ネットワークコミュニティ2015
-Network communty#2015-
 
序論
1. 2015年の成熟化問題
2. ネットワークの社会的意味
  -1 情報探索と情報支援
  -2 弱さとボランティア
  -3 情報共有と情報生成(創造性)
  -4 公共空間(贈与性)と私的空間(ニーズ)の融合と拡散
  -5 自己責任と相互了解プロセス
3. ネットワークコミュニティのヴィジョン
  -1 携帯家族のヴィジョン
  -2 構造としての家族の絆
  -3 役割融合と自立する契機
  -4 家族拡張の原理:第3の関係
  -5 現実からの支持
  -6 ネットワークコミュニティの生成プロセス
3.ネットワークコミュニティのヴィジョン

6)ネットワークコミュニティの生成プロセス

上記のような携帯家族をネットワーク社会に適合的な家族ヴィジョンだとすると、そこで言及されている家族は、すでに家族の領域を超えた、より広域的な社会との融合を前提にしないかぎり存立しえない。しかしその広域的な社会とは、既存の地域社会ではなく、ネットワークコミュニティである。それは、既存の村落共同体のような完全に閉じた権力中心の地縁的ムラ社会でもなく、近代産業社会に固有の弱者救済機能に特化した福祉コミュニティ(子供のPTAと老人会)でもなく、また消費社会にふさわしい駅前カルチャーセンターのような自閉/消費的な擬似的なコミュニティでもない。ネットワークコミュニティは、携帯家族の存立のために期待される新しい社会的な外部であり、同時に携帯家族がその内部に取り込む社会的な場でもある。しかもこのコミュニティは他の多様な社会的な機能が交差する空間であるから、携帯家族の場合に示した「外部(拡散)と内部(融合)」の論理は、ビジネス空間や子供・高齢者などのいわゆる社会的弱者が集う空間(教育/福祉/医療)さらに社交/消費機能や政治/行政機能にいたるまで、すべての社会的機能について適用可能である。

1:ビジネス空間については、かつてのシンボルである「都心(中心)の一等地に位置して超高層ビルを所有して、数万人(大量)の社員を抱えて、完璧のビューロクラシーで序列化された大企業」というイメージが、ネットワーク環境のなかで崩壊の刃を突きつけられている。いままで疑うことのなかった「都心・一等地・超高層・大量・官僚的・大企業」を構成する論理は、ネットワークによってその脆弱性と無能力を露呈させられている。ネットワークが支持する自立分散協調のシステムは、ネットワーク組織への変更を要請し、そのプロセスでベンチャー起業/企業を支援し、分社化とかアウトソーシングとか、またNPOのような新しい組織形態を誘発し、さらにはSOHOといった家庭との融合を支持するまでにいたっている。ここでは空間上の中心と周辺の優位/劣位の位置関係も、階層上の上司と部下の地位/役割関係も、そしてそれらの根底にある情報所有(希少価値をもつ情報の占有)をめぐる権力/命令関係も、ネットワークがつきつける論理の前にその非適合性を暴露され、崩壊の道を進まざるをえなくなっている。そのときネットワークコミュニティがその新しい受け皿として生成される。一方では、グローバルネットワ?クという超広域的なコミュニティが構成されるが、他方コンビニのような地域に密着して生活/消費者を支援する場をノードとするローカルコミュニティが生成される。ネットワーク的にはグローバルはローカルと相互補完的関係にあり、決して単独のコミュニティとして孤立/閉鎖することはない。つねに外部にも内部にも開放されたコミュニティがビジネス空間に生成される。

2:現実の教育/学校空間は、教師と学生の権力関係しか許容しないもっとも閉鎖的な空間で、日常的には外部とのコミュニケーションを遮断したところで自足しており、いかなる意味でも地域社会に開放されているとはいえない。非日常性(運動会など)においてのみ外部に開かれるのは、その交換として日常性での覗き(境界の越境)を許容しないからである。多くの学生が学校を監獄のイメージで理解する背景には、それなりの意味がある。そして今さらにはここ数年の間で、ネットワークがすべての学校に導入される。それは閉鎖的な監獄を破壊する先兵としてもっとも期待されることである。すでにいくつかの例外ではあるが、ネットワークに関心をもつ親が自主的にボランティアで校内にネットワークをはり、学校のネットワーク化に地域貢献しているが、それはあきらかにコミュニティへの扉を開くものである。またコミュニティスクール構想がネットワークの専門家を触媒にして徐々に地域社会に浸透しつつある。これも、新しい教育/学校と携帯家族とネットワーク組織との間にリンクをはって、ネットワークコミュニティを創造しようとする大胆な社会実験である。ネットワークコミュニティと共生しない教育/学校はもはや地域社会に位置する価値がない。

