« Juli 2005 | メイン | September 2005 »
August 31, 2005
0831
8月31日。夏休みの終わりが、嫌でなくなったのはいつからだったろう。
とりあえず、中学校2年生までは夏休みの終わりが恐怖以外の何者でもなかった。むしろ、恐怖というよりも、夏休みの終わりが何を意味するのか、いったい夏休みが終わったあとに何が始まるのか、世界はどうなってしまうのか、それくらい重大な意味を持っていた。宣告を受けたことがないのでわからないが、それは死刑のようなものだったのかも知れない。
夏休みがはじまるまでは、ただ夏休みだけを救いに生きていた。あと**日で夏休み、とカレンダーにはカウントダウンコーナーを作り、はやく夏休みが訪れることと、そして夏休みがはじまった暁にはもう二度と夏休みが終わらないようにと願っていた。
夏休みがはじまってからは、終わらぬ日々を願いながらも、一方で現実的に終わりのショックを和らげるために「あと40日しかない!」と始まった日から残り少ないと思い込むようにもしていた。しかし、「35日」などはまだ余裕の笑顔でカウントダウンもできたが、さすがに「残り3日しかない」というころにはあまりにもそれが切実すぎて、ついつい「!」も忘れてしまうくらいに落ち込んでいた。
だけど、いつからか、夏休みは当たり前に終わって、それを受け入れて、そんな自分になっていた。でももしかしたら、夏休みがただ終わっていないだけの話なのかもしれない。明日からも夏休み。
やさしく風がやむ
稜線は静かに空へと紛れる
Trust me as you once did
言いかけた言葉は
そっと朝焼けが隠した
Everything is appropriate for our departure
光はふたりの影をもうすぐ離す
This will be the morning to remember
When you leave from here
This will be the night to remember
I regret to say this is the end
投稿者 POE : 09:12 EM | コメント (0) | トラックバック
バスだいすき
バスが好き。たとえば、よく都営バスの一日乗車券を買って、目的地をひとつくらい決めてあとは気ままにバスを乗り継いで一日を過ごす、なんてことをしていた。
今日は、バスに乗って少し遠くまで行ってきた。オスロの公共交通はドイツのようにゾーン制を採用している。大きなゾーンで街を区切って、その中でなら電車・バス・路面電車に、切符の有効時間内であれば自由に乗れるようになっている。
最小の単位が1時間で20NOK(340yen)で、たとえば片道に少しだけ電車を使いたい場合は高いのだけど、今使っている定期は410NOKで一ヶ月有効なので、いろいろな場所に行けて便利。もちろんバスも乗り放題だから、東京でそうしたようにわけなく、少し離れた場所まで行ってきた。
バスの車体はほとんどがベンツのCITAROというノンステップバス。実は春学期に、日本のノンステップバスと比較してCITAROを絶賛したレポートを書いたのだけど、実際にはそこまですごくなかった。
たとえば日本のノンステップバスに乗った人なら誰でも気づくと思うのだけど、ノンステップ部分はわずか10人弱が座れるのみで、車体後半部には大きな段差が待っている。逆に、CITAROなどの海外のノンステップバスはエンジンの位置を工夫するなどして、車体後半部までのノンステップを実現などと聞いていたのだけど、そこまで完全なノンステップではなかった。
こっちのバスは基本的に連節バス。日本には3台しかないらしいけれど、そんなバスのために特集ページを組んでしまうバス会社もあったけれども、こっちでは日本サイズのバスを逆にほとんど見ない。乗客数が多いわけではない。つり革がないバスが多いところを見ると、立ってバスに乗るということをあまり想定していないのかも知れない。
ていうか、バスについてはまだ少しも語り足りないのだけど、バスなんて多くの人にとって、ノルウェー語でバスの複数形はBUSSENというくらい、どうでもいいことだと思うので、やめます。
なぜバスが好きかというと、好きに理由をつけるのはかっこ悪いけど、主に次の二つの要素から好きは成り立っている。
1)アナウンスの声
「次は~でございます」という人工音のアナウンス。よく乗っていたバスでは旧静香ちゃんのママの声優を使っていたり、基本的におばさんの声。なんか、どきどきしちゃう。
2)車体
バスの車体の遍歴を並べた本とか大好き。たとえばつい10年前までは木の床のバスが走っていたのに、今ではLEDの行き先表示板を備えたノンステップバスが主流だったり、下手な人間の遍歴より面白い。
2)に関しては、CITAROで満足なのだけど、1)アナウンスがノルウェーでは運転手がぼそっとつぶやくだけ。「次は~」と言うだけで、広告や、警察署の長い標語や、バスカードに関する注意も何もなし。
あ、今度こそ本当にやめます。単数形はBUSSです。
投稿者 POE : 08:36 EM | コメント (2) | トラックバック
August 30, 2005
何食べてるかとか。
ノルウェーに来る前、比喩ではなくて包丁を食品を切る目的で持ったことがなかった。たとえば調理実習のときは、レシピを見たり鍋を見るふりをして包丁などを扱うエリアには近づかないようにしていた。
いま住んでいる寮には、やけに高カロリー・高たんぱくでそれを申し込むと自動的に体がひとまわり大きくなってしまうミールプランなどという恐ろしい制度はないから、自分で料理を作っている。
というわけで、この数日に作ったもの。
日曜日
昼 豚肉をトマトで似たやつ
夜 ホタテ、魚ソーセージ、パン
月曜日
朝 ピザ、りんご、アイス
昼 クリームパン、ホットドッグ
夜 鮭茶漬け、スープ
火曜日
朝 パン+マーマレード、トマト
昼 鮭おにぎり、ソーセージ
夜 ごはん、ひらめのムニエル、ゆでたポテト、チーズケーキ(は、買ったやつ)
結構、病院での配給くらいまともだと思うのだけど。大きめのスーパーにいけばそれなりにいろいろな種類の魚を切り売りしてくれるので、最近買うようにしている。ただもちろん表記がノルウェー語で、指差しで買ってしまうので、実は今日の夜食べたものが、本当にひらめだったかはまだわからない。
まだ包丁は使っていない。ポテトは皮むき器でむけるし、肉はそんなに大きくないし。
料理できるようになるかなと思ってたのに、結局煮るとか焼くの基本形の組み合わせだけで、いろいろな修辞はできなさそうだなあ。
投稿者 POE : 10:49 EM | コメント (0) | トラックバック
August 28, 2005
3週間
到着してから3週間。まだいくつかの懸念事項は残るけれど、たぶんどうにか生きていける。でも考えてみれば、同じ星で生きていけないなんてのは失礼な話で。
たとえばこのくにに生まれていたらどうなっていたかな、とか考えてみてまた打ち消す。そんな想像はきっと創造的じゃない。自分が心理学よりも社会学に傾倒しているためだと思うけれど、結局すべては社会が作り出したものに過ぎない、という考え方のほうがしっくりくる。ということは、このくにで生まれていて、このくにで育っていたら、それは一人称が変わってきてしまう。
だけど、生まれてから...という想像はナンセンスでも、可能性としては無限にある分岐点の中で、ありえたかも知れない未来の中で、どれくらの幅でなら、一人称で語ることが許されるのだろう。たとえば、このくにへ来ない選択肢はすごくあった。今、控えた就職活動を考えながら、悶々とした30度の日々を送っていたかもしれない、というのは少しも突拍子ではない。
ありえたかも知れない日々を想うのは楽しい。ありえないことを望むことと、それは少し似ている。実現不可能なわけではなかったが、実現不可能にもはやなってしまった。そんな状況はつまり、今どこかで起こっているかも知れないことでありながら、その分岐点は過去であり、今はもう改変ができないという点で、そこには現在形のノスタルジーがある。
そんな、3週間目。別に、まだそれは、憧れのノスタルジーなんかじゃないよ。(つまりですね、後悔してませんよ。まだ!)
