも思いました。あ、グリーン車に乗れば、問題解決?人生って意外と簡単。
。。。。。。見返したけど、なんかいかにも寝起きらしい文章。
投稿者 POE : 04:03 EM | コメント (0) | トラックバック
November 11, 2004
奉仕義務
自発的活動の義務化っていう言葉の並びもシュール(というか語義矛盾)だったど、奉仕必修というこの4字熟語もエキセントリック。
(広辞苑によると奉仕は献身的に国家・社会に尽くすことらしいです。ちなみに奉仕で検索をかけると風俗店が多数ヒットします。)
もし自分が老人ホームにはいっていたら、自分の老人ホームが高校生の奉仕先にならないように切に祈ると思います。だって、専門知識はおろか、やる気のない人や先入観のある高校生が大挙して押しかけてきたとして、怖いもん。老人ホームじゃなくても、知識もやる気もない場合、出来ることって何があるのかな。
だって必修科目だよ。体育を魚のような目でやる気なさそうに受けたり、数学の時間中ひたすらぱらぱら漫画を書いたり、授業中ずっと隣の席の子としゃべってるのと同じようなレベルで、奉仕活動を行うってことがどれだけ怖いことなのか、今から実施が部外者としては愉しみです。老後も都内の福祉施設には絶対に入りたいくないです。
投稿者 POE : 05:12 EM | コメント (2) | トラックバック
今日聞いてなるほどと思った言葉
「生まれる前を覚えていたら、ここにいない人を探して辛いかもしれない」
20年弱生きただけで、もう会えない人や会わない人はたくさんいるけれども、それでも今は会う気になれば会える人のほうが多い。でも、前世とかになったら、会える確率なんてもうないに等しい。なのに覚えている。ああ、辛いかもね。
と思ったのだけど、よくよく考えてみたら「生まれる前を覚えていたら」なんてことを考えたことなんてなかったです。前世さえ信じてなかったです。
「ジェンダーがセックスを発見する」。
生物学的な性別(セックス)があって、その上にジェンダーが構築されていくわけじゃなくて、ジェンダーという知の体系が曖昧なセックスを二分法で切り分けていくんじゃないか?という考え方です。両性具有、性転換など、セックスの確固たる根拠はない。それを切り分けたのは、ジェンダーという考えにのっとってのことだ、という。
ああ、言われてみればそうかもね、という感じでした。でも、その発見される前の、たとえ二分法のセックスという概念で語れなくても、その前の状態はどんなものなの?っていう疑問は残るけれど。。。
ソシュールの言う、実体が先にあるのではなくて、言葉があってはじめてそれを認識できる=実体が生まれるってやつでしょうか?やっぱりよくわからない。ってことはあまり「なるほど」と思いきれていないことでしょうか。
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November 10, 2004
優しい終わりまで。
吹き終わった風が
通り越した星が揺れる
わずかに揺らめく
地平線の片隅
零れ落ちる空を
なぜだろう
ただ眺めていた
微笑みさえしながら
残された時間は
もう多くはないよと
時計塔が教える
人はまた消えてゆく
街はまたかすんでゆく
隣にいてね。
変わらないでね。
ずっと一緒だよ。
いくつ交わされ
いくつ破られた言葉が
果てしなく降り積もる
触れた指先は
いつか崩れ落ち
腫れた夜空に
夢を投げ落とした
波紋はやがて静まり
もう朝は防げなくなる
ならば足を投げ出し
消えてしまうものを数える
そしていつか一人になる日が来るなら
もしもそれほどの時間が許されるなら
星にのぼってもう一度
風を伝えよう
そして世界をあきらめよう。
一番に優しい笑顔で
いつか世界をあきらめよう。
一番に優しい言葉で
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November 09, 2004
想い出。
弱っているのか、卒業アルバムなんて開いたりしてしまう。
今が満たされていれば、その過程となった過去も、今への道筋として、愛しいものとして感じられる。勿論、そんなときにはあまり過去を振り向きはしないものだけど。
そして今がたとえば辛くても、たしかに存在したものとして、その中に優しさや意味を見出せる場所として、想い出は慰めになる。
結局、今がどうであれ、想い出はいつだって優しい。いや、痛みや憎しみは克明に思い出せるし消せるわけもないけど、その憎しみの対象物はたいてい、もうこの現在にいないことが多いからなかったことにできる。
だから、明日が辛いとき、想い出にすがるのは全然悪いことじゃない。ところで、でもなんで、そのすがるべきものを「かつての輝かしい日本」とか「大正期のあの原風景」とかに求める人がいるんだろう。「私のちょっとお茶目だった70年代」とか「クラシックギターでロックに明け暮れた10代」とかでいいじゃない。
++++++++++++++++++++++++++++++++
足跡を辿ったならば
行き着く先に
誰の残した未来が?
