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Juli 31, 2005
周回遅れ
7月も終わり。同じ季節がめぐってくると、すごく不思議な気分になる。
たとえば一年前のことを、実感としては一年前として処理できない。一年前は、曖昧さや確実さ的に昨日とあまり変わらない。つまり、思い出じゃなくて、まだ記憶の領域にある。自分のカテゴリーの中で思い出って呼べるようになるのは、2年後くらいから。
去年の夏はまだ今年の夏と続いていて、ひとつ前の夏は2年前の夏、というようなねじれた世界を生きている。気分は周回遅れ。一人だけ、去年の夏のことをさも今年あったように感じて。
周回遅れといえば、MT3にしてみた。色々カスタマイズしやすくなっているけれど、結局していない。結局、日付をノルウェー語にしてくらいしか目立った変化はなく。(ブログペットを導入したかったからMT3にしたわけじゃないです。本当です。信じてください。そんなことがバレたら恥ずかしいじゃないですか。)
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Juli 30, 2005
場所の遠さ
あと、出発まで8日しかないのに、ほとんど準備をしていない。
というのも、国と国の遠さがうまく実感できないから。交通・メディアの発達、そしてインターネット。世界のほとんどの情報をメディアでしか把握できないぼくたちにとって、メディア環境・そのインフラさえ担保してさえいれば、どこにいてもさして変わらない生活を送ることができる。
未来都市、といったときに古典的なSFが描いてきた超高層で巨大な都市は、あまり現実味を帯びなくなってきている。でも、もう一つの未来都市は実現されつつある。これも、昔からSFに書かれてきた典型的な都市像なんだけど、ネットワークによってつながって、どこに住んでいても気軽に人と意思疎通や相互扶助ができうるような世界。(学問の世界じゃインターネットに追従するかのように、流行りだしたのはここ20年だけど、SFじゃ50年以上前からこんな世界を描いてた。SFってすごい!)
もちろん、物質的な意味でのワープは出来ない。どこでもドアはない。人とは気軽には会えない。それでも何万キロも離れているのに、物品でさえ3日で届かせることが出来る。人なら一日もあれば飛んでいける(お金などの問題でそうそう気軽に行けるかどうかは、経済的な格差があるけど)
なので、準備をしていません。どうしよう。
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Juli 29, 2005
夢のじかん
うたた寝をしながら夢を見ていると、夢の密度のわりに短い時間で夢が見れて得したき分になれる(そのあと本当は起きなくちゃいけなかったことを思い出して、損した気分になる)。
今朝の一本目は体感型アクションRPGをしている夢。ゲームだってわかってるんだけど、それなりの臨場感でした。はじめは強制収容所から脱出するシーンから始まるのだけど、がけにも近い坂を転がったり、仲間と見せかけた収容所側の監視員の登場など、それなりのおはなしとしての要素はクリアしていました。その後、いくつかのダンジョンをクリアして、なぜか天竺を目指すゲームでした。
そして次はベンツとペルシャ猫とヒノキのベッドのはなし。どれもお金持ちのおじいさんが買ったのだけど、ベンツだけどうしても夜中のうちに移動して傷がついてしまう。そこで屋内にいれて、保管することになったのだけど、やはり動いてしまう。そこで、ベンツの中にペルシャ猫を住まわせるとなぜか解決。おじいさんの部屋の、ヒノキのベッド(霊柩車のかたち)のとなりでベンツごとペルシャ猫を飼うことになりました。
しかし、次の晩。そのおじいさんのお屋敷は巨大図書館の一角にあるのだけど、火事が発生。煙がもうもうとたちこめていて、僕たちは不安になります。案の定、けむりの発生源はおじいさんの部屋。しかも、警察の現場検証までも終わった後らしく、誰でももう立ち入れます。その灰と化した部屋。しかし、ベンツの中にペルシャ猫はいたのです。
うーん、夢だな。だめだね。やっぱり起きればよかった。
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Juli 28, 2005
熱と夏
濃密された青が気持ちよかった。現実離れした圧迫された風のゆるやかさが新鮮だった。まだあたたかい夕方のプリズムが心地よかった。
冷たい国へ行くというのに、もしかしたら自分は夏が好きだったんじゃないかと思い始めてきた。夏は現実を突き抜けてゆくイメージがある。ここじゃないどこかに、街や人を連れて行ってくれそうな気がする。無表情なホワイトワーカーの群集さえも、その背中がはじけて見える。
逆に、冬は深く深く街や人を沈めてゆく。根を下ろして、彼岸など志向せずに、外部を閉ざして、相対化を許さずに、彩ることさえも無意味にして。
って、ただの偏見だね。冬を愛でる会やただしい冬をつくる会の人たちに怒られちゃうね。怖い怖い。
++++++++++++++
夕方の風が高度落として