投稿者 POE : 05:51 EM | コメント (0) | トラックバック
レイコさん
レイコさんのような人にあった。その人は、イギリスからノルウェー語を勉強しに大学へ通っている年配の人で、いくつもの語学に堪能で、たとえば隣で早口の息が抜ける英語で話す人の言葉をわかりやすくしてくれたり、ピザをくれたり、そんな人だった。
レイコさんは、音楽の才能があって、だけど精神病にかかってしまってその道をあきらめて、そしてその後主婦になって平穏に暮らしていたんだけど、ある事件がきっかけで、再びどこかおかしくなってしまい、もう長く山奥の療養所のような場所で生活をしている。自分がまともではないということをわかっているまともで、今では周りの人にピアノなんかを教えて、半ば職員のようにそこで暮らしている。
レイコさんは、「ノルウェーの森」の上巻の後半から登場してくる。ぼくは、ノルウェーに向かう飛行機の中で上巻を読んで、そして今続きを大学の図書館にあった村上春樹全集で読んでいる。
レイコさんと、この前会ったレイコさんみたいな人に、どうやら何の共通点もない。でも、なぜだろう。別れた後の、本を閉じた後の、空気が似ていた気がした。
投稿者 POE : 12:25 FM | コメント (0) | トラックバック
August 26, 2005
腫れ上がった青
http://web.sfc.keio.ac.jp/~t03881nf/u/diary.cgi
投稿者 POE : 11:24 EM | コメント (0) | トラックバック
マダムが踊った
ノルウェー語の授業がはじまる。
先生は上品そうなノルウェーマダム。外国語の教授法をきちんと勉強している感じで好感持てた。基本的にノルウェー語ですすめ、できるだけ英語を使わずに、間違いをしても安心と思わせる環境作りにつとめ、いろいろな学生と自然にからみ、アクセントの抑揚を説明するためにいきなり踊りだす。
クララが立ったのと同じ。
投稿者 POE : 09:41 EM | コメント (0) | トラックバック
August 25, 2005
歴史教育だとか。
ヨーロッパからの留学生が多い大学なので、あまりアジアンは見かけない(きちんとしたこっちの大学の統計は見ていないけど、アメリカの大学よりも少なそう)。でも、そのアジアンの中でも多いのが中国からの留学生。
よく日本のことを知っている人が多くて驚く。ドラえもん、犬夜叉というアニメから、原宿、新宿、歌舞伎町という地名まで。アニメを見て、地名や文化を覚えてしまうらしい。
反日教育を問題視する論調が最近よく目立つ。向こうがやってるなら日本もやろうなんていうおバカな話をする人も多い。でも、どちらにしても今の彼らに単純な反日はありえない、ということを実感。子供のころから日本発のソフトパワーにたくさん触れて、そんな中で絵に書いたような「反日」なんて、成立しがたい。
というか、よく日本の歴史を知らない人ばっかりな気もする。考えたら、こっちも中国史を高校のときにやっているはずなのに、ペラペラしゃべれるわけじゃないし。何度もやったはずの毛沢東が何をしたか、などということまでおぼつかない。
歴史の授業において何を教えるか、教科書に何かが書いてあるか、そんなことはもしかして大して大事じゃないのかも知れない。
投稿者 POE : 11:20 EM | コメント (0) | トラックバック
August 24, 2005
やること。
いろいろと、やるべきことが明確になってきた。
あきらめる。
(あきらめると楽になる。というか、あきらめないとがんばれない。自分の前提を忘れていた。ニュートラルな位置を忘れていた。はじめからあきらめる。それを忘れたらだめだ。戦うのも、願うのも、走るのもあきらめたあとでいい。)
体力をつける。
(今日、家族に送ってもらった荷物を郵便局、部屋から徒歩2分、を運ぶのにあまりにも重過ぎて30分もかかってしまった。いろいろな人に助けられながら。26kgのものを持てるくらいの力はつけておきたい;帰国時に同じ以上の重さの荷物を郵便局まで運ぶために)
勉強する。
(授業は適当に流そうと思えば流せるような雰囲気なんだけど、流さない。何せ、本が一教科14000円とか←しつこい、流すわけにはいかないじゃん。それにこの一年の投資を考えると、ただ生きるだけじゃ、もったいない。)
ドイツ語はじめる。
(聴講までしたはずのドイツ語なのに、いまいちドイツ語人と話しても定型句の披露くらいで終わってしまう。Es schwer, fur mich,Deutsch zu sprechenとかバスを見てAutobus!とか。これじゃフジヤマ、ゲイシャ、スキヤキと同じだ。教科書をきちんと把握していれば「多くの人ヨーロッパレストランで出されるすしと、日本人が考えるそれとは違います」だと言えたはずなのに。)
ひきこもらない。
(だんだん部屋にものもそろってきて、今日だけで26kgぶんも増えたことだし、ひきこもれる体制は整いつつあるのだけど、それでも外に出て、誰かと話して。諺のように旅の恥を感じないだとか、そんなことは無理だし、失礼だけど、それでも数センチくらい歩幅を広げてみたい。)
とか、まあいくら列挙してもはじめに「あきらめること」を目標として掲げている時点で説得力はゼロなのだけど。
投稿者 POE : 08:49 EM | コメント (112) | トラックバック
August 23, 2005
便利*監視
管理社会は是か非か。もはやそんな問題提起が滑稽に見えるくらい、あらゆる場所でいわゆる管理社会化は進行している。amazonは「あなた」へのおすすめ情報を蓄積し、ポータルサイトは「あなた」へ向けたトップページを準備し、まちには監視カメラが並び、諮問認証がシンクパッドにも携帯にも装備される時代、いかがお過ごしですか。
