"PINK"(岡崎京子:1989)の世界「消費する幸福論」
 
1. スリルとサスペンス
2. 夜、妹がやってくる
3. ショウネンノ ヤボウ
4. 裸でランチ
5. ノベリストのユウウツ
6. HAPPY SEED
7. 女子大生は尾行する
8. 無関心な彼女はマニキュアをぬる
9. 屋内熱帯の洪水
10. おままごとはいつもたのしい
11. サザエさんのゆめ
12. 不能と鏡と毒リンゴ
13. 王女様は労働する
14. 動物としての人間のさまざまな思わく
15. ハサミでチョッキン
16. ブラッディ・ラヴァーズ
17. すてきな食事
18. もう、やめてよ
19. 愛と暴力
20. すべてトランクにつめて
21. せいりのせいり
17.すてきな食事

a. ユミちゃんもハルヲくんも、たがいをいっぱいたべちゃった。
b. ティシュペーパーがいっぱい。すてき、ローズガーデンにいるみたい。
c. タンポンいれるとこ見る?あーおもしろかった
d. ふたりは食事にでかける。
e. ワニは本当にジャングルに帰れるのだろうか不安になった。
f. カチャ、キッ土足で部屋に入る影
g. ユミちゃん、今ハルヲくん大好き、シアワセ
h. シアワセなんて当然じゃない?
i. お母さんは首つり自殺。シアワセでなくなったから。
j. ハルヲくん食欲なくなる。ユミちゃん、彼の残りのレアステーキを食べる。

「しあわせになろうね」と「しあわせなんだ!」は、まったく違います。「なろうね」にはしあわせが何であるかの実感はありません。ただのイメージであり、目標にすぎないし、不幸な人たちの呪文にすぎません。不幸な現在を忘れるため、あるいは我慢するためのおまじないが「しあわせになろうね」なんです。これにたいして、「しあわせなんだ!」には”いま”のリアリティがあります。それが、血のしたたるレアステーキを食べていることであっても、あるいは血まみれのセックスをしていることでも、しっかりとした”いま”のリアリティとしてのしあわせがあります。
ユミちゃんは、このリアリティをみつめることができます。でもハルヲくんにはできません。それが、レアステーキを残してしまうことで表現されています。ユミちゃんのお母さんが首つり自殺をしたと聞いた途端、いままでのしあわせ感が吹き飛んでしまい、急に「しあわせになろうね」の自分に戻ってしまいます。これが60年代の田舎ボーイの限界なのです。つまり彼にとっては、「しあわせになろうね」の方がリアリティがあるのです。貧しい自分をみつめながら、「いつかきっとしあわせになるぞ」と、月に向かって吠えている方が似合っているのです。そして恐いことは、死ぬまで「いつかきっと」と唸っている方が好きなんです。貧乏の魔力はそれぐらい魅力的なんです。

豊かさを身体化させないと、「しあわせなんだ!」がリアリティになりません。

すてきなお食事は、「しあわせなんだ!」と「しあわせになろうね」を弁別する絶好の機会なんです。ハルヲくんは、最後のところでユミちゃんに軽くあしらわれてしまいました。
自殺した母を論じなければいけません。しあわせ物語は、母のピンクの爪から始まるのに、その母が自殺したのでは、何がしあわせだ、といいたくなります。
母の自殺の事実がここまで隠されてきました。隠してきた理由は、ピンク=しあわせとは母のピンクの爪である、というメタファが必要だったからです。自殺を暴露したら、不幸な物語になってしまって、ユミちゃんのしあわせ物語は途中で挫折することになります。母の爪に代替するメタファがででくるまで、自殺の事実は内緒にせざるをえなかったのです。ここでやっと新しいピンクが誕生しました。母のピンクの爪は解放されます。


新しいスターは、ユミちゃんの生理の血とハルヲくんの精液の融合からできるピンクのティシューペーパーであり、しかもそれがたくさんある『ローズガーデン』です。
しあわせのメタファは、母のピンク爪からローズガーデンにシフトしました。では、そのシフトはどのようになされたのでしょうか。

まず身体論からはじめましょう。すでに明確にしているように、ピンクの身体部分は2つありました。爪とおまんこ(陰部)です。ですから、第1のシフトは、爪からおまんこへとなされたのです。しかもその身体部分の所有者は、母からユミちゃん自身へとシフトされました。これが第2のシフトです。ここでは、しあわせは他人からの贈り物ではなく、自分でつかむもの、という意味のシフトがあります。これは、機能論から自立論としてのしあわせへのシフトでもあります。しあわせが親の世話とそれを受ける子供という機能分化を前提にして維持されていた状態から、自分の力(血から)で維持するしあわせへのシフトでもあります。
しかもこのようなシフトが、身体部分として爪から性器へのシフトに対応していることが重要です。大人になれば、性器が魅力的なものにならなければなりません。しかし魅力的になるほど、セックスに使用されることで黒くなります。つまり穢れます。とくにユミちゃんの場合は、ビジネスとして性器を活用させますから、穢れは激しくなります。とすると、ピンクではなくて、真っ黒じゃない、という反論になります。その通りです。ですから、その穢れは浄化されなければなりません。それが、生理の血です。その血は性器よりも穢れているものですから、それによって逆に性器は清められ(つまり使用しないこと)、生理中の性器だけはピンクに戻ります。その浄化された性器を媒介にしたセックスによって、新しいピンクが生成されるのです。しかもこのピンクは、自分の所有物ではありません。それが『血と精液の融合』であり、ふたりの共有物です。それがピンクのティシューペーパーであり、しかもたくさんあるから『ローズガーデン』なのです。
このようなシフトは、しあわせの意味をも変更させます。それは「母(=あたし)のしあわせ」から「あたしのしあわせ」へのシフトといってもいいでしょう。それが、母の爪からユミ血ゃんの血まみれのおまんこからローズガーデンまでの変換なのです。しかも、そのシフトには、「しあわせの所有」から「しあわせの分有」、「希少性としてのしあわせ」から「遍在性(どこにでもある)としてのしあわせ」、そして「選ばれし者のしあわせ」から「普通の人のしあわせ」という意味の変換がなされているはずです。

このような意味の変換は、通常の大人への脱皮ではないことに注目しなければいけません。モダンの世界で大人になることは、サクセス・ストーリーを実現することですから、「所有/希少性/選ばれし者」の社会的地位を獲得することそのものです。とすると、これは新しい意味とはまったく対照的であり、過去の母の爪(子供)の世界に固有の意味そのものです。ということは、ここでの母(子供としてのあたし)から私(大人としてのあたし)への変換とは、モダンの枠で思考された成長過程ではないことが理解されるはずです。そうです。モダンにおける成長論(母のようになりたい私)ではなく、新しいフレームにおける”あたし”(子供でもあるし、大人でもある私)を考えなければいけないのです。ここでは、新しい意味でのしあわせが語られるはずです。

ユミちゃんは母の自殺の話をして、しっかりレアステーキを食べました。
レアステーキとは自殺した母です。ハルヲくんは食べられませんでした。

母はピンクでなくなったとき、死を覚悟しました。爪が汚れたとき、彼女にはしあわせを守るすべがなくなりました。彼女のしあわせは、時間の経過とともに、その価値を減少していったのです。歳をとることは、死ぬことです。早いか遅いかだけです。

ワニが失踪しました。魔女のママハハが留守をねらって盗んでしまいました。