光のプリズム
まぶしく空に広がる頃
遠い感覚おぼろげに君の横顔や煙草の煙
あたりを包んでいく
君にとってはどれくらいの時間だったのだろう
日付を見ることが意味をなくしてしまう
街の雑踏に意識を委ねて
まだ青さ残す
まぶしい空をまた眺めてた
漠然とした生活を曖昧な選択で逃げてきた
そんな時代だったけど
この体を走らせていた風が止んだとき
何もなかった事に出来るのかな
明日を描くその腕を頼ってた
守りきれるわけない夢たちを
ここまで背負って 走ってきたつもりだった
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Juli 26, 2005
希望
希望って、過去によく立ち現れてくる。あの頃は希望があったなって。何も知らなかったくせに、何でも出来る気がしてたなって。あの時に希望があったなって。
でも、それは幻想で、あの時もそこにいたのは、冷めていて過去を振り返るばかりの、今と何も変わらない自分で。希望っていうのは、可能性と共に成立しうる概念だけど、だけど可能性って実は厳しくてしんどいもの。常に、成功する可能性の裏には、失敗する可能性が存在している。
そんな可能性なんてものを前に、ナイーブに希望を持てる強さなんてなく、あるとしたら幼時的な根拠のない裏づけに支えられた全能感くらい。希望と呼ぶのには、あまりにも脆弱な。
だから、希望なんて、現在にはもてない。ただ、終わってしまった過去に、そこに存在した可能性と、そこに存在しえた希望には、辛うじてリアリティーを感じられる。希望は、そこにあったって。今はもうないけど、そこにはあったはずだって。もう失敗も成功もありえない過去だからこそ、終わってしまった希望というものを、そこに見ることが出来る。
投稿者 POE : 11:25 EM | コメント (0) | トラックバック
Juli 25, 2005
愛すべきアドグル様
前略アドグルさま
お久しぶりですね。すっかりお互いに忘れていたかも知れませんね。でも、どうしても手紙をしたためておきたくて、こうして文字をつづっています。昔からのあなたを思い出しながら。
思えば、あなたが生まれたのはこのキャンパスと同じ日でしたね。はやいもので、もうあなたも十六歳ですか。まだ、キャンパスの造成も途中だったあの日、希望だけがこの場所には満ち溢れていたのですよね。
あなたが生まれた経緯を覚えていますか。今までのように担任制度にしてしまうと、教員と学生という軸が固定されてしまう。そうじゃなくて、学生と対等なパートナーとしての「アドバイザー」を目指していましたね。そういえば、欧米のチューター制度を参考にしたと、関口一郎先生も言っていましたっけ。カリキュラムが自由なこの学校で、具体的にどんな授業をとるかを話し合える「パートナー」が必要だと。
生まれたばかりのあなたは、とても可愛がられましたね。何せ、一年生と先生しかいないキャンパスでしたから、他のコミュニティなんてほとんどない時代でした。あなたがほとんど唯一の「場」と言ってもいいような状況でしたもの。幸せな日々だったでしょうね。だけど、月日の流れはあなたの価値までもを変えてしまいました。
今、わたしたちにはあなたしかいないわけじゃありません。百を越えるサークルや団体でいくらでも友達なら作れますし、そうそう研究プロジェクトも一年生から履修可能になったのですよ。さらに、先生もいつしかあなたを重荷と考えるようになってしまったようです。あの大学院も研究プロジェクトさえもなかった頃と違い、先生には他にやることがたくさんあるんですよ。学生とも、研究プロジェクトで出会えますしね。
そもそも教員が「アドバイザー」をかねること自体、無理があると思いませんか。欧米のチューターというのは、学生の相談専門の職員であって、教員との兼務なんかじゃなんですよ。だからこそ学生のきめ細かい相談に答えることが出来るんです。他の業務や授業に追われる教員に、そんなことを求めるのは酷だと思いませんか。
さらに、あなたは知らないかもしれないけれど、あなたじゃない相談制度も随分と整ったんですよ。キャンパスライフの悩みなら福利厚生団体もいるし、こころの悩みならウェルネスセンターがある。あなたは、これらとどう差別化をはかれるのでしょうか。難しいですよね。今、あなたに、あなたしか出来ないと掲げられる価値ってありますか。
きついことばかり書き連ねてしまいましたね。でも、そもそも変わろうとしなかったあなたも悪いのですよ。いくらなんでも、SFC GUIDEでの紹介文がここ十年以上、まるで変わっていないことに恥じらいの気持ちくらいはもって頂きたいのです。もう若くはないあなたが、無邪気に変わろうとしないことは、正直こちらが恥ずかしくなってしまいます。
とはいえたしかに、変わることは難しいですよね。変わるのには膨大な労力は使うし、そのくせ成功するとは限らない。いくら実験するキャンパスといっても、出来上がってしまったものに手をつけるのは、やはり面倒なようですしね。だけど実はわたしも、あなたが最近二回ほどこっそり変わろうとしたことを知っているんですよ。
