日誌: 2007年12月アーカイブ
アメリカへの目を再び開かせてくれたのはサントリー文化財団で行われた「文明論としてのアメリカ研究会」だった。この研究会は、阿川学部長(当時はまだ学部長ではなかった)から参加の機会をいただいた。確かに私は国で言えば一番アメリカを見てきた。しかし、自分をアメリカ研究者だと思ったことはない。したがって、参加には少し躊躇する気持ちもあったが、何か新しいことを話してくれれば良いという阿川先生の言葉を信じて参加することにした。
この研究会は今まで接点を持つことが無かった方々とネットワークを築けたという点で実にありがたいものだった。メンバーの中で以前から面識があったのは慶應法学部の細谷雄一さんだけだ。メンバーになったのは、京都大学の待鳥聡史先生、大阪大学のロバート・エリドリッヂ先生、外務省の松田●さん、自衛隊の八木●さんであり、阿川先生が座長になった。そして、オブザーバーがそうそうたるものだ。山崎正和先生、猪木武徳先生、●先生、●先生、●先生である。
トルコ話が進んでいるとき、「ネットワーク政策」という授業のゲストとして渡辺智暁さんに来てもらった。渡辺さんと知り合ったのは2000年ぐらいではないかと思う。最初は金正勲さんが始めたメーリング・リストであった。情報通信政策を議論しようということで、声がかかったのだが、その時点では渡辺さんのことも金さんのことも知らなかった。二人はインディアナ大学の大学院でともに勉強しており、彼らの先輩にあたる金サンベさん(今は韓国のソウル国立大学の教授になっている)と私が友人だったので、彼が紹介したようだ。
その後、金正勲さんは日本にやってきて研究者としての頭角を現していくが、渡辺さんはその後もインディアナ大学に拠点を置いていた。私がワシントンDCに滞在していた2002年の正月、インディアナ大学まで妻と一緒に訪ねていったことがある。それが初めての対面だった。
さらに月日が流れて2006年、渡辺さんは博士論文執筆の最終段階に入っていたが、その時ちょうど、彼のお父さんが病に倒れるという事態になった。渡辺さんは論文執筆を一時中断して東京に戻り、お母さんと交代でお父さんの看病をするという生活になった。
渡辺さんはあまり自慢して回っているわけではないのだが、ウィキペディアの日本語版を発足当時から手伝っている。その関係でクリエイティブ・コモンズなどにも詳しく、私がクリエイティブ・コモンズ・ジャパンの活動に携わっていたときは、アメリカからたくさん手伝ってくれた。そうした知恵を拝借しようと授業のゲストに読んだというわけである。授業では80分の濃密な話と、10分の質疑応答をこなしてくださった。私にとっても勉強になった話だった。
この授業の前、少し二人で雑談をしたのだが、アメリカでの研究の国内消費(domestic consumpition)の話になった。私はそれをどうやって避けるべきか悩んでいたのだが、アメリカでの研究生活の長い渡辺さんのアドバイスをもらいたかったからである。授業が終わった後、その日の夜に渡辺さんからはアドバイスのメールをもらった。基本的には今までの私のスタイルでいいのではないか、あるいはそれを発展させる形でいいのではないかというものである。これには大いに勇気づけられた。渡辺さんは私が書いたものを熱心に読んでくださり、そして、おそらくその行間をも読み取ることができるまれな読者である。
その翌々日の土曜日、先述の通り、藤沢市民講座があったのだが、その日の午前中は、三田キャンパスで韓国の延世大学および中国の復旦大学から教員と学生が集まってワークショップを開催していた。それを午前中だけ聞いたのだが、そこから大いに刺激を受けた。あるグループが、豆満江開発にはアメリカの関与が必要だと主張していたからだ。
こんなところでもアメリカは求められている。アメリカという帝国の磁力が働いているのだ。私はひらめいた。やはり世界のいろいろなところからアメリカを見てみるとおもしろい。世界の人たちがアメリカをどう考えているのかを知りたい。帝国の磁力がどうやって働いているのか、なぜそんな磁力が存在するのかを考えたいと思ったのだ。この研究を可能にするためのプロポーザルを書き、ある財団に申請してみようと思い立った。
そして、これが書ければ、アメリカの人たちもおそらく知りたいに違いない。これをテストするためのケースとして2008年米国大統領選挙はまたとない機会だ。これで私は国内消費問題をクリアできるかもしれないと思い始めた。