3:子供については、教育ばかりか保育という面でもネットワークコミュニティに依存しなければならない。携帯家族が、そこでの弱者を内部に抱えることなく、外部への委託によって家族の維持を実現するとしたら、フルタイムで働く親に代替して子供の保育機能を充実される必要が発生する。幼児保育とか学童保育という点で、ネットワークに期待することが山積している。確かにここでは親との接触が重視されるが、ネットワーク環境を利用すれば、ヴァーチャルな関係であっても、家族の絆の生成は可能であり、これによっていつでも・どこでも絆の維持は保たれる。環境としてのネットワークが形成されるならば、保育機能の外部への委託は十分に可能である。と同時にこのネットワークに支えられる形で、リアルな場での身体的な接触を通した保育機能の充実が図られるならば、ここをネットワークの一つのノードとしてコミュニティを豊かにする環境が生成されるはずである。弱い子供が集まる場はネットワークコミュニティを生成させる身体的でリアルな拠点である。

4:この論理は高齢者に対してもまったく同様である。高齢者のためのさまざまな施設(デイケアセンターなどの福祉施設/病院)は、そこにネットワークを整備することで、現状のような「排除された/残余としての社会的場」ではなく、つねに携帯家族にリンクしたネットワークコミュニティのノードとして再生される。ここでの高齢者は、単なる福祉の享受主体である以上に、その場から外部に向けて活動する主体であり、自らボランティアとして自立する主体でもある。弱者は、排除され孤立化され、そして福祉対象として沈黙するのではなく、ネットワーク化された弱者として、コミュニティ生成の担い手として自立していく。こうして高齢者に期待される役割は、既存のものとはまったく異なったものに変容するはずである。

5:そして最後に、消費/社交する世界が問題である。いま人々は自分だけのニーズに応えてくれる自閉的な世界に没頭している。これに呼応して、マーケットはワン?トゥーワン・マーケティングと称して孤立した個人ニーズに沿ってカスタマイズした物とサービスを提供している。さらにこのような関係にたいしてメディアもさらなるセグメントを繰り返して、サブカルチャー/オルタナティブカルチャーへと細分化して、自閉する消費者に迎合している。この無限の連鎖が消費社会の本質であり、楽しかったバブルがはじけた今もまだその残滓にしがみついて、さらなる矮小化の道が進行している。ネットワーク化はその矮小化に歯止めをかけることのできる唯一の手段である。ネットワークには、確かに一方でe-コマースのようにグローバルコミュニティであっても微細にセグメントされたコミュニティとしてこだわりニーズを充足させる方向もあるが、他方ではエコマネーや地域通貨のように、贈与を基盤とした物とサービスの流通をもたらすボランタリーな経済コミュニティが模索される方向もある。この後者の試みは、電子自治体とも連携して政治経済的コミュニティの生成に貢献しよう。そのとき消費/社交する人々は、単に自己のニーズの充足にこだわるばかりでなく、身近な他者へのつながりを求めたところで自己に言及する眼差しを獲得しよう。これが矮小化を阻止する「ささやかな自己超越と小さな公共性」を生成する機会となる。外部にある大きな公共性である「環境共生」のイデオロギーをどのように実現するかはわからないが、矮小化阻止から生じた「ささやかな自己超越と小さな公共性」の論理は、消費の意味を問い直すプロセスを通して、環境共生に少しでもつながる豊かな消費の世界を再構成することだろう。 以上、コミュニティを構成するさまざまな社会的機能が、携帯家族の論理を適応することで、どのような意味でのネットワークコミュニティを生成させるか、を構想してみた。このようなコミュニティのヴィジョンが2015年においてどの程度実現可能であるか、の予測はできない。ただ携帯家族のヴィジョンを支持する立場から論理を展開しないかぎり、ネットワークコミュニティの実現可能性はありえない、ということだけは主張できそうである。