ネットワークコミュニティ2015
-Network communty#2015-
 
序論
1. 2015年の成熟化問題
2. ネットワークの社会的意味
  -1 情報探索と情報支援
  -2 弱さとボランティア
  -3 情報共有と情報生成(創造性)
  -4 公共空間(贈与性)と私的空間(ニーズ)の融合と拡散
  -5 自己責任と相互了解プロセス
3. ネットワークコミュニティのヴィジョン
  -1 携帯家族のヴィジョン
  -2 構造としての家族の絆
  -3 役割融合と自立する契機
  -4 家族拡張の原理:第3の関係
  -5 現実からの支持
  -6 ネットワークコミュニティの生成プロセス
3.ネットワークコミュニティのヴィジョン

2)構造としての家族の絆

携帯家族になると、家族の絆は強くなるのか、それとも弱くなるのか。

核家族の時代、実態としての家族の絆は、家族メンバーが家にいるときだけ、さらに厳密にいえば、居間で一家団欒を楽しんでいるときだけ確認されるものでしかなかった。だから家から一歩外に出たとき、家族のメンバーは誰でも外向けの顔をした。たとえば主人は、満員の通勤電車に乗れば単なる中年の顔になるし、やっと会社に到着すればその瞬間から部長とか課長という組織の顔になった。つまり家から一歩でて周り近所の顔見知りとの接触がなくなる瞬間から、彼は主人ではなくなり、ストリートでのマス(大衆)というまったく別の個人に変身する。そして顔の見えない誰かという顔をした後、会社についてもうひとつの仮面をかぶることになる。課長なりの地位はその人のもうひとつの明確な顔である。家での主人と会社での課長が彼の自己イメージを確定する素顔で、ストリートや盛り場での匿名性のなかのマスという顔はもうひとつの隠された自分である。

こうしてみると家族での主人の顔がいかに少ない時間しか演じられていないことが理解されよう。核家族での主人の典型は、郊外の団地に居住して夜遅くまで都心の会社で仕事をし、帰ったらすぐに寝て、朝は早くから通勤電車にもまれて出勤するまじめなサラリーマンである。とすれば、まじめなサラリーマンであるほど、家族との団欒はますます限定されざるをえない。彼にとって家に仕事を持ち込むことはタブーであり、だからこそ家庭を出たらすぐに主人の顔を放棄しなければならない。ということは、主人である時間はものすごく少ないから、家族の絆は実態としてはかなり細く弱くなる。だから逆に、彼は「幻想としての家族の絆」に固執する。現実には家族の絆を維持できないからこそ、幻想としての家族の絆に価値をもたせ、家族はいつも一体なのだという意識の洗脳を求める。その洗脳の核が愛情とセックスと扶養の三位一体の原則である。

しかし携帯家族には、そのような幻想は皆無である。その意味では家族の絆はあまりにも危うい。イデオロギー(幻想)がない分、簡単に絆は解消されてしまう。しかし携帯家族は、その現実において、家族の絆を大切にする。理由は、携帯家族には、その絆を維持するのに必要なネットワーク環境があるからである。24時間いつでもどこでも、家族の絆は生活環境として維持されている。その「構造」がこの新しい家族の絆を支える。核家族での幻想は、ここではネットワーク環境それ自体に代替される。この変容は大きい。イデオロギーとしての絆から、構造/環境としての絆へと、家族を支える絆は、その実態を大きく変化させる。

このようなネットワークの構造に支えられると、家庭での主人は、会社でもストリートでも主人の顔をもつことが可能になる。会社でも主人の顔をもち、反対に家庭でも課長の顔をもつ。かつてのように、いくつもの顔を場所によって使い分けるのではなく、いつでもどこでもいくつもの顔をみせることが可能になる。これが新しい家族形態を構成する基本原則である。仕事をしながら、子供の世話をする、それを、SOHOのように自宅でもすることもでき、また都心のオフィスでも、ネットワーク環境を利用して、子育てを実践することもできる。その結果、家族の絆は構造/環境としてしっかりしたものになる。もはや幻想の絆に翻弄されることはない。ネットワーク環境という構造が新しい家族の絆を支えるのである。