11月26日、阿川学部長からメールが来て、村井純常任理事の代わりにトルコの首都アンカラに行き、シンポジウムでサイバーテロ対策について話をしてこいとのご下命があった。しかし、開催日が3月10日と11日というのがいただけない。3月1日にボストン入りする予定だったので、おそらくまだ生活は安定していないだろう。そんな段階でやるのはあまり得策には思えない。数日考えていったんはやめようと決めた。しかし、トルコという国には興味があるし、これまでとは全然違う人のネットワークができそうだということもあり、行くことにする。
村井研の秘書に連絡すると、日本国際問題研究所の藤原稔由事務局長を紹介される。藤原さんは外務省時代にトルコ駐在が長かったようだ。シンポジウムを主催するムスターファ・キバールオール先生が東大の鈴木達二郎先生に相談したら村井理事が紹介されたようで、村井理事は日程が合わないので阿川学部長に話を振り、阿川学部長はサイバーテロ対策なんて分からないから私に話を持ってきた。その間、キバールオール先生は村井理事から返事が来ないので、別の会議で会った藤原さんに連絡し、藤原さんが村井研をつついてせかしたということらしい。
藤原さんにメールを出したものの、数日返事が来ない。おかしいなと思ったものの、忙しさにかまけて放っておいたら日曜日になって返事が来た。なんと入院して手術を受けられていたとのこと。
藤原さんからキバールオール先生に連絡してもらい、その返事が藤原さん経由で転送されてきた。トルコ語での返事なので、藤原さんが翻訳を付けてくれた。それによると、費用は(妻の分も含めて)全部負担してくれるとのこと。これで費用の心配をする必要が無くなった。後は、いつ行くかだけだ。
キバールオール先生に私からも返信を書き、喜んで参加すると伝える。二日ほどしてから返信があり、正式な招待状を送るとのことである。程なくして事務スタッフをしているトルコ海軍のキャプテン(大佐か、一佐か、大尉か不明)からメールをもらう。15日土曜日に二つまとめて返事をする。
不思議なのは、私の「blood group」について書けと書いてあることだ。これは血液型のことなのか、あるいはエスニックなグループのことなのか、よく分からないので、返信に質問として書き込む。
この土曜日はちょうど藤沢市民講座があった日で、キャンパスに学生の数は少ない。メディア・センター(図書館)に行って、ボストンとアンカラに関係するガイドブックや本を9冊借りてきた。暇なときに読み進めよう。もちろん、暇なんか作らないとないのだが。
12月7日、UCバークレーのジョン・ザイスマン教授がRIETIで行われた講演を聴きに行った。ザイスマン教授はKさんを通じて連絡をとっていた先生であり、薬師寺先生の旧友でもある。講演会後の質疑応答では生意気にも最初に適当な質問をぶつけた。印象に残すための一種の戦術だ。講演終了後、名刺を交換して簡単に挨拶する。バークレー訪問のことはKさんにすべて任せるとのこと。一安心だ。
ところが翌日、Kさんから電子メールが来て、夕方、ザイスマン教授とお茶をしないかという話が来た。よく分からないが、もっと自己紹介をしろということだろう。自分の英語のホームページを印刷し、丸の内ホテルまで向かう。
1時間弱、自分がアメリカで何をやりたいのか説明する。インテリジェンスの研究をしたいと言ったのだが、なぜバークレーでやるのかと聞かれる。どうやら、インテリジェンスは筋の悪い研究で、あまり踏み込まない方が良いとのアドバイスだ。もしやるなら(政府で仕事をしている)薬師寺先生から推薦状をもらうとともに、何を研究したいのか明確にしてから来た方が良いという。インテリジェンスに関係しないことなら大歓迎だともいわれた。
そして、もう一つ。1年間アメリカで行う研究は、日本国内で食いつぶすためのもの(domestic consumption)なのか、あるいはグローバルに自分をイスタブリッシュするためなのか考えたほうが良いとのアドバイスをもらった。まさにその通りだ。この1年間で私の研究スタイルが決まると言っても良いし、この1年間で私の国際的な知名度も決まるだろう。アメリカで通用する研究成果を出さなくてはならない。そのためにインテリジェンスが良いのか検討しなくてはならない。
Kさんからも同様のアドバイスがあった。インテリジェンスというど真ん中に切り込んで行くと警戒されるので、むしろサイバーテロなどの研究の一環としてやったほうが良いのではないかという。それもそうかもしれない。私としては、このブログのタイトルにもなっている「帝国の磁力」をキーワードに、アメリカ文明論をやり、公文俊平の理論を展開させるようにしたいとも考えている。悩みどころである。
ザイスマン教授との会話は、自分の枠を考え直す良いきっかけになった。アメリカに行くまで、この点を考え続けなくてはいけないだろう。つまり、私は自分をアメリカでどう売り出すのかということだ。あるテーマについては土屋大洋が確実に浮かぶコンセプトが必要になる。これはMITメディアラボの石井裕教授が指摘していたことでもある。