ただよく言われるように(たとえば鈴木謙介『カーニヴァル化する社会』、新書だけどね)管理社会化は管理国家化ではない。つまり、マシンによるデータの監視であって、その管理社会を望み支えているのは私たちだということ。「華氏451度」や「1984」が描いたような未来とは少し違う。
で、何がいいたいかというと、管理社会って便利だなあ、と。たとえば郵便の追跡サービス。日本からノルウェーまで約一週間かかるのだけど、いまどこに荷物があって、いつ届きそうかということがコード番号ひとつでわかる。大量のものを、何万キロを超えて送るのってやっぱり不安だから、きちんと追跡されていると知れることは安心。
で、何がいいたいかというと、非管理社会は不便だなということ。たとえば空港での出国手続きと、移住届けは連携していない。きちんと日本を出国したはずなのに、こっちで大使館に出向いて在留届というものをわざわざ出さないといけない。
で、何がいいたいかというと、5年くらい前から在外邦人も比例区には投票ができるようになったのだけど(小選挙区に関しては、今度の選挙が終わった3日後に最高裁判決がでます、だめじゃん)、それにも在留届とは別に手続きが必要になる。しかも、これには日本ですんでいた場所での転居届けも必要らしく、どうやらぼくは選挙には参加できないらしい。不便だ。
だからといって、たとえば身体にtipを埋め込んで、どこにいても位置が特定できて、出国手続きの長い列がなくなって、ただゲートをくぐるだけで身元が特定されてとか、そこまでの未来を期待していて、手放しで肯定できるかといったら、それも難しい。でも、情緒とかとっぱらって、結局便利なものって、切実なときほど、それがうれしい。
郵便追跡の無機質な15桁のコードが、すごくうれしい。
投稿者 POE : 09:58 EM | コメント (0) | トラックバック
きょうかしょ
教科書を買う。うわさに聞いていて、でも値段を聞いたときに過剰に驚かないように、悪いほう悪いほう(高いほう、高いほう)に考えておいた。
でも、それでも高いよ。今日買ったのは一教科ぶんだけなのだけど、3冊で788NOK(=約14000円)。一冊、約5000円。一冊は"Is there a Nordic Feminism"という日本でも4000円(しかも売り切れ)している本だからまあ許す。(amazon UKだと20ユーロなんだけど)
ただ、ほかの二冊はほかのいろいろな参考文献からコピーをとり、大学独自で製本をした教科書。著作権料とかどうなっているのか、細かいことは知らないけれど、たぶん学術目的だから払っていない気がするんだけど、この本も一冊4000円。たしかにReading listをこうして製本してくれるのは便利だけど、それでも高すぎない?
まあ、履修者が10人とかの授業だから仕方ないのかな。でもそれなら、日本みたいに教員がコピーを配ってくれてもいいのにな。しかも「ノルウェーは大学の授業料が無料なんだから、本が高くても仕方ないわよね。」という教員の言葉。
確かにノルウェーの大学は授業料が諸経費だけ。具体的に言うと、一学期に500NOK(8000円くらい)を払えばいい。一年に1400000円(82000NOKくらい)もとる日本の私立大学とは違う。でも、こっちは日本の大学に8200NOKも払っていて、そのぶんの対価が何に支払われているのかもわからない学生なんです(交換留学という文脈で考えるなら、慶応の学費が免除されているノルウェーから慶応への留学生ぶん?こんど、どこかで出会ったら軽く会釈くらいしてくれるかな。)
(自分を慰めるために付け加えておけば、ノルウェー語も話せない人間が、ノルウェーで勉強するには交換留学をつかうしかない。か、ノルウェー語学習1年+ノルウェー語の授業3年というプログラムに応募。って、あるじゃん。)
勉強のことで、お金にけちをつけるのはくだらないと思う。たとえ期限のない投資だとしても、少なくともアイスが食べたいときにアイスを買うくらい、その重要性には賭けている。でも、なんだかなあ。
投稿者 POE : 05:15 EM | コメント (0) | トラックバック
August 22, 2005
同じもの
同じ空が見られるなんて、せいぜい半径数十キロの中での出来事。
それでも、同じ空を見ているんだって信じたくもなっちゃうよ。
たとえば、原子のひとつぶ、粒子のひとつでも、届くことを、届いたことを。
逆に、複製が容易なものならいくらでも、同じものを見ることが出来る。ニュースサイトのトップページ、メールのテキスト、同じページを開いた本。
だけど、同じものがあふれるものじゃ、意味がないのかな。でも、そんなことを言っていたら同じものなんて不可能になる。独我論を真正面から否定する(ような気がする)アフォーダンスの理論にしたがったって、同じ場所にいないなら同じものは見られない。
それでも、同じ空や同じ月に、ひとが過剰な意味をたくしてきたのは、たやすく複製できる(複製されている)ものだからかな。たとえ同じ場所を見ていなくても、空は青くて、雲は流れていて。たとえ角度が高さが違っていても、月は空を運行して。
だとしたら、たとえばyahooのトップページを見て、そうかあの人もこのサイトを見ているんだろうな、っていう態度は昔でいう「天の原、ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出し月かも」なんだな。そう思うと、yahoo Japan さえいとしくなる。だってyahoo NORGE、これだよ?
