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3.コピーする世界
SFCの学生は、マルチメディアが好きだ。電子メールばかりでなく、プレゼンテーションにも凝って、マルチメディアを使っていろいろな表現を楽しんでいる。従来の大学ならば、活字だけのレポートという形式しか考えられないが、ここでは写真をきれいに取り組んでDTPの編集をしたしゃれたレポートもあるし、そればかりか街にでて自分で撮ってきたビデオを編集して作品にした映像表現も許されるし、さらには動画をコンピュータに取り入れ、それに音を入れいろいろなフレーズを加えてマルチメディア作品にした表現も許されている。
かつての学生が偉い学者の著作から引用(コピー)してそれに自分の意見を加えて(編集)論文を創っていたことを、ここではマルチメディアを駆使して作品を創っている。コピーと編集は今も昔も重要な方法なのだ。ただ昔と違うのは知的所有権が絡むことだ。昔の「かぎかっこと注のマーク」のトリックは、知的所有(=経済的的な財産)権をかいくぐるうえで、絶妙な方法だった。それさえ明示すれば、誰の論文をコピーしても社会的に許容されたし、逆にどんな学者の論文を引用するかによって、その論文の価値が大きく決定されさえしたのだから、このトリックは他人の知的所有権をかいくぐるばかりか、自分の知的所有権を確保するためにも機能したという意味で、すごい方法であった。それがマルチメディアになると、まったくお手上げである。困ったものだ。
とはいえ、学生はめげずに頑張っている。外部に発表せずにキャンパス内で遊ぶかぎりにおいて、大人のルールを無視していろいろなことに挑戦している。たとえば、むかしのアンディ・ウォーホールのようなポップアートならば、今は誰でも簡単に創れてしまう。自分の気に入った写真をスキャナーで取り入れ、それをフォトショップでいろいろに化粧をほどこし、それを適当なサイズに決めて、さらにそれをもとに縦横10×10に並べれば、それでポップアートのできあがりだ。ポップアートとはそもそもこういう意味だったのだ、ということが実感として理解される。マルチメディアのツールさえ手に入れば、誰でも簡単に作品化できるということがポップアートなのだ。
マルチメディアでコピーする感覚がここでは重要である。このコピー感覚はすべてをまるごと写し撮ることで、「コピーは偽物」という感覚はもうここにはない。コピーは無限に本物をそっくりそのまま写像することだ。この新しい感覚は「本物はもうたくさんある」という気分をもたらす。「いいものは少ない」とか「本物は希少だ」という前提は、コピー感覚にはなじまない。マルチメディアを駆使するリテラシーをもちさえすれば、本物は無限だ、という命題を素直に信じるようになる。情報としてのコピーは、「希少性だから所有」という人類の「ものをめぐる歴史」を超える新しい視点を提供する。
これが共生の思想を支える原点ではないだろうか。「もの・希少・所有」という制約から世界をながめるかぎり、共生の思想はどんなに頑張ってでてこない。その制約を超える新しい条件を発見しないかぎり、共生はユートピア論にすぎない。「情報・無限・共有」という制約が生まれたとき、はじめて共生の現実的な基盤がセットされるのである。この新しい制約を創るのが、マルチメディアを駆使したコピー感覚だ、といったら言い過ぎだろうか。しかしSFCの学生の行動を観察しながら、かれらと一緒になってマルチメディアの制作を楽しんでいると、意外と、それは当たりかもしれない、と思えてくるのである。
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