MITでお世話になりたい旨、サミュエルズ教授に告げると、事務担当のロバートを紹介してくれた。ビザ取得のための手続きは彼と行うことになる。ビザ取得の手続きがとても面倒なことは分かっていたので早めに動き出した。求められたのは、パスポートのコピー、大学から資金手当てがあることの証明、サバティカルの間の給与についての証明、銀行の預金残高の証明である。これらを郵送やメール添付という形で送る。比較的順調に手続きは進み、11月末にはビザ取得に必要な書類がMITから送られてきた。
在日米大使館のホームページで非移民ビザの申請について情報を集める。これがなかなか複雑だ。意味不明の書類をたくさん書かなくてはいけないし、どれくらいの時間でビザが出るのかもはっきりしない。年内に西海岸への出張があるから、それが終わってからビザを申請するのがいいだろう。
問題はアパート探しである。2001年にワシントンDCに行ったときにはアパート探しに大変苦労した。今度は同じ失敗を繰り返したくない。しかし、3月という時期はアメリカの大学でアパートを探すには良い時期とは言えない。日本なら年度末で人の動きもあるだろうが、アメリカでは夏に人が動く。官庁からボストンに派遣している人が動く可能性もなくはないが、役所の人事も通常は6月とか7月だからあまり期待できない。
ロバートに相談すると、6週間前から探すといいという。しかし、絶対に物件を見ないで借りてはいけないというアドバイスをもらった。3月はじめに入居するとして6週間前となると1月である。1月20日ぐらいまで授業があるし、その後は試験や大学院修士の最終発表、ゼミ合宿などが続くのでまとまった時間をとるのは難しい。
ゼミ合宿が終わってすぐに、ヨーロッパへ出張に行く話がある。これに合わせてボストンまで出向き、アパートを探すということも考えたが、6週間前ではなく2週間前になってしまう。たぶん、時間的余裕があったほうが良い物件が見つかるだろう。MITのウェブにも情報が載っているらしいが、MITのIDをもらってからでないと具体的な物件を見ることができない。ボストン在住日本人向けの掲示板もあるので、そちらも定期的に眺めることにしよう。
ビザがいつ出るかはっきりしないのにアパート探しをするのも何だか難しい。複雑な連立方程式を解く気持ちだ。それも答えが複数あるからなかなか決まらない。
昼食を共にした日にすぐイアンはMITのリチャード・サミュエルズ教授にメールを出してくれた。サミュエルズ教授は『富国強兵の遺産』などで知られる日本研究者である。彼もすぐに返信をくれ、歓迎してくれそうな返事であった。私もすぐに返信を出し、夏休みに入ったらすぐにボストンに行くから会って欲しいと連絡した。ちょうど、ワシントンDCに調査に行く予定があったのだ。
7月、ワシントンDCではFCC(連邦通信委員会)などで話をする一方、ジョージ・ワシントン大学でお世話になったランス・ホフマン教授を訪ねた。彼のベセスダの家に行くと、奥さんが出迎えてくれた。最近立て直したという家はピカピカでゴージャスだ。中国の研究者の女性がホームステイしていて、中国のメディア政策などについても少し話すが、ワインのせいでよく覚えていない。
ホフマン教授とベセスダの街に行き、地中海料理をごちそうしていただく。ベセスダは賑やかだけど品のある良い街だ。ジョージ・ワシントン大学に客員としておいてもらえる可能性があるか聞いてみるが、ホフマン教授はすでに引退しており、特定のプロジェクトのためだけに働いているので、他の先生を紹介してくれるとのこと。しかし、それでは一から関係を作り出さなくてはならない。ワシントン自体はできれば避けたいと思っていたので、考えてから再度お願いすると伝えておく。
ワシントンでは他にも旧知のトム・ブレハさんに会った。奥さんのナターシャ、それに奥さんの姪と一緒に食事に行く。ベルギー料理の賑やかな店でマッセルを食べる。おいしかった。
ワシントンから日帰りでボストンに向かう。ボストンにはそれまで二回行ったことがあったが、いずれも空港からタクシーに乗った。今回は荷物を少なくし、空港からバスとタクシーでMITに向かった。サミュエルズ教授が丁寧に道順を書いておいてくれたのでスムーズに到着した。
サミュエルズ教授はMITの国際関係研究所の所長をしている。彼のオフィスは地下鉄のケンドール駅の真上にあり、通りを挟んで向かい側にはマリオットホテルと大学生協の書店がある。理想的な位置だ。