いつかは
たどり着けるかな
途方にくれたあなたがいても
抱きしめてあげられるかな
それとも
風がもう足跡ごと消したかな
重みはやがて
時代からこぼれ
夜の淵に
笑う子供のように
無邪気には
闘うことさえ出来ない
全ては無駄じゃないと
言い切れない
幸せだと言い切れるほど
世界を知らないわけでもなく、
全てを知っているわけでもない
雑踏の彼方
手を振った横顔
アスファルトには
足跡さえ残らない
それでも
たどり着けるかな
笑えるかな
許せるかな
戻れないなら
立ち向かえるかな
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November 07, 2004
日曜日だから
起きたら7時でした。
16時間くらい寝てました。
夢ではホラーと、純愛ラブストーリーと、ファンタジーを見ました。
ホラーは、集団自殺が蔓延している世界の話。来世が約束されていたら別に自殺してしまっても変わりがないじゃん、みたいな宗教らしいです。ありがちですね。でもその集団自殺を促す裏には、恐るべき陰謀が・・・。どう考えてもB級です。
純愛は、ちょっと良かったです。誰か漫画にしてください。漫画かアニメ向きな気がします。March 14。
ファンタジーはいつか見た夢の再演でした。いや、夢の再演じゃなくて、いつか映画か本で見たのかな。ファンタジーというかシュール過ぎて、もしも映画や舞台で見たならそのシュールさにびっくりするかも知れませんが、夢なら「ああ。なるほどね」という感じでした。とりあえず、みんな体がすごかったです。
昨日とどちらが有意義か、やっぱりわかりません。。。。。
投稿者 POE : 09:58 EM | コメント (0) | トラックバック
November 06, 2004
土曜日なのに
土曜日なのに1時間目から5時間目まで授業がありました。
やはり土曜は土曜らしく寝ていた方が良かったんじゃないか、と思えるほど密度の薄い時間があったかと思えば、はからずも肩もみの方法を聞き、珍しく大学で実践的な知の手法に出会えたりもしました。
1、2時間目
「言葉の乱れと変化の違い」について3時間ぐたぐた話すだけのグループワーク。
言い足りないことがまだ2時間分くらいあったけれど、時間よりも前に解散。あんなに薄いだけの議論じゃ絶対に良くなかったはずで。期待したらだめだね。
3、4時間目
体育。スポーツマッサージ。肩もみの方法を学びました。SFCが言う「実践的な知」って実は、この肩もみの方法とかなんじゃない?と思ったりもしつつ。大学が実践的という言葉を簡単に使う是非について考えつつ。
中学校でやろうものなら、「きゃー先生セクハラー」と生徒の野次も飛びそうなものですが、みんな大学生らしく淡々とこなしていました。
5時間目
デザイン言語C
みんな、うまかった。でも意外とそれだけです。
今日もまた終わろうとしている今、有意義なこととは一体?という疑問がまたふつふつと浮かんでしまいそうなので、ドラえもんでも見て徹夜でもしようかなあ。。。
■メモ
文法が禁止の体系として働き、言葉が乱れと認識されるようになった、という本文の趣旨の是非は?文法は確かに、「発見」され「固定化」するという特徴を持つ。
しかし、文法制定以前の近代国家が描くほど、勿論文法も言語というものも曖昧模糊とした境界線も不明瞭なものではあったが、「言葉の乱れ」とは個人の主観による好みである以上、そこに近代的文法の存在に関わらず、「言葉の乱れ」は存在しえたのではないか。文法は言葉の乱れを客観的に示す基準にすぎず、「乱れ」だと認識するのが国家ではない限り、抑圧装置としては働き得ない。
文法が抑圧的な様相を帯びたのはむしろ戦後のことである。沖縄を除き、方言撲滅運動など方言を抑圧し、共通日本語の強制が積極的に行われたのは昭和30年代のことである。(国語に限らず、高度経済成長期前後には同化主義的な言論が目立つ時代でもあり、単一民族主義が賑わうのもこの時代である)
本文は文法-言葉の変化の関係だけを抽出していて、日本語とエスペラント語という例を挙げながらも、その社会実体に関する記述が抜け落ちているため、本文の内容を拡張しても「言葉の乱れ」と「言葉の変化」は立場の違いだ、という程度の結論しか導き出されない。ただし、本文における「変化」「乱れ」における主語がかけているため、誰がどのような立場にたったときの「立場」という点が不明瞭なまま残る。
