"PINK"(岡崎京子:1989)の世界「消費する幸福論」
 
1. スリルとサスペンス
2. 夜、妹がやってくる
3. ショウネンノ ヤボウ
4. 裸でランチ
5. ノベリストのユウウツ
6. HAPPY SEED
7. 女子大生は尾行する
8. 無関心な彼女はマニキュアをぬる
9. 屋内熱帯の洪水
10. おままごとはいつもたのしい
11. サザエさんのゆめ
12. 不能と鏡と毒リンゴ
13. 王女様は労働する
14. 動物としての人間のさまざまな思わく
15. ハサミでチョッキン
16. ブラッディ・ラヴァーズ
17. すてきな食事
18. もう、やめてよ
19. 愛と暴力
20. すべてトランクにつめて
21. せいりのせいり

2.夜、妹がやってくる

ここでは、つぎの6つのフレーズを記憶してください。

a.あたしは、ママハハの家をでて、豪華なマンションにひとりで住んでいる。
b.ママハハは下品で穢ない女で、オヤジの金めあてのインバイ女だ。嫌いだ。
c.腹違いの妹(ケイコ)が夜ひとりでタクシーにのって、あたしの所に来る。
d.妹は、近所のババァのプードルをワニのミヤゲにもってくる。サンキュー。
e.妹は「ウチの母親、最近若い男を飼ってんだよ」と暴露。かわいそうな父。
f.あたしは、昼間はオーエルをやっている。伝票整理(セイリ)はたいへん。

PINK2では、ユミコをめぐる家族論が3つのレベルで描かれています。核家族論を超 える新しい家族がどのようなものであるか、が予感されます。

レベル1:豊かな家族(生活)とは何か?
レベル2:豊かな家族での母親役割とは何か?
レベル3:豊かな家族での姉妹の役割関係とは何か?

家族構造にかんするレベル1では、「飼う」ことを視点に「豊かな家族とはなにか」 が明確にされます。ここでの「飼う」とは、外部の余剰(不必要なもので危険なもの) を飼うことで、貧しい核家族のシステムではあってはならない(もしもある場合には、 逸脱として処罰される)行為です。それは豊かな生活においてはじめて可能になる行為 なんです。

家族を機能的な社会システムとして想定するかぎり、不要なものを飼うことは許され ません。モダンの世界を支えた「核家族のルール」では、無駄は悪いことです。でも、 豊かさの世界では、外部の余剰は内部に取り込まれて消費されなければなりません。そ れが豊かさの表現です。
だから、ユミちゃんの父親は、愛人(いまのママハハ)を飼い、ママハハは若い男を 飼い、ユミちゃんもワニを飼い、妹のケイコもハラのムシを飼います。飼われる対象は、 核家族にとっては、どれもみんな邪魔なもの(余剰)ばかりです。
「飼う」と「養う」は違います。養うのは、核家族の維持にとって不可欠な行為であっ て、誰もが正当だと評価する役割です。父親は本物の母を養い、ユミちゃんも養います。
でも、かれは外に愛人を飼います。飼うことで、かれは核家族の(真面目な家庭ゆえ の)息苦しさから自由になり、新しい家族を夢想します。しかもかれは、母親が死んだ 後、愛人を妻として家の内部に迎え、飼いながら養うという危険を楽しみます。大物な のでしょう。かれには、核家族の硬い枠を曖昧にする意志(?単なる欲望)が感じられ ます。
ママハハは、家族の内部にありながら、外部の人でもある、という多様な役割をもち ます。つまり娘のケイコを養う意味では内部の人ですが、ユミちゃんからすれば外部と してしか認知されません。いつになっても「父親の愛人」の役割でしか理解されません。 だからこそ、ママハハはいつでも自由に家族の枠をいったりきたりできるのです。彼女 にとって、家族の内と外が自由に反転します。彼女は純粋な母親(専業主婦)なんかに は関心がありません。専業主婦なんて貧しい女の生き方よ、と自信をもって言い張りま す。だから、彼女は自分の意志で若い男を飼います。それは、自分にとっての余剰(豊 かさ)を表現するメディアなのです。

ユミちゃんは、ワニを飼います。ワニではなく、犬や猫や小鳥といったペットだった ならば、それは養うカテゴリーのもので、飼う対象ではありません。飼うことは、喰わ れる危険性を帯びた余剰の消費であって、危険な行為です。豊かさの表現には、つねに 危ないことがぶらさがります。