二階のオフィスで初めて会うサミュエルズ教授はかなりの巨漢であった。最初に会ったときはお互い何かぎこちない。サミュエルズ教授は椅子を勧めてくれたが、日本的な位置関係とは違う席順だったので、少し私はとまどってしまった。勧められるがままに坐り、周りを見渡すと日英の本がずらりと並んでいる。かなり日本語が読めるのだろう。ふ~んと感心しながら私が本を見渡すと、「何?」とサミュエルズ教授はいぶかしがる。やや気まずい雰囲気だ。
私は時間をとってもらった礼を述べると共に、一月に出版した『ネットワーク・パワー』を謹呈した。教授は「この本の中で発見したことは何なのか」とずばりと切り込んでくる。私はややしどろもどろながら説明をするとどうやら分かってくれたようだ。私のバックグランドやMITで研究したいことなどを説明する。特にハイテクとインテリジェンス活動についてやりたいと言ったことは興味を持って聞いてくれたようだった。米国でも実はインテリジェンスの研究を学術的にやっている人は少ないから是非やると良いと励ましてもらった。
一通り話すと研究所の中を一回り案内してもらう。二階と三階がオフィスになっているようだ。客員の身分では個室はもらえないようだが、学期あたり2000ドルで共有スペースを自由に使えるようになるらしい。
外で雰囲気の良いレストランで昼食をとろうということになったが非常に混んでいて列ができている。少し離れたファカルティ・クラブに連れて行ってもらった。ここはカフェテリア形式で、それほど混んでいない。サンドイッチや野菜などを盛り、スープとデザートをとって席に座る。食事をしながら、薬師寺先生や猪口孝先生などの近況について話す。猪口先生と私は懇意の仲というわけではないが、有名人なので一方的に知っている。さらに、参院選挙間近ということもあって、安倍政権の行方や、小泉前首相の動向などについても意見交換をする。小泉首相の家系に興味を持たれたようだったので、後で調べたことをメールで知らせると約束する。
食事の後、MITのキャンパスをざっと案内してもらう。有名なドームの前の芝生に立ったときには感慨深かった。脇の建物の上には科学者たちの名前が刻まれている。ここは科学のメッカなのだと分かる。玄関ホールには実践に重きを置くMITのモットーが掲げられている。実践知を求めるSFCとは発想が近い。これなら行けそうだという実感が出てくる。歩きながら、ビザの取得などについて話をする。担当の人と連絡を取り合い、なるべく早く手続きをすることだとのことだった。3月に来るなら、1月にはアパート探しも始めたほうがよいとのこと。
サミュエルズ教授と分かれた後、一人でMITの中を歩き回る。お目当てはハッカー発祥の地である鉄道クラブだ。少し外れたところにある鉄道クラブはすぐに見つかったが、どうやら誰もいないようだった。外から写真を撮る。隣にはMITのミュージアムがあったのでついでにのぞいていく。ホログラムなどが興味深い。
ボストンは研究以外ではあまり楽しいところではない。松坂や岡島のいるレッドソックスぐらいか。しかし、ここで研究するのは悪くない。帰国後、薬師寺先生にメールを出してみる。バークレーとMITと迷っているという内容だ。バークレーのザイスマン教授、MITのサミュエルズ教授、どちらも薬師寺先生の旧友だ。薬師寺先生は、どちらでも良いのではないかとの返事だった。ザイスマン教授には会ったことがない。会った感触で歓迎してくれそうなサミュエルズ教授のMITに行くことにした。
阿川先生からは、留学に行くまでは学部長補佐をやりなさいとのお達しがあった。学部長補佐というのは文字通り学部長を補佐する役目で、小島学部長時代には阿川先生一人だったが、複数にしても良いのではないかという話を護衛艦「いかづち」の上でしていた。ところが、この学部長補佐およびそれに伴う合同運営委員は塾の正式な役職でもあるので、途中でやめることが分かっている人を任命するのはどうかという話に三役の中でなったそうだ。そのため、私は正式には任命されないながらもお手伝いする役割となり、正式な学部長補佐には、榊原清則先生と古谷知之先生が着任することになった。榊原先生は経営学で知られた重鎮であり、古谷先生は私と同年代でGIS(地理情報システム)の専門家である。
ある日、阿川先生が私と古谷さんを誘い、イトーヨーカドーにあるスターバックスに出かけた。そこでアイスクリームを食べながら、今後の構想について話し合った。そこからこの会は「アイスクリームの会」と名付けられることになった。まず取り組むべきは合同運営委員会のメンバー選びだが、阿川先生の頭の中にはおもしろい人事構想があるようだった。
