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21.せいりのせいり
やっと、"PINK"の20章までの個別の整理が終わりました。こんどは、その整理をさ らに続けなければなりません。やれやれ。20章は、いちおう時間の流れにそって語られています。そこで、ここでは時間のことは無視して、PINKの構造を考えることにしましょう。
この物語の登場人物たちは、どんな意味を抱いて”PINK”を操作していたのでしょうか。大胆な推測をしましょう。
A1.ハルヲくん・・・・・・・・・・・・・・『貧困』と『目的』
A2−a.父・・・・・・・・・・・・・・・・・・『生産』と『成功』
A2−b.客・・・・・・・・・・・・・・・・・・『市場』と『消費』
A3.母・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『選択』と『理想』
A4.ワニ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『余剰』と『権力』
B1.彩子・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・『欲望』と『暴力』
B2.ママハハ・・・・・・・・・・・・・・・・『虚栄』と『戦略』
B3.ケイコ・・・・・・・・・・・・・・・・・・『快感』と『犠牲』
B4.ユミちゃん・・・・・・・・・・・・・・『自足』と『交響』
ハルヲくんは、60年代の田舎ボーイです。そんな彼には『貧困』と『目的』が似合っています。ボロアパートの狭すぎる空間のなかで、本だけがやけに多く、しかし本さえあれば今の自分の惨めさは救われるはずだという幻想にしたれる、そんな極小空間のなかで、「いつかは偉い文豪になるぞ」という明確な目的意識をもって生きようとする、もうめったにいない若者がハルヲくんです。”PINK”は、ハルヲくんの登場によって、そのスターティング・ポイントが決まりました。彼は、東京ガールのユミちゃんからもっとも遠い距離に位置する田舎ボーイなんです。
ユミちゃんのお父さんは、ハルヲくんの『貧困』と『目的』をもっと大きなスケールで実現した人物です。彼は、高度経済成長期までの貧しかった時代をがむしゃらに働くことでサクセス・ストーリーをものにした立身出世の人です。ですから、ハルヲくんのように、軟弱な目的ではなく、はっきりと社会の目的とルールにのって、男らしい仕事の世界で働きそして成功をおさめました。『生産』(男らしい仕事)とそこでの『成功』は男の勲章です。
ハルヲくんは死にましたが、ユミちゃんのお父さんはまだ生きています。それはなぜでしょうか。簡単なことです。ハルヲくんには、つぎの目的がなかったのです。未来の文豪をめざしたハルヲくんは、それがかなえられた瞬間、生きる意味を喪失したのです。死は、どんなに偶然の事件であったとしても、当然のことだったのです。これにたいして、ユミちゃんのお父さんには、無限の夢があります。事業をする経済人に、「これで満足!」という終着点はありません。どこまでもつぎの目的のために、投資をしつづけるのが経済人の宿命なのです。だから、かれは永遠の目的追求者として生きていけるのです。これが、経済人と文化人の差です。文化人が目的論の罠にはまるとが不幸が待っているのです。
もちろん、お父さんも、息抜きが必要です。ちょっとしたやすらぎが、あくまでも裏の世界で求められます。それが、愛人を飼うことだったのです。そんなお父さんの裏の世界をみせたのが、ユミちゃんの客たちだったのです。客はお父さんの裏の世界における行動パターンそのものです。客たちは、どこまでも『市場』というルールのなかで、一瞬の夢として『消費』を楽しみます。それは、つぎの生産と成功に向けての活力を充電するための手段なのです。かれらにとっては、性的な関係でさえ、市場という枠が必要なのです。そのなかにいるかぎり、安心していられるのです。資本主義のルールがセックス領域にまで貫徹することで、かれらは、経済財として価値ある女たちを抱くことに快感を覚えるのです。女は消費財であり、貨幣で買えるものなのです。