2003年に、あなたはクラス制度を結びつけられました。あなた三つで、クラス一つが構成されるようになりました。これ自体の成功か失敗かは意見がわかれるでしょうけれど、確かなこととしてあなたの存在感はますます薄まりましたよね。何せ、それ自体の拘束力はないあなたよりも、授業が同じクラスでまとまってしまう人が多いのは当たり前ですから。クラスの力が強くて、あなたの名前を知らない人もいましたよ。学部長と学生たちが連携して、あなたについて大規模に考える機会だったのに、少なくともあなたにとっては残念な結果になったようですね。
そして、今年2005年。あれは無残でした。あなたをもう一度活性化するための試みだったようですが、逆にあなたを貶めようとしている誰かの作戦としか思えませんでした。まるで国防の義務を前面に押し出して、憲法改正を阻止する一派のような。いえ、それ以下の単純で安易なものでしたね。江ノ島ウォーク。ごめんなさい、意味がわかりません。一緒に江ノ島まで歩けば結束力が高まる?国民全員に君が代を強制すれば、誰もが国を愛し、犯罪もテロもない素晴らしい日本になると言っているのと、同じレベルですよ。
だけど、ね、あなたは知らないかも知れないけれど、あなただけの価値って皆無ではないんですよ。たとえば、学年の枠を越えた異文化交流の場として、わたしはあなたを必要かもしれないと考えるんです。サークルじゃ勉強って雰囲気にはならないし、研究プロジェクトじゃ同じ志向の人しか集まりませんよね。だけど、あなたは違う。学年も趣味もまるで違うひとたちの交差点、サロンのような機能を果たせる可能性がある。まさにSFCの理念を体現する場じゃないですか。
だけど、今のあなたには荷が重過ぎるとも思います。あまりにも年老いてしまったあなたに出来ることは、現状維持くらいですよね。それさえも最近では辛くなっている。そうじゃありませんか。もう歩きすぎて、そろそろ立ち止まってもいいと思っていませんか。だから、わたしはあなたを愛しているから、あえて言わないといけないのかも知れない。まだ愛が残されているうちに。あなたが完全に壊れてしまう前に。他の人はこれほど真剣にあなたについて考えさえしないものだから、愛しているわたしから。
ねえ、アドグルさん。今までありがとう。そして、さようなら。
愛を込めて
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Juli 24, 2005
TOKYO NIGHT
渋滞の原因は車がブレーキをかけるということだという。では、新宿駅構内で、普段は一分足らずで移動できる3番線から2番線のホームへ移るのに一時間以上かかったことには、どんな説明が適当なんだろう。
地震はICCというわけのわからない拷問的な(流行り言葉でいえば脱構築)展示ばかりするメディアアートの美術館の、暗闇の中で文字が点滅する部屋の中にいたので、床が揺れるのも演出の一つだと思っていた。別に、まわりの人もいつも通りだった。京王線もいつものスピードでいつもの混雑度で、いつもの時間に動いていた。
なのに、新宿駅につき、JRの領域にだけものすごい数の人々。埼京線は動いているにも関わらず、適当な情報は流されず、適当な誘導も行われず、人が待つホームではなく誰もいないホームから列車は発車し、がらあきで運行する電車と、ホームに取り残され身動きさえ取れない人々、泣き出す人や、怒り出す人や、崩れこんでしまう人。
ただ、みんなたまらないんだろうけど、すごく楽しそうだった。ケータイで写真をとる人の多さ、電話で今の状況を嬉々と話す人の多さ。あらゆるものは、日常を彩るためのネタにすぎなくなったといわれる時代をよく反映しているのかな。
素敵な東京の夜でした。いい思い出が出来ました。グローバル化により、交換可能なモノや体験ばかりが増えていくというけれど、あんな密度の中、駅の階段で、一歩も動けない状況なんて、いくつのもの条件が重ならなければ無理なわけで、その意味でとても素敵な経験だよね。もう二度と嫌だ。
投稿者 POE : 04:22 EM | コメント (0) | トラックバック
Juli 23, 2005
分水点
街の灯が
モザイクの夜にまぎれる
帳は遥か上空で
光をもて余している
幾重にも連なった星は
今日もまた遠ざかり
人たちの行方にさえ
過剰な意味を重ねてしまう
歩いてきた道に
与えるべき言葉を失ったまま
いつかたどりつく場所に
何の保証もなく憧れている
風向きが変わる
真夜中の交差点
さびしい目をしていた
いつでも笑っていたはずなのに
希望だけ足りない世界の中を
もがくように歩き 何とか果てにしがみつき
ただここにいたかった
それだけなのにね
夜明けの色が
まだ街に残る頃
小さな手をつないで
とにかく遠くへ遠くへと
宛先はポストに置いてきたはず
だけどただ流れてゆく人たちの
通りすがりの涙がとてもきれいだった
数え切れない夢の残り香ばかりだけ優しくて
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Juli 20, 2005
嘘っぽい
夏って嘘っぽい。夏には虚偽のにおいがある。
たとえば昨日、気温が31度くらいの道を歩いたのだけど、歩いても歩いても少しも実感がわかなかった。自分がどこを歩いていて、どこを目指していて、何で歩いているのか。