私はヨーロッパを諦め、アメリカに行くことにしていた。バークレーは気候も良いし、どんな研究にしようかと思いを巡らせていた。2007年の初夏の頃、ニューヨークのフォーラムで一緒になったMITのイアン・コンドリーが日本にやって来た。その前年も彼は日本に来ていて、SFCでの授業で話をしてもらい、学生に絶大な支持を受けていた。また、彼の著書『Hip Hop Japan』の翻訳出版についても少し手伝った。今回の来日では授業に来てもらう時間はないが、一緒に昼飯を食べようということになり、汗の出るような日の昼、三田の中華料理屋で昼ご飯を食べた。
いろいろ雑談をしながら、来年、アメリカでサバティカル(研究休暇)を過ごすんだよねという話をした。するとイアンは、バークレーもいいけど、興味があるならMIT(マサチューセッツ工科大学)も紹介するよと言ってくれた。MITはハーバードと同じくボストンにあり、ハーバードを諦めた時点で少し可能性を考えたこともあったが、それよりもヨーロッパを優先しようと思っていたので、真剣に考えたことはなかった。
考えてみればMITは薬師寺先生の母校でもあるし、技術と国際政治を研究するにはベストなところである。ITについてはその名をとどろかせるメディアラボもあるし、工科大学という割には経済学や政治学でも突出しており、ノーベル経済学賞も多く受賞している。これはなかなか良いオファーかもしれないと直感的に思った。
バークレーにいったんは決めたのだが、その後、GLOCOMのアダム・ピークさんと話していたら、オックスフォードに紹介してあげるよという話になった。オックスフォードにはインターネット研究所(OII)があり、悪くない話だ。しかし、この話も結局はうまくいかなかった。だいぶ時間があってから返事があり、決定は10月まで待たないと決まらないこと、そして毎月500ポンド(12万円)のオーバーヘッドが必要だということが分かったからだ。仮にお金が問題ではないとしても、10月になってダメといわれてからアメリカの大学に切り替えてもビザが間に合わない。オックスフォードは諦めることにした。
他にもベルギーのブルージュというところにあるヨーロッパ大学はどうかと同僚の渡邊頼純教授が誘ってくれた。渡邊教授はこの大学院の出身である。しかし、私がやりたい研究テーマとはあまり重なるところがない。結局、ここでヨーロッパに行くことは最終的に断念する。
年末年始、行き先もさることながら、いつ行くかも真剣に考えるようになった。というのは、9月から留学ということになると、今まで面倒を見てきた3年生が4年生になり、卒論を書くのを待たずに行ってしまうことになる。また、面倒を見なくてはならない大学院生も数人いる。さらに、同じ時期に留学・サバティカルに行く教員がGR(グローバル・ガバナンスとリージョナル・ストラテジー)プログラムに3人いることになった。
大学院のプログラムは緩やかな教員と学生のグループであり、実質的にプログラムごとにカリキュラムの運営や入試が行われている。GRプログラムからは、私と同時期に田島英一教授が留学に行き、2007年度秋学期(9月から翌年3月まで)に草野厚教授がサバティカルをとることになった。私が9月からいなくなると、同時期に3人がいなくなることになる。特に草野先生がいない間は、普通に考えれば草野研の学生の面倒を私がある程度見なくてはならないだろう。
他にもいくつかの理由が重なり、留学は2008年の3月から行くことにした。つまり、2007年度はまるまる授業をして、実質的に2008年度の一年間、国外に出ることになる。学生には2007年2月の研究会(ゼミ)合宿で告げた。
2007年度の新学期が始まると、学部長選挙が行われた。通常は5月に行われるが、小島学部長の件があるので4月に前倒しし、総合政策学部については、9月から任期の新学部長が8月までの学部長代行も兼ねるということになった。私にとっては一大事だ。実は小島先生は手術を受けられた後、奇跡的な回復を見せられ、学部長選挙の直前にはSFCにも数回顔を出された。お見舞いの電子メールを出したところ、学部長選挙についての問い合わせもあった。私としては小島先生の意向に従いたい気持ちがある一方で、阿川先生の気持ちも大事にしたかった。
結局、選挙の結果、一回では決まらなかったが、二回目の投票で阿川先生に決まった。私としては複雑な思いだった。阿川先生からは留学に行くまでは手伝うようにという話が当然のことながら来た。留学時期を遅らせておいたので、2007年度の間、約一年間はお手伝いができる見込みだ。
年が明けて2007年。バークレーに行くことにほぼ腹を決めた。春休み中にバークレーに行くことができないか考えるが、暇がない。1月にNTT出版から『ネットワーク・パワー』を出すことができた。その書評が読売や日経に出て気をよくする。
2月、思いがけないことが起きる。18日に総合政策学部の入試が行われたが、朝の学部長挨拶を小島学部長ではなく、学部長補佐の阿川尚之教授がしたのだ。小島学部長は風邪でも引かれたのかと思ったが、ある先生が「深刻らしいよ」と耳打ちしてくれた。心配だ。