ユミちゃんのお父さんは、表の世界では、真面目に生きます。その証明が、やさしくできれいなお母さんを妻としていることです。お母さんは、お父さんにとっては成功の証しなのです。だから、やさしくてきれいでなければいけません。こわくてブスでは成功の証しにはなりません。
そうです、お母さんが『シンデレラ』だったのです。シンデレラ物語は、すでにユミちゃんの母親によって最初から語られてしまっていたのです。ユミちゃんの会社の同僚たちは、シンデレラ願望を抱き続ける貧しい女の子たちですが、本物のシンデレラはもうとっくにユミちゃんのお母さんが演じていたのです。それはもう昔のことです。王子様は、もちろんユミちゃんのお父さんです。男のサクセス・ストーリーと女のシンデレラ物語はセットメニューなんです。
シンデレラは、待つだけです。選ばれるのをじっと待っていれば、それでよかったのです。男が能力で選び、女は資質で選ばれる、そんな関係のなかで、強い男と美しい女の理想的なセットが誕生したのです。『選択』と『理想』がシンデレラ物語でのメッージです。
こうして、一つの物語ができあがました。
しかしこの物語は、もう死んでいるんです。ハルヲくんが死に、そしてユミちゃんのお母さんが自殺しました。イノセントな人であるほど、この物語のなかで死ぬ運命にあります。生きているのは、シンデレラになれない貧しい女の子たちですし、そしてしたたかに経済ゲームに熱中し、しかも裏の世界をもそっと楽しむ余裕を持った強い男たちだけです。そうでないハルヲくんは、シンデレラ・ボーイであるがために、死ぬ宿命から逃れられなかったのです。
そして、つぎの物語がはじまります。
最初がワニです。ワニは、あふれんばかりの豊かさのメタファです。これが『余剰』です。サクセス=シンデレラ物語が豊かさをめざした物語であるのにたいして、新しい物語は、豊かさを自明としたところから描かれます。その豊かさがワニです。ワニは、何の役にも立ちません。ただ寝ているだけです。手段としての価値をもちえないことがここでの豊かさの重要な条件です。しかもワニは、空腹になると、飼い主さえ食べかねない恐怖をもった怪物です。だから、飼い主であるためには、ワニという余剰と戯れるゆとりがなければいけません。ワニとのスリルとサスペンスをゲームとして楽しむパワーがないと、ワニを飼う資格はありません。余剰は『権力』なんです。ですから、その権力に対抗できる権力を誇示しないかぎり、豊かさを楽しむことはできません。
ワニに挑んだ女が二人います。その最初がワニに簡単にノックアウトされた彩子さんです。彩子さんは、ハルヲくんをフリルのついた暴力でいたぶり、サザエさんごっこをして楽しんでいました。彼女には、つきることのない『欲望』と、そのためにフリルのついた『暴力』を使う癖があります。彼女は、もうユミちゃんのお母さんのような真面目な女性ではありません。つまりシンデレラを信じません。彼女には、待っていても何も楽しいことはない、という自覚がもって、だから男にたいして積極的に攻撃にでます。そのための資源はストックされています。ハルヲくん程度の相手ならば、十分に勝算があります。フリルのついた暴力で脅かせば、ハルヲくん程度ならば簡単に手に入ります。つまり貧しい男とのゲームならば、豊かさを知っている彩子さんにとっては、勝つことは当然のことなのです。
しかし相手がワニになると、いけません。ワニは強敵です。ワニも豊かさを熟知している強者です。まだまだ人生経験の浅い彩子さんでは、立ち向かっても反対にノックアウトされるのが当然なんです。ワニがもつ『余剰』と『権力』に対抗するには、彩子さんの『これ欲しい!といった甘い欲望』と『フリルのついた暴力』程度のものでは、まだ勝負にはなりません。ワニを超えるには、時間がかかります。