投稿者 POE : 05:55 EM | コメント (0) | トラックバック
August 20, 2005
暇と発見
昨日会ったノルウェー在住の日本の人、らしき方のサイトを発見。
http://plaza.rakuten.co.jp/viech22/
はあ、暇だよね。でも暇だからこそ発見の可能性もあるわけで、だからきっと暇は必要で。でも、暇だけになっちゃったら、それは暇とは呼ばれない時間になってしまうわけで。
追伸
違ったみたいです。結婚の条件が似ていたので間違えました。トップでばりばり15日から日本へ行くって言ってますね。よかった、TBじゃなくてただのリンクで。よかった、掲示板で声とかかけないで。やっぱり、暇だけじゃだめですね。
投稿者 POE : 08:56 EM | コメント (1) | トラックバック
August 19, 2005
おもく、くらく、ながく
きょうもまた日本の人に会いました。ノルウェー在住8年で、ノルウェー人と結婚しているので永住権も持っている人です。大学に去年から、学部生として通っているみたいです。
その人いわく、やっぱり冬は寒く暗く重く長いらしい。8年間の重み、日本の気候も知っているという説得力。
わかってはいたのだけど、でも今がこんなにもすごしやすいから、つい冬が来ることを忘れそうになっていた。大丈夫かなあ、ふゆ。(字面はふゆちゃんを心配する親みたいなのに)
++++++++++++++++++
終わりの景色が
もうすぐ足元まで滲んできている
焼きかけの手紙のように
もうすぐすべては温度が連れ去って
重い季節へと
そのまま夜は流れるのだろう
終わりが気づかせる
それまでの日々は
終わるはずなどなかった
当たり前の日々で
だけど確かに終わったそれは
新しさにはつながらない
過ぎ去った
いくつかの行き先は
今でもまぶしく光る
片道だけの線路で
あらゆる速度は緩まないのに
どうして古いひかりは
ここまで届くのだろう
風はやんで
雲はとまり
闇もとどまり
なのにぼやけたひかりだけが
昨日ばかりを照らす
ガレージの落書き
海湾の傾き
やさしい人のつぶやき
たいした意味がないよと
静かに笑えばいいのに
たとえばため息をついて
目をつむり
そこにとどまればいいのに
投稿者 POE : 07:44 EM | コメント (1) | トラックバック
August 18, 2005
大学図書館
この数日、大学の図書館を暇だとでぷらぷらまわっています。日本の大学図書館と違い、入館自体には何も必要なくて、誰でも入れるようになっているので、よく観光客のツアーが館内を行き交っています。建物自体も最近著名な建築家によって設計されたらしく、まあ最近っぽい建物。SFCのμに似ていて、風水的には最悪みたい。
from www.uio.no/uhs
↑
これを見るときれいそうだけど、実際はエレベータが壊れれていたりしてさんざんです。1階からあがるときは、「▼」のボタンをエレベーターを呼ばなければならず(「▲」は反応しない)、また乗ってからも4階まであるはずなのに、なぜか3階までしかボタンを押すことができない(帰りは4階まで呼べる)。
その4階には、日本語の本もそれなりにそろっているのですが、よく蒐集の基準がわかりません。たとえば日本文学として夏目漱石や、村上春樹はそれなりにそろっているのはわかります。ほかにも、日本論系の本、つまり菊と刀に触発されて日本人が書いた日本特殊論から小熊英二まで、が多いのもわかります。
わからないのは、たとえば小林よりのり。もっとも、ゴーマニズム宣言の第一巻だけだったので、思いのほかまともなことと毒の弱い内容だったけれど(性教育の徹底や、同和差別をめぐる人の排他性など)。なんで、ノルウェーに着てまで、小林よしのりを見ないといけないのだろう。どんな例として蔵書にあるんだろう。
ほかに、雑誌もあるのだけど、なぜか毎号そろっているのが文芸春秋。真ん中をとったってことかなあ。しかもどういうわけか、去年の6月で途切れてるし。
でも日本語の本のあたりにいつかないようにしなきゃなあ。海辺のカフカとか、小熊英二とか読んでいる場合じゃないよ。でもちょっとカフカをノルウェーで、というのは自己陶酔に浸れなくもない。
投稿者 POE : 05:42 EM | コメント (0) | トラックバック
August 16, 2005
20<17<10
今でもノルウェーの通貨単位には慣れていなくて、日本円に直して計算する。そのとき困るのが、レート。
1ノルウェークローネがだいたい17円。ということは、17倍をすればいい話なのだけど、17倍算はすこぶる難しい。たとえば25NOKなら25X17、132NOKなら132X17と小学生が筆算の練習にするような計算が必要になってくる。
頭の中がイメージで埋め尽くされているぼくは、そんな高度な計算ができるはずもない。というわけできりがいい数字を使いたいのだけど、20だと少し高い。かといって15は難しいままで、10だと離れすぎている。
というわけで、節約したいときは20倍算。たくさんものを買いたいときは10倍に少々おひねりくらいに考えて計算をしている。まあ、EUROよりも簡単なのかなあ。140倍のほうが難しそうな気もするし。
ただ、ものの値段が日本と違うのもいまだにお金になれない原因かもしれない。たとえばマックで食事をしようと思ったら80NOKくらい。フライデイズなら195NOKくらい。逆に、いすは安いところだと40NOKでもかえる。DVDは99NOKがふつう。一ヶ月定期(オスロ周辺のバス、地下鉄、電車には乗り放題)は420NOK、寮は一ヶ月3000NOK弱(ご希望で20倍算などしてください)。
投稿者 POE : 05:02 EM | コメント (0) | トラックバック
August 15, 2005
なつかしい
「戦中の味」復活 阪神百貨店弁当販売阪神百貨店(大阪市北区)は十五日、戦時下の一般家庭の味をイメージした「戦中献立弁当」二種類を計百二十個販売した。一人一個の限定販売とあって開店前の午前八時から行列ができ、九時四十五分には完売した。