ですから、ユミちゃんにとっての「ワニ」と、ママハハにとっての「若い男」は同型 です。ともに核家族の枠には納まらない外部の余剰です。とすると、ユミちゃんとママ ハハは同じような生き方をしているといえます。似ているからこそ反発するのです。

「飼う/喰われる」のゲームの楽しさが、ひとつの豊かさの表現です。
「清く貧しく美しく」を超えるには、豊かさへのこだわりが必要です。
いかに外部に余剰を抱えるかが、豊かな生活にリアリティを与えます。

つぎにレベル2での豊かな家庭における母親の役割論をしましょう。ユミちゃんにとっ て、2人の母親がいます。実の母親は天使(やさくしてきれいで、子供みたいな人だっ た)のような女で、ママハハは悪魔のような女です。豊かな生活をおくる母親(?)に は、つぎの2つのパターンがあるようです。


実の母親は、生活臭を欠落させたトレンディドラマの中のおしゃれな母親(もはや母 親らしいイメージはなく、女らしさだけがめだつ役割)のように、永遠のシンデレラの 演技をみせます。ママハハも、いわゆる母親らしさを完全に消去し、家庭にあっても、 外にあっても、ゲームのプレイヤーとして成熟した女の駆け引きをみせます。実の母親 はピンクの爪によって家庭にこもったシンデレラのしあわせ芝居を実の娘に教え、ママ ハハはまんこビラビラによって危険なゲームの快感を偽の娘に実例つきで伝授します。
ユミちゃんは、シンデレラのしあわせ芝居を「理想」の生き方と考えながら、「現実」 にはママハハと同じように、快感ゲームを楽しみます。ユミちゃんも、ピンクの世界よ りは、まんこビラビラの世界の方が好きだし似合っているようです。真の母子関係が期 待する世界は理想的ではあっても、リアリティがどこか欠けています。反対に、疑制の 母子関係の方が、ユミちゃんにはリアリティがあるはずです。早死(自殺!)してしまっ た母親には、もうしあわせ芝居を教わることができません。ただ夢として残るだけです。 「ある」と実感されるのはママハハとの駆け引きであり、彼女と同じようにまんこビラ ビラにこそリアリティがあるのです。だから、ユミちゃんが感じるのは、しあわせ芝居 ではなく、快感ゲームです。あこがれとリアリティは違います。
ここでは、母親がもうひとり登場しています。それがプードルをペットにしている近 所のババアです。この人を加えると、母親のイメージのボジショニングがもっと鮮明に なります。
近所のババアは、「貧しさ」を中心に「現実(リアリティ)」と「ロール(養われる 母親=専業主婦という弱者の役割)」のセットからなる典型的なモダンの核家族つまり 貧しい核家族の専業主婦そのものです。プードルは、貧しさのシンボルです。ワニとは 意味が違います。


これにたいして、実の母親は、イリュージョンとしての「理想」の母親イメージを中 心に、「豊かさ」と「ロール(養われる弱者)」のセットからなります。これは、豊か さが実現されたために、核家族において「もう何もすることのない=天使のような人形 役割」として生きる理想的な母親イメージ(=シンデレラ)なのです。つまり目的が達 成された理想世界にあって、母親の役割は手段としての価値を喪失したために、なす術 なくただじっとしているだけなのです。だから、母親は美しすぎるし、その爪は、ピン クなんです。でも、実現されてしまった理想は、ある意味では地獄なんです。彼女には、 死の予感があります。

さて、ママハハは、若い男を飼う(買う)パワーをもった強者であり、核家族での専 業主婦の役割からは完全に逸脱した女性です。核家族の枠に囚われることなく、自由に 「好き勝手」にゲームを楽しむ女です。それを可能にするのが、「豊かさ」です。です から、彼女は天使のような人形ではありません。彼女には、生きる「リアリティ」があ ります。
このようにみると、3人のポジショニングは、3人それぞれに固有の特性と、他の2 人と共有された特性から構成されていることが分かります。

固有特性 理想(イリュージョン)・・・・・・実の母親
ゲーム(飼う/買う)・・・・・・・・ママハハ
貧しさ(貧しいペット)・・・・・・近所のハバア

共有特性 現実(リアリティ)・・・・・・ママハハ/近所のババア
ロール(養われる)・・・・・・実の母親/近所のババア
豊かさ・・・・・・・・・・・・・・・・・・実の母親/ママハハ