空が高くて、世界が見たこともない色で照らされていて、影が伸びても熱は緩まないで。
そういえば去年の夏の記憶のリアリティもおぼつかない。おととしの夏もどこかあやふやだ。どれだけ夏の思い出をたぐってみても、何だか嘘っぽい。夏休みが終わることが少しも信じられなかったのは、夏自体が偽者っぽいからかも知れない。
などといくら訴えてみたところで、明日からの全て(レポートとか読むべき本とかノルウェーとか)が嘘になるわけでもないのにね。
投稿者 POE : 09:27 EM | コメント (0) | トラックバック
Juli 19, 2005
夜更け、藤子F不二夫
明け方まで眠れなくて、本を読んでいた。
一つ目は「魂萌え!」。口で伝えると絶対に誤解されそうな恐ろしいタイトルの本なんだけど、夫に先立たれた59才の主婦が変わってゆく話。
新聞小説をまとめた本だから、重複が気になるところや、時差(新聞連載で読むと2日かかるところが、単行本で読むともの数分。その分量に対して、小説内で30分時間が過ぎたことになっていると違和感を感じる。読者が新聞で、2日にわたって読むことを想定していたのだと思われるけど)はあるけれど、新鮮で楽しかった。
みんなひどくてまぬけでだめな人ばっかりで。気弱で自己主張の弱い主人公のおばさんとか、気が強くて挙動不審で仲間内じゃアルツハイマーまで疑われるその友人とか、アメリカでうまく行かずに帰ってきて遺産をあてにする息子とか、死にそこなってカプセルホテルで暮らす老婆とか。
ただ、生きていくだけなのにね。どうして傷つけたり、傷付いたり、いがみあったりするんだろうね。それは、ただ生きていくことがきっとすごいことだからなのかも知れないね。
と、こんな本読んでも眠れるわけもなく、枕元にあった藤子F不二夫のSF短編集を読む。多分もう何十回も読んでるのだけど、懲りずにまた読む。ドラえもんのイメージがとにかく強い人だけど、この短編集を読むと、この人の頭のよさがわかる。
難しいことを、わかりやすく伝える能力に優れている。価値観をわかりやすくゆさぶってくれる。人間が動物を狩るように、人間は宇宙人に狩られても仕方ないか。なんで食欲は街中で発揮してもいいのに、性欲は部屋の中で隠れて発散させないといけないのか。地理的な国境がなくなり人単位で国家の創造は可能か。世界中の人が新種のウイルスにおかされること、それは進化ではないか。
昔の社会学者(Paul Lazarsfeld。といっても30年前くらい?)が提唱したミドルマンという概念があるのだけど、それを体現している気がする。ミドルマンというのは、専門家の提唱するときには難解な議論や概念を、流されやすい一般大衆にわかりやすくきちんと伝えることが出来る人のこと。もちろん30ページ程度の漫画じゃ思考のきっかけしか与えてくれないけれど、藤子F不二夫は、どんな議論もわかりやすく素敵な漫画で表現している。
これってめちゃくちゃすごいことだと思う。あこがれる。だって、今もちょっと社会を見渡してみればわかるけど、きままで考えなしに道を決めて、流されてゆく人はいつだってあまりにも多い。学者と世間はますます乖離してしまっている。個人は細分化し、世界は複雑化し。そんなときに、ミドルマンという存在はとても大事。一歩間違えば危険なアジテートになりうるけれど、きちんとモノを伝えられる人は、絶対に必要。特に主体意識がないとか言われるこの国じゃ。
というわけで、結局朝。
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Juli 18, 2005
困ってしまうこと
好きな作家とか、好きな音楽の話とか、好きな映画の話になると困ってしまう。
好きな映画は、もともと映画を見ない人間だし、さらに好きな映画がそれほどハリウッドぽくもなく、微妙に単館系の香りさえも感じさせ、かつ知名度も低くないものだから、他人に話しても問題はないのだけど、問題は作家とか音楽だ。
たとえば、それなりに本を読んでいるくせに、好きな作家が明らかにそれほど本を読まない人が好きそうな作家ばかりなんだな。というと語弊があるけれど、みなさんのために書いているんですよ系の作家。つまり純文学とか、Jなんとかとか訳のわからない系じゃなくて、恩田陸とか貴志祐介とか乙一とか。
「夏目漱石の『道草』の後半に出てくる...」とか話されたあとに、「石田医良の池袋ウェストゲートーパーク」とか「恩田陸のユージニアはやっぱり」とか言えるわけがない。
さらに絶望的なのが、音楽。二十歳にもなっていまだに聞くのはJ-POPばかり。しかも、90年代後半のJ-POPが中心。「好きな音楽は何ですか?」って聞かれて、「今はglobeとか華原朋美が好きですね」とかいえるわけないじゃん。大学生にもなって(恥ずかしいついでに、今のBGMはH jungle with T。相当だよね)。
みんなも、小さい頃はふつーのJ-POPを聞いていたと思われるのだけど、どこにジャンプがあって、長い横文字のバンドや洋楽にたどりつけるんだろう。それとも、はじめから聞いていた音楽が違うのかな。ブルデューのいう文化資本とかいうやつ?