弁当は大麦、ヒエ、アワなどを交ぜた雑穀米に、イワシの煮干しを使った「ねぎ串」などを詰めた「雑穀米弁当」と、麦とサツマイモのご飯にイワシの丸干し、カボチャなどの煮物が入った「さつま麦飯弁当」。ともに四百九十円で、お釣りの十円には、現在も使える昭和二十年代の十円札が用意された。「味の再現とおいしさを両立させるのに苦労した」という。テレビを見て販売を知ったという大阪府豊中市の主婦(62)は「懐かしいなあと思って急いできました。夫と分け合って食べます」と喜んでいた。(産経新聞 8月15日)
62歳の人が、60年以上前を再現したものを「懐かしい」という。2歳の味覚を本当に覚えているなら別として、「懐かしい」ということばの使用例の典型的な例だろう。懐かしさの対象は、必ずしも実際に自分で経験したことでなくてもいい。たとえば昭和30年代の街並みはその時代を生きたことがない人にも「懐かしい」という言葉で受け止められうる。
別にこうした商品を懐かしがるのは勝手で、昭和30年代であろうが、司馬史観を崇拝する人が愛する明治だろうが、大正の山の手であろうが、それを商品としてなら勝手に思い描いたり流通させることも別にいい。知らないくせに、知っているように錯覚するものは、きっと気持ちがいいのだろうから。
だけど、懐かしいという気持ちは色々なものを覆い隠してしまう。日本語独特といわれるこの表現は、対象をあいまいにする素敵なことばだ。でも、詩でもなく個人の感想でもなく、たとえば理論が要求される場では、懐かしいなんていうブラックボックスに全てを封じ込められることがないといいな。
やさしい夢が
夜更けを拭って
夏まで風を届かせる
続いた花火
その側で眠った
明日まで続く歌の中で
出会うこともない 出会ったはずもない
そんな二人はわずかな違いで
たやすく殺し合いも握手もできる
「世界中に愛が降り注げ!」
血まみれの両足でも
僕らは叫び続けるの
壊れたいのち
国境で今も
ぼんやり動き続けてる
戻れない旅には 歓声がよく似合う
いくつ言葉は叫びに消されて
たやすく人々は群集になり
通り過ぎ消えてゆく君は
夜明け前過ぎた国のあの子や
僕だったのかな
いつからか歩くこの場所を
いつまでも守るなんて
誰かが決めることじゃない
ここはそこで
そこはここで
君は僕で
彼は君で
僕は君で
投稿者 POE : 10:06 FM | コメント (0) | トラックバック
August 14, 2005
痛い
久々に痛いものを見た。やっぱり痛くなりたい時はSFCに限ります。
http://compress.sfc.keio.ac.jp/clip/article.jsp?id=news05080502
佐藤雅彦って、他大学に移る上に、研究会も今後は今までの継続履修だけが認められることを考えると......ほろり。確信犯ならいいのだけど。
投稿者 POE : 09:11 EM | コメント (2) | トラックバック
保養
今日が何月何日で、今が何時何分かわからないような生活を続けてもう一週間弱。
外には子供たちの笑い声、少し歩けば森と湖、18時間くらい続く青い空。徒歩2分の場所にあるスーパーと郵便局。徒歩3分で駅、さらに電車で10分で大学、20分で中心街。
これって、都会での生活に疲れた人が訪れる避暑地や、保養所そのもの。こんなことをしにノルウェーに来たのか、それともノルウェーに来たのだからこれでいいのか。
日本でも生きていけるかな。ふつうの社会で生きていけずに、大学院に入院なんてことにはならないように。
投稿者 POE : 03:53 EM | コメント (225) | トラックバック
August 12, 2005
意外とおしゃれ
毎日、街まで出ているせいかも知れないけれど、この場所での時間の流れは日本にいたときとあまり変わらない。
電車は時間通りに走り、スーパーは夜中まで営業し、ディストロイドジーンズは流行っていて、絶えずクルマは行き交い、セブンイレブンは相変わらず24時間営業で、若者はスニーカーソックスを履いていて、電車の中でも人はケータイに忙しく、エスカレーターでも歩く人は多く、DVDはCDよりも安く、プレステがX-BOXよりも幅をきかせ、クルマは道路を埋め尽くし、マックには人が集う。
いわゆるグローバリゼーション(グローバリズムではなく)の影響、という一言で片付けてしまうのはあまりにも陳腐だけれども、経済の国際化には、EUにも参加せず、中心と距離をおこうとしているこの国も抗えないようだ。
マックやセブンイレブンなど世界中にその名を響かせるブランドの巧妙なところは、その地方ごとの地方性をたくみに取り入れる戦略をとっていること。その地方の人が好む商品を積極的に導入し、ライフスタイルに迎合しつつ、ブランド自体をたくみにその場所に浸透させてしまう。だけど一方で世界レベルの商品網を持っているから、価格などで地元の店よりも有利に立てる。
他のヨーロッパの国を知らない。でも、今この国から受ける印象は「ノルウェー」じゃなくて、「ヨーロッパ」だ。思っていたよりも人はおしゃれで、忙しくて、街に声は溢れる。他の国でもさも繰り広げられていそうな光景。それが本当にグローバリゼーションの影響かどうかは今はわからない。
思ったよりも、この国でも急がないといけないのかも知れない。それとも、今ふと思ったのだけど、ヨーロッパ人より足が短いから、他人の歩みが速く感じられるだけかな。
投稿者 POE : 11:31 EM | コメント (1) | トラックバック
TANUM
国立美術館へ行ってきました。
といっても、ムンクの「叫び」くらいしか知っている絵はなかったのだけど。つい最近知ったのだけど、「叫び」って4枚もあるらしい。1枚はここオスロ国立美術館、2枚目はノルウェーのムンク美術館(盗難済み)、他は知らないけど、とにかく4枚あるらしい。
ムンク美術館は盗難に懲りて、警備システムを再構築するのに2年くらいずっと工事していてやっと今年の初夏にリニューアルオープン。国立美術館のほうは、なんかほとんどの絵がプレートもなくむき出しで飾ってあるのだけど、きっと裏側にハイテクの防犯システムがあるのでしょう。
ところで、特別展では草野なんとか?(霊が見えるとかいうおかっぱのおばさん)の展示をしていた。わけのわからない大きな専用の建物を建てて。この国でも有名なんでしょうか。
