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1.SFCの実験
ぼくのいるところは、SFCと呼ばれる。それは湘南藤沢キャンパスのことで、けっしてスーパーファミコンのことではない。しかしそこに通底する気分は同じだ。このキャンパスは慶応大学が「未来からの留学生」というコンセプトで描いた学部で、今までの大学の現状を超えようという意欲で創った新しい学部である。ここに「遊ぶ=学ぶ」SFCの学生たちの気分や行動を観察するところから、大きなテーマである「共生すること」の意味を考えてみよう。
このキャンパスの売りものは、新しいリテラシーの体得と実践にある。それは3つからなる。
1つは「身体知」である。ここでは、かつての体育教育とは違って、自分にあったペースで好きなようにスポーツや体力づくりを実践することで、自分の身体感覚を理解し、自分のパワーやリズムやスピードの限界と可能性を体得することで、「自分らしい身体的な思考とは何か」を自分のものにすることが重視される。身体で考えることは、頭で考えることと等価である。身体で考えられない頭だけの知性は、ここでは期待されない。
2つめは「身体化された言語知」である。ここでは、外国語を身体知として表現できるようになるまで、その体得に時間をかけることを重視する。だから帰国子女は最初のうち憧れの対象でありながら、ある一定期間を過ぎると、普通の人にみえるようになってしまう。誰でも多様な言語を操ることが当然という文化的風土がある。日本語も外国語も原理的には等価である。もちろん外国語の内部でも、それぞれの語種の価値は等価である。欧米語だけがかっこいい、ということはまったくない。
3つめは「人工言語知」のリテラシーである。これはコンピュータ操作能力の習得である。ここではノートブック型パソコンをもって歩くことは当たり前で、そこには何の違和感もなく、学生たちはどこからでもキャンパス・ネットワークに自由にアクセスして、電子メールを使って友人や教師とコミュニケーションをとったり、難しいプログラムを駆使してポップな絵を描いたりしている。フェイス-トゥーフェイスのコミュニケーションばかりでなく、情報ネットワークを通したコミュニケーションもかれらには十分すぎるほどリアルで、かつてのような電子的な情報環境は疑似環境だという意識はない。電子メディアによる情報も身体を介した情報も、ここでは等価である。
このように、SFCでは、新しいリテラシーの創造をめざしている。かつての「読み書き能力」という意味でのリテラシーでは、身体知は無視され、自然言語では欧米語が高い価値を有し、人工言語は偽物とレッテルを貼られていたきが、SFCでは、このような階層的な知は排除されている。重要なことは、知の多様性を許容し、かつ相互の関係を対等にすることで、新しいリテラシーの創造を期待したことである。
この新しいリテラシーは他者への新しい共感能力をもたらすはずである。階層的な知は、上下関係や権力関係(建前としての機能的関係)を基盤に他者との分化・弁別をもたらし、さらにその分化を全体に統合することで他者への共感(差別意識)を醸造した。これにたいして、SFCのリテラシーでは、一方で相互に共鳴し共振し、他方で相互に融合しあうことで、つねに新しい関係を生成しつづけるプロセスに共感しあう仕組みになっている。これは共生する関係を支える基本的なリテラシーではなかろうか。
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