まあ、いいか。仕方ないか。海外言っちゃえば関係ないか。
+++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++
目指す場所さえ
同じだったなら
たとえば距離や時間は
越えていけるはずだった
目を閉じた先に
同じ景色が広がるはずだった
真夜中の交差点で
やけにうるさい静寂
青と赤に混じり
取り残される色は
誰でもなくなってゆく
誰かを今日も照らし続ける
距離も時間も居場所も
こんなにもあまっているのに
同じ場所を目指せない僕らには
それは何の意味もなくて
なくしたまま
変わらないまま
壊れてしまった場所を
抱きかかえるがため
なくしてゆく
変わってゆく
そして次の場所さえ壊してゆく
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Juli 17, 2005
靖国神社
靖国神社のみたままつりへ行ってきました。要するに普通の縁日を抱えたお祭りなのだけど、靖国神社らしく日本兵のコスプレをした人や、新しい教科書を作る会の人だとかも混じっていました。
海外で言えば軍事博物館あたる遊就館は、ポピュリズムへの迎合具合がすごかったです。お年寄りのための娯楽施設なのでしょうか。日露戦争の成果をテレビタックル風のVTRで紹介してみたり、軍艦のプラモデルを並べてみたり、実際のゼロ戦や戦車にさわれたり、戦没者の写真の中にこっそり東條を混ぜてみたり、売店には日本海キャラメル、書籍コーナーには小林よしのり。
お祭り自体も昭和のかおりを存分に残すものでした。見世物小屋では蛇女(へびを飲むんだよ。ストリップもかねていることが多い)、剣を飲む男。お化け屋敷はわずか一分にも満たない行程。見世物小屋が、2005年に見られるなんて思っていなかったです。この退廃感。このバタ臭さ。さすが、過去を頑なに守る場所だけあります。
また、盆踊りの時間には、大村益次郎(陸軍の創設者)の銅像のまわりでおばさんたちが回りだす。中国の反日運動を怒る人たちは、その前にこの盆踊りに怒ってみたほうがいいのではないかと思いながら見ていました。軍神をライトアップして盆踊り。
でも、はちゃめちゃぶりはこの靖国神社を通して感じたことでもあります。売店ではおまんじゅうのとなりで皇室の写真が売られていたり、遊就館では戦争の開戦を美化しながら終戦を決断した聖断も褒め称えていたり、かと思えばさっきの見世物小屋があったり、おしゃれなライトアップがされていたり、窪塚と小林よしのりが献した行灯が隣に並んでいたり。
この支離滅裂ぶりをもっと知らしめれば、他の国も怒る気をなくすんじゃないかとばかなことを考えてしまいました。でも、こう支離滅裂さというのは、靖国神社を含めた「戦争的なもの」をサブカルチャー的にしか受容できなくなったボクタチのほうに問題があるのかも知れません。
最近、戦争モノが流行っているけれど(戦国自衛隊とかジパングとか)、それが戦争崇拝を意味するわけじゃなくて、戦争がただのエンターテイメントにおけるネタでしかありえなくなっていることを示しうるようにね。少しもリアルじゃなくて、熱も風もなくて。なのに実際に起こった物語というのは、人のこころを捕らえるのに十分すぎる。
まあ、このまま適当に娯楽として戦争をネタとして扱っていくぶんには何もいう気はないけれど、一線を越えちゃったらと思う怖い。もしくはネタとして愉しんでいるつもりが誰かにagitateされたりする可能性を考えてしまうとね。見世物小屋を見て笑っているコスプレ日本兵を見る限り、杞憂だとは思うけれど。
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Juli 15, 2005
古典とか
Residence permitも認可され、いよいよ留学とかいうやつも真実味を帯びてきたせいか、このごろやけに日本の古典や漢詩を読んでみたりしてる。(といっても、漢文などは原文じゃおろか書き下し文でもきちんと読めるかはあやしいので、横断的な解説書に目を通すくらいなのだけど。)
たとえば、日本書紀とか、古事記とかすごい。何がすごいって、平気で糞尿まみれになる皇族とか、殺人鬼の天皇とかを、隠すでもなく惜しげもなく国の正史に書いてるってこと。万世一致ならあとはもう何でもありらしいです。はじけっぷりっていうか、今の感覚でいうとこのぶっとびぶりが、わくわくしてしまう。
って、そんなの帰ってきてから読めばいいのにね。普通、行く前は行く国の言葉でしょ。
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おわり
おわりは寂しい。
もちろん、おわったその瞬間には寂しいとかはわからない。かろうじて、いつか来るであろう寂びしさを予感することくらいしか出来ない。寂しくなるのは、もう全てが取り戻せなくなってから。
おわりはあったほうがいい。
終わりがないゲームなんて、ゲームじゃない。
ゲームじゃない日々を、うまく歩けるほど強くない。
だから日々が閉じてゆく瞬間は、文句なしに愛せる。今までを思い出して、並べて、感傷にひたって。でも、それはやがて新しい日々に負けて、消されて、そこではじめて感傷にひたってる場合なんかじゃないことに気付いて、でもそれじゃ手遅れで。
手遅れになることは、もうはじめから決まってる。