投稿者 POE : 10:48 EM | コメント (2) | トラックバック
November 05, 2004
1994年
薄々気が付いていたのだけど、10年前が克明に思い出せる年齢になってしまった。14歳頃から10年前の自分をなんとなく気が付いていたのだけど、1994年ともなるとあまりにも鮮明で、恐れおののきたくなる。
1994年11月の出来事といえば、セガサターンの発売です。1994年11月22日。32bitのCPUを二つ搭載し「64ビット級ゲームマシン」と銘打ち*1土星人がゲーム機を製造するCMでデビュー。今のプレイステーション独占市場から見れば懐かしい、任天堂のスーパーファミコン*2全盛期の10年前の今月発売されたわけです。翌月には初代プレイステーションの発売、さらにはNECのPC-FX、松下の3DOなど新型ゲームが続々登場し、「新世代ゲーム機」として注目を浴びました。
って、こんなゲーム史どうでもいいね。だめだ、思い出話や振り返りは、やっぱり人を感傷的にさせてしまう。でも何十年後、日本の伝統文化としてゲーム史もまた教科書や資料集に当然に掲載されてしまう日が来るんでしょうか。
伝統と聞くと復古主義と結び付けがちになってしまう人でも、ゲームなどなじみが有る文化だと、伝統になるのも面白いかなと考えてしまうあたりが、案外未来における世代間相違だったり、論争の萌芽になっているのかも知れませんね。*3
*1 本当は32bitを二つ搭載しても64bitの能力にはならない
*2 略記号はSFC。1990年発売のゲーム機なので、Shonan Fujisawaよりも新しいが、今でも世間的にはこちらのほうが知名度が上
*3 いや、嘘です。感傷ついでに、きれいにまとめとうと思って失敗しただけです。
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November 04, 2004
止まって欲しい願望
来年1月14日のタイタンへの無人探査機の着陸が楽しみで、いくつかの発売日を待つ音楽や本があって、街やCMにはいくつも欲しいものが並んでいる。買いたいものや楽しみなことは、それなりにある。
でも、今この瞬間で世界が新しいものを生み出さなくなってしまってもいいとよく思う。だってもうこの部屋の中だけでも何万曲もの音楽や何百本ものゲームや本がある。読みかけの本やゲームは数知れない。今も何度も聞いた90年代ポップスが部屋の中を流れている。
さらに、この部屋からでれば、間違いなく一人の人間なんかには読めるはずも無い本や、見切れるはずもない映画や思想が、世界中に転がっている。
もう、立ち止まってしまえば、少なくとも壊れてしまうことはない。再び、まとまってしまうこともない。散らかしっぱなしの部屋を、思う存分散らかしっぱなしにしておける。壊れかけの人や、壊れかけの時代や、腐りかけの食べ物は魅力的。壊れきってしまう前に、腐りきってしまう前に、替え玉が出てきてしまう前に、どうにか踏みとどまって、そして止まってしまって欲しい。
とか、また一日引きこもってると、思ってしまうわけです。それでも、街は続いていく。それでも、思ってしまう。それでも、街は続いていく。それでも(以下停止)
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11月
いつのまにか11月でした。
11月!!!
もう冬ですよ。
ところで、数字で月日を呼ぶのって、なんだか味気ない気がしませんか?Novemberのほうがまだなんとなく、灰色っぽさが冬を想起させませんか?(確かにnovemは9っていう意味らしいけれど、他に英語ではnovemを使っている単語がないんで、とりあえず数字っぽさはもうないと考えておきます)
11月は霜月。ただ、これも、旧暦用なんで、過激すぎて実感がわきません。いきなり霜って言われても。。。。。。
旧暦だと今は10月らしいので神無月ということになります。どうですか?灰色っぽい冬っぽさを感じませんか?「無」という字と、やけにあっさり使われた「神」という字が、秋から冬の微妙な移り変わりを感じませんか?