その後、入試の採点や春休み期間中の合同運営委員会にも小島学部長は出てこない。どうやら脳の深刻な病気とのことで、手術が必要になるとのこと。学部長に少し近いところにいるようになって分かったことだが、さまざまな問題が学部長のところには押し寄せており、小島学部長はそれを超人的にさばいていた。しかし、3期目の無理がたたって倒れてしまったのだろう。
学部長補佐の阿川先生が学部長代理を務めることになり、さまざまな活動の前面に立たれることになった。次の学部長にという声は以前からあったが、ご本人は断固辞退の姿勢でおられた。しかし、この不測の事態に直面して逃げ出すわけにもいかず、ブツブツ言いながら学部長職をこなしておられた。
この事態は私にとっても黄色信号だった。小島先生から、もし2007年の学部長選挙で阿川先生が当選した場合、しっかりサポートするようにと仰せつかっていたからである。しかし、私の留学期間はどうやっても新学部長の任期に重なる。一番良いのは阿川先生が辛くも小差で学部長選挙に負けることである。小島先生には「頑張ったのですが、及びませんでした」と申し上げ、阿川先生は希望通り学部長にはならず、私は何の障害もなく留学に出かけられるからである。
このシナリオは小島先生が倒れたことによって狂ってきた。阿川先生が学部長代行を続け、そのまま学部長になってしまえば、私の留学はどうなるのだろう。塾がすでに決定していることとはいえ、ひっくり返されることになりはしないだろうかと不安になった。
エンチンとは燕京のことで、北京の別名である。ハーバード大学に設置されているエンチン研究所は、正式にはハーバード大学の一部ではない独立の研究所だそうだが、東アジア関連の地域研究をするところとして知られている。ここに所属すると研究費まで毎月くれるというから良い話だ。しかし、ここも諦めざるを得なかった。ここにも先客がいて、争わざるを得ず、私には分が悪そうだったからだ。
そうこうしているうちに、SFC内では福澤基金(若手向け)の枠での留学を認めてもらうことができた。そして、9月に慶應義塾に正式な申請書を提出し、11月に認められた。
前年から続いていたサントリー文化財団の研究会「文明論としてのアメリカ研究会」が10月に横須賀で開かれた。このとき、オプショナル・ツアーとして海上自衛隊の観艦式の予行に参加することになった。観艦式は横須賀沖に海上自衛隊の護衛艦などが勢揃いし、総理大臣が観閲するものだ。サントリー文化財団の一行はメンバーである八木浩二さんの好意で、護衛艦「いかづち」に乗せてもらうことができた。
この観閲式は、行き帰りの時間がけっこう長い。港から現場まで片道2時間以上かかる。その間、船の中をブラブラ歩いたり、海を眺めて過ごすことになる。観艦式が無事終わり、船室で雑談をしているとき、阿川先生の奥様が、学部長には絶対に反対だという話をなさった。無理もない。しかし、ゆっくり二人で話そうということで、阿川先生と艦橋まで登る。そこで、「どうしてもということなら考えてみないことはない。しかし、一期だけやって私はやめるよ」と阿川先生はおっしゃった。私は、小島先生がどうしてもとおっしゃるなら一期だけやられるのが良いのではと思っていたので、そうなるかもしれませんねと答えた。しかし、阿川先生の本音は、やらなくて良いならやりたくない、まだまだ書きたい本があるというところは変わりがなかった。
留学については、待遇の良さにひかれてエンチン研究所にしていたが、その道も断たれたとなると、もう一度ヨーロッパにチャレンジしようと気を取り直した。知り合いのイギリス人研究者を頼ってLSE(ロンドン政治経済学院)の先生を紹介してもらった。12月はじめにインターネットとテロに関する興味深いセミナーがオックスフォード大学で開かれるので、それに乗じてロンドンに行き、このLSEの先生に会うことができた。
しかし、このLSEの先生はどうも面倒くさがっている雰囲気がありありだった。客員研究員決定のための会議はまだ先だから他を探したらどうか、あまり期待しないで欲しいというような返事だった。一通りの説明を行い、資料を渡して辞する。返事だけは待とうと決めたが、どうもダメだろうなと感じた。
いろいろ経験者に話を聞いてみると、イギリスに限らずヨーロッパの場合は、いったん内輪に入ってしまえばとても親切にしてもらえるが、そこに入るまでが難しいとのことだった。私の友人の若い研究者たちはまだテニュアではなく、私を引っ張り込めるだけの力がない。そうした力を持っている先生たちとの強い繋がりがない私はなかなか入り込めない。