仕方ないこともわかってる。
それでも、終わりはさびしい。
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Juli 14, 2005
さいご
普通の授業も明日で終わり。
最後かも知れない一学期は、毎日がとても楽しかった。
目線が未来で、その未来から今を見ていたから、懐かくて大好きな学生時代に大人が戻れたような、そんな気持ちで生きていられた。
ひとつあきらめてしまった授業もあるけれど、それでよかった。
その授業の先生自体に対する怨念はあるけれど、許さないけど、抱えていくけど、それでも授業の過程でできたいくつかのつながりや体験はうまく抱えていけそう。(ってなんか植民地住民みたいな感想だな)
終わりが見えているって、きっと素敵で大事なこと。
散漫って怖い。ありふれた日々は、それがちっともありふれたものじゃなかったことに気付くまで、どれほどの意味ももてない。
別に本当の最後じゃなくていい。第二部があっても、後編がどれだけ続いてもいい。それでも、いくつもの横線を、便宜的にも日常には引いていくべきだ。
(ってなんかタイトルを変え、版権や商品名を更新してもうけるアニメみたいだな)
調べたいことも調べられたし、本もたくさん読めたし、メディアで喧嘩もできた。どれも、ありふれた平凡で平均的なことだけど、横線で区切られたある区画の中でしか起こり得ないと気付いたらなら、その横線を引くことが出来たなら、とても大切なことになり得るから。
だから、たとえば誰かを鼓舞するときにかける言葉は「死ぬ気で頑張れ」じゃない。「明日死んでるかも知れないよ?」がいい。(ってなんかおかしいな)
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Juli 11, 2005
7月11日
■1 朝
埼京線が遅延。駅ごとに止まる。
遅延届けというのを配っていたのではじめてもらった。
遅延届けを紙で配る。なんかほのぼの。
そんな光景もいつの日か管理の名の下になくなってしまうのかな。
便利な未来に管理という言葉をかぶせて過剰におびえているのか、
不便な現在を牧歌的という印象で抱きしめているだけなのか。
■2 昼
今日はドイツ語発表会。
結局、最後はまかせっきりになってしまったけど、
持ち歩いてゆきたい作品が出来て嬉しい。
聴講だったけどドイツ語、楽しかった!
聴講だからこそ楽しいのかな。
■3 昼下がり
ノルウェーに送金。
のはずが、身分証明を持って行くのを忘れ失敗。
果たして居住許可はおりるのか。
■4 夜
誇りもいいけどね、ポピュリズムに迎合してもいいけどね、
子供のけんかじゃないんだから。
やっぱり住みたい国探しを続けよう。
+ + + + + + + + +
通り過ぎるカーニバルの歓声
いくつか先の街角を抜け
そのまま二つ先の国へと向かった
星へ祈りかけた腕は血まみれ
崩れかけた指先はそれでも
空を指していたけれど
微笑みは瓦礫の下
明日へ向かうと告げる行き先表示LED
吹き続けた風が
辿りつく先は大陸の先なのか
それとも再びの嵐に飲み込まれるのか
不思議と青は高くて
波は彼方へ続いて
君はそれでも歩き続けて
うまく話せない人が
今日もまたテレビの向こう
ささやかな誇りが
渦に沈んでゆく
ひとりじゃだめで
でも共に行こうのただ一言がいえなくて
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Juli 10, 2005
メディアセンター
1
大きな本屋へ行くと、大抵は読みたい本が10冊くらいはすぐに見つかる。
それは、平積みだったり、ポップだったり、詳細な区分だったり、お客様のための陳列方法なり販売のための方法論にうまくのっかることが出来るから。
一方で、学校のメディアセンター(というか普通の図書館)はどうだろう。カバーをはぎとられ、名前の順で棚にしまいこまれた本の数々。検索サービスであるOPACも、本当に検索しか出来ない。amazonのようなレビューもなければ、横断的なrecommnedなんて期待できるはずもない。
日本中の図書館ってこんなものなのだろうか。別にいいけど、せっかく高い専門書をそろえても、誰にも見つけられない本がこんなに多くあるなんてとても不幸なことに思える。というわけで、基本的に貸し出し人数が0に近い本ばかりを借りることにしている。
2
ところで、最近メディアセンターがすごく楽しかった。能動的に使えばあんなにもあの場所が楽しくなるんだと言うことを実感。本を何十冊も読んで知的好奇心を満足させたとかそんな話ではなく、ドイツ語のグループワーク。
すごく楽しかった。まだ発表前なので詳細は言わないけど、雰囲気だけを伝えると「飲食可能エリアに置いた飲み物に、長いストローをつけて飲食禁止エリアまで伸ばし飲むと怒られるかどうか」とか「メディアセンターに布団を持ち込むことは可能か」とか。
投稿者 POE : 06:36 EM | コメント (0) | トラックバック
Juli 08, 2005
駅前広場
駅前の再開発工事が終わった。
工事開始は2003年7月。あのときは工事終了の2005年7月が途方もない未来のように気がしていた。2年後の夏。今も同じように2年後の夏なんて想像できない。
今が未来がだなんて、まさか2年も経っちゃうなんて。