投稿者 POE : 07:16 EM | コメント (4) | トラックバック
ノルウェー語
まちにはノルウェー語が溢れている。たかだが450万人しか話者がいない言語にも関わらず、スパーで売られている商品はすべてノルウェー語のみで表記され、看板や標識もほとんどがノルウェー語だけ。テレビでは海外の番組にもノルウェー語の字幕がきちんと出ている。
もちろん日本で生活しているひとにそれは奇異なことには映らないだろうけれど、ひとつのくにがひとつの言語を国中にあまねく行き渡すということには大変な労力がいる。日本の場合、明治期初期にかなりの労力をもって地方ごとの方言を抑え、山の手言葉を国語として国民共通教育の力によって普及させた。同時に海外からやってくるtechnical termを喧々諤々の議論と共に日本語に置き換えていった。
たとえば今世界には言語が数千程度あると言われているけれど、そのほとんどが話し言葉で、書き言葉をもっていて、さらに高等教育までできるほどの言語となると本当に数が限られてくる。たとえば無理をして書き言葉や国語を整備するよりも、書き言葉や高等教育を英語で行ってしまうほうが経済的に安上がりだから。
ノルウェー語は大学教育が行えるくらいの専門用語もあり、翻訳も意外と盛んにおこなわれている。コンビニではドラゴンボール(18巻)とワンピース(2巻)のノルウェー語版が売られていた。
北欧と呼ばれる国は冷戦時の巧妙な立ち回りと、社会主義でなくても福祉の充実は可能だという実験とその成功などにより独自の立ち位置を獲得してきた。しかしそれ以前はヨーロッパの一介の小国であり、しかもノルウェーは100年前まではスウェーデンの属国に過ぎなかった。そのようなくにがどうやって近代的な意味での国語を獲得できたのか。
以上、質問終わり。
投稿者 POE : 08:51 FM | コメント (71) | トラックバック
August 11, 2005
いくつか写真
上段左から部屋、住んでる建物(ってまじでどうでもいいね)。
中段は最寄り駅(徒歩3分なのに、森の中)、オスロの街なか。
今ノルウェーは夏なので、フラッシュがいらないくらい眩しい太陽光線が降り注いでいます。かと思えば、すぐに雨が降り出して、またやんだり。一日に数回、通り雨に必ず出会うようです。今も、小雨がぱらつく花曇り(って春の季語じゃだめか)の中で東の空には長い青空が待っています。
投稿者 POE : 04:06 EM | コメント (0) | トラックバック
August 10, 2005
バリアフリー
よく北欧はバリアフリーが進んだ国、という形容をされる。だから、びっくりした。まず、空港の駅から屋根が中途半端に建設されていて、プラットホームの中央部が水浸し。雨の日は、駅の中でも傘を差さなくてはいけないらしい。
そして電車やホームにも段差がある場所が目立つ。初日は、スーツケースを携えていたから余計感じることが出来たのかもしれないけれど、平らになっていない道は多いし、スロープを使う場合は遠回りをしなくてはいけないことも多い。
標識や案内板も親切とはいえない。電車は次の駅名らしきものをぼそっというだけで、他に一切のアナウンスはなく、ひと駅の停車時間も十秒程度。車内に電光掲示板なんてものはない。急停車をしても何のフォローもなく、そのまま発車する。ほとんどの案内板はノルウェー語だけで書かれていて、英語併記すらないものがほとんど(電話ボックスだけには日本語で、なぜかコレクトコールのかけかたが書いてあった)。
でも、ノルウェーがバリアフリーのくにではないかと言ったらそれも違う。確かに日本の方が案内も標識も、道路状況もよっぽど親切だ。でも、ノルウェーのほうが人がやさしい気がした。やさしい、というか自然に誰かを助けたりすることに慣れている気がする。
自動販売機で迷っていれば、その方法をわかりやすく教えてくれたり、英語で聞けばきちんと英語で教えてくれるし、クルマは横断歩道じゃなくても歩行者を優先してくれる。
たとえば日本の交通バリアフリー法がもとめる水準は結構厳しいのだけど(たとえばあと5年で全てのバスをノンステップかワンステップにしろなど)、制限を満たしてそれで終わりにしてしまっているきらいが随分見られる。バリアフリーってそうじゃなくて、ものを変えることも大事だけど、それ以前に大切なことがあるだろ、みたいなことを思いました。
って、ノルウェーまで来てなんだろう、このどうでもいい小学生みたいな感想は。。。出来るなら多民族社会に向かうノルウェーに於ける右傾化を含めたジレンマについてなど語ってみたい。
投稿者 POE : 08:02 EM | コメント (2) | トラックバック
日本語は暗号じゃなかった
日本語を話す人に、昨日と今日で偶然3人にも会った。
一人目は、寮の部屋を探しているときにオスロ大学に学部生として入っている人。二人目は警察署であったネパールの人。日本語でガイドをしていたらしくて、丁寧語までばっちり。ネパールはいま色々大変らしい。アジアのこと、何も知らないや。そして、家具屋の帰りに会った、今年から修士でオスロ大学へ入学する日本の人。英語で、しかも学費がただでマスターがとれるから北欧、らしい。
日本語だと、誰もわからないだろうと思って喋ってしまうけれど、そうじゃないらしい。ただでさえ大きくないくにの、その中でも人口比が少ないであろう日本のことばなのに、ね。別にそこまで失礼で恥ずかしくてどうしようもないことを言っていたわけではないけれど。
今日行った場所が警察署と移民局だったせいもあるかも知れないけれど、外国人の多さが目立った。~系とかっていう言葉が意味をなさないくらい色々な国の、色々な人がいた。労働力不足を補うため、人道上の問題にたいして、いくつかの理由でノルウェーは移民がはいってきやすい環境を作っている。もちろんそのため色々なトラブルも起きていて、右寄りの党が議席を伸ばしつつあったり、ジレンマは続いているんだけど、まあ日本よりだいぶマシ。
そして、どうでもいいんだけど、CITARO!ベンツのノンステップバスが市内をガンガン走っていた。いくつバス会社があるのか知らないけど、ほとんどのバスがCITAROだった。