ハーバード大学のエンチン研究所はダメだったが、数年前に会ったことがあるハーバード大学のインテリジェンスの研究者のことを思い出したので電子メールを出した。費用は自分で負担するので籍だけ置かせてもらえないかという内容である。数日で返事が来たが、「事務的な問題があるのでしばらく返事を待って欲しい」とのことだった。これもどうやらうまくはいかないなという感じがした。
この頃になると、ヨーロッパは諦めて、アメリカにしようかというようにも気持ちが変わってきた。アメリカは、ハーバードはともかく、比較的オープンなので、それなりにツテを頼っていけば門は開かれる。6年前に滞在したジョージ・ワシントン大学でも受け入れてくれるかもしれない。しかし、もう一度ワシントンDCにも戻るのは疲れるという気もした。ワシントンは興味深いところだが、その分、忙しくなる。いろいろなことが毎日起きるので、それを追いかけているだけで時間が過ぎ、じっくりと本を読んだり、書いたりすることができない。
もう一つの可能性はUCバークレーであった。サンフランシスコは好きな街だし、砂漠の中にあるスタンフォードよりも、街中にあるバークレーのほうが良い印象がある。政治学が強いというのも魅力だ。とびきりリベラルな教員と学生が集まっているのがバークレーである。研究プロジェクトで一緒だったバークレーの大学院生Kさんとは時々連絡を取り合っていた。Kさんにバークレーに滞在することができるかを問い合わせてみた。Kさんからは可能だと思うという返事が来た。バークレーのBRIE(Berkeley Roundtable on Information Economy)は、オープンな運営をしており、問題ないだろうとのこと。特に共同ディレクターをしているジョン・ザイスマン教授は、私の師匠の一人である薬師寺泰蔵教授の親しい友人である。
合同運営委員会の仕事は、それほど大変ではないということがほどなくして分かった。たいていの案件は、合同運営委員会に上がってくるまでに各種委員会で案が作られている。それらを承認するだけで話が済んだ。
私の担当は広報ということになっていた。運営委員ひとりひとりは政府の内閣の閣僚のように担当する仕事を持っており、通常は各種委員会の委員長を兼ねている。私は広報担当ということになり、広報委員会にも所属していた。ところが、広報委員会の委員長は、環境情報学部の冨田勝学部長が最も力を入れたい分野の一つだったこともあり、三役(二学部長と委員長)が兼務することになっていた。つまり、私は広報担当でありながら、実質的にはほとんど仕事がないという状態だった。
無論、広報の仕事がまったく無かったわけではない。事務方でいちいち三役に上げていられない案件については私に相談があり、小さな案件については私が判断したこともある。しかし、基本的には冨田学部長が積極的な広報を展開しており、広報委員会自体もほとんど開かれなかった。結局、合同運営委員としての私の役割は、目の前を通り過ぎる書類の束を眺めながら、大学運営がどうなっているのかをおぼろげながら理解することであった。学生が不祥事を起こしたり、教員が突然選挙に出たりといったことがあると、それなりの審議が合同運営委員会で行われたが、それまでイメージしていた教授会の議論とは異なるものであった。
小島学部長が私を合同運営委員にしたのは私の行政手腕を買ったわけではもちろんない。着任して日の浅い私を留学に行かせるためには、大変な学事に汗を流したという言い訳が必要になるだろうという配慮だ。実際、カリキュラム委員会でカリキュラムの全面改訂という大変な学事に関わっていたので、私としてはそれだけでも大変という思いだったが、人事委員会では、さらに合同運営委員もやったといえば文句が付けにくいだろうという配慮があったに違いない。
年が明けて2006年の春休み、かねてから頼まれていたパネル・ディスカッションに参加するため、3月1日にニューヨークに行く。ジャパン・ソサイエティーでクリエイティビティについてパネル・ディスカッション。割と受けたので気をよくした。ここで「グロス・ナショナル・クール」のダグラス・マグレイやハーバードのコスタス・テルジディス、そしてMITのイアン・コンドリーに出会う。このイアンとの出会いが後々、重要になる。
ジャパン・ソサイエティーでの仕事が終わった後、合流してきた妻と一緒に、留学候補先としてイェール大学とプリンストン大学を見学に行った。ニューヨークを出たときはすでに大雪で、イェールのキャンパスに着いたときは一面銀世界である。良いところのように思えたが、少し治安が悪そうなのが気になった。ブックストアが充実していたのは気に入った。ポール・ケネディの本を買う。