夏の温度は、蜃気楼のように、さまざまなモノの現実感を少しずつかすめとっていくようだから、余計うまく信じられない。
投稿者 POE : 10:44 EM | コメント (0) | トラックバック
Juli 07, 2005
面白くなってきた
とても面白いことがあった。
こんなに笑ったのは久しぶり。
居住許可がrejectされた。
行けるかな、ノルウェー♪
投稿者 POE : 11:32 EM | コメント (0) | トラックバック
最後なので、とても素直に書いてみました。
[情報通信文化論課題]
Noritoshi Furuichi
t03881nf
1) こころとスピード
書こうと思いながらもう2年近く書き始められない手紙がある。出だしの一行や、どんな封筒にいれて、どんな文体で書こうとか暇な時にはよく考えるのだけど、どうしても書き始めることが出来ない。メディアの使い分け、僕にとってはまずはスピードの問題だ。メールなら一瞬で届くとか、手紙なら2日かかるとかいう物理的な話ではないけれど、相手に届き自分に返ってくるまでのスピードに、壁の高さは比例する。
また、はやさといえば、複数の自分が変わるはやさというものもある。特にメールを大量に受信した日など、同じ自分ではやっていられない。メールのたびにコードスイッチングが起こっている。どうやら一貫性がないものにはスピードが要求されるようだ。
2)どきどきの長さ(どれだけ「ふつう」か)
電話はかけるまでがどきどきする。メールは返ってくるまでがどきどきする。手紙も返事を想いどきどきするけれど、どきどきの密度はメール、それも携帯メールの方が大きい。ブログはどきどきしない。独りよがりで言いっ放しの言葉が文字に残るのは、メールで慣れている。メッセンジャーはどきどきしない。どきどきもしないけれど、オンラインだと確認だけして話しかけないことが多い。どきどきするということは、普通じゃない状況だということ。相手をかき乱すかもしれないということ。電話ははじまってしまえば、どきどきしない。人と話すなんていつもしていることいだから。メールを待つのにどきどきするのは、普通の生活で返事を何分も何時間も待たされることはないから。
そういう意味で考えると、この授業ブログは少し特殊だ。何らかのリアクションがあるのは、次回の授業、もしくは9月に届く成績表。そのライムラグと、どきどきの差が、興味深い。
3)無駄だと思わなさ(かたちが残る)
電話を終えて3時間経っていたとき。ときどき、その時間は無駄だったんじゃないかと思ってしまう。もちろん電話じゃなくても、ただの大学生の時間なんてほとんどは非生産的なもので、無駄が大部分を占めているのだろうけど、体感無駄度数は電話が一番。かたちに残らないからかも知れない。メールならかたちに残る。ブログも手紙もメッセもかたちに残る。人と会ってもかたちは残らない。だけれども、ぬくもりやいとしさや空気が、電話よりもずっとずっと残る。話していたときのことを、帰り道で思い返してはにやけたり悲しんだり。情報量が声だけよりもとてつもなく多いからだろう。今のメディアはまだ距離を完全にはうまく越えられていない。
4)メディアの使い分け
使い分けという意識をしていないのに使い分けている。たとえば鉛筆はより意識的に使い分ける。シャーペン、色鉛筆、製図用ペン、お気に入りのペン。でも、なかったらなかったで大抵は我慢も出来る。色鉛筆で図面は書けないが、ちょっとしたメモを書くのにペンの種類など選ばない。コミュニケーションのためのメディアもひょっとしたら同じことではないだろうか。
重要度が高いもの大切なには、どのメディアを使うか気にする。そしてそのものによっても、優先されるメディアは変わってくる。
連絡を伝えるなら即時性の高い電話、情報量が多いならメール、ただしメールを書くのが面倒になったら電話、かたちに残らないから万が一のときこちらの言い訳も通用しやすい。
人とつながりたい時は、誰かと話す。直接的な人とのつながりのほうが、多様性が生まれやすいから。電話やメールというメディアは使わない。使うとしたら、本やブログでのひとりごと。だって、電話を切った後の淋しさを埋めるものはないから。
探し物はOPAC。幾人もの監査を経た書物のほうが読みやすいし、信頼性も高い。そしてそこで浮かんできたキーワードをWEBで確認。はじめからインターネットには頼れない。これだけのスープのような世界から、特定の何かを探すという情報収集には莫大な労力がかかる。
暇潰しも本。ユビキタスなツールだから。もしも今のパソコンがそのままケータイサイズになって安くなったとしたら、変わるかもしれないけれど、今は本でいい。
こんな風に、場合によって無数に答えは存在して、しかもそれは別に僕にとっての絶対ではない。そもそも、これだけ細分化した世界は、僕たちのアイデンティティをひとところにとどめることを許さない。複数のアイデンティティと最近のメールやウェブといったメディアは親和性が高い。世界の流動化、二項対立の崩壊と聞くとぞくぞくしてしまう。おそらくそんな簡単に近代は壊れないだろうけれど、それでも、あらゆるメディアを使い分けることが、鉛筆を取り替えるのと同じようなレベルまで行ったとしたら、面白いことも起こるのかも知れない。(古市憲寿)
投稿者 POE : 03:35 FM | コメント (0) | トラックバック
Juli 05, 2005