投稿者 POE : 12:09 FM | コメント (1) | トラックバック
August 09, 2005
出発から到着まで<そら>
成田。羽田ではなく成田。
南回りで行ったので、まずはクアラルンプールへ。まわりは半そで短パンの絵に描いたようなバカンス気取りの人ばかり。音楽も南国ムードたっぷり、客室乗務員も女性は民族衣装風、男性は緑のスーツに蝶ネクタイという適度なおバカさが徹底されていた。こっちは、これから冷たい国へ行くというのに。安いチケットを買うと、こんな場所でもかなしい想いをしないといけないのだろうか。
白の支柱が幾何学上に配置され、散りばめられた照明が星屑のように光るクアラルンプール空港。船旅は、かならず出発地と到着地の二つの空港を通る。ということは、自ずとその二つは比較対象になるわけで、成田空港の色気のなさが強く意識された。それとも成田も帰りの印象をyくするために、到着ロビーは気合をいれて作っているのだろうか。
そして次は12時間かけてクアラルンプールからアムステルダムまで。時差ボケ助長のためかおかしな時間に機内食が数回出される。そしてなぜかここまで来ても、日本米らしき米が出される。飛行機はいくつもの朝やけ間際のくにを越えて、アムステルダムへ。
広大なアムステルダムの空港を抜けて、オスロ行きの便へ。やっとここまで来て、ノルウェー語らしきことばを聞く。飛行機のアナウンスもノルウェー語、英語の順番になる。なぜか英語の方が明らかに短い。どこをどう省略しているのか、このくにから帰る日にはわかるようになるかな。
オスロ空港は、やはり近代的でありつつ木の質感をいかした建築になっている。道も一本道でいけるようになっていてわかりやすい。ただ、荷物のトラブルがあったようで、一緒に来た友達を含めて多くの人の預け荷物が遅れて届くことになりそう。入国審査は、飛行機のタラップの上でおじさんがパスポートを2秒ほど見て終了。目的も何も聞かれはしない。
ここまでで、27時間。時差にして、7時間。だけど、時差ぼけは少しもなかった。普段から、不規則な生活をしている賜物だろうか。しかも一日が都合34時間になったなんてとても得した気分だ。いくら寝ても、いくら待っても朝にはならない。そんな夜にずっと憧れていた。スペースシャトルからは一日に何回も朝焼けを見るというけれど、そうじゃなくて朝を避けてひたすら飛んでいく飛行ルートとかってないのかな。
知らない場所で、知らない言葉で、知らない人の中で
知らない場所の、知らない言葉の、知らない人になる。
そんな経験は少しだけ楽しい。でもそれは行き先も、帰る場所もある空港で、だからかな。
投稿者 POE : 03:23 FM | コメント (0) | トラックバック
おなじ地球
文化人類学によると、社会的な位置の変更には必ず通過儀礼が伴うらしい(せっかくノルウェーまで着たのに、どうしようもない出だしだな)。逆に言えば、通過儀礼を伴わなければ、たとえ社会的位置が変わりうる条件だったとしても、その境界線は曖昧のままということになる。
今の状況を一言でいうとそんな感じです。別に、何も変わっていない。空の色も、雲の形も、光の色も、植物の種類も、鳥の数も、クルマの形も、つい数十時間まで棲んでいたくにと何も変わらない。さすが、同じ地球。木星とはわけが違う。
まだ大学もはじまっていないから、普通のtouristを気取れているだけかも知れないけど、想像以上にたぶんに普通。もっと盛大に盛り上がっていれば、変わったのかもね。それとも二十にもなって価値観の変容だとかは容易く起こらないのかな。
投稿者 POE : 03:07 FM | コメント (0) | トラックバック
August 06, 2005
あした、お出かけ。
あした出発。
色々想うこともあると思ったのだけど、基本的に何もない。
ただ、女王の教室のエンディングの笑顔のダンスはシュールだなあとか、今日も東京は眩しくて、だけど人は多かったとか、それくらい。
何もない時に何かを見つけることに意味があると強迫観念のように思っているせいか、逆に何かがあると面映くて何も想えなくなる。想えたとしても、きっと通り一遍等のつまらないことしか出てこないだろうから。
さよならを言い換えたら旅立ち。旅立ちを言い換えたらお出かけ。
ただのお出かけに、過剰な意味づけはいらないよね。
というわけで、いってきます。
投稿者 POE : 10:02 EM | コメント (3) | トラックバック
August 04, 2005
はなれるから、ちかづいて。
もう出発が迫っているので、色々な人にメールを出した。
今は、人と人との関係を担保するものがあまりにも多くある。一人で幾つも持つことが当たり前のメールアドレス、数年ですっかりメジャーになったブログ、アメリカの人材作り目的ではなく友達保証ツールと化しているmixiやgree、世界中で行き交うメッセンジャー。
逆にいえば、その人がどこにいるか、ということの重さはどんどん軽くなっている。きっと、今回だってノルウェーに行くことを誰にも告げなかったなら、きっとノルウェーにいることになんて多くの人は気付かないだろう。(きっと連絡がつかなくても、ケータイを変えた、とか学校をやめた、とか、それくらいだと思う)
その実験をしようかな、と思ったのだけど、それでも因習的な形式どおりに見送られ、形式どおりに旅立ちたかったせいかな、普通にみんなに言ってしまった。せっかくマイナーな国へ行くのに、ふつうの旅立ち方をしちゃうなんて詰めが甘いね。
同じ空を見られる範囲なんてせいぜい半径数十キロ。たとえ空がつながっていようが、その立っている場所はきっとあまりにも違う。別に空が赤い国や、地雷が地面に埋まっている国へ行くわけじゃない。それでも2005年ていう時代に、物理的な距離はまだ少しも埋められない。
だけど、逆に離れているから、近づける関係もたくさんある。情報は風と一緒で、差が激しいほうが伝わりやすい。同じような場所でつながっているよりも、違い場所でつながっているならば、たとえばイベントなどいらない。何もなくて、ただそこでお互いに生きているだけで、情報の差から、関係がうまれて続いていく。
と、いいな。
こんなこと書いて、結局孤独な日々を送りました、じゃまずいよな。