ママハハになると、違います。ユミちゃんのお父さんのサクセス・ストーリーにおける脇役の地位(愛人)から主役の地位(主婦)にのぼりつめ、それだけに飽きたらず家庭の主婦をしながら外に愛人を飼うという芸当もこなします。彼女は、旦那の成功のおこぼれで満足することなく、旦那を無視して、自分の好き勝手をして生きるパワーと知恵をもっています。彼女には、彼女なりの家庭観があるはずです。ユミちゃんの母親のような専業主婦だったならば、自分も同じ運命を辿るはずだ、という予感があったはずです。自殺が専業主婦であることと関係すると直感した彼女は、新しい家庭観にもとづいて家庭の運営をしないかぎり、主婦の悲劇は繰り返されるはずだ、と考えたはずです。その結果が、『勝手に生きる主婦=ピンキーママ』というコンセプトだったのです。家庭に入った良い子のシンデレラには、良い子ゆえに悲劇が待っていたとすれば、ポストシンデレラ物語を創造しなければならないママハハにとって、良い子=専業主婦からいかに逸脱するかが問題だったのです。しかもそれは、逸脱とレッテルが貼られることがなく、新しい女の生き方として正当化されなければならないのです。
ママハハは、ワニをカバンに変えてしまった強者です。彩子のような甘い子供とは違って、ワニの『権力をもった余剰』にたいして、それをカバンに変換させてしまう『戦略=知恵』を、彼女はもっていました。しかもその戦略は『虚栄』のためにありました。ワニの豊かさは、ワニの場合のように隠されているのではなく、どこまでも外部に誇示されるべきものでした。見栄や虚栄として、豊かさが表現されることが、自分らしいことだったのです。ワニのカバンは、見栄や虚栄のシンボルです。そしてワニをカバンに変えるパワーを誇示したところに、ママハハの凄さがあるのです。ママハハはワニを超えたのです。
こうして、もう一つの物語ができました。
『ピンキーママ』は、鏡の物語なんです。
『ピンキーママ』物語は、シンデレラ物語が終わった後に創造された新しい物語です。それは、豊かさが自明になり、しかしまだそれが身体化されていない段階において、豊かさを権力として表現するしかない時代における新しい物語です。それが、消費社会における見栄とか虚栄をめぐって展開される『嘘=虚の物語』です。だから、鏡がメタファとして大切なんです。鏡は、消費社会という虚の世界における権力の象徴で、ママハハが示す見栄のポーズそのものです。
ママハハは言います。「お金は使いなさい、ケチな女になったらおしまいよ。ぜいたくを恐がっちゃだめ、豪華になりなさい。豪華でゴージャスな女にならなきゃ金持ちの男は寄ってこないわ。ママみたいにしあわせになるのよ」。ここにあるのは、ポトラッチの精神です。消費が権力として機能することを熟知した女が、見栄として豊かさを消費してみせます。そのとき、貧しさからの離陸に成功した男たちは、ころっとまいるのです。ママハハは、このテクニックを駆使してユミちゃんのお父さんを虜にし、まずは愛人になり、そして家庭に入り主婦という安定した地位を獲得し、そして自分から愛人を飼うようになったのです。
彼女は、自分が嘘の世界にいることを知っています。自分の豊かさが、愛していない夫の経済的成功の上にしかなりたたない砂上の楼閣であることを知っています。その意味では、彼女の豊かさは虚構で、鏡の中の豊かさなのです。それを知っているからこそ、つぎには、より大きな虚栄の鏡を探すのです。
ピンキーママ物語は、消費社会における強い女の政治的権力をめぐる物語です。それは、シンデレラ物語が産業社会における弱い女の経済的(合理的)選択をめぐる物語であるのと対照的な関係にあります。この対照性のなかに、新しい女の物語の誕生をみることは容易でしょう。社会構造が産業社会から消費社会へと変動する過程のなかで、女が選んだ方法は、弱い女から強い女へ変身することであり、そのためには経済的な合理的選択の意思決定のテクニックをマスターすることではなく、政治的な権力を所有することだ、という自覚をもつことだったのです。その自覚をもったとき、男たちが産業社会の高度化ばかりに熱中している隙に、強い女たちだけが先回りして消費社会を自分達に都合の良いように誘導していけたのです。
ピンキーママは鏡が嫌いになりました。