整理と情報量
ちょっと興味があって7冊?くらいドイツの戦後補償に関する本を読んでみた。
よく日本よりもスマートな例として最近もまた引き合いに出されるドイツの戦後処理。
だからちょっとしたミーハー心から読んでみたのだけど、何か読んでいるうちにどうでもよくなってきた。
メモとったり、自分が使いこなせるかも知れない情報が増えてゆくのは楽しいのだけど、まったく未知の情報を一度に摂取しすぎて、どうしたらいいかわからない。A4用紙7枚ぐらいにわたるメモが今、机の上に転がってるんだけど、これをどう整理しようかなあ。
本当は整理しないまま携えていたいのだけど、整理していないものはなくしやすいからなあ。そしてうまく整理しないと、結局誰に対しても使えないからなあ。
投稿者 POE : 12:17 FM | コメント (0) | トラックバック
Juli 04, 2005
ノンステップバス
普通のクルマには全く興味がないのだけど、小さい頃からバスだけはすごく好きだった。
今回課題で久しぶりにバスのことをずっと調べていたんだけど、ヨーロッパのノンステップバスの壮麗さに思わず小躍りしてしまった。
たとえばメルセデスベンツノンステップバス。
かっこいいでしょ?日本の座席も大してなくて、車内にステップばっかり作るノンステップバスと違うでしょ?(一応補足しておくと、行政による支援体制の違い。日本じゃメーカーに予算がいかないから、現行バスの改造で作ってゆくしかないから、あんな無様なバスが出来ることになる。)
ベンツなんて今までどうでもいいと思っていたけれど、こんなベンツなら毎日乗ってもいいなあ。でもいくらするんだろ、これ。日本のノンステップバスが2100万円くらいだから、ベンツだし30000EUROくらいかな。しかも免許とかどんないかついのがいるんだろう。しかもLINENBUSなんて個人に売ってくれないよね。でも、自分で運転する必要はないんだよなあ。
というわけで、ドイツへ行きたい。
投稿者 POE : 01:21 FM | コメント (0) | トラックバック
Juli 02, 2005
夜行の駅
夜、京浜東北線の人身事故で足止めをくらった。
1時ぐらいまで駅にいたんだけど、色々な人がいて興味深かった。
上り最終電車が出たはずなのに、イスに座ったまま遠くを見ているカップル。
階段に座り込んでこうべをたれているホワイトワーカー。
下り電車は、乗車率200%くらいの電車が到着するたびに、一瞬だけ夥しい数の人間がプラットホームにあらわれて消えてゆく。
そしてその中で、ホームを歩き回って人間観察や写真撮影に励む大学生。
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夜明け前 南西からの風が
失くしたはずの夏を告げる
足りなかったはずの愛も
気が付けば扱いきれないでいる
こころが小さくなったのかな
同じ歩幅 同じ日付 同じ景色
「いつか裸足で過ぎた
遠い焦燥さえいとしい」
思い出好きな華奢な大人に
なってしまった
朝を待てず 走り出していた日々を
優しい顔で見送る時期
優しかったはずの君も
この頃じゃ
僕まで優しくなりすぎたのかな
違う目線 違う期待 違う未来
「だから裸足でゆこう
こんな痛々しい街でも」
目を閉じられるぼくたちなら
歩いてゆけるかな
見ずにすむもの 見ないふりして
気付いてしまっても おどけて誤魔化し
何も変わっていないよと 今を茶化して
たとえば傷に果ててしまう夜まで
投稿者 POE : 06:39 EM | コメント (0) | トラックバック
SNS、濃度薄まってる
[情報通信文化論]
そもそもSNSは大学の同窓生名簿のようなものが源流と言われている。極めてCLOSEDなCOMMUNITY。それが今はどうだろう。一応、メールでの紹介というような形をとるものが多いけれど、結局は誰でも入る気になれば入れて、中で起こっていることと言えば友達作りとか同じ趣味の仲間を見つけたりとか、SNSじゃなくても起こっていることばかり。
でも、確かに(日本の一般的な)ウェブサイトとの相違点もある。特に初期、みんながばんばん実名と写真をだしていた。CLOSEDという安心感からか、もしくは現実の社会の縮図のような光景に(現実社会でウェブのようなOPENっていう空間は逆に特異)順応してか。
それってWEBで実現できなかったことを、もう一度取り戻そうとするあがきにも見える。実質、匿名ではない韓国のWEBのように、生産性があったり意義があったり、みんながリテラシーのレベルが高かったり、そんな現実のルールを持ち込んだ折衷としての空間の創造。
でもきっと二極化して終わりじゃないかなあ。一つは、とことんCLOSEDを志向する秘密結社型。参入条件もすっごく厳しくて。もう一つは、今以上にさらに濃度がうすまって普通のWEB化。だんだんみんな匿名になっていって写真も出さなくなって。
だって、大衆化ってそういうことだよね。SNSの特徴にまず、自分用のページを作るのが簡単っていうのがある。プロフィールをちょこちょこ入力して、趣味や経歴、所属のコミュニティーを選んでゆけば誰でも10分ちょっとで自分専用のページ(字義通り言うならまさに「ホームページ」)を作ることができる。
だから(ぼくのような)ふつーの人からしてみたら、SNSなんて「ちょっと便利」くらいの意味しか感じられない。