2人の母親は、父に養われることで、豊かさを共有し、だからこそ、いままでにない 新しい母親役割を提示するのですが、どうも失敗しているような感じです。実の母親は 結婚して子供ができても、永遠のシンデレラをやりつづけ、そして自殺してしまいまし たし、ママハハの方も、ユミコからすればセックス・ゲームを楽しみ、その快感に溺れ る中年女にすぎないのです。この2人には、核家族の専業主婦の役割を超えた新しい役 割はまだみえていません。

さて、レベル3の新しい姉妹役割論です。ユミコとケイコは異母姉妹の関係です。2 人は、お互いの母親の比較しながら、ともにママハハと同じパターンの女の子であるこ とが明確になります。ママハハの悪口への共感(やだよね、卑しい人間はツラの皮があ つくて)と、早死にした母親の教訓(女の子はいつもキチンとキレイにしゃんとしてな きゃいけないって)への理解の欠落は、2人がともに身体としてママハハの生き方を体 得していることを暗示します。
「夜、妹はやってくる」のタイトルは、ママハハと同じライフスタイルを意味します。 夜ならば、妹は寝るべきです。なのに、この妹はタクシーにのって姉のマンションに遊 びにきます。そして近所のババァのペットのプードルをワニのおミヤゲにもってきて、 それをワニが喰べるところを姉と一緒におもしろがります。このシーンで、妹と姉がまっ たく同じであり、さらにはママハハとも同じであることが明確になります。

では、異母姉妹の関係はどうなのでしょう。それはマセタ妹とセイリ(整理と生理) 中の姉の関係です。つまり整理(能力)の有無と生理の有無によって、2人は補完関係 にあります。姉は整理能力はありませんが、生理はあります。オーエルの仕事はできま せんが、オーラルの仕事はできるまでに成熟した女です。これにたいして、妹はまだ生 理もない子供ですが、ませているだけ才にはたけています。だから、つぎのストーリー の展開には、妹が不可欠です。妹の暴露は(ママハハは若い男を買って飼っている)は、 ユミちゃんの欲望を喚起します。


ケイコは「ませた子供」で、ユミコは「マヌケな大人」です。世の中(モダンの社 会)で期待されているのは、「素直な子供=妹」であり「まともな大人=姉」です。し かしこの2人はこのモダンのモデルから完璧にずれています。ですから、姉妹関係が、 通常の上下関係をもとにした役割関係にはならず、対等な立場で、同時に、ある時には 機能的に補完しあう友達関係にもなります。ですから、ここでの2人の疑似的な姉妹関 係は、対等な疑似的な友達関係でもあります。多様な役割関係が、この2人にはかぶさっ ています。
この2人は、モダンの原理である成長神話から判断すると、問題児です。姉は、身体 は成熟しても、それに伴った常識が成長しない知恵遅れですし、妹は早熟しすぎの頭でっ かちのガキです。これでは、世の中から嫌われるのは当然でしょう。
この2人の姉妹論で重要なのは、能力主義が無視され、大人らしさと子供らしさの階 層性が無視されていることです。この2つの無視は、モダンの社会(核家族をも含む) では考えられません。モダンのルールは、「大人は能力があり、能力があるから大人らしい」であり、 「子供は能力がなく、能力がないから子供らしい」なのです。だから、成長神話がリア リティをもつのです。子供は未熟な不完全で、成長によって完全で成熟した大人になっ ていく、というプロセスがモダンの社会では重要なルールなのです。
しかしこのルールが、この姉妹関係にはまったく通用しません。それは、豊かな生活では、伝票整理の仕 事を効率的に処理する能力よりも、仕事を楽しくするような能力の方が重視されるから ですし、また役割の「らしさ」にかんしても専業化よりも、いろんな役割を両立させる (大人らしくもあるし、子供らしくもある)方が重視されるからです。核家族からはず れた家庭で育った2人には、もう通常の姉妹関係を期待することができません。彼女ら には、豊かな生活に似合った新しい役割関係が必要なのでしょう。現状では、ママハハ の行動をモデルにしたゲーム感覚のロールプレイになっています。大丈夫なのか、と心 配になります。

もうガンバルとか、役立つで、役割を決めることができません。

楽しけりゃいいじゃん、でロールプレイができるのでしょうか。

いろんなロールプレイができれば、それだけで楽しいのですか。