ピンキーママには、最大の弱点がありました。年齢です。鏡をみるのが辛くなったとき、消費の嘘がばれる恐怖に悩まされます。見栄とか虚栄が権力として機能しなくなる年齢に達したのです。このとき、ピンキーママはすべての幸福が消滅する恐怖にかられます。でも、いまさらシンデレラの世界に逆戻りするわけにはいきません。やさしい専業主婦に戻って、しあわせになれるはずはありません。外の世界の楽しさを知った主婦が、内にこもることは監獄に入ることと同じで、そこに幸福はありません。ならば、どうすればいいのか。ピンキーママには、答えがありません。せいぜい皺とり手術を受けて、若干の延命策を実行するだけです。
ワニを殺したのは、ピンキーママに残された最後の延命策だったのです。
毒の入っていないアップルパイは、ピンキーママらしくありません。彼女には、嘘と毒が似合っているんです。にもかかわらず、嘘がばれて、毒もなくなってしまった今、どうすればよいのか、なんです。ここにあるのも、諦めという現実への妥協か、潔い死という論理への遵守なのでしょうか。とすれば、結末はシンデレラ物語と同じになってしまいます。
こうして、つぎの物語がはじまります。
この物語のはじまりも、ワニです。ワニがもつ豊かさ(余剰と権力)をいかに料理するか、が問題なのです。ピンキーママ物語は、それを『虚栄=鏡』として料理しましたが、ここではどのような調理法があるのでしょうか。
妹のケイコはワニと友達です。この点で、彩子やママハハとは異なっています。ワニという余剰(豊かさ)にたいして、圧倒されたり、対抗することなく、素直に一緒に楽しめる余裕を、ケイコはもっています。その気負うことのない余裕が、新しい豊かな生き方を暗示します。
ケイコは自分の欲望に従順です。それは、彩子のように、すでにマーケットでつくられたブランドに飽くことのない欲望のまなざしを注ぐという意味ではなく、素直に自分の『快感』になるものに飛びつくという意味で、欲望に従順なのです。
だからケイコは子供なんです。どこまでもイノセントな存在として快感に溺れます。この無垢な精神は、まだ子供だから可能なのだ、という理由を認めた上で、つまり彩子のような年齢になれば、ケイコも同じような外的な欲望に眼がくらむ普通の女の子になるはずだ、という可能性を承認した上で、だからこそ、ここでは子供のケイコのイノセンスが重要なのだ、ということを主張しなければなりません。子供は自分の欲望に忠実です。それは、よくいわれるように、テレビCMにすぐに反応して欲しがる、という意味をも含んで、自分の欲望に素直に反応します。子供の欲望は、まさに自分の身体から発せられる情報なのです。「これもほしい、あれもほしい」と無限に言い続けることで、子供は自分の欲望を学習していくのです。その学習プロセスがイノセントなんです。
ここでは、イノセンスをめぐる関係が大切です。それは、ユミちゃんにとってもっとも身近な存在の母親と妹の対照性です。母親は、シンデレラですから、母親になっても天使のような人のままです。家庭に入ったシンデレラは、イノセンスそのものです。だから、彼女には自殺しかなかったのです。シンデレラとして入った豊かな家庭では、専業主婦の役割に従順であるほど、なぜそれがしあわせなのか、分からなくなるはずです。専業主婦という機能的な役割は、貧しい家庭からの離陸というゴールをもった核家族では有効(やりくり上手な有能な主婦)ではあっても、もう十分に豊かな家庭ではなんの意味ももちません。家庭に閉じ込められた美しい人形でいることが専業主婦としての役割だとすれば、なんのためのシンデレラだったのか、と無力感に襲われることでしょう。
シンデレラには、結婚したら、シンデレラからの卒業が必要だったのです。無垢な精神はその役割からの卒業を阻み、そのために、シンデレラでいることが死を呼んだのです。シンデレラになることは女の子のドリームであっても、シンデレラでありつづけることは無意味なのです。
これにたいして、ケイコは自分の快感を大切にします。だから、「あれも、これも」となんでも欲しがり、そしてなんでも消費し、そしていい気持ちになります。このように欲望にイノセントなケイコがクライマックスで最高の芝居をみせます。好きな母親と好きな姉が喧嘩する葛藤場面で、二人のことが好きだからこそ、ケイコは自己『犠牲』の芝居を演じてみせます。どっちも好きだから、その思いを貫き通すには、自分を犠牲にすることが快感なのだ、という自己超越の回路が発見されます。これによって、ケイコは彩子やママハハのようにゲームだけで生きる強い女の生き方を超える視点を獲得しました。この超越は、イノセントだからこそ可能だったのです。