翌日、車で移動してプリンストン大学へ。ここにはウィルソン・スクールがあり、G・ジョン・アイケンベリーがいる。しかし、問題はロー・スクールもコンピュータ・サイエンス学部もないところだ。国際政治だけをやるなら良いところだが、IT関連の話はまったくできなくなる。ここは昔、江藤淳もいたところで興味深いが、どうやら縁はなさそうだ。
留学について、折に触れて簡単な相談を小島学部長としながら、2006年春になって仮の応募書類をSFCの執行部に提出した。最終的な決定が行われるのはこの年の秋だったが、事前に応募状況をSFCの執行部が把握し、内部調整を行う慣例になっていた。つまり、キャンパス内で候補者を絞り、塾に提案する際には問題なく決まるようにするわけだ。
この時点で、ある程度、どこに行って何を研究するかを決めなくてはならない。この書類提出の前の春休みの段階から、三田の国際センターとやりとりをしながら、留学先を絞った。
私の第一希望はヨーロッパだった。小島学部長にもこの点は伝えた。「まあ、いいか」という返事であり、どうやら小島学部長の希望はアメリカだったようだが、私はヨーロッパにしようと思っていた。慶應義塾はケンブリッジ大学と提携していたので、ケンブリッジは理想的な行き先だと思った。ところが、ケンブリッジにはすでに別の候補者が手を挙げており、私が応募しても見込みは少ないだろうというのが国際センターの見解だった。そこで、ひとまず希望留学先はハーバード大学のエンチン研究所にして出した。ここは塾との間で寛大な協定を結んでいて、実に待遇が良さそうに見えたからだ。
小島朋之学部長(当時)から留学を勧められたのがいつのことだったのか、今となっては思い出せない。おそらくは2005年春のことだったのではないかと思う。私は2004年3月の末に前の職場から突然移籍が決まり、2004年4月1日に着任してから、半年の間はブラブラしていることが許されるという大変な幸運に恵まれた。といっても本当にブラブラしていたわけではなく、前の職場から引きずってきた仕事がたくさんあったし、入試や各種委員会など学事にも忙しかった。
2004年度の秋学期には新しい職場(慶應義塾大学湘南藤沢キャンパス[SFC]:以下SFCと略す)で初めての授業も始まり、学生たちと接する機会が格段に増えた。引きずっていた仕事は相変わらず多く、研究に教育、学事を加えた大学人としての三点セットが降りかかってきて慌てふためいた。おそらくそんな頃に、小島学部長から、「土屋君にはそのうちアメリカに行ってもらいたいなあ」というお言葉をいただいた。私は「はい、すぐにでも行きます」と調子の良い答えをしたが、内心では、「次はアメリカじゃなくてヨーロッパがいいよなあ」と考えていた。
年度があけて、2005年度の7月になった頃だったと思う。恩師の草野厚教授とキャンパス内で立ち話をしていたとき、小島学部長が通りかかった。その時、「土屋君さあ、ちょっと秋から合同運営委員になってもらおうと思うから。よろしくねえ」と言われた。合同運営委員というのはSFCに設置されている総合政策学部、環境情報学部、そして大学院政策・メディア研究科の三つの学部・大学院の運営を合同で行う委員会の委員である。この委員は両学部の学部長および政策・メディア研究科委員長の三人が指名するもので、政府の内閣閣僚みたいなものである。5月に学部長選挙があり、小島学部長は三選続投が決まり、9月から新任期が始まる予定だった。
私はすぐさま「ご冗談はやめてください。私みたいな新入りの若手がやる仕事ではありませんよ」と答えた。しかし、小島学部長は「まあ、しっかりやってもらったら、留学に行ってもらおうとおもっているからさあ」と人参をぶら下げてきた。そして、「ま、よろしく」と強引に会話を終わらせて立ち去っていかれた。草野教授は「がんばってねえ」と相変わらずである。
私みたいな着任間近の若い教員が合同運営委員になるということはおそらく前例がない。なりたくてもなれない人が多い役職である。普通の大学では学部ごとに教授会というのがあって、全会一致で物事を決めるため、延々と長い会議が繰り広げられるが、SFCの合同運営委員会は内閣がどんどん物事を決めてしまうスタイルである。全教員が集まる会議は学期のはじめと終わりの二回で、年に六回しかない。実質的な学部・大学院運営は二週間に一回開かれる合同運営委員会で決まっていくのだ。
まさかと思っていたが、実際、9月になると、指名の通知が来た。確か、あれは郵政解散に伴う総選挙の日だった。その日、私は京都の立命館大学での集中講義のため京都に滞在しており、京都のホテルで選挙の様子を見ながら、どんどん送られてくる役職・委員会委嘱のメールに呆然としていた。本当にやるのかと驚いた。しかし、それと同時に、本当にこれが終わったら留学に行けるかもしれないと思い始めた。