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14.デジタル・リテラシー
デジタル・アンビエンスのもとで、何が変わるのか。情報をめぐるリテラシーが変わる。これを「デジタル・リテラシー」と呼ぼう。かつてリテラシーといえば、読み書き能力のことであった。そこでは、活字情報を操作する能力が社会的に必要とされ、それ以外の情報リテラシーはほとんど問題とされなかった。映像や音を扱う能力は、一方ではアーティストという専門家集団に専有された芸術的能力として特殊化し、他方普通の人にとっては趣味というレベルで楽しまれるだけの情報能力にすぎなかった。近代産業社会を推進する組織では、文書主義のもとで、しっかりと活字情報を駆使できる能力だけが期待された。だから、リテラシーとは読み書き能力であれば、それだけでよかった。
しかしこれからの組織に期待される情報リテラシーは、読み書き能力を含み、しかもそれを超えるものだ。活字も映像も音も、その情報の価値は等価で、表現の方法が違うだけで、どのメディアであろうと、それを操作する能力にたいする期待は等しい。これは、頭で理解するかぎり簡単そうだが、身体に馴染ませようとすると意外に難しいことだ。たとえばトップへのプレゼンテーションの機会が与えられたとしよう。最近ならば、図表もカラーにしたOHPを駆使して説明するビジネスマンもいよう。しかし文書主義に慣れたかれらにとって、この程度が精一杯である。だが、これから期待されるリテラシーでは、映像や音を付加した表現が優先される。文字ばかりでなく、どのような映像を撮ればいいのか、どの音や音楽をかぶせれば説得的になるのか、このような論理が考えられる知性でなければならない。しかもそれは、アートの世界の論理とは違うはずだ。美ではなく、真の価値のもとで、マルチメディアの表現はどうすればいいのか、その論理の探求がここでの問題だ。この問題を含んで、マルチメディアの表現を当然とする知性が、いま期待されている新しいデジタル・リテラシーである。そこでは、プレゼンテーションの方法もまったく違うはずだ。
もう一つ大きな変化がある。それは情報共有の問題だ。情報は所有されるものではなく、共有されてはじめて価値を生むというリテラシーが、新しい情報環境のなかで生成されつつある。情報へのアクセスがいつでもどこでも自由に容易にでき、上下関係とその階層性を超えたコミュニケーションが可能になるとき、情報所有の視点から組織論を展開することはもはや無意味である。情報所有の組織論は、情報量が乏しく、情報伝達の方法が一方的で、しかもその伝達スピードが遅い、というプレ情報社会(産業社会)における合理的な産物にすぎない。それは能力主義と政治的権力から組織を構築する視点であり、だから結果として階層的な組織が要請されるのだ。ここでは組織図が重要で、組織図をみれば、組織の実態が読めるのだ。
しかし情報は共有するものだという前提では、情報は、実際に一緒に仕事をするグループのメンバーのコラボレーションを支援する潤滑油になる。共有情報は伝達されてはじめて価値を生み、その繰り返しのなかで新しい価値がさらに生成される。ここでは作業グループが組織を構築する視点になる。組織は、情報が共有される境界と層から考えられるようになり、多様で柔軟でダイナミックな様相を現す。もはや組織図は無用になる。
さらに情報共有は、コラボレーションを通して新しいプロフェッショナルを生み出す。グループのメンバーは積極的に自分の専門性を超えてパートナーとの新しい協働の領域を開発し、さらなる専門性を自分のものにしようとする。しかもそれは自分だけの閉鎖された専門領域ではなく、オープンで共有された知識である。これはあきらかに新しい仕事のスタイルを必要とするし、新しいリテラシーを要請する。
デジタル・リテラシーは、新しい情報環境が求める新しい思考方法であり、マルチメディアやネットワークというすでに常識になった言葉が期待するラディカルな知性である。いま、組織は、環境と知性の変化によって、大きく変わろうとしている。たとえば一人に一台のパソコン、できるかぎり性能の優れたパソコンをネットワークでつなぎ、新しい知性がその環境を十分に活かすならば、仕事のスタイルが根本的に変わり、組織も大きく動いていくはずだ。そんな夢の実現が目前に迫っている。
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