無垢な精神は、専業的役割の制約のなかでは、死を呼びます。
無垢な精神は、快感の拡散のなかでは、自己犠牲を求めます。
シンデレラは死にました。ケイコは自己犠牲というシンボリックな死によって、超越する機会を与えられ、新しい女の子として再生しました。ワニが死んでカバンに再生されたことと、ケイコの超越とは同じことです。シンデレラとケイコは、同じようにイノセントな存在であっても、役割に殉じるのと快感に溶けるのとでは、その生きる表現が異なったのです。ケイコには、豊かさを生きる新しい可能性が予感されます。
シンデレラは、ワニそのものでした。
彩子は、ワニに負けました。
ママハハは、ワニを殺しました。
ケイコは、ワニをカバンにしました。
やっとユミちゃんが、ピンクのカバンをもって登場です。ケイコが示したトリックスター性によって、ワニはカバンとして新しい意味を付与されて再生しました。そのカバンをさげて、ユミちゃんは御機嫌です。
ユミちゃんはワニも好きですが、同時にカバンも好きです。ワニと部屋にこもって何もしないでいることも好きですし、カバンをもって外にでることも好きです。ここから『自足』と『交響』というテーマが開かれます。ユミちゃんは、ママハハのように外にむかってしか視線を注げないために『虚栄』でしか生きられない女と違って、内にあってワニという余剰と戯れるだけの贅沢な自足性を大切にします。自足性とは、自分の枠のなかで自己完結的な世界をもって生きることに、しあわせを求めることです。誰にも邪魔されることなく、自分らしさの世界にこもります。タマゴのようなコスモスに生きることにしあわせを感じるのです。
ワニは、タマゴが好きでした。黄身はしあわせの色でもあったのです。 自足的なタマゴ世界だけが、ユミちゃんの世界のすべてではなかったのです。それが、カバンになってしまったワニの世界で、『交響』する世界なんです。ユミちゃんは、タマゴのようなコスモスにこもる快感を知っているばかりでなく、外の世界の楽しさも知っています。会社も好きですし、おまんこ商売も好きですし、ハルヲくんとのセックスも好きですし、妹のケイコとの遊びも大好きです。ユミちゃんは、すべてをカバンにつめてしあわせに生きるはずです。そのカバンは、外の世界と交響する関係にしあわせを求めるメタファです。ピンクのワニとは交響的世界にしあわせを求めることです。それは、ローズガーデンに変換された新しいピンクの世界に共振します。
カバンは、ピンクのワニです。それはローズガーデンに似合います。
このように、ユミちゃんにとって、ワニとの関係の解読がもっとも重要です。ワニという余剰をもっとも新しい方法で料理するのがユミちゃん(そして妹)です。自足と交響という新しい個のモデルが提示されます。自足と交響は相互に排除しあう概念ではなく、相互に共振する概念です。ところが、排除関係にあるときが一度だけありました。ユミちゃんワニがいなくなってが発作をおこした時です。そのとき、彼女は自足する世界に自閉され、交響する世界は完全に排除されました。会社での仕事も嫌でしたし、ハルヲくんと一緒にいることも息がつまる思いでした。外との交響性は、自分が自足するほど、排除されるべき世界になってしまったのです。
ワニは豊かさです。それがいなくなると、自足と交響は両立不能なんです。貧しさの世界では、自足と交響は相互に排除する関係にあり、したがってどちらかの選択だけが意味をもちます。でも、ワニがいる豊かな世界では、両立は可能ですし、相互に共振することで、いままでにない新しい個の可能性を開きます。
ユミちゃんはひとりで生きる。だから、みんなと一緒に生きる。
こうして『東京ガール』の物語がはじまりました。ユミちゃんの『自足』と『交響』、は、豊かさが身体化されることで、新しい東京ガールのしあわせ物語を生成します。
