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5.豊かさを超えて
共生の精神と若者の関係を考えるとき、いままではずっと新しい情報環境の視点からみてきたが、それだけでは不十分である。若者をめぐる新しい共生観を探索するには、「豊かさ」の問題になんらかの新しい手掛かりが必要である。なぜならば、新しい情報観(情報・無限・共有)を発見するには、ものの視点からも、所有を超えるきっかけとなる何かが不可欠なのである。それが豊かさという経済的でかつ文化的な問題なのである。
結論づければ、豊かさはすでに自明であり、経済的豊かさそれ自体はすでに問題にはされない、という視点が重要である。つまり豊かさは、その獲得をめざすという意味では、もはや社会的なテーマにはならない。少なくとも若者の共生する精神との関連で豊かさを問題にしようとするかぎり、かれらが「経済的にはすでに十分に豊かである」ことは前提条件でなければならない。
豊かな若者とっての「豊かさ」とは、すでに身体化された豊かさを自分のものとしていかに表現するか、である。豊かさと獲得する経済的視点ではなく、豊かさを表現する文化的な視点が期待されているのである。
では、それは何か。まだ答えはみえない。しかしある程度の方向性を予感することはできる。それは、つぎの2つの社会的カテゴリーにある。1つは「美と醜」であり、もう1つは「賢と愚」である。ともに、今までの社会構造の中では、社会的な周縁にあって、しかしそれなりの社会的な尊敬を得ていた社会的カテゴリーである。「美醜」は芸術家の世界に独占され、そのかぎりでは美=芸術の基準は他の社会層からの関与なしに自律した世界を形成・維持していた。同様に、「賢愚」は知識人の世界として独占され、そこでも外部からの干渉なしに「知的共同体=象牙の搭」を形成し、そのなかにに安住していた。
この2つの世界が、いま新しい豊かさを表現する視点として社会的に認知され台頭してきているのではなかろうか。今までの「貧富」という社会的カテゴリーの歴史的な使命の終えんに平行して社会的勢力を伸ばすのが「美醜」と「賢愚」なのだ、と考える。そのとき、社会的な周縁性と引き換えに獲得していた、この2つの世界の閉鎖的な自律性は、社会に向けて解放されなければならない。芸術と知識のポップ化とでもいいたい新しい社会文化現象が大きな流れを生成するのではなかろうか。
この流れはすでに60年代からいわゆるサブカルチャーとしてあるが、これからは、ここに新しい情報環境との融合が起こることで、新しい流れとなっていくのではなかろうか。ここでも重要なことはデジタルな情報環境との融合である。豊かさの表現が、ネットワークとマルチメディアとデータベースにかんするまったく新しい情報環境に支えられて行われるならば、さらにテクノロジー的には移動性(モービリティ)が付加されて、いつでもどこでも自分の情報環境が立ち上がるようになれば、知とアートのポップ化は豊かさの表現形態として重要な位置を占めるはずである。
SFCの学生にとって、知とアートの融合とそのポップ化は得意なリテラシーである。かれらは、マルチメディアを使った表現や、ネットワークを介してその表現をすべての外部に開いて楽しむといったことに慣れている。それが素直に身体になじんだ行為になっている。ここにかれらの豊かさの意味がある。
共生の精神を育むには、新しい豊かさの意味が創出される情報環境とその環境を楽しむリテラシーが大切である。SFCが行っているこのような実験は新しい共生の精神の生成に不可欠なものである。これは現代の若者たちに期待される共生の精神を先取りした新しい動きである。
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