投稿者 POE : 11:46 EM | コメント (0) | トラックバック
知らないこと
知らないことって、強さでもあるけど、弱さでもある。
知らなければ、とにかく立ち向かうところまではいける。
少なくとも、立ち向かえる前向きな可能性は残しされている。
でも、それは脆さと裏表で、知ってしまった時にあっけなくそれまであって自信や、なんとかなるさという期待が壊れてしまうかも知れない。
知ってしまって、壊れそうなとき何が出来るだろう。
きっと知らないふりかな。
なんとかなるって希望は捨てたくない、でも目前に迫る現実は優しくはなくて。
いや、留学とかじゃなくて、歯医者のはなしなんだけどね。
知り合いの歯医者さんで、気分的には安全なんだけど、腕も信頼しているんだけど、その人もすごく好きなんだけど、それでもやっぱり歯医者さんは怖い。
あの脳内にひびくギューイーンという音と、突如訪れる痛みと、一度去った痛みの再来の恐怖と。痛みだとか、恐ろしい音だとか、知らないふりをしようとつとめているんだけど、口内で繰り広げられる状況は無視できるほど穏便でもなく、それでもなお「なんだ、全然たいしたことなかった」みたいな感想をもてる希望は持ち続けていたい。
まあどうせすぐ知ったことなんて忘れて、そしてまた立ち向かう日が来たとしても、知らない強さを武器になんとか足を踏み出せるんだろうけど。
投稿者 POE : 01:57 FM | コメント (2) | トラックバック
August 03, 2005
嫌いなニュース
中1男子、熱中症で死亡か=体調不良見落とす?-柔道合宿で体罰問題・兵庫神戸市立御影中1年の永原佑紀君(13)が柔道部の合宿に参加中、体罰を受けた後に死亡した事故で、遺体を司法解剖した結果、死因が熱中症による急性心不全とみられることが3日、分かった。兵庫県警津名西署は永原君が体調を崩して倒れるまでの経緯について、詳しく調べる。
調べなどによると、永原君は1日から淡路島での合宿に参加。2日午前までは元気だったが、昼以降は頻繁にトイレに行ったり、練習場の隅で寝そべったりするようになった。
このため、柔道部顧問の男性臨時講師2人が「練習をしっかりやれ」などと説教。このうち29歳の講師が永原君をホテルのロビーに正座させた上、顔を平手で殴ったり腹をけったりするなどの体罰をした。
神戸市教育委員会によると、2日は午前6時15分から練習を開始。5分間の休憩(計3回)や食事を挟み、午後5時20分まで練習した。練習場の武道館には、4つの中学校から約100人が集まっていた。
市教委の小川雄三教育長は「体調不良のサインを見落とした可能性がある。講師2人から事情を聴いた上で厳正に対処する」としている。
(時事通信) - 8月3日23時1分更新
色々不穏なニュースは多いけれど、一番かなしくなるのが、ばかな教師の事件。このニュースも新聞社によって書き方がかなり変わっていて、いまいち状況はつかめないし、おそらく体罰と死亡の直接的な関係は薄いのだろうけれど、それでも不穏な気持ちになる。
悪しくも、学校があまりにも多くを抱えすぎてしまっている時代の、教師の責任は滅茶苦茶重い。もっと学校のウェイトを減らす、という構造的な改革の必要性は色々な識者がとなえているように言わずもがななのだけど、それでも現実はこうなんだから仕方ない。教師は本当に責任重大。
だから、こんな時代にそれでも教師を続ける人の気概だとかは尊重する。でもそれと、ばかなことをしていいかどうかは全くの別問題。意識や夢が歴史を変えたことなんてない。結局は、実際に何が行われたか。それでしか、現実は評価できない。
学校外で行ったら、即刻暴行罪で逮捕されるような体罰という行為には憎しみしか感じないし、実際にそれが未だに行われているという現実はかなしいとしかいえないし、そんな学校や教師を温存する社会は好きじゃない。
でも、そろそろ、こうやって嘆いて甘えているだけの年齢じゃないしな。
投稿者 POE : 10:29 EM | コメント (0) | トラックバック
August 02, 2005
準備
■買ったもの
webcamera
memory stic
靴
メガネ
DVセット
■ちょっと思ったこと
DVとかAVとか電気がらみの略語って、なんだかいかがわしい。あ、でもAUとかはすごく真面目か(Africa Union)。こういう略字ってネタ切れにならないのかな。北東アジア共同体が出来たらどうするんだろう(無理だと思うけど)。
■あと買うべきもの
カバン
変圧器
USBスティック
スピーカー
本
■欲しいもの
時計
小さなデジカメ
■思い出したこと
よく運動会でも遠足でも準備が好きな人っていたけど、自分はそーゆーの嫌いだなあって。むしろ、持ってきたものが足りなくて、今あるものでどうやってその難局を乗り切ろうとか、すいうことを考える時に燃える。(とか書くと何か重大なものを忘れてしまうのでしょうか)
投稿者 POE : 11:06 EM | コメント (3) | トラックバック
August 01, 2005
奇妙な晩餐
家の近くを埼玉高速鉄道というバブルの残滓の見本ともいえる地下鉄が走っている。昨日(日曜の夜)、その駅にはじめて行ってみたのだけど、かなり素敵な光景が広がっていた。
地下鉄なのに、地上3階くらいの「駅」が建てられているのだけど、どこにも誰もいなかった。比喩とかではなく、建物内のどこにも乗客がいなかった。ただエスカレーターだけが動き続け、すぐ側の国道を走る車の音だけが響く。
いくら日曜の夜とはいえ、これはないよね。
考えてみれば、この駅があるまちは典型的な地方都市の条件を満たしている。駅前には、居酒屋チェーン店とマックだけを抱えた小さなターミナル。片道2車線の国道。すぐ近くにはジャスコ、中古自動車屋、大型電気店。シュール!
++++++++++ ++++++++++
夜の色が変わってゆく
横顔が少しだけ欠けて
さっきまでの話まで
意味がぼやかされる
朝がまだ遠い街で
つぶやくゆめ
あといくつ新しい笑顔つむげたら
あの夜に帰れるのだろう
高架に残された
いくつかのことばは
届くべき誰かには辿りつけず
こんな日に振り落とされた
同じようにこのことばも
繰り返してゆく夜に飲まれてしまうんだろう