東京ガールは、所有の亡霊からはじめて解放されました。
「ひとりで生きる、だからみんなと生きる」という自足と交響の両立が可能になることは、その成立条件として豊かさが必要だということと、もうひとつその豊かさを所有するのではなく分有するのだ、という条件も必要なのです。それが豊かさの身体化の意味です。「分有」の思想が理解されないかぎり、「自足と交響」は排他的関係から抜け出ることができません。「これは僕のもので、他のいかなる人のものでもない」という所有ではなく、「これは僕のものであるが、君のものでもある」という分有の思考が共有されるとき、はじめて、新しい個と世界の関係がみえだします。
ハルヲくんの死は、ハルヲくんが所有の世界がら抜け出せないかぎり、ユミちゃんのしあわせには似合いません。交通事故にあわずに一緒に南の島にいったならば、そこに待っていたのはハルヲくんの嫉妬からくる悲劇だけでしょう。ハルヲくんは、ユミちゃのお母さんの死と同じように、死ぬ運命にあったのです。シンデレラは、ガールであろうとボーイであろうと、シンデレラになった瞬間、その使命は終わったのです。シンデレラには、所有を超える新しい世界を想像することはできなかったのです。もちろん、ピンキーママたちにも、できません。だからこそ、所有そのものだけに徹底してこだわり、それを誇示することで自分らしさを演出しようとしたのです。それは、所有の最後の晴れ舞台だったのでしょう。
「かう(飼う/買う)」ことは、所有することです。だから、ユミちゃんもワニを飼っているかぎり、ピンキーママたちの世界を超えることはできなかったはずです。もちろんワニを飼っていることを誇示するわけではなかったから、その意味ではピンキーママたちとは違うのですが、秘密にしていたことは、ある意味では誇示と同じなんです。つまり所有による満足を、内的世界に閉じることに求めるが秘密で、外的世界に開くことに求めるのが虚栄・誇示であり、その方向が違うだけで、所有による満足に強い関心をもつという意味では同じなんです。
でも、ワニが殺されてカバンになったところで、ユミちゃんには新しい世界が開かれました。秘密はもう終わりです。カバンは、閉じて外にもちだし、内で開けるものです。通常の「内に閉じる/外に開く」ではなく、「内だから開け、外だから閉じる」という交差するメタファがカバンにはあります。それは、秘密(内=閉)と虚栄(外=開)の対照性を支える所有の概念そのものを否定するパワーをもちます。
カバンを大切にするユミちゃんは、もう「かう(=所有)」ことをしません。だから「かう」ために働くこともしないでしょう。おまんこ商売は、こうして、超えられます。カバンをもち歩く彼女は、軽くなった自分を感じるはずです。それは、自分ひとりで生きることが、みんなと一緒に生きることだ、という「新しい私」として生きることなのです。
“PINK” は、あたらしい私さがしの物語だったのです。
そのためのトリックは、つぎのような構造になっていました。
ユミちゃんは、3つの物語のなかにいます。
(1)シンデレラ物語
(2)ピンキーママ物語
(3)東京ガール物語
ユミちゃんは、この3つの物語を重層的な構造として内面化しています。もっとも基層に位置するのはシンデレラ物語です。母親のピンクの世界です。それが、彼女にとってのしあわせのルーツでした。母親のピンクの爪にすべてのしあわせがあったのです。
シンデレラ物語は、モダンの世界のサクセス・ストーリーの女ヴァージョンです。つまり成功者になった男の小判鮫になってしあわせをもらう、という弱い女の(無自覚でしたたかな)幸福論です。そのためには、薄幸であるだけではだめで、選ばれる条件が必要です。それが、「きれい」「やさしい」です。だから、ユミちゃんのお母さんはシンデレラになったのです。母親がこの物語の主役です。