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800字で「自己責任と思いやり」について、大学入試で問われたとして書けといわれたので書きました。やっぱり、小論文は苦手です。。。。。。これじゃ受からないなあ。
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さきのイラク人質事件では各方面で自己責任論が噴出した。自分で危険とわかっているイラクへ行ったのだから、その責任も自分で取るべきだ、と。しかし、考えてみて欲しい。彼らが「人質としてイラクで捕まる」という事件が発生するまでには、アメリカがイラク戦争を起こしたこと、日本がそれに賛同したこと、日本は自衛隊を派兵したこと、イラクの情勢がいまだ不安定なことなど、様々な事象が必要である。果たして、人質事件という目に見えて起こった結果を、彼ら「個人」の「自己責任」としてだけ切り捨ててしまっていいのだろうか。
この例には限らず、ある一つの事件が起こるまでには、様々な出来事が因子として複雑に絡み合っているのである。AだからBという単純な図式で解明できるほど、現実世界は簡単ではない。自己責任とは、責任を「個人」に「押しつけて」「切り捨てて」しまう考え方のことである。
それを踏まえた上で、私は助け合いという思想の大事さをここで強調しておきたい。自明のこととして、人は一人では生きられない。歴史的に見ても、人は集団で生活する生き物であり、現在も社会という「システム」の中でわれわれは生きている。フーコーも指摘したように、近代的個人の発生は近代になってからである。つまり、「助け合い」は少しも特殊な行為ではないのである。人が社会的存在としてある以上、いくら「個人」という概念が発達しても、人が助け合うことに疑問の余地はないと考える。
出来事が重なって事件が起きる。その出来事を起こすのもまた人間であり、事件の発生には人間の(マイナスな意味でも)「助け合い」が欠かせない。ならば、その事件の解決もまた、「個人」のみに還元するのではなく、「助け合い」によってなされるべきではないだろうか。アメリカ一国主義の風潮がさらに高まる現代において、「助け合い」の再確認がさらに重要になってきているように思われる。
投稿者 POE : 12:28 FM | コメント (0) | トラックバック
November 03, 2004
死体との距離。
「臭き香、世界にみち\/て、變り行くかたちありさま、目もあてられぬこと多かり。」
鴨長明の方丈記から。当時は、街に、死体が転がっていることも珍しくはなかったらしい。火葬場も保健所もない時代に、死体は当然、今よりも、もっと身近な存在だった。腐るし、臭う。
死体のリアリティが、消えて久しい。今、死体を日常的に扱うのは、医学部の学生と医者と、葬儀屋と兵士くらい?人体の不思議展では、輪切りの死体を老若男女が嬉々として眺める。プラストミック標本の死体には、臭いもリアリティもなく、ただそれが死体だという事実があるだけ。
臭き香が世界にみちる
たとえば画面越しの痛みも
君に届くように
愁えが耳をふさぐ
聞いたこともない歌が
鳴り止まない
出会うことなく
見知った顔が
變り行くかたちありさま
通り抜ける街で、
それとも回線を伝い
いくつ時代が
巡っても
目もあてられぬこと
それはあまりに多くて
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とか、昨日、早慶戦のおかげで、三田の図書館で方丈記を見ながら思いました。なんか、もっと思えそうなんだけど、書けそうじゃないので、このへんで。ちゃんちゃん。
投稿者 POE : 12:20 FM | コメント (2) | トラックバック
November 01, 2004
早慶戦
知らせを聞いたのは東京駅でのことでした。時間は8時をまわっていなかったと思います。一瞬、自分の立ち位置がわからなくなりました。錆びた言葉で言えば茫然自失、というものでしょうか。
「早慶戦のため、本日の授業は全て休講します」
今日の授業は別に嫌いなものはないし、素直に喜ぶという立場にははじめからなかったのですが、7時30分発表って遅すぎます。どうせ、気象庁発表の6時現在の天気予報くらいしか情報はないはずなのだから、もう少しはやく発表して欲しかったです。1時間目から授業がありながら、2時間通学の学生には悲しい出来事です。さらに、最後につけくわえられた
「皆さん、応援にいきましょう」
というメッセージにはとどめをさされました。気が動転して、ついつい神宮まで本当に行きそうになりました。東京駅だったので、新潟にボランティアに行こうかとさえ一瞬思ってしまいました。
でも、もう少し現実的に、三田はそういえば1時間目の授業はあるということを思い出して、三田に行って来ました。聴講。「なんで1時間目だけあるんだろうね」という慶應生のつぶやきが、妙に心地よかったです。
そして現在、今まで一度も見たことの無かったスカパーのスポーツチャンネルで、早慶戦を見ています。祈るような気持ちです。明日こそは、朝から休みたいと神宮へ届かない声援を送っています。