"PINK"(岡崎京子:1989)の世界「消費する幸福論」
 
1. スリルとサスペンス
2. 夜、妹がやってくる
3. ショウネンノ ヤボウ
4. 裸でランチ
5. ノベリストのユウウツ
6. HAPPY SEED
7. 女子大生は尾行する
8. 無関心な彼女はマニキュアをぬる
9. 屋内熱帯の洪水
10. おままごとはいつもたのしい
11. サザエさんのゆめ
12. 不能と鏡と毒リンゴ
13. 王女様は労働する
14. 動物としての人間のさまざまな思わく
15. ハサミでチョッキン
16. ブラッディ・ラヴァーズ
17. すてきな食事
18. もう、やめてよ
19. 愛と暴力
20. すべてトランクにつめて
21. せいりのせいり
19.愛と暴力

a. ハルヲくん、賞金で、南の島に連れていってあげる、と宣言する。
b. ユミちゃん、狂喜乱舞。いっぱつやる。
c. 星に、願いをかける。ワニが戻りますように。
d. ハルヲくん、「オレこんなにシアワセでいいのかな」。
e. 安アパートでの3人の受賞パーティー。その夜、またいっぱつ。
f. 宅急便が届く。ワニのトランク。あのワニがカバンになった。うわああああん。
g. ごきげんなママハハのところに、ユミちゃん来る。そしてバットの暴力。
h. ママハハとの死闘。間に入って、うろたえるケイコ。「あたしには、お母さん」。
i. ユミちゃん、バラの入った花瓶を壊して、帰る。殺せなかった。・・・・・・・・・・・・・・・・・・
j. ワニのトランクと一緒に南の島にいこう。ステキ、うれしい。

ワニの死と再生の物語、これがここでのテーマです。その再生の儀式として、ママハ ハへの暴力が不可欠なのです。ワニの死の苦痛に相当する暴力を、その首謀者であるマ マハハに振るうことで、ユミちゃんはワニの死に意味を見いだし、同時にカバンに再生 された事実に新しい意味を付与できるのです。ママハハへの暴力は、ワニへの愛を再び 呼び起こすために必要な儀式なのです。ママハハを儀式として殺すことで、ワニへの愛 の証明がなされ、ワニは新しい意味を付与される可能性を復活させます。復讐劇によっ て、ワニはカバンとしての新しい生を獲得するのです。

ワニは本物でした。そして死にました。
ワニ革のカバンも本物です。生きます。
暴力は、ワニへの愛を、蘇りさせます。

暴力は儀式ですから、実際に殺す必要はありません。あくまでもドラマであれば、い いのです。その家庭劇では、ケイコの役がもっとも重要です。ケイコは、完全にダブル バインドです。ケイコは、自分を産んでくれた母だから、母が好きですし、ユミちゃん は、気の合った姉妹だから、好きです。にもかかわらず、母とユミちゃんは憎しみあっ ています。そして、溶解されることのない相互の憎悪がワニを死に追いやったのです。
いままで、ケイコはそのジレンマを場を共有させないことで、解決してきました。二 つの家を行ったり来たりすることで、母と姉の相互憎悪の関係と両者への自分の愛の表 出というジレンマの両立を可能にしてきました。でも、ワニをめぐって、母がそれを殺 し、姉はその復讐に燃えたとき、両者が激突する状況をもはや回避することはできなく なりました。ケイコは、一つの場のなかで両者への愛を両立させることができなくなり ました。
しかし選択が求められました。ケイコは弱い母を守り、強いユミちゃんを裏切り、し かもユミちゃんに哀訴することで母を死から守るという選択をしました。ケイコは、ハ ルヲくんを所有するゲームの勝者であるユミちゃんを捨て、その敗者である母を選択す るという「自分の所有をめぐるゲーム」を付加することで、このゲームのアンバランス (勝者と敗者の損得の格差)に、バランスを回復させようとしました。

ハルヲくんはユミちゃんを選択しました。
だからケイコはあえて母親を選択します。

この選択によって、ユミちゃんは母が殺せなくなりました。人を殺すには、最大級の 格差が必要なのです。その格差が生み出すエネルギーが死を呼ぶのです。なのに、ケイ コは、ゲームの格差を小さくすることで、バラの花瓶を壊す程度のエネルギーにユミちゅ んのパワーを半減させました。