この物語は、基本的にはモダンの世界での一つの物語です。モダンの正統な物語は男(そして大人)の仕事の世界でのサクセス・ストーリーです。ユミちゃんのお父さんがこのモデルです。ユミちゃんのしあわせが、この物語を前提にしてはじめて成立することを忘れてはいけません。そして、この正統な物語には、裏物語もあります。それが、ユミちゃんの客たちによって語られます。大人の男はしたたかです。永遠に禁欲的に事業の成功に邁進しながら、しっかりと裏の世界で息抜きをします。それが、ユミちゃんのお客たちの物語です。すべての快楽は金で買えるのです。こうして売春はもっとも近代的な労働として裏世界では賛美されます。この裏世界をもてる男たちは、簡単に死ぬことはありません。永遠に生きることに価値を見いだせるからです。
それができないで、目的が達成されてしまうと、死が待っています。シンデレラがそうですし、もう一人のシンデレラボーイも同じです。ハルヲくんも、何も書くことがないのに、文豪になることだけは強く願っていたから、ハッピーシードのおかげで、シンデレラボーイになったとたん、もう死神にとりつかれたのです。
シンデレラには、ガールもボーイも、薄幸が似合います。
ユミちゃんがなんでハルヲくんと恋愛ごっこに戯れたかがこれで分かります。ハルヲくんはお母さんと同じだったからです。貧しい世界から逃れようと必死になり、でも何も能力がないから、ただ偶然のチャンスに恵まれることだけを願い、いつか王子さまがやってくる、という信念だけは失わなかったのです。もちろんそんな女の子たちはこの世にたくさんいますが、この二人が選ばれたのは、チャンスを引き寄せる資質にちょっと恵まれていたからです。きれいでやさしい性格とかエディター的素質とかがそれです。
ユミちゃんは、母親の死によって、ピンクの爪のしあわせの限界を十分に理解したはずです。ですから、ハルヲくんの死も冷静にみつめることでしょう。二人の死は、ユミちゃんからすれば必然だったのです。この世界を生きるには、父親やお客たちのようなしたたかさが不可欠なのです。表と裏を使い分けるパワーが必要なのです。それがないから、シンデレラなのです。
シンデレラになれない子は、貧乏を抱いて寝て、
そして、つぎの朝、しっかりと目を覚まします。
選ばれてしまったゆえの一瞬のしあわせと、その後の死に、シンデレラ物語の意味があります。ユミちゃんは、その意味を確認するために、ハルヲくんとの恋愛を楽しんだのです。南の島なんか、どこでもよかったのです。 こうしてつぎの物語に入ります。ピンキーママ物語は、ユミちゃんにとって近親憎悪の関係にある物語です。シンデレラ物語が自分とはまったく違う世界の物語だからこそ、新鮮な共感を抱けたのにたいして、このピンキーママ物語にたいしては、いまの自分にあまりにも社会的距離が接近しているので、対決し拒絶する姿勢を鮮明にしないかぎり負けるかもしれないのです。だから、ユミちゃんは、彩子にたいしても、そしてママハハにたいしても厳しいゲームを仕掛けました。ここでは、勝たねばならなかったのです。
この物語の前提には、経済的な豊かさがあります。その豊かさが、見栄とか虚栄として機能することで、政治的なパワーゲームになってしまったのが、この物語です。豊かさは自分が勝つための手段として活用される資源であり、それ自体を楽しむものにはなっていません。ママハハにとって、豊かさは権力として活用されるそのことが、快感なんです。「手段の目的化」がみられます。まだ、豊かさをそのものとして楽しめる余裕はありません。どこまでもパワーゲームとして活用し、相手をパワーでねじふせることにしか関心が向かないのです。有閑階級としての限界なのでしょう。どんなに教養があっても、見栄としてしか表現できないところに、ポリティカル・ウーマンの辛さがみえます。
ママハハにとっては、愛人の地位に甘んじ、シンデレラの追い落としを策略していたころがもっともポリティカルだからこそ、最高のリアリティがのではないでしょうか。そして、そのゲームに勝って(シンデレラの自殺)、敵の家に乗り込んだとき、彼女はいい知れぬ快感に酔ったはずです。しかしそこには、思わぬ強敵が待っていました。それがユミコです。ここから、パワーゲームの第二ラウンドが開始されます。今度は相手がシンデレラではなく、したたかな東京ガールですから、いままでのようにはいきません。しかもこのゲームは、いままでのように夫の愛をめぐる剥奪ゲームといった単純なゲームではなくて、家庭内での母と子のロールプレイ(良いママと良い子)をめぐる支配権奪取ゲームだったのです。ママハハはこの家に後から乗り込んだハンディを一挙に取り戻そうと強気のポーズを崩しません。とうぜん、ユミコは冷めた視線で応戦します。
しかし子供は子供です。母親というロールが、子供のロールにたいして、基本的な支配権をもつ以上、ママハハがこのゲームでも一応の勝者になることは予想されることでした。しかしユミコは簡単には敗者にはなりませんでした。彼女は、ママハハに支配された家庭を自分からすすんで放棄することで、このロールプレイゲームに最終的な決着をつけることを拒否しました。
ワニをつれて家をでて豪華なマンション住まいをはじめたユミコは、ママハハにとっては気になる女であり、いつかは決着をつけねば、と思う強敵でした。その戦略がワニを殺し、ワニのカバンをプレゼントすることだったのです。でも、それは、ママハハの思惑どおりにはすすみませんでした。最初のうち、ユミコは憔悴し、ゲームは完全にママハハのペースでいきましたが、最後の土壇場での暴力事件をきっかけに、そしてそこでみせたケイコのトリックスター性(ママハハとユミコの敵対関係を超越する、”ママもユミちゃんも、愛してる”)によって、ユミコは立ち直り、ワニのカバンをもって東京を散歩する東京ガールになったのです。
このとき、ママハハは自分が負けたことを自覚したはずです。見栄というポリティカル・ゲームそれじたいが、すでに意味を失ったのです。豊かさは、外化された世界によって誇示される権力的なるものではなく、内なる世界を表現するマインドに潜んでいたのです。それが、ママハハには理解できなかったし、ユミコも、そのことに気づきませんでした。暴力と愛は、ユミコに新しいフェーズをみせたのです。
近親憎悪は、“暴力と愛”によって超越されます。
パワーゲームは、豊かさの表現には似合いません。
やっと東京ガールの物語になりました。ユミコは、シンデレラの幸福と絶望をみて育ちました。だから、シンデレラ・ドリームにはあこがれず、パワーゲームの世界に没頭しました。ホテトルのビジネスで稼ぐことも、ママハハと張り合うことも、会社でコピーとることに疑問を感じないことも、彩子を平気で殺そうとすることも、みんなパワーゲーマーとしては許されることだったのです。あたしは勝つ、というポリシーは、豊かさをポリティカル・パワーとして手段化することを「あたりまえ」と許容したのです。
でも、ワニを飼う必要から解放された瞬間から、その「あたりまえ」に異変が生じました。ワニはカバンでよかったのだ、と知ったとき、彼女は豊かさをパワーとして表現する無意味さを知り、ママハハとの対立にこだわることから解放されました。東京ガールは豊かさが自分の身体の中に詰まっていて、必要なのはその身体から素直に外の世界をながめるとき、はじめてしあわせが浮かんでくることを知りました。もう豊かさを、経済的な財としても、また権力的な手段としても、みることはありません。そのような豊かさには、しあわせは訪れないのです。もうシンデレラはやってらんないし、パワーゲーマーもやってられません。
いまは、探さなければなりません。探すのは、あたしがしあわせなんだ、ということです。シンデレラもパワーゲーマーも、しあわせは外にみつけるものでした。でも、とはいっても、心の中にしあわせがある、といったものでもありません。気のもちようしだいで、幸福にもなり不幸にもなる、というのではありません。まずは、あふれるばかりの豊かさに身についていなければなりません。そのとき、はじめて気分として幸福が語れるのです。ですから、シンデレラとパワーゲーマーの経験をへることが重要です。その2つの役割を経験することで、やっとしあわせの意味が了解されるのです。
東京ガールになるのも、たいへんなんです。
ふたりの母を、超越しなければなりません。
こうして、・・・・・・・・・・・・・・・・
東京ガールはピンクに染まっていきました。
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