いままで小賢しいだけだったケイコは、さらに、ここではじめて自分の実存を賭けた 捨て身の芝居をも仕掛けました。つまり母の味方をすることは、ゲームとしては弱者の 立場につくことですが、芝居としては悪役の味方につくことです。母親はワニを殺した 悪玉で、ユミちゃんは善玉です。ケイコは、芝居として、あえて悪玉の味方をすること で、自分を悪役に仕立てました。妹が悪玉に徹することで、すべてを救うという高等テ クニックが仕掛けられました。姉はもうこれ以上ママハハに暴力を振るうことはできま せん。だって、善玉なんですから。妹が悪玉を演じることで、姉は殺すパワーを失うば かりか、殺しを正当化する根拠をも失いました。そうなると、もう善玉は悪玉を許さな ければなりません。そうして、このワニ殺し事件は、殺人事件にはならず、愛と暴力の ドラマとして落着しました。
普通ならば、善悪と強弱は、つぎのような関係にあります。

1.善玉は弱い。・・・・・・農民
2.悪玉は強い。・・・・・・悪代官
3.したがって、この関係では、正義の味方が期待される。

しかしこのドラマでは、そのようにはなっていません。

1.善玉は強い。・・・・・・ユミちゃん
2.悪玉は弱い。・・・・・・ママハハ
3.したがって、この関係では、正義の味方は無用である。

ケイコは、これでは正義の味方にはなれません。そもそも正義の味方とは、強い悪玉 にたいしてより強いヒーローが外部から勝手に介入し、その強い悪玉を排除する役割で あり、そのシステムは簡単な勧善懲悪のシステムです。これにたいして、ケイコが介入 したシステムは、善玉が強いから、正義の味方など無用なシステムで、善玉が悪玉を自 力で排除すれば、それで解決する自律的なシステムです。とすると、ケイコは何もする 必要がなく、事態の推移を傍観者としてじっと見つめていればよかったのです。それが、 もっとも単純なダブルバインド回避の方法だったのです。

にもかかわらず、ケイコは積極的な介入をしました。しかも母親の味方をすることで、 あえて弱くて悪玉の味方をしました。その役割を正当化する根拠が、「自分の母親だか ら」という血の絆だけです。
この理由だけで、ケイコは損する悪役を演じました。これは、いままでの彼女には絶対 に考えられない選択です。ユミちゃんは、ケイコのその決断に驚きました。ケイコが自 分の損得を超えて、すべての不幸を背負う穢れた役を演じたとき、それによってユミちゃ んとママハハの闘いは、ケイコを無視しては遂行できなくなりました。つまり殺人の復 讐は中止させられたのです。ケイコは、大人たちの悲劇を回避し、そして自分のダブル バインドな状況に解決策を見いだしました。
ワニの死と再生の物語は、こうして、ケイコの捨て身のゲームと芝居によって、ユミ ちゃんのワニへの愛をカバンにシフトさせることで、成就しました。弱くてしかも悪玉 の味方をすることで、ケイコは、ワニを救い、ユミちゃんを救い、そして母親をも救っ たのです。ダブルバインドの状況は、自分を悪玉にすることで、すべてに救いをもたら すことで、超越されたのです。ユミちゃんは、悪玉になりきったケイコの前では、母親 を殺すことを断念せざるをえず、不満を残したまま帰ります。でも家に帰って少したつ と、ユミちゃんはワニがカバンに生まれ変わったことに、それなりの価値を見いだすよ うになりました。つまりカバンならば、一緒に外出できるから、いいか、ということで す。そうして、ワニの死と再生の物語は、血まみれの暴力的な儀式とそれを導いたケイ コの絶妙な演技によって、見事に花を咲かせたのです。

ワニは、血まみれの暴力によって、りっぱなカバンに変換されます。
母の爪は、血まみれのセックスで、ローズガーデンに変換されます。

ゲームも物語も、死と再生によって、新しいページをめくりました。